図書館にて
歩くたびに、床が鳴る。キャロルのハイヒールの音だろう。
白塗りの石材で出来た研究所は、清潔感はあるのだが、どこか冷たい印象を受けた。それは単にナーシャが木造の家を愛しているからかもしれない。木造の建物の暖かみには負ける。
「ここはね、魔道関連の研究室が並んでるの。だから中での実験で建物に被害がでないように、精霊の力を借りて結界を張ってるのよ」
「へえ……でも結界の維持は大変じゃないんですか?」
ナーシャは魔力がないため、精霊に力を借りることはできない。精霊が動いてくれるのは、魔力を彼らに渡すからである。彼らに渡す魔力がないナーシャは、精霊に相手にすらされないのだ。
しかしながら、ナーシャは人並み以上に魔道に関する知識があった。ラグナシア旧暦時代、ナーシャがアリアだったころには、アリア自身が魔力保持者だったからだ。最も、千数百年も前の知識ではあるが。
その時の知識から考えるのならば、結界は常に精霊に魔力を渡し続ける必要がある。恒常的に張るのには、かなり骨が折れるのだ。
「魔力石って聞いたことあるかしら? エトワールで発明されたのだけれどね、それがあれば、人の代わりに魔力を精霊に渡してくれるの」
「なるほど。魔力石を作ってしまえば、結界維持に人員を割く必要はないんですね」
エトワールで発明された、というところに力を入れるところを見ると、それはこの研究所の誇りなのだろう。
そしてそうであるとするならば、キャロルはエトワールの研究員であるということだ。
「そういえば、どうして父と知り合いなんですか? キャロルさんはエトワールの研究員なんですよね?」
父モーガンは、滅多に首都から出ることはなかった。もっと言えば、首都にある中央研究所と自宅以外の場所に行くことがなかった。
彼は究極の出不精である。研究の関係でエトワールに異動になるまでは、エトワールのエの字もなかったような人物なのだ。
それがどうしてエトワールの研究員であるキャロルと知り合いになれるのか、ナーシャには疑問だった。
「ああ。それは魔力石にも関係するの。私が開発担当者で、モーガン様には度々助言を頂いていたのよ」
改めて、ナーシャはキャロルを見た。黒髪をそっけなく後ろでまとめ、ピシッとした白衣に、ハイヒールの女性である。
三十代前半くらいのつもりで彼女を見ていたが、本当はもう少し歳が上なのだろうか。
開発担当者と言うと、それなりの経験者がなるというイメージがある。
女性としてはどうあれ、研究者として三十代前半は若い部類だ。
「開発担当者なんて凄いですね。若いのに」
「いいえ。結局モーガン様の力を借りたのだから、大したことはないのよ」
「わざわざ首都まで? 父さんの助言をもらうためだけに?」
「ええ。彼の力がなければ、こんなに早い実用化は無理だったでしょう」
キャロルの言葉からは、モーガンへの尊敬の念が感じられて、ナーシャは素直に感心した。
モーガンの生活習慣のだらしなさを知っているナーシャとしては、父への賞賛は意外でしかない。
「モーガン様は火と風と光の三つもの精霊に好かれている方ですから。私たちからすれば、崇拝するべき人なんですよ。たとえそれが部屋を散らかす天才であっても」
そんなナーシャの心を読み取ったかのように、キャロルはにこりと笑って付け足した。
彼女はその後もモーガンについて話し続けた。図書館につくまでの十分の間で、父に対するキャロルの憧憬は痛いほど伝わって来た。
「あ、別館なんですね」
「ええ。研究所と図書館は同じくらいの規模なんです」
研究所の廊下の端まで来て、一度外に出て、思わず研究所を振り返る。
首都の中央研究所に比べれば小さいが、それなりに大きい方ではあるだろう。
それと同等の大きさの図書館となれば、フォレスティア一と言われるのは分かる気がした。
「エトワールにこんなに大きな図書館があったなんて……」
「研究者の間では有名なのよ。ただ、一般人にはあまり知られてないわ。蔵書が蔵書だから」
「古文書や未解読言語の本のような、研究資料だけしかないんですね?」
「ええ。小説の置いていない図書館なんて、一般人が興味を示すわけがないでしょう?」
キャロルは研究所の入口の真向かいにあった建物の扉を開けてこちらを見る。
ここが図書館なのだろう。
扉を抑えていてくれるキャロルに軽く頭を下げて、図書館へと足を踏み入れる。
中に入ると、広々としたエントランスがあり、ソファがいくつか並べられている。受付カウンターには二人の女性がぴしっと立っており、彼女たちの首からはカードが下げられていた。
「あそこで受け付けをするの。ここのカードを一度もらったら、そのあとからは自由に立ち入りできるのよ」
キャロルが懐から取り出したカードをナーシャに見せた。
カードにはキャロルの所属とフルネームが書かれている。
「これって、部外者立ち入り禁止とかでは……?」
「いいえ。一般人にも開放してるわ。ただし、研究員の紹介が必要だけどね」
「なるほど」
部外者が何か問題を起せば、紹介した研究員の責任が追及されるのだろう。そういった手続きもあるからこそ、この図書館は一般人にはあまり知名度が高くないのだ。
キャロルはナーシャを連れて、受け付けカウンターのそばに行き自ら声をかける。
「おはよう。彼女、ナーシャ・カルローンの受け付けを頼んでいいかしら? 話は通っていると思うのだけど」
「はい。うかがっております。モーガン・カルローン様が紹介人のナーシャ・カルローン様ですね?」
「あ、はい」
どうやら紹介人は父モーガンであるようだ。身内が研究員にいるのならば、確かにそれが一番自然かもしれない。
しかしあの父が、ここまで手際よく話を回しておくとは意外だ。
「こちらのカードをお持ちください。図書館の入退館の際に提示してください。そのカードを無くされますと、紹介人の方に迎えに来ていただき、その後カードの再発行という手続きを踏む必要がございます」
「わかりました」
カードの表には名前と紹介者が書かれており、裏にはエトワール研究所付属図書館という文字の入った印が押されている。
ナーシャはそれを受け取り、しっかりとズボンのポケットにしまいこむと、キャロルの方を振り返った。
「ここまででいいですよ。あとは適当に散策します」
「……そうですか。では、また」
「ええ。ありがとうございます」
キャロルはナーシャが図書館の奥に入るのを見送ることはしなかった。
ナーシャが礼を言うなり、くるりと踵を返して、図書館の外へと歩いていく。図書館の床は石ではなく絨毯が敷き詰められているため、彼女のハイヒールが鳴ることはない。
彼女のそっけなくまとめられた黒髪が、図書館の扉の向こう側に消えて、完全に見えなくなったところで、ようやくナーシャは入口に背を向けた。
「やっぱり古文書かな。魔道書には興味ないし」
小さく独り言を言って、ナーシャは右と左を見た。
受付カウンターの左右どちらにも部屋が広がっている。しかしどちらを選んでも、同じ部屋であるように見えたので、とりあえず近い左側のほうに進んだ。
ナーシャと同じくらいの高さぐらいの低めの本棚が並んでいて、ちらりと表示を見れば、ここは魔道書ばかりを置いているようだった。
ちょうどナーシャが向いている方向、すなわち入口と反対側の壁際に階段が見えたので、上に上ることにした。
階段の近くにあった案内板によると、この建物は六階建てで、今いる一階だけが、仕切られていない大きな一つの部屋のようだ。
上にいけばいくほど部屋がいくつかに分かれているようである。
階段を上って、その階の室内地図を見てはまた上に上がる。そんな作業を繰り返し、ナーシャは五回まであがってきた。
「未解読言語資料……」
地図に書かれた部屋の名称に、思わずナーシャはつぶやく。
ナーシャのひそかで壮大な夢というのは、古文書を読みあさることから始まる。ナーシャがアリアとして生きていた場所のとある本を探しだすのが、ナーシャの夢なのである。
その本は決して歴史的に価値のある文章ではない。そのため、ひそかと言えばひそかな個人的夢である。しかし、千数百年の時を超えて、史実にかかわるようなものでもない本を探し出すということは、ある意味で壮大な夢なのである。
「リルカチエの文字が解読されてるとは限らないのか……」
今まで思い当らなかった可能性が見えてきたことで、ナーシャの気分は浮上する。こうなってしまうと、何があっても確かめずにはいられなかった。
そういう資料室には鍵がかかっているかもしれない。しかし、鍵がかかっていても、勝手に侵入して調べたいと思ってしまうほどには、その本を探していた。
無意識のうちに足はその部屋へと向かっていて、部屋の目の前まで来たとき、ナーシャは驚いた。
その部屋には扉がなかったのだ。壁はあるので部屋と呼んで差し支えなかったが、扉があるべき場所は空洞だ。
この図書館は扉がない部屋が多い。しかし、未解読言語に関する文書なら、それなりの価値があり厳重に鍵が閉められていると思っていたナーシャは拍子抜けしてしまった。
もしかすると、ナーシャが思っているほど、未解読言語文書は価値を持たないのかもしれない。アリアとして生きていた時代では、昔のことを知るには文字の解読から入ることの方が多かったが、今の時代は違う。
魔法や技術の歴史が旧暦と新暦で途切れていても、文字はその前後で途切れてはいない。
そのため、まだまだ謎の多い旧暦時代を知るには、今尚使っている言語の書物をかき集めた方が効率がよいのだ。
そういう意味で未解読言語に対する取り組みは今の所は重要視されていないのだろう。
ナーシャは勝手にそう当たりをつけて、ようやく部屋の中に足を踏み入れる。
入口はさして広くはなかったが、部屋の中は思っていたより広いかもしれない。
天井まで届くような本棚が並べられ、本棚に囲まれて入口からは見えない位置にはテーブルと椅子もあった。
どういう意図があるのかは知らないが、この部屋の本棚の設置の仕方は変だった。
規則正しく並べるのではなく、まるで本棚を壁に見たてて迷路を作っているかのような並びをしている。
そのため部屋の全貌は捉え難く、広さがどれだけあるのかは瞬時にはわからない。
「エルアドルの本だわ……」
棚の並びに気を取られていたナーシャは、ようやく本に目をやった。
背表紙に目を滑らせると、どうやらここの本がどれも未解読らしいということは理解できた。なぜならば、ここの本は、国ごとにおかれているわけでもなければ、文字事でもない。さらには、さかさまに本棚にしまわれているものすらあった。さかさまにしまわれているものが全体の二割ほどあるのは、だれかが無造作に戻したというよりは、その本の正しいむきがわからないのだろう。
そんな中で、ナーシャは一つの本に目を止める。
ナーシャが見つけたのは、エルアドル王国という国の本だ。アリアとして生きていた時代には、世界屈指の魔法大国として名を馳せていた。
アリアが住んでいたのはリルカチエ共和国という国で、そこはエルアドルとは大陸も違って遠かったのだが、それでもエルアドルに関してはたくさんの情報が入ってきていた。
魔道書を読むために、エルアドルの文字は勉強していたためある程度は読める。
表紙を見たところ、どうやらこの本はエルアドルの小説のようだ。
周りに並んでいる本は文字がかすれてしまっていたりするのに、この本はとても綺麗に残っていた。
おそらくエルアドルの進んだ魔法技術による賜物なのだろう。
ナーシャは何気なく本を手にとり、パラパラとめくる。
その中に見覚えのある名前を見つけ、そして驚愕した。
「これは……!」
思わず図書館に不釣り合いな大きな声を出してしまったことに、ナーシャは気付かなかった。
その本が、本当にナーシャの探していたものか知りたくて、慌ててページをめくってみれば、それはアリアが死んでから三年後に出版日が書かれていた。
その数字は妙にリアルなものだった。大陸の違う本が、翻訳されたとしたならば、三年くらいはかかるだろう。
そして、これがナーシャの探している本の翻訳版であるとするならば、原本もあるかもしれない。
翻訳では意味がないのだ。ナーシャが求めているのは直接的な言葉なのだ。
読みたい欲求をどうにか抑えて、ナーシャは本を元に戻す。
翻訳でもいいではないか。そんな風に頭の中で囁く声が聞こえるが、それに屈する気はなかった。
怖かったのだ。偽物で満足してしまう可能性が。本物を見つける前に偽物を読んでしまったら、本物への欲求が薄れてしまうかもしれない。
アリアとしての失敗を繰り返したくなかった。アリアからナーシャになったのだと信じたかった。
「私も馬鹿だわ……」
ふるふると力なく首を振って、本棚と向き合う。
強烈に視線を惹きつける本をあえて見ないようにして、ナーシャは本棚に目を滑らせて行く。
ゆっくりと奥に進んでいくと、色の違う本棚を見つけた。
他の本棚は明るめの茶色の木が使われているのに、何故か一つだけ黒い木なのだ。
入り組んだ部屋の奥に、隠されるようにして存在するその本棚に、ナーシャは強く心を惹かれた。
心臓が音を立てて脈を打つ。胸に広がるざわめきは、嵐の前の風に似ていた。
一歩近づくほどに、期待感と恐怖をない交ぜにした訳のわからない興奮が高まって行く。
「たんぽぽのお姫さま」
薄い薄い本だった。それは探していた本ではないが、間違いなくアリアの人生を振り回したお伽話だった。
大好きで、大嫌いになった本。子供が読むための絵付きのお伽話が、そこにあった。
吸い寄せられるようにその本に手をのばす。
ナーシャはページをめくった。
アリアとしての子供の頃、暗唱できるほどまで読み込んだその本を、一心不乱に読んでいた。
いつものナーシャであれば、もう少し注意が周りに向いていただろう。
しかし今日はまったく冷静ではなかった。覚めやらぬ興奮と、憎悪と、懐かしさと、ぐしゃぐしゃになった感情は、ナーシャに現実を忘れさせていた。
「何に触っている!」
だから突然部屋に響いた怒鳴り声に、ナーシャは文字通り飛び上がらんばかりに驚いた。