プロローグ
本をめくる音が、異様に大きく響く。
古紙の香りがする図書館の一角で、ナーシャは食い入るように本を読んでいた。
天井まである高い棚に囲まれた場所であるため、入口から少しみただけでは、ナーシャの姿は見えない。
彼女の萌黄色の瞳が、一心不乱に文字を追っていた。あまりにも本にのめり込むので、瞳と同じ萌黄色の髪が目にかかってしまっている。
しかしそんなことも気づかないくらいにナーシャは集中していた。
だからこそ、部屋に入り、ナーシャのいる場所まで人が歩いてきたことにも気づいていなかった。
「何に触ってるんだ!?」
突然大声を出されて、ナーシャはようやく本から目線を上げる。
状況を把握していないナーシャに詰め寄ったのは、黒髪の青年だった。
「触れるなと書いてあるだろ!」
全身から怒気を漲らせた青年は、あっさりとナーシャから本を取り上げてしまう。
そこでようやく、この本がこの図書館において貴重性の高い資料だと悟った。
慎重に、さりげなくナーシャは問う。
「どうして?」
「は?」
「どうして読んじゃいけないの?」
「何を馬鹿なことを。この本は誰にも読めない。解読されてないからな。どこの言語かも分からない。お前は興味本位で触ったんだろうが、この言語の本は、ここエトワールでしか見つかってない。ラグナシア全体でも、貴重な一冊なんだ」
目の前の青年が、全力でナーシャを見下しているのが分かった。
何も知らない女が、とでも思っているのだろうか。
何も知らないのは青年の方なのに、とナーシャは思う。
「名前は? あたしはナーシャ」
「ナーシャ?」
青年の目が大きく見開かれる。ナーシャは自分が名乗れば、相手が自分を無視するわけにはいかないと自覚していた。
「俺はアシュレイ。この図書館の研究員だ」
「へえ。研究員」
アシュレイの黒い瞳に写り込むくらい近づいたナーシャは、形の良い唇の端をあげた。
「じゃあきっと後悔するわ。私から本を取り上げたことを、ね」
萌黄色の瞳が、輝いた。
ラグナシア新暦八四一年。
二人の邂逅により、歴史の歯車がゆっくりと回り始めた。
二人はまだ知らない。
それが互いの未来を定めた、最初の分岐点だったのだと。