波乱の予感
「望むものを手に入れるには、何があっても努力し続けなさい。そうすれば、必ず望みは叶えられる」
ナーシャはすっかり覚えてしまっている文章を口ずさみ、自嘲的に笑った。
図書館の一部屋、未解読言語の資料が置いてある部屋で、ナーシャは本を手にとっては戻してを繰り返しながら考えた。
たんぽぽのお姫様という題のおとぎ話を純粋に好いていたのは、アリアとして生きたほとんどの時間。幸せだったあの頃は、努力が結果を運んでくると信じてやまなかった。
しかし実際には、アリアの努力は裏切られた。
結果を出すどころか、最悪の事態を引き起こしたのだ。アリアのせいで一番大切だった人は死に、アリア自身も死ぬことになった。
努力とともに生きたアリアが死んだのだから、無気力とともにナーシャが生きようと思うのも無理はないだろう。
ナーシャとして生まれてから、何一つとしてがんばる気になれなかった。幸か不幸か潜在能力だけは高かったので、てきとうにやっていてもなんでも人並みにできて困らなかったのも原因の一つだろう。
「この努力も無駄なのかな」
かつての自分を思い起こして、ナーシャはためいきをつく。
ナーシャが探しているもの。それは、アリアとして愛した唯一の人が、書き残したものだった。
それは手紙でもなければ日記でもなく、かといって小説でもなかった。それは劇の脚本だった。そしてアリアはあと一歩で見ることはかなわなかったが、きちんとした劇場で公演されたものなのだ。
「劇の完成を待たずに読めばよかったな」
この劇は、彼がアリアのためにと言って書いてくれた作品だった。劇を見るまでは内容は秘密だと言って、一度もアリアに脚本を見せてくれなかったのだ。
彼の両親は彼の死後にその脚本を出版した。それは話題を呼び、彼の死によって開幕が危ぶまれた劇は、無事その幕をあげた。
そしてアリアにはその脚本の原本を譲ってくれたのだが、劇を見るまでは読まないと言って、開こうともしなかったのだ。そして、最初の劇の幕が上がる前に、アリアは死んだ。
「翻訳か……」
この部屋にその脚本の翻訳版はある。そしてそれはナーシャでも読める言葉だ。
しかし、翻訳されるほど人気が出たのならば、おそらく原本も残っているはずなのだ。どうしても本物がほしい。翻訳版は、あくまでも最終手段だ。
「あれ、そういえば、来ないな」
壁にかかっている時計が目に入り、ナーシャはふと首をかしげる。
いつもならばアシュレイが顔を出す時間なのだが、今日はその様子はない。
それに心なしか図書館や研究所内の空気がぴりっと張りつめている気がするのだ。朝食を食べたときのモーガンの顔を思い出して、ナーシャはもう一度思考を巡らせる。
いつも何か考えている彼だったが、いつも以上に深く考え込んでいる様子だった。何せパンに塗るジャムが多すぎて、食べるときにむせ返っていたくらいだから。
「何か、ある」
ぽつりと一人つぶやいて、そうして部屋を出ようとナーシャは一歩踏み出した。
しかしはっとしたように立ち止まって、その場で頭を横に振る。
「もう、頑張らないんだった」
アリアとして生きた時、努力に努力を重ねて生きたあの人生が凄惨なものだったから、ナーシャは今世では努力しないことを決めていた。
しかしナーシャとして積み上げてきたものがある一方で、アリアだったころの人格が完全に失われたわけではない。おそらく事情を知ったらナーシャは悩むことになるだろう。
アリアとしてだったら迷わず力を貸したトラブルも、ナーシャとしては受け付けられない。心の中で矛盾した感情が駆け巡る。
がんばりたくない。努力は実らないと痛感してしまったあの瞬間から、アリアは自分の生き方を呪って死んでいった。
ナーシャはだからこそ、何があってもがんばらないと心に決めていたのだ。
「頑張ってないなら、あきらめもつくしね……」
ふと手に取った本をぱらりとめくってみる。あまり分厚くないので小説かと思いきや、医学書だったらしい。
アリアだったころに流行ったグヘイ病という伝染病の病状と、それに対する薬の作り方が書かれている。グヘイ病はアリアが生まれるよりも百年ほど前では、治療薬が見つかっておらず、その独特の発症条件から、一つの村が一週間で滅んでしまうほどの大流行ぶりだったらしい。
ナーシャは彼の書いた劇の脚本に関してだけは努力している。こればかりは努力しなければどうにもならないとわかっていたからだ。そして、努力さえすれば、手に届くかもしれない距離までようやくたどり着いてきたのだ。
今は何も考えずに、ただ彼の想いを追及していたい。
薬学書をぱたんと閉じて、もとあった場所に戻そうと本棚に向き合った。
「おい」
「え? あら……アシュレイじゃない」
声をかけられて、入口の方に視線を向ける。
部屋に入ってきたアシュレイは、なぜか肩を上下させて苦しげに息をしていた。どうやら走ってきたようだ。
普段の落ち着いた彼の様子からは想像できない事態に、ナーシャは眉をひそめた。
「どうしたの?」
「……お前、なんで読めるんだ?」
「何が?」
問い返したが、その質問の続きは承知していた。
アシュレイにもナーシャがわざとはぐらかしていることが分かったのだろう。先ほどよりもいらだった様子でもう一度尋ねてきた。
「どうして、未解読言語が読めるんだ?」
「そうね……どうしてそんな風に聞く気になったの? 努力家のあなたは、自分で答えを見つけないと気が済まないのかと思ったんだけど」
睨むようにしてこちらを見つめ続けるアシュレイは、普通の女性ならば見惚れるほどきれいだった。整った顔立ちの男だ。怒る姿も美しい。
しかし、ナーシャにはそんなことは興味がなかった。
ただ、彼がどうして自分の主義主張を曲げるような真似をしているのか知りたくなったのだ。ナーシャがどことなくアシュレイを気に入らないのは、おそらくアリアにそっくりだからだ。
努力に努力を積み重ねて、彼がその結果を手に入れられない未来を見るのが怖かった。
「ゲレイト病だ」
「ゲレイト病?」
「エトワールではまだ発症者は見られてないが、王都ティリンスでは、すでに十分の一の民の感染が確認されている」
「十分の一? そんなばかな……。だって、私は十日前にティリンスから来たのに」
十日前の段階では、まだゲレイト病などという病の名を聞くことすらなかったのに、すでに十分の一が感染しているなどあり得るはずがない。
ふと、さきほど本で見たグヘイ病が頭によぎるが、あれは治療薬が開発されている。アリアの時代でさえ、発症してすぐに病院にいけば次の日にはけろりと治ってしまうような、そんな病気だったのだ。
「ゲレイト病の原因は解明されてない。ただ、発症した日に熱が出て、三日目には体の力が抜ける。五日目には意識も朦朧としてきて、一週間目には衰弱して死亡。長く持っても二週間が限度らしい」
「それは……」
ある可能性に思い当って、ナーシャはさっと顔色を変えた。しかし余裕のないアシュレイはそれに気づくことなく話を続けていく。
「そして今、その治療薬をこの研究所総出で探している。昨日王都からきた第一報では、数十名の感染者という話だったのに、なぜか昨日の夜にきた第二報では 王都の十分の一という話だった。そのくらいこの病は流行が早いんだ」
「だから未解読言語を私が読めるなら、昔その病状がなかったのか、本を読んで調べてほしい?」
「……そうだ」
アシュレイの言わんとすることをようやく理解してそう問えば、アシュレイは素直にうなずいた。
ナーシャはあせっていた。ナーシャの主義に従うならば、ここは放置が正しいだろう。ナーシャは研究者ではなく、ただ研究者の娘だ。
何もできなくて構わない。本来なら、それで許されるはずだ。
「どうなんだ?」
しかしまっすぐとこちらを見るアシュレイの瞳に、ふと、かつての自分の姿を見た気がした。
自分にはなにもできないかもしれないのに、がむしゃらにがんばって。結果がついてくるかわからないのに、ただ努力を重ねる。
「……これ、なんて読む?」
適当に紙を手繰り寄せて、ペンでその文字を書いた。
頑張ろうと思ったわけではない。ただ、答えが目の前にあるのだったら、それを教えてやる位はしようと思っただけだった。
「ゲレイトだろ? ふざけてるのか?」
「……そうか。やっぱりね」
予想があたっていたことを知り、ナーシャはこめかみに手を当てた。
「これはかつてのとある言語では、グヘイと読むわ。そして何の偶然か、グヘイ病についての本はここにあるの」