アリアとナーシャの境界線
アシュレイが立ち去ったのを見たあと、ナーシャはなんだか力が抜けて、机の上につっぷした。
心の中は不思議な高揚感があった。それは今までナーシャが避けてきたものだ。
今までのナーシャだったらアシュレイを手伝ったりはしなかっただろう。しかし気づいたら手伝ってしまっていた。この十日ほどで、アシュレイの仕事への熱意にじかに触れてしまったからだろうか。それとも、アリアと重ねてみてしまっただろうか。
そのどちらの理由にしても、それはナーシャらしからぬ判断だった。
「ナーシャって誰? アリアって誰?」
つぶやいた声は、沈黙を守り続ける本たちに吸収されていく。
アリアとして生きた時代。アリアはあらゆるところで努力した。そして、救いを求めるものは、自分の可能な範囲すべて助けた。
それが自らを破滅に導いたのだ。人を助けたから、アリアは死んだ。
しかし実際にアリアは彼女を助けないという選択肢を選ぶことができたのだろうか。できたとして、彼女は本当にその現実を受け入れることができたのだろうか。
ナーシャにはわかっていた。
ナーシャとして生まれ変わった時に、アリアとは反対の生き方をすると決めた。
それならば、さきほどのアシュレイの問いははぐらかす必要があった。あるいは、未解読言語を読めても、そんな病気は知らないと言ってしまえばよかった。
しかしナーシャは彼を助けることを選択した。
それによってアシュレイはフォレスティアの首都ティリンスの多くの民の命を救うだろう。そしてそれはきっと彼の功績になる。
そのことがナーシャを破滅に導くとは到底思えなかったが、しかし主義に反する選択をしたのは事実だ。
そしてそれは、ナーシャであれ、アリアであれ、自分という人間は、そういう選択をしてしまうものなのだということなのだ。
たとえ名前が変わって、姿が変わっても、時代が変わって、生き方を変えてみても、人間の根底は変わらない。
ナーシャはアリアであれ、アリアはナーシャである。考えの根底はかわらないから、大きな決断を迫られたときは、やはりおなじ道を選んでしまう。
「私……やっぱり死ななかったんだ」
それが矛盾だと気づいても、ナーシャはつぶやかずにはいられなかった。
ふとアリアとして死ぬ間際に、肩までの黒髪の少女と対峙したことを思い出す。
彼女があんなにも憎かったことはなかった。しかしそれと同時に、たぶんアリアは彼女に救われたのだとも思った。
彼女が見せたあの闇に沈んだ瞳が、ナーシャとして生きる今でも忘れられない。
「死ねるあなたがうらやましい」
彼女はたしかにそういった。
ラグナシア三神の一、ラフェアの娘であるフェラシアは、通常には死ぬことはなかった。
老いることはなく、ただ彼女たちは終末の戦争を終わらせる鍵として、永遠に近い時を生きることを余儀なくされた。
今、ラグナシア新暦とよばれるこの時代が存在することを考えると、おそらくフェラシアの役目は終わったのだ。
「あなたは、死ぬことができたの? それとも……罪を背負って、生きてるのかしら」
空に問いかけてみれば、なんだかすっきりとした。
おそらくアシュレイを助けたことで、ナーシャは一つ壁を乗り越えたのだろう。
恨んで恨んで恨み倒したフェラシアのことを、ただ受けいれて、同じ人間として心配できるようになった。
厳密には人間ではないのかもしれないが、姿かたちも心も人間と同じだ。
それを理解できただけでも、ナーシャにとっては前進だった。
アリアの敵、から、フェラシアという一人の人間に昇格したのだ。
アシュレイに治療法を教えてからすでに二週間たった。
アシュレイはどうやらナーシャの話はふせて薬を作ってもらったらしい。それができるということは、アシュレイは研究所内でかなり人望のある人間なのだろう。
そしてそれはきっちりと成果をだし、王都の感染者すべてといかないまでにも、八割以上の人間の命を救うことができたのだという。
それはナーシャの思ったとおりアシュレイの功績になり、アシュレイはそれを辞退しようとしたが、ナーシャが止めた。
彼は未解読言語を解読することが夢だといった。だからナーシャのことはなかったことにすればいいと。そうすれば、あなたはまた自分の力だけで解読できるからと。
アシュレイはしばらく考えていたが、それで納得したようだった。
そして彼は今、王都にいる。
治療法を見つけた人間として研究所にとどまることもできたはずだが、彼はそうはしなかった。
自分が前に立って、先導し、人々の救護を積極的に行っているのだという。
ナーシャはそういったアシュレイの武勇伝を時折耳に挟みつつ、今日もまた、未解読言語資料の部屋へ来ていた。
あの日以来、黒い本棚の解禁令がアシュレイより出たため、ナーシャはその本棚の本をひとつひとつ丁寧に調べているのだ。
アリアという生き方を受け入れてもなお、やはりナーシャは過去にこだわりたかった。否、受け入れたからこそ、彼の本心を以前にもまして知りたくなったのだろう。
「ナーシャ」
「あ、キャロルさん」
本に集中しようと思った矢先に声をかけられて、ナーシャは顔を上げる。
キャロルの表情がいつになく深刻なことに胸騒ぎを覚えて、反射的に問い返した。
「アシュレイが倒れたわ。ゲレイト病ですって。今研究所にいるわ」
「ゲレイト病……? でも、それは」
ナーシャは首をかしげた。確かにゲレイト病にかかると数日はしんどいかもしれないが、治療法がある今では何の問題もなく治療薬を作れる。
それさえ飲めば、普通に治る病気なのだ。
「それがね、王都周辺のソワイーニュ、つまり治療薬に必要な花が全部なくなったんですって。だからそれをもちろん購入するんだけど、それの輸送には十日かかるといわれてるの」
「十日!? 進行具合はどうなんですか?」
ゲレイト病は患者により進行速度が違う。しかし早い人では一週間で死に至る病気だ。
十日も待つことは下手をすれば命取りになる。
「とても速い。今まで救護隊として体を酷使してたから……。一週間もつかどうか」