エスケープ・イン・マウンテン
夜が明ける。
白い日射しが朝靄と、周囲の木々を瑞々しく照らしはじめた。真新しい舗装の山道が光を浴びて、回るタイヤの位置を安定させてくれる。
日が出始めて少し経った頃。私は目的地に辿り着くための最後の難関として、一晩かけて小高い山を登りきった。
「はあ………はあ……うっ、うう……」
よろよろと峠の道路脇に外れて自転車を停め、草の上にだらりと足を投げ出す。
食事は買い溜めたものを少しずつ摂っていたので、空腹感はさほどない。だけど途中適度に休みながら走ったとはいえ、一睡もせずに斜面続きの小高い山を登ったのだ。
腿やふくらはぎはぴくぴくとけいれんし、腕や肩も自転車の上で凝り固まってしまってもうへとへとだ。
だるい腕をゆっくり動かして十本の指で脚をじんわりとさする。
素人のマッサージでも心なしか筋肉の疲れは取れる。気持ちの問題だとは思うけど、そういうのは大事だってコーチも言っていた。
「ふう……ふう……」
中学、高校と欠かさずテニス部で鍛えてきた足もさすがに限界らしい。
山道の両側には広く林が広がっていて、ここから朝日は見えない。白んでいく雲の隙間を朱色がうっすらと縁取る。
そういえば、こんな時間に起きて外にいるのなんてボーイスカウト以来だ。夜中からトップスなんかと一緒に買っておいた上着を羽織っているけど、やっぱり肌寒さはとれない。
「………」
私は全身の疲れを慰めながら、昨夜のことを思い出す。
あそこにいたのはブリックだった。
ブリックが、私を庇ってくれた。
エルフ国に指名手配されて、エルフの騎士に追いつめられて、エルフのブリックに助けられた。
……いったい今、なにが起こっているんだろう。
昨日の感じからすると、エルフ国はもうかなりの人数と軍備を使って私を探しはじめたみたいだ。
昨日あの港にあんな大勢の船がやってきたということは、私が行こうとしている場所を勘付かれているのかもしれない。
……たまたまかもしれないけど。
「……待っててね」
そう長くは休んでいられない。
妖精の魔の手が届かないうちに、私は走り出さなきゃいけない。
太陽はすっかり顔を出した。
爽やかな朝の冷たい空気が薄いピンクのトップスの襟を揺らす。
左右には鬱蒼とした針葉樹の林。ところどころに紅葉も見られるけど、全体に受けるのは冷たい印象だ。
峠を越した私は、緩やかな下り坂をゆっくり進みながら秋の訪れを感じていた。
冷たく乾いた車道の脇で、私は自転車をゆっくり押す。足に優しい柔らかな草の上を、僭越ながら踏ませてもらう。
「足、やっぱり、痛い、なあ」
テーピングでも買っておけばよかったと後悔するけど、もうそんな余裕はない。
少しでも早く前に進まなければ、今度こそ警察だかエルフの軍隊だかに捕まってしまう。
しばらく歩いたり自転車に乗って走ったりを繰り返していると、突然登山道にぶつかった。
「『こちらハイキングコース この先50m 六蘇山を守る会』……」
突如目の前に現れた、矢印形の木の板に書かれた文字を読み上げる。
「……ハイキングコース?」
山を越えられるのならどんな道でもいい。
それが歩くのに適した道ならなおさらだ。
私は標識を立てた人たちの思惑にまんまと引っかかって、疲れたつま先を林のなかの小道へと向けた。
そんな安易な考えが、すぐに災難となって降りかかることなんて露ほども知らずに。
「お風呂はいりたーい。ベッドで眠りたーい!」
* * * * *
電話が鳴った。
「はいもしもし。……ああ、陸の騎士団長殿ですか。これはどうも」
『どうも、警視殿』
「ご用件は、舟星綿天の捜索についてですな?」
『ええ。昨夜海の騎士の分隊から、発見の報告があったのですが』
「ああ! 耳に挟みました。本当だったのですね! それでは──」
『残念ながら、エルフの仲間を見間違えた……との事でした』
「へ? ……そ、そうでしたか……」
『お気を落とさずに。ですが、舟星嬢があの方面へ逃亡しているというのは信憑性があります』
「……と、言いますと?」
『舟星嬢宅から、昨夜海の騎士どもが人影を補足した地点を線で結んだ延長には、あの村があるのです』
「………ま、まさか。舟星綿天が、自らあの地へ向かっている……と?」
『可能性はなくはないでしょう。なので、例の港の先にある山と草原、村に人員を配備していただきたい』
「わかりました。すぐに向かわせます」
『本当に心強い。……我々も、陸、海、空の騎士を総動員して探索にあたります』
「よろしくお願いいたします」
『こちらこそ。それではまた後ほど』
「はい。失礼いたします」
電話を切って、
「漬け上がりやがって、白いヒトどもが。──おい! 交通安全課三百人……いや五百人。現場によこすんだ! なんとしてでも日本警察の手で舟星容疑者を捕まえて、奴らにこっちの力というのを見せておかねばならん」
* * * * *
一言で言うと、登山道に入ったのはまったくの失敗だった。
確かに登山道は歩くのに適した道だ。
自然を楽しめるよう極力人工物を排しながらも、安全には気を配って要所要所に木製の階段や柵を設けているのはすばらしいと思う。
天気も典型的な晴れで、買い忘れた傘のことなんて今の今まで忘れていた。
そこまでは完璧なロケーションだ。
でも何度も言うように、登山道は歩くのに適した道だ。
したがって、
「………、がたがた……」
自転車を伴って下りることは考慮されていない。
自転車に乗って下りるにはかなり急な箇所もあるし、なにより登山してる人に迷惑だ。自転車を押して下りようにも、そのまま前に加速してしまわないようにふんばるので精いっぱいになってしまう。
要するに完全な失策。
「ぜえ……ぜえ……」
ハンドルを握りしめる手に力が入らない。普段なら耳に心地いいはずの高い鳥の鳴き声や、そよ風に葉がすれる音も、いまは煩わしくしか感じない。
まさか舗装された道路が恋しいと感じる日が来るとは思わなかった。
「…………」
丸太でできた階段を下りる私に声はない。
しかし三十段以上あった丸太の階段を終えると、少し開けた場所に出た。
そこは、
「………あ」
全面緑の檻で囲まれたすてきな広場。アカガシやウラジロガシ、カナメモチなんかの折り重なってできた、秘密の隠れ家みたいな空間が突然顔を現した。そよ風に吹かれてなびく葉の声が、今度はちゃんと、心地よく耳に入ってきた。
中腹でお弁当を食べられるようにか、緑の天井の下では木造りの長い腰かけと大きなテーブルが光を受けている。
わずかな紅葉を含んだ緑と木漏れ日が、私のささくれだった気持ちを爽やかに包みこんでくれる。
「森林浴って、いいかも」
自分でも単純な頭をしていると思う。
すっかり機嫌を取りもどした私は、鼻歌交じりに登山道を下へ向かう。
木々の包囲を抜けると、そのすき間から眼下が見下ろせた。
「わあ……」
広がったのは山と川と田舎の街並み。
山を越えるとこんなに違うのかと思わず目を見張るくらい、昨日訪れた九十戸港とは景色がまるで違っていた。
遠くの山から流れる細い流水から用水を引いて、凸凹と並んでいる田んぼや畑でなにか作っているのが目に留まる。きれいに区分けされたわけじゃない田畑の周囲に、ぽつりぽつりと古い瓦の屋根も見えた。
その風景のいくつかには見覚えがある。
「たしか………」
たしか、あの村の隣村。田んぼと畑が多くて、トンボがたくさん飛んでいて……あ、あの畑の横に赤い橋がかかってる。
何度か行ったことがあるからまちがいない。
あの村はもうすぐそこだ。
──ちくり。
「?」
頭のなかを、細く針が刺した。
視界は突然切り替わり、私は足が地面についているかさえわからなくなる。
一瞬だった。
目まいのようなものを感じるうちに、私のハンドルを握る手の感覚は失せてゆく。
* * * * *
どれくらいの間だったんだろう。私は夢……白昼夢というのか、とにかくそんなものを見た。
あの星屑が飛び散る直前のことだろうか。
たぶん、私が叫んだあとのことだ。
距離感も平衡感覚も安定しない映像が、内容だけははっきりと私に突きつけられた。
駆け出した私は、目の前の散った紅葉の中からひげ面のエルフが顔を出したのを見て、驚いて尻もちをついた。
ブリックとシャルノが私の名前を呼んで、足の速いブリックが私を守るようにそのエルフと私との間に割って入った。
私たちを、苦虫を噛みつぶしたみたいな顔で睨みつけながら、ひげ面のエルフがなにかを叫んで。
そうしたら、向こうの山で雷みたいな轟音が───
* * * * *
「待っ……!」
瞬きのあと、目に映ったのはのどかな田舎を見下ろしたのどかな風景だった。
「え………?」
視界に捉えた景色の格差に、私は混乱する。
白昼夢、というよりは忘れていた記憶を無理やり引っ張りだされたような、いままで経験したことがない感覚。
私は自分がまだ自転車のハンドルを握っていることに気づいた。続いて足もとが地面にくっついているのを感じる。
脱力感に足首をひねりかけたけど、そうなる前に踏みとどまった。
少し強くなった風に打たれる葉の音と、薄く聞こえる虫の音とが立ちほうける私を吹き抜けていく。
「……私が………。私が追いかけられてるのって、あのときのことが原因……?」
無意識に声に出ていた。
呆然と立ちつくして、濃い空気に隠れる山を眺めるけれど白昼夢はもう襲ってはこない。
あの日の出来事が、私が指名手配された原因?
だとしたらあの見たことのないひげ面のエルフは、叫んだ声は、雷のような轟音は。
……あの星屑は、いったいなんだったんだろう。
「………私は……」
まだ記憶には霧がかかったままだ。
しばらくの間、私は青い空の向こうを目で追いかけていた。
強い風が吹き上げた。
突風にあおられてはっと我に帰ると、私は登山道を下りようと、
「……?」
下りようとして、違和感を感じた。
風が吹き上げた。下から、上に向かって。
もちろん、一回やそこらならそんなに珍しいことじゃないんだろう。けど、強い風はなおも続く。ごう、ごう、と空気を打ちつけるような音が下から湧いてくる。
「な、なに?」
私が真下を覗きこむと、
「ひゃっ」
───数メートル級の青い塊がびゅんと飛び出た。
塊は尾を引きながらそのまま上空まで羽ばたくと、ひときわ大きくばさっと羽ばたいて雲より低いところで静止する。
「あ……あれって………」
目を白黒させながら静止した塊をじっくり眺める。
塊は大型車くらいの大きさで、横に大きくはみ出た翼と長く太い尾を持っていた。
塊のトカゲのような頭には、まっすぐ一本の角が天を刺している。
塊の表面はごつごつと硬そうで、背中には突起が列を作っていた。腹から背、頭にかけて鞍のような物をかついでいるのも見える。
そしてその背には、人の影。
「………ど、ドラゴン……?」
エルフ史で習ったことがある。
異世界にあるエルフ国は生態系もまったく違っていて、いわゆるドラゴンにあたる生物も希少ながら生息しているらしい、と。
たしか名前はドラゴンじゃなかったと思うけど、いまそれは関係ない。
ドラゴンが目の前で実際に、青空のなかで身体をうねらせているのを見て、私の目は上空に釘づけになってしまう。
ドラゴンの鳴き声なんて生まれて初めて聞いた。低い声でロアアアアアって吼えて……あ、いま炎みたいなのを噴き出した。
いつもの空に飛びこんだ圧倒的な非日常の主は、その大きな身体を隠す気なんてさらさらないらしい。まるでなにかに威嚇するみたいにうなり声をあげたり、強大な翼をばっさばっさと打ち鳴らしたりしている。
そこまでじっと観察して私は、このままでは昨夜の二の舞になってしまうことに気づいた。
あれはきっと、エルフ国が私を見つけるために遣わしたドラゴンに違いない。それをずっと、ぽかんと口を開けて見てるなんて無防備極まりない。
「見つかりませんように………」
そそくさと木々の身体に隠れるように、私は自転車には不向きな登山道を下に向かう。
田舎の空に、凶暴な声はまだ響いている。
なだらかな砂利道を見せた登山道を進みながら、私は時折空や周りを警戒する。
あんな大きいドラゴンはこんな細い道までは入って来られないだろうけど、追っ手はドラゴンだけじゃない。
ほかのエルフの騎士や警察……、あとはなんだろう。
とにかく全部から、私は逃げなきゃいけない。
自転車のタイヤを食う砂利道の両側には、ずっと奥まで深い林が広がっている。密集したアカマツが重なり合うようにして空間を占領して、日の光を塞ぐ薄暗い森林を生み出す。
今日は気持ちのいい晴天なのに、林のなかまではほとんど日射しが届かないみたいだ。もしかしたら、向こうの木の陰には追っ手が潜んでいるかもしれない。
ちょっと神経質すぎるとは自分でも思うけど、それくらいしないとこれから先逃げられないんじゃないか。
「………こわいな」
暗い夜道を歩くみたいに、後ろを何度も振り返りながら痛む足首を引きずって歩く、そのときだった。
「太竹巡査部長ほか五名、山頂付近の登山道に到着しました!」
前方から、威勢のいい声が飛んできた。
「!」
私はびくっと震えて、声の方向に目を向ける。
「……はい。はい、了解です。このまま捜索に当たります」
声の主は見当たらない。でもたぶん、このすぐ先の曲がり道かどこかにいるんだと思う。
私はとりあえず、登山道を離れて暗い林のなかに身を移す。自転車が草を騒がせたけど、警官たちは気づかなかったみたいだ。
きっとドラゴンの低いうなり声のせいだろう。
「……巡査部長。この獣の声は……いったい何なんでしょう」
さっきとは違う、若い男の人の声が聞こえた。
音を立てないように神経を張りつめて、ゆっくりと林の奥へと後ずさる。
「報告の通りならば……エルフ国立軍の軍馬──もとい、軍ドラゴン? というヤツだろうな。橋半巡査は、学生時分にエルフ史を学ばなかったのかね?」
「いえ、もちろん学びましたが……。……ど、ドラゴン……やはり、実在するんですね」
若い巡査の慄いた声。
「どうもそうらしいな。一目見てみたいような、遭いたくないような……。……さあ、雑談はおしまいだ、奴らに構っている余裕はない。我々も早く容疑者を捜さなければ」
「っと、そうですね」
若い巡査がそう返す。
「………容疑者?」
林のなかに潜む私は、その単語に眉根を寄せる。
警察の人は、私のことを〝容疑者〟なんて呼んでるのか。私はひどい呼び方にむっとした顔をして、
「…………」
あることを考えてその顔を曇らせる。
……あるいは、私が本当になにかの事件の容疑者なのか。
そんなこと考えたくはないけど、なにがあったのか覚えていない以上、その可能性も否定しきれない。
「では、各自この近辺を念入りに捜索するように。今回特別に支給された、サーモグラフィーの使用ももちろん許可する」
「了解です」
「了解っす」
「了解です」
ばらついた返事に合わせて、たくさんの足が砂利を踏み荒らす音が鳴った。
足音のいくつかは、こっちのほうに向かっているみたいだ。木々に遮られた登山道に小さく藍色の制服が横切った。
「いま……サーモグラフィーって言ったよね」
機械類にはとことん興味のない私だけど、さすがにサーモグラフィーくらいはテレビで見たことがある。
詳しい説明はわからないけど、温度ごとに違う色で風景を映せるカメラみたいなもので合ってるはずだ。ということは、
「……向こうから絶対見えないところまで行かないと、私の身体だけ赤く映っちゃう……で合ってるよね?」
慌てて、自転車を横に倒して身を屈める。
なんとか下草と木の裏に隠れてやり過ごせないか模索してみる。
「俺は向こうに行く」
「了解」
二人いたうちの片方の黒い制帽が頷いて、一人の警官が砂利道をこちら側に進んできた。
かなり林の奥まで入ったつもりだったけど、実際向こうから探されてみるとまだまだ後ろへ下がりたくなる。
でもここで動いたりしたら、すぐに私は警官に見つかってしまうだろう。
「お願い………。見つけないで……」
蚊の鳴くような声で必死に祈る。ぎゅっとつむった目を開くのがこわい。
うっすらと、目を少しだけ開いて見てみると、警官は私がいるところとは見当違いの下草をばさばさと棒でかき分けていた。
しきりに周囲に首を向けて、頭に付けた銀色の、きっとそれがサーモグラフィーだろう四角い物体を目元に装着する。
私はせめてもの悪あがきとして、警官と私で数本の木を挟むような位置関係を保つよう微妙に動きつづける。
腹ばいで移動すると下草がちくちく痛かったけど、いちいち気にしていられない。
すると、警官がこっちの方向に身体を向けた。
「……!」
そのまま向かってくる。
まだ周囲を見回したり足もとの草をかいているところから察するに、まだ私を見つけたわけじゃないみたいだ。
それでも、全身から嫌な冷や汗が止まらない。
「お願い……、見つけないで………っ」
そして私は、背後から覆いかぶさるようにして私の口を塞いだ影に───意識を奪われた。
* * * * *
警官はそこに、鈍く光る銀色のボディが寝ているのを発見した。
急いで駆け寄って見ると、それはごく一般的なシティサイクルだった。
前籠には膨らんだバックパックが積まれ、後ろのフレームには防犯登録ステッカーと、ある高校の鑑札ステッカーが貼られていた。
「………これは……」
真剣な表情でそれを見下ろす警官は、胸元の無線機に手を伸ばす。
「こちら殊朽、乗り捨てられた怪しい自転車を発見。至急応援をお願いします。……はい、はい。いえ」
警官は、再び暗い林のなかを見回してからこう告げた。
「周囲にそれらしき人影は見えません」
* * * * *
「───フレイヤ。彼の者は贄を統べる。ワニルが慣わしセイズルを、初めに伝えしは彼の者なり」
耳に、滑らかな歌声が聞こえてきた。
「遥か遠き日に、我に命を与え給うたヨトゥンの血族を我は追想する」
しっとり透きとおるような低音を抑揚した、沁みわたる声が空気を滑る。
その歌はまるで猫をなでるように優しく、魔女が鍋をかき回すようにおどろおどろしく頭に響いた。
妖しい声はその調子を切り替えてからも、なおも衰えず歌を続ける。
「我の知る九つの世界、九つの」
「………だ……れ?」
私がぼやける目で見上げると、それに気づいた耳の長い人影は目もとと口角をゆるめた。
そんなふうに見えた。
人影は静かに人差し指を唇に当てて、私の次の言葉を無言に封じ込める。
妖しい声は続ける。
「──九つの女巨人、地の生まるる前より在る、荘厳な蜜の樹よ」
妖しい韻律が唇を閉めると、私と人影を囲むドーム状に世界の色が変わった。
エメラルドグリーンのきらきらを伴う紫がかったピンク色のドームが、天頂からぼんやりと垂れるように広がっていく。
「わあ……」
そしてドームは私が寝そべっている下草まで届くと、エメラルドグリーンの閃きに呑まれてぱっと飛び散った。
きらきらがしばらく宙にとどまって、花火みたいに消えていった。
私がその光景に見とれていると、
「……おはよう、綿天」
人影が私の頭を撫でた。
髪を梳かすような、優しい手つき。
「……ブリック………? おはよ………ふあ」
小さなあくびが湧いて出た。人影はそれを見て、
「言うと思った」
ベイビーブルーの髪をかき上げて微苦笑した。
光に吹かれる淡い髪の色に、私の頭はだんだんと調子を取り戻していく。
「……ブリック?」
「よく頑張ったね、綿天」
「ほんとに……ほんとにブリック?」
「……そうだよ」
ゆっくりと身体を起こす。
「助けに……来てくれたの?」
「来るのが遅くなってごめん。まさか、まっすぐあの村に向かって逃げてくれるとは思ってなかったんだ」
「ぶ……」
木漏れ日に射される林のなかで、
「ブリック!」
私の涙腺はブレーキを失った。
身を持ちあげて、倒れる勢いでブリックの胸に飛び込む。
硬いような感触が私のおでこに当たった。おでこをブリックの胸もとに擦りつけるようにして、そこに両手でしがみつく。
「綿天……?」
「よかった……助けに来てくれた! ……味方、いた………っ」
緊張の線がたわんで、ブリックの服に涙が染みる。
「この世界に……味方……いたよ………っ」
「……俺たち兄弟は、いつだって綿天の味方だよ」
ブリックは抱きとめるようにして、頭を撫でてくれた。
温かい手のひらに、私の涙はもう止まらない。
「姿消しの〝煮〟を掛けたから、心配しなくていい。……好きなだけ泣きなよ」
「………ぶりっくっ………うっ、うあああん………」
一日にも満たない私の、たった一人の逃亡は……こうして黄昏をむかえた。
「……これから、どうするの?」
泣き続けて目を腫らした私は、隣に座るブリックにそう尋ねた。
「あの村へ行く」
ブリックはそう答える。
「行って、どうするの? あそこに行ったら……どうなるの?」
「エルフ界へ行く」
「……え?」
「あの村には、この世界とエルフ国を繋ぐ〝橋〟があるんだ。そこからエルフ国に入る」
「………その後は?」
「大丈夫。ちゃんと考えてあるから……綿天は安心していいよ」
「……うん………」
暗かった林のなかには、不自然なくらい明るい日射しが射し入る。
泣き疲れた私はたくましくなったブリックの肩を借りて、まどろみの底へと沈んでいった。
幾つか解説です!
もう恒例って気がしてきました、本編よりこっちの方に熱が入ってるかもしれません。
という妄言はさておいて、今回は本章後半で唱えられた長ったらしい呪文について。
〝煮〟と表現したあれは、北欧神話における二大魔法の一種、「セイズル」です。
このセイズルは「煮えたぎる」という語に由来し、ヴァン神族の女神フレイヤが主な使い手といわれています。
姿を消したり動物に変身したりすることは勿論、嵐を呼んだり未来について予言したりと色々なことができた魔法で、古代北欧では普通女性の巫女が使うものだったようです。
神話では、フレイヤに教えてもらってセイズルを使うようになった主神オージンを、トリックスターのロキが「女々しい」と一蹴しています。
また、エルフの源流である小神族アールヴァルは豊穣の神ユングヴィを崇めていました。
このユングヴィは、先述したヴァン神族の神の一柱であり、フレイヤの双子の弟でもありました。
本文で用いたのは、『ユングリング家のサガ』でフレイヤがオージンにセイズルを教えたとされる場面、そして『古エッダ』に記される『巫女の予言』の一場面を私訳したものです。
『巫女の予言』の方は日本語訳がネット上に存在せず、複数ある英語訳を自分なりにかっこよく訳してみましたが……どうもセイズルとの関係が掴めませんね。
セイズルについて書かれた文献が思っていた以上に少なかったので、参ってしまいました。
今度からはもっと専門書を取り入れて書けたら、と思います!
では引き続き、『星屑エスケープ』本編をお楽しみください。
更新遅くなってスミマセン……