書庫の主~弐~
おまたせしましたー待ってないかもしれませんががんばりました、私にはこれが精一杯です・・・
カンカン、コンコン
いつもはしとやかに着こなす着物の袖をたくし上げ、棚に釘を打ち付ける。
結い上げた漆黒の髪は僅かに顔に張り付き、象牙のような肌との対比を際立たせている。
淡い色合いの唇をぐっと噛み締めているため、いつもより僅かに赤く色づき、きらめく星空のような瞳は一点を見つめ、それを縁取る睫毛には額から流れ落ちる汗がかかっていた。
「ふぅ・・・」
燐麗はため息をつき、手巾を出して汗を拭った。
彼女は先日から書庫内にある棚の一つ一つに札をつける作業を始めた。
大まかな見取り図はあったもののそれだけではどこに何の書物が置かれているのかがわからず、書物を借りにやってきた人々は燐麗に探してもらう他なかったため、彼女の負担を軽減する目的で札に数字やどのような書物が置かれているのかを書き、棚につけ、どの番号の書物にどのようなことが書かれているのか、といった細かな内容については別紙にまとめ、それぞれの棚に紐でぶら下げていた。
今まではそのようなことをせずとも訪ねて来る者が少なかったため別によかったのだが、最近は来訪者がぽつぽつと増え始めていた。
薬師の学び舎を作る計画の一端で、城に使える薬師達を師として学び舎に送り込むために、多種の教材を作ったり、薬師達の知識を確認・増強しなければならず、筆頭薬師やその弟子達が頻繁に訪れるようになったのだ。
利用者が増えることに燐麗は喜びを覚えたが、いかんせん日頃の書物の世話に加え薬師達の世話まではしていられない。
書庫の書物は膨大で、少しでも気を抜くと虫に食われたり黴が生えたりしてしまうのだ。
毎日を慌ただしく過ごすよりは数日無理をしてでも書庫に札をかけたほうがまだましだという考えのもと始めたが、棚の数もよくもまぁこれほど、といったもので、数日で終わる気はまったくもってしなくなっていた。
「あと10日ほどあれば終わるかしら?それにしても、結構な数よね。異国の書物まであるのだもの、どれほどの知識がここに集まっているのかしら」
燐麗は一息つこうと窓辺の椅子に腰掛けた。
開け放った窓からさやさやと風が入り、燐麗は目を細めた。
火照った身体から徐々に汗が引いていき、心地よい疲労感でほっと息を付く。
ゆっくりと目を開け、庭園を見渡した。
木槿や桔梗、山梔子、芙蓉に百合といった花々が絢爛に咲き誇っている。
夜になれば庭園のそこかしこに月下美人が花開き、月とともに池の水面にゆれる様は、昼の絢爛さとはまた違うしとやかで幻想的な雰囲気が漂う。
この季節の庭園はえも言われぬほどに美しい。
ぼうっと庭を眺めていると、燐麗の思考はあの日に遡っていく。
― 愛している ―
皇帝が、眠っているフリをしていた燐麗に言った言葉。
怒りが湧いて、文句の一つも言ってやらねばと思っていたのだが、こちらの意に反してあれ以来彼はここを訪れていなかった。
あれからもう二月ほどたったであろうか。
治水や庶民に無償で提供する学び舎の増設、国の北方で起こった飢饉等、その対策に忙しく、わずかな時間も惜しんで政務に励まねばならぬようであった。
コツ、という靴の音が燐麗の耳をうち、燐麗は我に返った。
皇帝であろうか、と思いそろり扉のほうを覗う。
ちらりと見えた着物の裾は、白。
薬師である。
燐麗は奇妙な安堵を覚え、そして心のどこかでがっかりする自分に気づかないフリをしながら立ち上がった。
医官はきょろきょろと辺りを見回していた。
おそらく燐麗を探しているのだろう。
札をつけ始めたといってもまだ少し終わったぐらいであるからして、未だ燐麗が探してやらねばならない。
「どのような書物をお探しでしょうか」
燐麗が声をかけると、薬師はほっとしたように燐麗の方を振り向いた。
きっちりと整えられた髪は鈍色。
儚げな細面に薄青の瞳がよくにあう、少年であった。
としの頃は燐麗と同じ程であろうか、まだ若干幼さの残る顔立ちをしている。
この若さで薬師とは、優秀なのであろうと燐麗はひとり納得しながら、少年の答えを待った。
「筆頭薬師 清 盧静様の使いで来ました、弟子の李 瞬光と申します。人体切開時に使われる麻酔について書かれた書物が東方より取り寄せられたと聞き、それをお借りしてくるようにと仰せつかりました」
人体切開。
それはまだこの国であまり有名な治療法ではない。
麻酔というものが存在せず、もし人体切開を行うのならば並々ならぬ痛みを意識のあるままに受けねばならず、痛みのあまりそのまま帰らぬ人となってしまうことが数多くあるためである。
しかし、対処法として麻酔が東方の国で開発されたのだ。
さっそく書にまとめられ、この書庫に取り寄せられた。
燐麗も夢中になって読み、新たな医術の可能性について胸を躍らせた。
といってもまだまだ開発されたばかりで、その名前をぽつぽつと聞き始めたぐらいであるのだが。
さすが筆頭薬師、耳が早い。
「菁 燐麗と申します。その書物でしたら、ちょうど一昨日に入って参りました。こちらです、どうぞ」
燐麗は瞬光を促した。
燐麗は奥から3列目の棚の前で立ち止まり、梯子に登って書物を抜き取り、瞬光に渡した。
瞬光は目を輝かせて受け取り、礼を言った。
「ありがとうございます。書庫の主殿は、どの書物がどこにあるか、どのような内容であるかを把握していらっしゃるのですね、とてもすごいです」
爽やかな笑みを浮かべそう言う瞬光に、燐麗は微かに頬を赤らめた。
両親が他界してから、燐麗をそうやって褒めてくれる者はいなかった。
純粋に嬉しくて、燐麗の顔は自然と笑顔になった。
「いえ、そんな。薬師様こそ、お若いでしょうにもう薬師、それも筆頭薬師様のお弟子でいらっしゃるとは、とても優秀でいらっしゃるのですね」
次は、瞬光が頬を赤らめる番であった。
純粋に褒められていることがわかり、その上可憐な少女に愛らしい笑みを浮かべられては、純朴な少年としては照れずにはいられなかった。
「いえいえ、そんな、僕なんてまだまだです。」
照れ照れとした、いや、もじもじとしたと言うべきか、そう言った雰囲気が二人の間に流れ、はにかんだ姿は微笑ましさを感じさせた。
「では、僕はこれで。師にこの書物を届けなければならないので。」
「あ、はい。お勤めご苦労さまです」
瞬光は最後に一礼して燐麗を見、にこりと微笑むと書庫をあとにした。
「とっても良い方みたい。それに、優しい微笑み・・・少し父様に似ているわ」
燐麗は瞬光が去った扉を、しばらくぼぅっと見つめていた。
初めの会合以来、燐麗と瞬光は毎日のように顔を合わせるようになった。
瞬光は暇を見つけては書庫にやってきて、あの書物の内容はどうだ、このような薬があればどうか、こういった病気の治療法は、他にはどのようなものがあるのか、といったことを燐麗と話していた。
燐麗が医学知識に長けていると知るやいなや、瞬光は嬉々としてあれこれ質問をしたり、問題を投げかけたりするようになったのだ。
「凛麗殿、あなたの知識は本当に多岐に渡るのですね。僕も負けないように精進せねばなりません。薬師として働いているのに、無知な自分が本当に恥ずかしいです」
瞬光は情けなさそうに笑いながら、燐麗に言った。
「いえ、瞬光様は私が思いもつかないような発想をお持ちです。才能もお有りになりますし、きっと国一番の薬師になられます。」
燐麗は真剣にそう返した。
瞬光は知識では燐麗に多少及ばずとも、実践で得てきたものと新しい知識を練り合わせて新薬の開発を行ったり、患者の身体に負担の少ない治療法を考えたりとその才能を遺憾なく発揮していた。
実践で得られるもの、それは燐麗には到底手にできないものであった。
「凛麗殿にそう言っていただけると、励みになります。僕、これからもがんばりますね。」
ふわりと頬を緩めて目尻を下げ、瞬光は意欲をにじませた。
春の木漏れ日のような暖かい笑顔は、燐麗の心にじんわりと染み渡った。
優しい笑顔に暖かい雰囲気、患者を1番に考える薬師としての資質、知識を得るためならば例え薬師ではない燐麗からでも貪欲に吸収していこうとする態度、どれをとっても燐麗には好ましく思えた。
自分がこれまで蓄えてきた知識は、決して無駄ではなかった。
こうして彼と話すことによって、十分報われるではないか。
燐麗はそう感じるようになっていた。
その考えは、燐麗の心にある変化をもたらし始めていた。
瞬光に対する、微かに灯る暖かくもくすぐったい、胸をうつような、まだ形にならぬほのかなる変化を。
そしてその変化は、瞬光にも訪れていることは言うまでもなかった。
博識で、奥ゆかしく可憐な少女との心温まる会合は、少年にも確かに甘やかな胸の疼きを与えていた。
暗い赤の天鵞絨の絨毯を敷き、金箔で装飾を施された黒檀の椅子と執務机を配置し、無駄なものを一切置かず、書類という書類を所狭しと棚に並べ机に積んだ、墨と紙の香りが充満するそこは、皇帝の執務室である。
今、皇帝は山のような仕事を次々と片付けながらも、とある男の話を聞いていた。
「・・・もう一度言ってみよ」
皇帝の執務室にて、皇帝の影である“炎”は微かに青ざめた。
皇帝である焔 龍鳳の影、という意味で炎の字を与えられた彼は冷静沈着、与えられた任務では痕跡一つ残さず完璧にやりとげることで皇帝の信頼を勝ち取り、その栄誉なる名前を得たのであるが、めずらしくも頭巾に隠れた顔に冷たい汗をかいていた。
前の豪奢な椅子に座る主人からは極寒の地に長々と鎮座する氷柱でもこのような鋭くも冷ややかな空気は醸し出せまいと思うような、凍てつく視線と声が向けられる。
炎は求められるがままにもう一度口を開いた。
「書庫の主殿は、筆頭薬師様のお弟子、李 瞬光殿と仲睦まじく日々会話をなさっておられる。瞬光殿の周りからは、おそらく二人は恋に落ちるであろうとの噂が実しやかに囁かれ、書庫の主殿も瞬光殿の訪れを毎日楽しみにしておられるご様子。お二人は医術に関する話題でお互いの親交を深めている模様」
「・・・ほう、そのようなことになっておるのか。」
突き刺さる視線が鋭さを増した。
報告を受けながらも執務を続けていた龍鳳は、蛇がするりと身体に巻き付く様を連想させるねっとりとした声音でそう言うと、筆を置き目は鋭さを残したままに口角をゆるりと上げた。
「筆頭薬師を呼べ。内容は来季から始める薬師の学び舎の人事についてだ」
「凛麗殿」
「・・・!!瞬光様、どうなされたのですか?いつもよりお早いのですね。それに、そのお荷物は・・・」
瞬光は、いつもの白い服ではなく、旅装の体であった。
不安気で少し暗い表情なのも気にかかる。
「燐麗殿、僕は薬師の学び舎で教鞭をとることになりました。先ほど師よりそう命じられたのです」
それは大変名誉なことであった。
国から師として派遣されるということは、薬師の中でもかなりの地位に上り詰めることを約束されたようなものであったからである。
一人前と認められ、弟子をとることを義務付けられるのだ。
「!!それはおめでとうございます。しかし・・・」
燐麗は言葉を濁した。
名誉なことであるのに、彼の顔色は優れない。
燐麗は嫌な予感に苛まれた。
瞬光は重い口を開いた。
「・・・甲西郡の、学び舎でございます」
学び舎は、都と甲西郡に、試験的に2つ作られた。
甲西郡は東の国との国境に位置し、新しい知識がすぐに手に入るところである。
将来を有望視される瞬光であるからこそ、そこに送られることになったのであろう。
しかし。
甲西郡は、都から遥か遠くにある。
馬車をもってしても一月はかかる距離にあるのだ。
自然、もう彼と会うことはなくなるだろう。
燐麗はここを離れられない。
彼は医術の最前線である東の国の知識を得られる甲西郡から出ることは許されないであろう。
それこそ、皇帝の筆頭薬師に任じられないことには。
燐麗は息を飲んだ。
そんな、そんなことが・・・
「凛麗殿、私はすぐに都を立たねばなりません。あちらで来季の準備にとりかからねばならないのです。ですから・・・」
そこで言葉を切った瞬光の身体はかたかたと小さく震えていた。
昨日燐麗と別れてすぐに師に呼び出されてこの指令を受け、彼は半ば呆然としながら準備を整えた。
時間が経てば経つほど指令の内容は重みを増し、燐麗のことを考えると胸がずきずきと痛んだ。
ここで離れることは、もう二度と会えない可能性が高いということだ。
本音を言うならば、この都にとどまりたい。
まだまだ師の下で学びながら、燐麗の傍にいたい。
できることならば、彼女を―
次々と心に浮かぶ未練を、彼は目をぐっと瞑り、大きく息を吐き出すことで見ないふりをした。
「・・・お別れです、凛麗殿。あなたにお会い出来て、本当に・・・本当に、楽しかった。またいつか、出会えることを願っています。どうか身体にはお気を付けください。 では。」
震える声をできるだけ抑えようと噛み締めるようにそう告げ、瞬光は燐麗を見ずに一礼し、踵を返した。
愛おしいと気づいてしまった心に、そっと蓋をして。
「瞬光様・・・」
燐麗は呆然としていた。
いきなりすぎた。
昨日まではそんな様子はなかったのに、何故。
瞬光の言葉が頭を何度もよぎった。
―お別れです―
燐麗の瞳から真珠のような涙がぽつりとこぼれ落ちた。
「瞬光様・・・!!」
その場に崩折れ、手で顔を覆って燐麗は泣き続けた。
この胸を射す感情が何なのか、彼女は気づかなかった。
彼の人は、行ってしまった。
淡い淡い芽生えたばかりの思いは、本人がそれに気づく前に散ったのだった。
こつん、こつん。
すすり泣く燐麗の耳に靴の音が聞こえ、燐麗の前でとまった。
見えた裾の色は、 紫。
「燐麗」
つ、と燐麗の顎に指がかけられ、ぐっと上に向けられた。
可憐な頬に流れ落ちる涙の、なんとも胸をうつことよ。
これほどに美しいものが、この世にあるであろうか。
龍鳳は愉悦を押し殺し、燐麗の頬をつたう涙をそっとぬぐってやった。
「何かあったのか?どうした?」
これまで燐麗にしてきた仕打ちはどこへやら、龍鳳はこの上なく優しい笑みを浮かべてそっとそう囁いた。
その姿は、まるで燐麗の両親が亡くなる前に目にしていた彼の姿そのものであった。
「瞬光様が・・・瞬光様が・・・行ってしまわれたの」
彼の雰囲気に引きずられたのか、燐麗は呆然としながらもそう言った。
燐麗の口から他の男の名前が出たことに苛立ちながらも、彼は穏やかにそうか、と言った。
燐麗の心を奪う憎いあの者は、もうここには生涯現れないのだから。
「それは、寂しいであろうな。燐麗は彼と友人であったのであろう。友人がいなくなることは、とても辛いものだからな」
そう言うと、燐麗をそっと起こして抱き上げ、窓辺の椅子に腰掛けると自分の膝の上に彼女をおろした。
後ろから抱きしめる姿に落ち着くと、ぽんぽんと燐麗の頭を撫でる。
「だが、友人であるのならば例え会えずともつながり合っておるものだ。会うことはできずとも文は書ける。」
優しい雰囲気を醸し出し、弱々しい燐麗を懐柔する。
「それに、友人が出世をしたのだ、喜んでやらねばどうする。友人なのであろう?」
燐麗は、こくりと頷いた。
友人。
彼は、自分の友人・・・だったのであろうか。
幼い頃より友人といえば同性の友人しかいなかったのだが、彼は初めての異性で話の合う人であった。
友人。友人ならば、出世を喜んであげなければ・・・
「・・・彼に、お気を付けてと言えませんでした。」
「それならば、早速文を書くとよい。馬車が停留するところで渡せばよかろう。特別に私の配下に配達させよう」
燐麗がぼそぼそと言った言葉に、龍鳳は即座に返した。
燐麗はまた一つ頷くと、皇帝の膝から下りて机に向かい、硯と筆を出してサラサラと文を書き始めた。
燐麗は気づかなかった。何故皇帝がたかが一薬師の名前を、燐麗が彼と仲睦まじく過ごしていたことを知っていたのか、ということに。
書き終わった文にぱたぱたと風を送って乾かし、丁寧に折りたたむと皇帝に手渡した。
「安心せよ、必ずとどけよう」
ふわりと微笑む皇帝に、泣いた頭がまだぼうっとしている燐麗は力なくはい、と応えた。
燐麗はとぼとぼと窓辺にもどって椅子に座ると、遠くを見つめた。
瞬光は、無事に甲西郡に着くであろうか。
彼なら、立派な師になるのであろう、等ということをぐるぐると考えながら。
龍鳳は文を受け取るとそのまま書庫を出、執務室に戻ると燐麗の文をさっと読んだ。
そして、ふ、と笑うとそれをビリビリと破り捨てた。
「燐麗からの文が届かなければ、あのおろかなる少年も諦めるであろう。都への帰還は認めぬし、奴が書いた文も燐麗に届くことはない。くく、燐麗の心を奪おうとするなぞ、片腹痛いわ」
醜く顔をゆがめ、そう言った。
これで、何の障害もなく燐麗を自分のものにすることができる。
邪魔者は、次々にどこかへやってしまえばいいのだ。
皇帝に逆らえるものなど、この国には居はしないのだから。
かくして、燐麗と瞬光の淡い初恋はそれと気づく前に露と消えた。
生涯瞬光は甲西郡の学び舎から都に呼び戻されることはなく、その地で数々の偉業を成し遂げながらその生涯を終える。
後の研究者たちが、何故瞬光ほどのものが都で皇帝の筆頭薬師になれなかったのか、首をひねることとなる。
皇帝の権力、振りかざしました。
これから彼は燐麗をどんどん囲い込んでいくのでしょうね。
燐麗も、文句を言うつもりだったのに失恋のショックで言えませんでしたね。これから言う機会に巡り会えるのかどうか・・・
皇帝め、このはらぐろ~~!!