雨とチョコレート
鬱陶しい季節がやってきた。ほどよく冷房の効いた保健室のベッドのうえ、清潔なシーツにくるまって寝返りをうつ。窓をたたく雨の音、消毒液のにおい。さっきまであたしを苦しめていた、脈打つような頭の痛みはすっかりやわらいでいた。薬が効いてきたようだ。
「相沢さん、大丈夫?」
淡いクリーム色のカーテン越しに、養護の先生が声をかけてくれる。いえ、とかすれた声で返事をして、頭からシーツをかぶった。嘘だ。もう少し、ここで休んでいたいだけ。
教室に帰るときには、もう、いつもの相沢マユに戻っていなければいけない。今日は少しだけそれが億劫だった。いっそこのまま早退してしまおうか、そんな邪な考えが脳裏をかすめたけど、すぐにかき消す。ここで逃げたらくせになる。逃げつづけるのはしんどい。
五時間目の終了を告げるチャイムが鳴って、ゆっくりと体を起こし、カーテンを引いた。戻ります、と先生に告げる。
廊下を歩きながら、こっそり、ポケットにしのばせていたアーモンドチョコを一粒口に放る。チョコレートはあたしのガソリン。頭痛持ちにはあまりよくないなんて巷では言われているけど関係ない。せめて糖分だけでも補給しないと頑張れない。
二の一の教室の前であたしは、ぱん、と両手でほおを挟みこむように叩いた。気合。
「マユ、だいじょぶー?」
教室に入るやいなや、わらわらと取り囲まれる。ミキに由美に梢、そして和樹も。
「低気圧のせいで頭痛とか、キャラに似合わず繊細なんだなー」
大きな手があたしの頭を押さえつけてぐりぐりとかき回す。あたしの、赤茶けた天パの髪が乱れる。
「うっせー和樹。せっかく頭痛おさまったのに、ぶり返すじゃんっ」
ぶうたれてみせると、うわっフグみてえ、と言って和樹はけらけらと笑った。大きな口から八重歯がのぞく。
「フグでーす。丸顔童顔下膨れでーす」
さらにほおをふくらませて両手を魚のひれみたいにパタパタしてみせると、和樹は細っこいからだを折り曲げて笑った。
和樹は無邪気なガキそのもので、「繊細」なほうがあたしの本性なんだってことにちっとも気づかない。ほかのみんなも同じだ。何てことないオチのない話にもことさら大げさに手をうって笑ってみせて、椅子にはわざと足を広げて座って、やめれや中身が見えたら目の毒だわーなんて頭はたかれる、そんな相沢マユはぜんぶつくりものだって言ったら、みんな、どうするかな。
べつにどうもしないか。
六時間目の授業の開始ぎりぎりまで、マシンガントークをかます。みんな、目じりに涙を浮かべながら笑い転げてくれる。軽い自虐ネタがいちばんウケるしだれも傷つけない。それが、高校入学前、研究のためにお笑いトーク番組を見まくって得た結論だ。いくら面白くても人の失敗をネタにするようじゃ敵をふやすだけ。プロの芸人はそれが仕事だからいいけど、あたしはちがう。いじるよりいじられろ。誰からも好かれるあたしになれ。
中学時代、クラス中からハブられていたあたしは、高校に入ったら変わろうって決めてた。それでわざわざ、同中のやつらのいない校区外の私立を受験して、毎朝一時間電車に揺られて登校している。リセットして新しい自分になろうと思ったんだ。これまでの自分はさぞ暗くてダサかったんだろう。空気も読めず、気の利いた返しもできず、次々にめまぐるしく移ろう話題にもついていけない。それじゃだめなんだ。見た目も微妙でおしゃれしてもいまいちイケてないあたしが浮上する方法。それが、「女芸人キャラ」になりきることだった。
リスニングのテープが延々流れる教室の中は、見えない水の粒が充満しているようで息苦しい。頬杖をついて、窓を伝う雨のしずくを、ただ眺めている。つかの間からっぽになった頭の中に何か白いもやもやしたものが侵入してきて、ふくらんできゅううっと圧迫してくる。
また始まった。この「きゅうう」を放置すると、それはそのうちこめかみを内側から殴るような「ガンガン」に変わって、痛くて立っていられなくなる。雨が降るといつもそうだ。気圧の変化に過敏に反応するあたしのカラダ。いっそのこと捨ててしまいたい。
放課後、ミキたちの誘いをことわって、あたしは駅までの道をまっすぐに歩いた。いつもだったらあの子たちについていくんだけど、さすがにきつい。ミキたちも無理強いしなかった。
駅舎に次々に吸い込まれていく傘たち。駅ビルの一階にあるファストフード店から揚げ物の匂いが漂ってきて軽い吐き気をおぼえた。
電車が走り出す。鈍い痛みの中、あたしは、今日一日和樹と交わした会話をいちいち反芻していた。一年のころ同じクラスになって仲良くなって、気づいたら、和樹のことを思い浮かべている時間がふえた。誰にもばれないように、こっそり見つめていた。まずったなあ、恋なんてキャラじゃないのに。
ため息をついて、窓の外を流れていく景色を見やる。国道と並行してひかれたレールの上を電車は進む。家並みやガソリンスタンドやファミレスの看板が次々と現れては消える。目を閉じると、踏切の警報音が耳に届いて一瞬で通り過ぎる。何だったかな。ドップラー効果だっけ? 遠ざかる音が曲がってるように聞こえんの。カンカン、カンカン……。
少しだけ眠って、目がさめた時には、景色が一変していた。車窓の外、田んぼのあぜ道の緑が雨に濡れてビビットに輝いている。水を張ったばかりの田んぼはくもり空を映してにぶく光っている。
と、妙な違和感がして姿勢を正した。違和感の正体は視線だった。向かい合わせの席に座っている、あたしとは違う制服を着た女子高生が、じっとあたしを見ている。長くつややかな髪に白い肌、前髪は眉の上でぱつんと切りそろえられ、その下の目はやや吊り上って鋭く、少しだけ冷たい感じがする。そのすずやかな目が、まっすぐにあたしをとらえているんだ。ていうか、もしかして睨まれてる?
どこかで会ったことがあるような気がするけど思い出せない。居心地が悪くて、奥のボックス席に移動しようかと席を立とうとした時、彼女はすっと立ち上がって近づいてきた。どうしよう。何か言われる、のかな。
「あの」彼女はおもむろに口をひらいた。「あなた、憑いてますよ」
「え」まぬけな声がもれる。ついてる? なにが?
「憑いてます。肩のところに、やばそうなモノが」
雨はすでにあがって、くもり空を割ってかすかな光が差していた。ひっきりなしに蛙が鳴いている。
あたしは自分の降りる三つ前の駅で下車し、件のあやしい女子高生に導かれるまま、田んぼに囲まれた農道をひたすらに歩いている。霊だの妖怪だののたぐいを信じるほうじゃないけど、やばいモノが憑いてるって言われたら冷静じゃいられない。「それ、取ってあげましょうか」って彼女の言葉に、反射的にうなずいてしまったんだ。
小川にかかった小さな橋を渡り、山手のほうへ彼女は進んだ。セメントで雑に塗り固められているだけの狭い道をゆく。道の脇の草は伸び放題で、水滴をまとってきらめいている。
今さらながら、のこのことついて来た自分をのろう。どう考えてもあやしい。うさんくさい神の水とか魂を浄化する数珠とか売りつけられたりするんじゃなかろうか。そんなことをぐるぐる考えていると、ゆるやかな登り坂の先に小さな看板が見えた。
「茶房カミツレ」
あめ色をした一枚板に、白い手書き文字。看板の奥に古民家風の一軒家があって、いわゆる「隠れ家カフェ」ってやつかなと思った。隠れすぎてて誰も気づかなさそうだけど。
立てつけの悪い引き戸を開けて、彼女はあたしに入るように促した。ここはこの子の家なんだろうか。狐につままれたような気分。この子、狐っぽい顔立ちをしているし、実は本物の狐で、怪しい術を使っていたり……。
「あいにく私は狐じゃありません」
いきなり心の中を読まれて、びくっとからだが震える。なんなの、これも霊感ってやつ?
土間で靴を脱いで座敷へ上がると、たたみの匂いとなにやら香ばしい匂いがまじりあって鼻先をくすぐる。開け放たれたふすまの奥の部屋へ通される。回り縁のあるお座敷だ。庭の木々や草のみどりがみずみずしい。
差し出された座布団に正座すると、茄子紺の作務衣を着たおじさんが水を出してくれた。か、神の水?
じっと、古びた木のローテーブルに置かれたグラスを見つめていると、
「ただの水です」
と、さらりと告げられる。また心を読まれた!
「あなた、霊能力者? それとも、超能力者?」
おそるおそるたずねてみる。彼女はにこりともせず、いいえ、と首を横にふった。
「カンがいいだけです。ところで相沢マユさん、私のことを覚えていませんか?」
「なんであたしの名前……やっぱりエスパー?」
「覚えていないようですね」彼女はため息をついた。「新山可奈です。中二の時同じクラスでした」
新山、可奈。暗黒の中学時代の記憶をさぐっているうちに、ぼんやりと像が浮かんできた。教室の片隅でひとことも声を発せず、うつむいて文庫本を読んでいた少女。長い黒髪がもっさりと彼女の顔をかくしていたからわからなかった。本当は綺麗な子だったんだ。
「私は覚えています。あなたは私に似てると思っていたから」
「似てるって……。ぼっちだったとこが?」
ふふ、と新山可奈はひかえめに笑った。彼女、たしか三年にあがる前に転校していたはず。意外と近くにいたんだ。
「父と母が離婚して。父が突然店をやりたいって会社を辞めてしまって、母はついていけないって。私は母と暮らしているけど、こうして父のところにも自由に来ているの」
ふうん、といちおう相槌をうちつつも、本音を言えば、どうでもいい。あたしはあの頃の自分とは決別したわけだし、今さら当時の同級生の思い出語りなんて、正直うざいだけ。それよりあたしは肩に憑いているっていうやばいもののことが気になる。
「相沢さんのこと、時々電車で見かけて、そのたびに気になってたの。あなた、いつも重そうな灰色のカタマリをのせていて。だけど声はかけられなくて。でも今日はどうしても放っておけなかった。真っ黒なんだもん」
だ、だから、なにが?
すっと新山さんはあたしの背後にまわった。ひんやりした指先がいきなり首すじにふれて、声をあげそうになってしまう。ゆ、雪女?
リラックスして、肩のちからを抜いて、と耳元で低い声でささやかれる。妙になまめかしくて、本当に腰がくだけそうになって。で。
「ああ、やっぱり。相当凝っているわ」
両肩をつかまれ、ぐいぐいと揉まれ、肩甲骨のくぼみをぐりぐり押され、さらに首すじから背骨にそってぎゅっぎゅっと圧をかけられる。うう……イタきもちいい……。
「私ね、凝ってるひとがわかるのよ。指圧したくていてもたってもいられなくなっちゃう」
「そ、そうなんだ……うう、ああ、そこはヤバイ……ッ」
「体調もすぐれないんじゃないの?」
「ず……頭痛がひどくて……でも梅雨どきはいつもそうだし……気圧のせいだから……」
「それだけじゃないわね。肩と背中がかちかちに強張っているもの、血流だって滞っているはず。パソコンの使い過ぎかしら。それとも最近、何か緊張することが続いていたとか」
ふっ、と彼女は力をゆるめた。解放されたあたしのからだは、羽でもついているみたいに軽い。本当に飛べるかもってくらい。
身軽になったあたしに、作務衣のおじさん(新山さんのお父さん?)が、湯気のたつ飲み物を出してくれた。土色の素朴なカップとソーサー。いただきますと口にしたそれは、何だか、とっても。
「草っぽいっていうか、薬っぽいっていうか、その、ふしぎな味」
「カミツレよ。カモミールのこと。ハーブだから確かに薬っぽい草ではあるわね。苦手?」
こくりとうなずく。正直ねと彼女は笑った。
正直、か。
次の日も雨。それでも、昨日までのようなじめじめとからだの中までむしばまれるような嫌な感じはなく、むしろすっきりした気分で登校した。行きの電車で新山さんのすがたを探したけどいなかった。アドレスくらい聞いておけばよかったかもしれない。
駅舎を出てぱんっと開くあたしの傘は鮮やかな赤。グレーの空に映えるさし色だ。中にいるあたしの顔までも明るく見せてくれる気がして、学校までの道を歩く足取りも軽い。
「はよーっす」
背中に届くダルそうな声に、あたしの心臓はすぐさま反応して跳ねた。和樹。
「相沢、今日早くね? つーかリーダーの予習してきた? お前がするわけねーか、はは」
真っ黒い傘をさした和樹と、なんとなく一緒に歩いている感じになる。ラッキー。超ラッキー。いつかひとつの傘にふたりで入って歩く日が来たら……なんて。
「おめー、何ニヤニヤしてんの? きもっ」
「きもくて悪かったねっ」
和樹の傘に自分の傘をこつんとぶつけると、小さな水しぶきが散った。
教室に入ると、ミキたちにソッコーで連行された。行き先は女子トイレ。
「見たよ見たよ見たよー。和樹と一緒に来てたっしょ? いい雰囲気だったよー。ねーねー、もしかしてついにコクったん?」
「こ、コクっ……! まさか、たまたま一緒になっただけで。ほらあたし女子って認識されてないし。てゆーかあああたしだってアイツのこと男子って認識してないしね!」
「またまたー。マユ和樹のこと狙ってんじゃん? バレバレだよっ」
由美、ミキ、梢が、それぞれ腕組みしてぐるりとあたしを包囲した。
「協力するからさ。コクれば? 和樹に」
三人とも、笑みを浮かべてあたしを見据えている。妙な圧を感じる。いつものようにがははって笑ってごまかしたいのにできない。笑いたくても頬の筋肉がひきつってしまう。
それからミキたちはことあるごとにあたしと和樹を呼び立て、ふたりにしようとした。たとえば放課後の視聴覚室に呼び出されて行ってみると和樹がいたり、カラオケ行こうって誘われて行くものの和樹しか来なかったり。
「相沢さ。なんか、オレに言いたいことでもあんの……?」
さすがに訝しんだ和樹がついに業を煮やして聞いてきた。昼休みの蒸し暑い体育倉庫の中、ミキたちにはめられて、はからずもふたりきりになっていた時のこと。
言いたいこと。コクれば? コクれば? と、みんなの声が耳の奥でこだまする。あたしが和樹にコクるまで「ふたりきりにさせちゃおう作戦」は続くんだろうし、それでもあたしがコクらなかったとしたら。そしたらあたし、彼女たちに、なんて言われるんだろう。
ノリ悪いとか。せっかく協力したのにとか。ちっとも空気読まないとか。
それは過去のあたしが、さんざん陰でみんなに言われ続けてきたこと。
じりじりと時間がすぎる。背中にも手のひらにも、べっとりと嫌な汗をかいている。拳をにぎりしめて、かびくさい空気を思いっきり吸い込む。言うしかない。
好きです、と告げたときの和樹の顔を、あたしは一生忘れないだろう。その口から答えを聞くまでもなく、自分はふられたんだとわかった。和樹はきまり悪そうにあたしから視線をはずして、好きなやつがいるんだよね、と言った。
「ミキだよ。実は何度もコクってんだ」
目の前が一瞬真っ白になって、そしてすぐに暗転した。ミキとは中学が同じで、ずっと片思いしてて、アプローチ続けてるんだけどつれないんだ、って。なんで今しがた自分のことを好きだと言った女子に、そんなことまでぺらぺらしゃべるんだろう。ああそうか、二度とオレに変な感情持つんじゃねえぞってことか。そうか、そうだよね。
誰かに殴られたみたいに後頭部がずきずきと痛い。酸欠かもしれない。
体育倉庫を出て、去っていく和樹の後ろ姿を見送ってから、その場にうずくまった。和樹に告られたミキが、どうしてあたしをけしかけたんだろう。ミキだけじゃない。そのことはみんな当然知ってるんだよね。
つぎの日もあたしはいつも通りに明るく振る舞った。そうするしかなかった。心の中に渦巻くミキたちへの疑念は封印した。気づかなければいい。そうすればすべて今まで通りだ。だけどさすがに和樹はあたしに対してよそよそしくて、ミキたちは何かあったと感づいたようだった。だから。
お弁当のあと、めいめいに持ち寄ったお菓子を広げてつまんでいるタイミングで、ミキたちにさわやかに報告したんだ。
「実はあたし、ふられちゃった! あははっ! なぐさめてなぐさめてー」
その瞬間、ぴしっと空気が冷えた。何か、間違った……のかな。自分が持ってきたアーモンドチョコを一粒口にして心を落ち着ける。甘ったるいチョコで覆われたこうばしいアーモンドを奥歯で砕く。
やがて、「ふーん、そっか」とミキがつぶやいて、それに続くように由美が「まー元気だしなよー。とりあえず食べな」と明るい声をあげた。いつも通りの雰囲気が戻って安堵する。
失いたくない。はしゃぎあう友達、やっと手に入れたキラキラの日常。ずくん、とこめかみが疼くけど気づかないふりをする。これでいいんだ、これで。
そのうち、和樹との間にできた距離はどんどん大きくなり、ついに避けられるようになってしまった。あたしは、ひそかな片思いの喜びも、友情さえもなくしてしまった。ミキたちへの疑惑はふくらむばかり。あたしをはずして三人だけで笑い合っているのをよく見かけるようになった。あたしが中に加わろうとするとみんなの顔が作り物めいた笑顔に切り替わって、まるでテレビのチャンネルを変えたみたい。どうしても気になるあたしは、休み時間、保健室に行くふりをして女子トイレの個室にこもった。何人もの生徒が入っては出て、やがて、大きな笑い声が聞こえてきた。ミキたちだ。絶対ここに来ると思っていた。
「つーかバカじゃねーのあいつ。へらへら笑ってさあー」
「あいつのそーいうトコ、まじうざい。うそ笑いで媚びてくんの。ひとりの時はいっつもオドオドした顔してるくせに」
「一高の友達に聞いたんだけどさー、あいつ中学んとき超暗かったらしいよ」
「やっぱそうなんだ。そんな感じするよねー」
「和樹に色目つかってんのもキモかったよね。調子のりすぎ」
想像以上だった。ここまで嫌われていたなんて。狭い個室の中、うずくまるあたしの動悸はとまらない。
あたしがお笑いキャラで上っ面をつくろっていたように、あの子たちもあたしの前で友達の仮面をかぶって、陰で笑ってたんだ。
チャイムが鳴る。あわただしく足音が去って行って、あたしは残りの時間を保健室でやり過ごした。
帰りの電車の中でようやくあたしはからっぽになる。相変わらずずきずきと痛む頭とポケットのチョコレート。ゆるやかな振動に身をまかせ、視線をさまよわせる。あの子は今日もいない。駅名を告げるアナウンスに、あたしは無意識に腰をあげた。あの日彼女と一緒に降りた駅。
蛙がひっきりなしに鳴いている。空は重そうな雲に覆われ、時折ぬるい風が吹いた。田んぼの中の道を抜け、坂道をのぼり、「茶房カミツレ」へ。作務衣のおじさんが、いらっしゃいと出迎えてくれる。この間と同じ部屋の同じ席で、あたしは渡されたお品書きを見た。なんでもありだ。ハーブティーに緑茶に紅茶、珈琲もある。この間のお茶はたしか、お店の名前にもなっている、カミツレだ。好きな味ではないのに、あたしはそれを注文した。
「今日も憑いてるわね」
すずやかな声に顔をあげる。お茶を運んできたのは新山可奈だった。
「それ飲んだら、また指圧してあげる」
口の端をちょっとだけ持ち上げてかすかに笑って、あたしの真向かいに座る。
「灰色? 黒い? やばそう?」
「真っ黒よ」
ぽつぽつと雨が木々の葉を叩く音がする。縁側へ出てみる。降り始めた雨がみどりを濡らしていくのを眺めていると、しずかに新山さんがあたしの背後に立った。
「何か悲しいことでもあったの」
「どうして?」
「あなた、泣いてるから」
「泣いてないよ」
一滴だって涙は流れていない。そう、と新山さんは首をわずかに傾けた。
「今日は、マッサージしてくれなくていいよ。もう、わかってるから」
雨に打たれる木々を見つめたまま告げると、彼女が小さく頷いたのが気配でわかった。
やはり彼女には超能力があるんだろう。あたしは今きっと泣いている。だけど涙が自分の外に出て行かないで、ぐるぐるからだの中をめぐって、固まって重いしこりになってのしかかっているんだ。鉛色の雲から次々に落ちてくる雨粒を見ているうちに、ようやく気づいた。
「新山さん」むんと立ちのぼる、水をふくむ土のにおい。草のにおい。「昔、あたしたちが似てるって思ってたって」
ええ、と新山さんはうなずいた。もしかしたら。彼女もそうだったのかもしれない。涙を飲みこんで黒いカタマリしょいこんで。だから、ほかの人に憑いてる「モノ」が見える。
新山さんは何も言わなかった。なのにその沈黙は決して不快なものではなかった。ううん、むしろ、心地いい。学校でバカ笑いしてる時よりずっと。
それでもあたしはまだ、偽りの、きらきらの日常を演じる。チョコレートを一粒、口に放る。甘い甘いチョコのコーティングをはがすと何が残る? アーモンドのように固くて、それでいて風味のいいものならばいい。だけどあたしはそうじゃない。何もない。何もないあたしは無理矢理に糖衣をまとっている。「媚びて笑って、ひとりのときはオドオドして」。その通りだ。
「マユも写すっしょ? ミキのノート」
物思いにふけっていたら、由美からノートを差し出された。テキストの訳がみっちり書きこんである。顔をあげると、ミキに梢、いつものメンバーに取り囲まれていた。
「あたし今日絶対当たると思ってえ」
ミキがあたしの前の席に背もたれを抱きかかえるようにして座った。あたしはへらりと笑う。それでも笑ってしまう。
「なんか暗くね? またいつもの頭痛?」
「あたしが暗いのって、……だめ?」
「どしたのマユ。なんかおかしーよ、今日」
せまい教室の中で、湿ったぬるい空気が循環している。酸素がうすい。窓を開けなきゃ。
「ミキ……。ミキって、和樹にコクられたんだってね」
「あ? ああー。むかしのコトだよ。何? そんなこと気にしてた?」
ミキが笑う。その横で、由美と梢が目を合わせて、にやりと口元を歪めたのが見えた。
「和樹はずっとミキのこと思ってるって」
「知らないよ。ぶっちゃけうざいし、あいつ」
ミキが手をのばしてあたしの机からノートをひったくる。
「もういらないっしょ、これ」
まだ一行だって写していない。あたしには写させないってイミだ。空気が変わったんだ。
「あたしがふられるのわかってて、コクるように仕向けたんだよね」
「仕向けてなんかねーよ。マユが勝手に自爆しただけじゃん?」
あたしを見据えるミキの目は、一ミリだって笑っていない。由美と梢が、示し合わせたように、あたしの周りから離れた。
きっとあたしはこれから彼女たちに避けられるんだろう。中学時代と同じだ。素のままでいても、殻をかぶってごまかしても、どのみち嫌われるなんて。
「もう学校に行きたくない」
思い切って告げた。茶房カミツレの、いつもの席で。新山可奈はにこりとも笑わず、どこか冷たい泉を思わせるような切れ長の目で、あたしをまっすぐに見つめた。
「行かなければいいじゃない」
こともなげに言ってお茶を飲む彼女の、白いのどが動くのをぼうっと眺める。
「だけどそんなわけにいかないよ」
「いいこと教えてあげようか」
新山可奈は口の端を少しだけ持ち上げた。
「私、実は死んでいるのよ」
ざあっと風が吹いて、庭木がいっせいにそよいだ。途端に緑のにおいにつつまれる。
「中三の秋、私は死んだの。事故で」
「冗談はやめてよ」
死んだ人間が、幽霊が、こんなにのん気にお茶なんて飲んでるはずがない。
「冗談じゃないのよ。私ね、転校して、頑張ったけど新しい学校にもなじめなくて、両親はもめてて私のことどころじゃないし。泣きながらふらふら歩いてたら、ぽーんって車にはねられちゃったのよ。あっけないものだわ」
たんたんと言いながら、ずず、とお茶をすする。野の草のにおいが強くなる。
「だって。新山さん、私に触れたし、お茶だって飲んでるし、ありえない」
「まあ、信じるも信じないも、あなた次第ね」
あっけらかんと言い放つ。わけわかんない。なんておかしな人なんだろう。おかしな……。
「新山さん」あたしはひざの上で両のこぶしをぐっと握った。「信じる。信じるから、あなたのところに連れていって」
新山さんがくすりとほほ笑んで、長い髪がさらりと揺れた。そして、おもむろに立ち上がると、あたしの手をとった。ぞくりとするほど冷たい。いいわよ、とその唇が動いた。
茶房を出て川べりまで歩く。そのまま川にそって、上流へ、上流へと道なき道をすすむ。しっかりと手をつないだまま。新山さんが死んでいるなんてもちろん信じていない。ただ、比喩的な意味で、ということなら理解できる。あたしだってそうだから。ずっと自分で自分を殺していた。チョコレートの中身の、ふにゃふにゃでかよわいあたしを必死で押し込めて、浮上させないようにがんばってた。
やがて陽が傾き、山も田んぼもみかん色に染まり、そしてみずいろの黄昏が訪れた。蛙が鳴いている。ひどく蒸し暑くて、新山可奈の白い肌に玉のような汗が浮いている。なんて生々しい幽霊だろう。
熱い息を吐き、汗みずくになって、靴もソックスも濡れた下草でどろどろになりながらも歩く。夜のとばりは少しずつ降りて、街灯もなにもない里山のあぜ道は闇につつまれた。川べりにはガードレールのようなものはなく、闇にまぎれて道と渕とのさかい目はわからない。
「新山さん。あたしと一緒に……」
つないだ手をぎゅっと握りしめる。がたがたと震える足を、一歩、闇の入口のような渕に差し出す。このまま身を投げてしまえば楽になれる。頭痛も消えるし、誰にも気を配らなくていい。頑張らなくていい。受け入れてもらえないむなしさもなくなる。なのに、これ以上からだが動かない。
「どうしたの? やめるの? 怖いのね。身を投げてしまえば、そこからはもう、ひとりきりだもの。死ぬ時はだれでもひとり」
ふいに、目の前で小さな光が揺れた。丸い小さな光が、ふあん、ふあん、と点滅しながら漂っている。蛍だ。一匹だけ、仲間からはぐれてしまったんだろうか。
「本当にあなたは意気地なし。ひとりになる勇気もないのね」
新山さんの瞳が蛍の光を映して揺れている。あたしはそれをじっと見つめる。
「そうだよ。あたしは意気地なし。だって、寂しいもん。ひとりは寂しい」
目の前で揺れる蛍の光がにじんでいく。押し込めようとしても溢れて流れ出ていくのはあたしの涙。指で触れると思いのほか熱い。
寂しかった。つくり笑いしてでも、誰かのそばにいたかった。
新山さんは何も言わない。かわりに、ぎゅっと、つないでいる手を強く握り返してきた。
どれくらいそうしていただろうか。蛍はいつの間にかどこかへ帰ってしまい、まったりとした闇だけがあたしたちをくるんでいた。
「やっと泣いたね」
新山さんがつぶやいた。いつもの、すずやかな声で。
もうすぐ梅雨が明ける。