ナーシャ・カルローン
森と湖の国、フォレスティア。豊かな自然溢れるこの国の首都ティリンスの東の外れに、エトワールはあった。
ティリンスから整備された国道が通ってはいるものの、深い森を通っているため、人通りはあまり多くない。
比較的温暖な気候を持つフォレスティアで、年中冷んやりとしていて、薄暗い場所なのである。馬車や馬だとはいえ、森の中で半日も過ごせば、憂鬱にもなってくるのだろう。
そういう事情があって、世間では最も使われていない国道として有名だ。近年では首都から森を迂回して来るルートも出来たため、余計にこの国道は使われていなかった。
「お前は変わりもんだよ」
「そう? でも半日で来れる道を、わざわざ迂回して三日かけることもないでしょう。面倒だし」
馬を横に並べた二人は、国道にいた。今はまだ森の中で、エトワールの街は見えてこない。
呆れたような表情で馬を駆る男性は、短いさっぱりとした茶色の髪をしていた。背はさほど高くないが、がっちりとした上半身は、彼が体を鍛えていることを感じさせた。
「エリクはなんで一緒に来たの?」
「お前の護衛だよ」
「護衛なんて・・・この森を生業にする賊なんていないのに」
エリクの隣でため息をついたのは、肩よりすこし長いストレートな萌黄色の髪が印象的な少女だった。切れ長の目と、筋の通った鼻、形の良い唇が理知的な雰囲気を醸し出している。美しいと言えば美しいのだが、どこか近寄り難い印象で、つかみどころのない雲のような少女でもあった。
「一応、それでもお前は大魔導士モーガン様の娘だからなあ」
「出来損ないのね」
「ナーシャ……」
出来損ないというのには訳がある。ナーシャ生家であるカルローン家は、代々魔導士を輩出する魔道の名家であるのだが、何故かナーシャには魔力の一欠片も存在していなかたったのである。
ナーシャ自身はとある事情から、自分に魔力がない理由を悟ってはいたのだが、それは誰かに語る類のものではない。親にすら話していない秘密があった。
ナーシャには二つの記憶があったのだ。
一つは今現在のナーシャとしての記憶。もう一つは、アリアとしての記憶だ。
アリアが生きていたのは、フォレスティアと同じ地に存在した、リルカチエ共和国という国であった。そこでの彼女は、死の直前にありとあらゆるものを呪った。その中でも一番は、自分の大きすぎた魔力。二番目は、自分の完璧主義に対してだ。
そんな記憶を保持しているナーシャは、できるだけアリアから遠ざかろうとした。魔力を持っていないのは、アリアの願いが叶ったということなのだと自分では勝手に納得している。
「気にするなよ。頭の良さではカルローン家で一番なんだから」
だから本当は、エリクがそうやって慰めてくれなくとも大丈夫なのだ。魔力を持たなかったことは、間違いなくナーシャあるいはアリアを喜ばせた。
「ありがと」
そして、幼馴染でこの国の騎士であるエリクは、本来ならこんなところで油を売っている場合ではない。しかし驚くべきことに、大魔導士モーガンの娘の護衛は、騎士団から正式に認められた任務であるというのだ。
娘たるナーシャに魔力が皆無でも、モーガンの娘は尊重すべき存在であるらしい。どこの貴族の令嬢だと笑い飛ばしたくなるが、それがナーシャの立ち位置であった。
「あーどうして父さんは一人暮らしを許してくれなかったんだろう! あたしなら大丈夫なのに!」
話題を変えようと叫んだその言葉は、首都暮らしをしていたナーシャが、エトワールに来るに至った理由だった。
大魔導士として研究に勤しむモーガンが、エトワールにある研究所に配属され、一年ほどそこに滞在することになった。その話を聞いた時、ナーシャは小躍りせんとばかりに喜んだ。ナーシャの母は他界していたため、しばらくの間一人暮らしライフを満喫できると思ったのだ。
父モーガンのことは嫌いではないが、彼の部屋を汚くする才能には呆れ返っていた。
昔、家と研究所を合体させて、大きな屋敷を建てる案があったのだが、母とナーシャの二人で大反対したことがある。モーガンの使う部屋数が増えれば増えるほど、二人の掃除の手間も増えることが見えていたためである。
金銭的には、家に数人の掃除婦を雇っても良かったのだが、それはモーガンが反対した。自分で散らかす癖に、赤の他人に片付けさせるのは嫌だというのだから、身内はたまったものではなかった。
そういう理由があって、ナーシャはモーガンから解放、すなわちモーガンの散らかした部屋の清掃から解放されると喜んだのだが、それはモーガンによって打ち破られた。
「十七の娘を首都に放置はできなかったんだろ。確かにナーシャはしっかりしてるけどな。多少めんどくさがりやではあるが」
「はあ……。まあ、家事全般はやらなくていいって言われただけ楽か。首都と違って遊べなそうだけど」
「んーそれはどうだろうな? エトワールの研究所は、フォレスティア最大の図書館を保有してるとか」
「図書館!? ほんとに!?」
髪色と同じ萌黄色の瞳を輝かせて、馬から身を乗り出すようにして尋ねる少女に、エリクは苦笑しながら頷いた。
普段は冷めていて、どこかつかみどころのない少女だが、興味のある話題になると、途端に生き生きとして、非常に魅力的な表情を見せるのだ。
「エトワールに行くのは気が乗らないんじゃなかったのか?」
「いいえ! ノリノリよ!」
先ほどまでは憂鬱だったエトワールでの生活に価値が見出せた。フォレスティア最大の図書館ならば、ナーシャの密かで壮大な夢も叶うかもしれない。
いつもは意識的にがんばらないようにしているが、この夢に関することだけは、頑張ってもいいとナーシャは思っていた。
アリアとしてやり残した、二千数百年越しの夢である。
「調子がいいやつだな」
「そのくらいのご褒美がないとやってられないわ」
ナルトス大陸東部にあるフォレスティア。その首都ティリンスより東、森の向こう側にエトワールの地は存在した。
エトワール国立研究所は、魔道の研究と歴史に関する研究が盛んである。その両者はどちらも、ラグナシア旧暦の時代のものを調べるという点で一致している。
旧暦から新暦に変わる境には、”終末の戦争”という戦争が存在した。ラグナシアというこの世界が終わってはいないため、終末ではなかったのだが、便宜上そう呼ばれていた。
世界は一度そこで終わっている。そういう研究者が後を絶たないためだ。
旧暦三〇〇〇年と新暦一年の間には、ほんのわずかな時間しか存在しないのに、その後と前では歴史がつながっていないのだ。技術や魔道などにおいて。
当然、その境目の出来事である”終末の戦争”に関しては研究がおこなわれているのだが、全く何も出てこない。
そのため、研究者たちは原因の究明を諦めて、旧暦時代のことについて興味を向けたのである。
「モーガン様! お嬢様が到着されましたよ!」
エトワール国立研究所の一番広く、新しい部屋で熱心に古文書を読み込んでいた茶髪の男性は、激しく肩をゆすぶられてようやく現実に戻ってきた。
「ナーシャが来たか。だが、もう少しなんだ。あいつは図書館に案内してやれば、きっと黙る」
モーガン・カルローン、それはナーシャの父親であり、旧暦時代の魔道の研究にはまってしまった研究者でもある。
世間では大魔道士の名をほしいままにしているのだが、その生活は尊敬できるものではない。
何せこの研究所で一番広い部屋だというのに、彼が使用していることで、一番足の踏み場に困る部屋になっているのだから。
「図書館の中をですか? それならば――」
「――いや、図書館まででいい。ナーシャなら、勝手に中を見るさ」
「ですが、エトワールの図書館は他の図書館とは違って広いですよ? 研究員でさえ迷子になりかけるのに」
「あいつは案内人がいたところで話を聞きはしない。本に対してだけはやる気のある娘だからな」
モーガンと話していた女性キャロルは、ため息をついて首を振る。彼が一度決めたことは覆さないと知っているからだ。
それに一見冷淡に思えるモーガンだが、彼の娘への愛情は底知れない。そのモーガンが言うのだから、それが最善なのだろう。
すでに古文書に集中してしまっているモーガンを後に、キャロルは部屋を出た。
モーガンの娘と直接面識があるわけではない。しかし、モーガンからは嫌というほど娘の話を聞かされていた。
曰く、才能に溢れてはいるが、全てにおいて手を抜く娘。
曰く、手を抜いてはいるが、必要最低限のことは完璧にこなす娘。
曰く、本にだけはそれなりの執着心が見られる娘。
モーガンの話の中で、娘の人格に関して客観的であろう情報はこれだけである。
美人だの明るいだのといった話は、モーガンの親の欲目である可能性がある。
研究所の廊下を歩きながら、キャロルはまだ見ぬモーガンの娘に対する想像を膨らませていた。
「キャロル」
「あら、おはようアレン」
「ナーシャ嬢はあっちだぞ」
研究所の入口の方をさしてアレンは言う。それに礼を言ってから、少しだけ歩調を早めた。
キャロルが人伝にナーシャの到着を聞いてからは、さほど時間は経っていない。しかし、ナーシャに連絡が来るまでにかかった時間が分からない以上、急ぐべきだと今さら思い当たったのだ。
廊下の角を曲がり、広いエントランスホールに足を踏み入れる。
中央の噴水の周りを囲むようにして設置されたソファに、彼女はいた。
肩より少し長くてまっすぐな萌黄色の髪が揺れた。
切れ長の目はこちらを見据えて、そして説明を求めるかのごとく、少女の隣にいた青年を仰ぎ見る。
その青年の顔には見覚えがあった。
「おはよう。エリク君」
「おはようございます。キャロルさん。こいつがナーシャです。そいで、彼女はキャロルさん。モーガンさんとは研究仲間として長い付き合いらしい」
「おはようございます……というよりはこんにちは? ナーシャ・カルローンです。今日からお世話になります」
立ち上がったナーシャを見て、キャロルは内心でなるほどと納得した。
確かに美人である。
切れ長の目も、筋の通った鼻も、形の良い唇も、バランスよく小さな顔に収まっている。
ただし、確かに彼女は美人であるのに、何故か美しさよりも倦怠感が存在を主張してしまっているのは何故だろうか。
礼儀正しい態度をとっていたのに、どこか飄々としてつかみどころのない、そんな印象を与える少女だ。
「モーガン様のことなのですが……」
「図書館の入り口まで案内して放置すればいいと言われたんですよね?」
「そうなのよ……って、え?」
どういえば納得してくれるだろうと気を揉んでいたキャロルは、図星を差されて動揺してしまった。
しかしそんなキャロルに構うことなく、ナーシャはテキパキと動き出す。
「エリク、この荷物を私の部屋まで持って行って。で、図書館の場所分かる? 分かるなら、三時間後に迎えに来て。六時になれば空腹に負けて父さんも研究資料を一度手放すでしょう」
「わかった。部屋の鍵はその時に持って行くよ」
「じゃあ、図書館までは私が案内するわ」
鞄をエリクに手渡したナーシャは、こちらをの方を向いて、よろしくお願いしますと軽く頭を下げる。
ナーシャはどこまでもキャロルに対して丁寧だ。エリクに対しては、だいぶ砕けた様子で接している。
彼女にとってキャロルはまだ、素顔をさらせる位置にいないのだろう。
「じゃあ、行きましょうか」
話をしてみたい。
キャロルはナーシャに対して、そんな風に思ったのだった。