二人の夢
澄み切った青空に浮かぶ白い雲がまぶしい。太陽の光を反射する白い雲は、気ままに風に身をゆだねて空を横切っていく。
地上に降りてきた太陽の光を、跳ね返すことなくすべて吸収する黒い髪。外に出るとすぐに熱を集めてしまうその髪に手を当てたあと、青年はそのまま伸びをした。
それは、エトワールの研究員アシュレイであった。
伸びた手をそのまま勢いよく下に振りおろし、アシュレイは叫ぶ。
「何っなんだよっ!」
苛立ちを霧散させるかのように叫ぶアシュレイは、つい十日前ほどのことを思い出していた。
十日前。ナーシャ・カルローンという少女と出会った。
図書館で接触禁止の本を広げ、勝気な視線をアシュレイにぶつけてきたのは記憶に新しい。その少女が言った、少女から本を取り上げたら後悔するというのは、最初すぐには意味が分からなかった。
しかし怒りが収まりきらないアシュレイに対し、少女が言った去り際の言葉で、アシュレイはある一つの疑問を抱えることになったのである。
『この部屋の本棚、本の並びがぐしゃぐしゃ。国ごとでもなければ、文字の順番でもない。いや、本の向きがさかさまなのさえあるわ。この本は本来ならここに入るのよ。ついでに言えば、それ、はじまりはこっちのページ』
アシュレイが奪い返した本と、本棚に収まっていた本を交互に指さしながら、ナーシャはそれだけを一息に言い終えると、まっすぐな萌黄色の髪をさっとなびかせて部屋を出て行ってしまった。
後に残されたアシュレイは、特に並べようとしていないのだから当たり前だと、頭の中で反論して、ふと気づいた。
未解読言語資料室において、ここにある蔵書がきちんと整理されていないのにはわけがある。これは至極当然のことなのだが、この部屋の本は整理されていないのでなく、整理できないのだ。
解読されていない言語が、どの国の言語かわかるわけがない。はっきりと系統の違う文字ならばアシュレイにでもわかるが、似た系統の文字では、国ごとに選別などできるわけがないのだ。
しかしナーシャは断言していた。それは、まるで彼女にはここにある本が読めるようだった。読めて内容を理解できるからこその言葉のように思えた。
そうなると、彼女が言った後悔するという言葉の意味もおのずと分かってくる。彼女の力を借りれば、簡単に解読できるのに、そういう意味ではないだろうか。
「そんな馬鹿な」
そこまで考えてから、アシュレイは自分の考えを打ち消した。
未解読言語は、あくまでも誰もが読めないから未解読言語なのだ。たとえ大魔道士と呼ばれる人の娘であろうが、素人がそんなすらすらと読めていいものではない。
そもそも彼女も言及したとおり、ここにあるのは全世界のまだ解読されていない本である。旧暦のラグナシアにも数多く存在した国は、それぞれ独自の文字があったはずだ。彼女はその複数を読めるかのようであったが、そんなことはその文字がつかわれていた当時の人でもできるかどうか怪しい。
この十日間、彼女の言葉が頭を離れず、勤勉なアシュレイにしては珍しく、研究がはかどらなかった。それを見かねた同僚たちに、気分転換に外に出て来いと研究所を追い出され、図書館脇の木陰で伸びをしている今にいたる。
「そもそも、なんで来るんだよ!」
あの日以来、ナーシャは毎日あの部屋に顔を出すようになった。
しかし彼女はしっかりと手続きを踏んでいるし、黒い本棚にはあの日以降手を出さないため、アシュレイは彼女に文句を言うことはできなかった。
しかもアシュレイがその部屋にいるときは、彼女は決して本を読むそぶりをみせない。
ただ、背表紙を順番に眺め、時々思いついたようにひっくり返しては本棚に戻す。あるいは、場所を移動させる。それだけしかしない。彼女は口を開くこともしない。アシュレイから話しかけるのもしゃくなのでアシュレイも黙っている。
アシュレイが研究に使っている部屋はあの部屋ではないので、アシュレイが一回に滞在しているのはわずか数十分のことである。しかしその間だけでも、ナーシャの言葉の意味を考えさせられるには十分だったのだ。
あれ以来、お互いに一度も口を聞いていないというのに、どうしてここまでアシュレイが振り回されているのかわからない。
しかし、知りたいという好奇心が大きくアシュレイを揺さぶっているのは自覚していた。彼女があそこの本を読めるわけがないと思いながらも、もし読めたとしたら、そんな風に考えてしまう。
ラグナシア旧暦と新暦の間で、文字の歴史に途切れはない。
しかし、読む方法が失われてしまった文字も確かに存在する。あの文字たちは、旧暦時代にはいきいきと何かメッセージを伝えていたはずなのだ。
それが歴史にしろ、実用書にしろ、むしろ小説でもいい。作者がいて、本があるならば、それは読み手に対して何かを働きかけたかった結果なのだ。
アシュレイはそれを知りたかった。旧暦時代の人たちが何を考え、何を思ったのか。
それは、新暦時代の自分たちと同じなのか違うのか。また、どうしてその文字はすたれてしまったのか。そこには人為的な意図があったのか。
「悶々としてるのね」
どこかからかうような口調で声をかけてきたのは、後ろで黒髪をそっけなくまとめた白衣の女性キャロルだった。
服装や見た目に気を使っている様子はないが、ハイヒールだけは譲れないらしい。雨だろうが雪だろうが彼女はハイヒールを履いている。
「どうしたの? いったい」
「知りたいけど知りたくない。そんな気分なんですよ」
モーガンを崇拝している彼女に、なんとなくナーシャへの反発心は言いにくい。そのためあいまいにぼかして切り返した。
何も嘘を言っているわけではない。
未解読言語を解読し、その文章が持っている意味を知りたいという好奇心は当然のこと、その解読に関する情報を持ちうる人間がいるのならば、話を聞きたいというのが本音だ。
しかしナーシャに聞いてしまっては、自分が今までしてきた研究の全てが無駄になるような気がして、アシュレイはそうすることができないのだ。
「あら、アシュレイにもそんな日が来るなんて。いいわね、若いって」
「どういう意味ですか?」
楽しそうに笑いながら意味の分からないことを言うキャロルに、アシュレイは思わず顔をしかめて問い返す。しかしキャロルは全てわかっているとばかりに微笑んで、うなずくだけだった。
全く意味が分からない。
しかしその真意を問う間もなく、キャロルがさらに不可解なことを告げてきた。
「ねえアシュレイ。モーガン様がね、あなたに感謝していたの」
「感謝?」
「ナーシャのことよ。あなたに刺激を受けたのか、何事も手を抜いてしまうナーシャが、いまだかつていないほど一生懸命だと」
「それがどうして俺に関係が?」
「あなたが未解読言語に対して熱心に取り組む姿に感銘を受けたって、ナーシャがモーガン様に言っていたそうよ。だから興味を持って、未解読言語の資料室にこもっているんだって」
思わぬ言葉にアシュレイは思わず目を丸くする。あのナーシャ・カルローンがアシュレイに感銘を受けて、動いているなんてことがあるだろうか。いや、ないだろう。
あの少女はあきらかにアシュレイに出会う前から未解読資料に興味があった。むしろ、解読できる雰囲気すらあった。
しかし、そうやって父親に嘘をつくということは、それは秘密にしておきたいことなのだろう。つまり彼女が未解読言語を読めるにしても、それは親から教わったものではないということだ。
だとすれば、彼女はいったいどこでその技術を身に着けたのだろう。
「そんな彼女にアシュレイも興味を持ったのね。美人だものね」
「……はい? 興味? 美人?」
ここでようやくアシュレイはキャロルに激しい誤解を与えていたことに気付いた。
アシュレイが興味を持っているのは、彼女自身よりも彼女の能力についてである。彼女が美人だったかもしれないというのは、キャロルに言われて初めて気づいたくらいだ。
しかしキャロルはアシュレイがナーシャに対して、女としての興味をもっていると思っているのだろう。全く持ってそんなことはないと断言できるし、むしろ嫌悪感を抱いているほうが正しいのだが、きっとキャロルは信じない。
「ところで、キャロルさんはそんなことを言いにここまで?」
否定しても無駄なら、とりあえず話題だけでもそらそうとアシュレイは話を振る。
すると、キャロルはさきほどまで緩んでいた表情をきゅっと引き締めて、研究者としての顔になった。
どうやらアシュレイの読みは当たったようだ。研究熱心なモーガンが、たとえ娘のことであろうと、優秀な助手をそんなことのためだけに使いによこすとは思えなかったのだ。
「……本題は、調べてほしいことがあるの。急を要するから、未解読ではなくて、ある程度解読が進んでいるものでお願いしたいんだけれど……」
「構いません」
即答したアシュレイにほっとしたように、キャロルはその内容を口にする。
依頼内容を聞いたアシュレイは、当分は自分の研究はできなそうだと、ため息をついたのだった。