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(エスケープ・イン・マインド)

 これは私が恋に落ちたときの話。

 なんてことはない日常の、ほんのささいな1ページ。


 それは暖かい冬の日だった。

 冬になるとあの村には雪が積もる。その年も例外ではなく、あちらこちらに()ったような霜雪(そうせつ)が小さな山を作っていた。

 その日の放課後。もう暗くなったあぜ道を、私は遅くまで走りまわっていた。

 はじめはブリックやシャルノを入れた何人かの友達と遊んでいたのだが、途中でみんな帰ってしまったのだ。その日はたまたまお母さんが呼びに来なかったので、私は足もとが見えなくなるまできゃあきゃあ騒いでいた。

 融けはじめた柔らかい雪のうえを転がった。

 そして突然、私の身体は地面に吸いこまれて消えた。


 気がつくと、四角く切りとられた空に月が浮かんでいた。

 どこか暗いところに仰向けになっているようで、見上げる月はいつもより遠かった。

 続いて冷たい、寒いという感覚がやってきた。

 混乱、焦燥、不安。

 水のたまった場所に尻もちをついていたお尻を持ちあげて、立ち上が──ろうとして失敗した。

 天井というのか、上にあるコンクリートに頭をぶつけた。

 月が覗く穴のほうへ頭を出すと、私はようやく自分がどんな状況なのかわかった。

 雪に足を取られて滑った私は、雪に隠れて見えなかった深い溝に落ちてしまったらしかった。

 私はなんとか上へ登ろうとしたが、足場は水と雪だけで足をひっかけるところがなかった。つま先で立つと手は穴のふちに届くものの、手の力だけでは身体を支えて上へ乗り出すことはできなかった。

 私はひとしきり叫んだり、泣いたりしてみたけど誰も助けには来てくれなかった。

 とにかく寒かった。服がびちゃびちゃで、風は入ってこないものの夜の冷気が存分に私を冷やした。

 私はすすり泣きながら、穴のなかで腕をさすりつづけた。


 それからどれくらい経ったろうか。

 届かない月だけが見える真っ暗な冬の溝の底で、恐怖に駆られて私がもう身動きひとつ取れなくなっていた頃のことだった。

 頭の上で、私の名前を呼ぶ声がした。

 はじめ、空耳だと思っていたその声はたしかにもう一度聞こえた。

 涙と鼻水でまみれた冷たい顔を上に向けると、届かない月の代わりに、もっと近いところにベイビーブルーの髪が見えた。

 大丈夫? とその声は訊いた。

 私は信じられないと言うような表情で、なにも言えないままに頷いた。

 よかった。はにかむように零れたその声は、とても……とても温かい安堵を含んでいた。


 溝から引き上げてもらった私は、冷えのせいか家まで歩くことさえままならなかった。

 すると、ブリックはすっと背中を差し出してくれた。

 私が首をひねると、ブリックは恥ずかしそうに一言、乗りなよ、と言った。

 でも(わたし)服びちゃびちゃだよ、と言うと、歩けないんだろ、とブリックは応えた。

 私を探して走り回ってくれたのだろうか、熱を帯びた背中がとても嬉しかった。


 その夜、私はブリックの背に揺られて家まで帰った。

 たくさん叱られたけど、お父さんとお母さんはたくさん私を抱きしめてくれた。

 よく考えてみれば、あの溝はどちらかのほうに進んでいくと底が浅くなっていくようになっていた。一番溝が浅くなっているところからなら、私より下の学年の子でも難なく出入りができたはずだ。

 そんなことは無理だけど、暗闇の奥に恐怖さえ感じていなければ私は一人でも家に帰れたのだ。

 だからこれは、たいした事件にもならないちょっとしたドジの延長線上。


 だからこそ私は忘れない。

 月下で私を乗っけてくれた、あの頼もしい小さな背中を。

 涙ににじんだベイビーブルーの跳ねた髪を。

 ブリックへの恋心を。

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