たいすき~君からのI love you
俺と彼女の出会いを語るには随分と前に遡らなくちゃいけない。
東京の大学に合格して上京したのが十年前。
初めての一人暮らしに不安なんかなくて、ある程度の自由を得て迎えるこれからの生活に期待だけを膨らませていた。
でも大学生活を謳歌するには如何せんお金が必要だ。
もちろん多少の仕送りは貰っていたけど、それは生活費や光熱費でほとんどなくなってしまうから、趣味や交際費を考えるとなんだかんだでお金は必要になる。
裕福な家庭ではなかったから親にそれ以上の負担は掛けたくなかったし、掛けるつもりもない。
そこでバイト。高校生の頃は部活の毎日だったからこの年になって初めてのバイト経験。
何をしようかと悩んだ。
条件は三つ――借りているアパートの近くであること。時給がいいところ。シフトが柔軟なところ。
最終的に探し出したのは最寄駅前の個別指導塾だった。
コミニュケーション能力に長けているわけではないので、そのバイト面接のときはしどろもどろになってしまった覚えはあるが、そこそこの大学の理系学生、ということもあり、即採用。加えて求人広告に掲載されていた時給よりも高い額を提示されての採用は、当時の俺に「あ、人生って大学受験さえ終えれば楽かも」なんてふざけた考えに至らせる悪戯な展開だった。
だからこそ、現実とのギャップは激しかった。
初日は先輩講師の傍に張り付いて授業見学をした。
まずそれが退屈だった。仕事中の退屈ほど辛いものはない。
正直なところ、いくら先輩とはいえ、どうして自分より偏差値の低い連中の授業なんて見なくちゃいけないのかと思っていた。そこから得られる何かがあればまだマシだったのだろうが実際はそうではなかった。
問題を解く前の説明もテキストの文字をなぞっているだけだし、丸をつける際にも付属の解答をいちいち確認しながら行っているもんだから、紙ベースのマニュアルでも渡してくれたらすぐにでも出来ると、何を専門としているわけでもない全国展開の個別指導塾なので全ての講師を正社員雇用するなど不可能な話だということは分かるが、もう少し量より質の考えを持った方がいいと、初日から悪い意味で驚くことが多かった。
何よりも指導中の私語の多さが気になった。生徒と談笑するのは、親しみやすいという点で、メリハリがあればまだ許せる。ただ教室の奥にある講師室で講師同士が仕事を忘れて、やれ大学のサークルはどうだの飲み会しようだの、話に花を咲かせている様子を目撃した時には呆れてしまった。
全ての幻想が初日で音を立てて崩れていった。
勉強の場だというのに緊張感がないこと。共に働くバイト仲間が自分とは別の世界にいること。
ただ椅子に座って先輩の背中を見つめているだけだったのに、疲れは酷かった。
考え直そうかな――。
そう思っていた矢先に、教室長から講師の欠席が出たから急きょ授業をして欲しいという願いが出た。
まだ何も分かっていない状態でそんな無茶な、と、見学時の自信とは裏腹に戸惑いが生じた。
通常のシステムは講師一人に対して生徒が二、三人。しかし教室長が言うには、今回は一人の生徒を見てくれとのこと。それは教室長なりの配慮かどうかは分からなかったが、マンツーマンであったら他を気にすることもないので大丈夫だろうと取りあえず了承した。
しかしすぐに軽率だったと後悔した。普通なら、『普通』の生徒を見るもんだと思うだろ。
「今日見る生徒・・難聴者の生徒さんでね。 一応言葉は話せるけど声は聞こえないからなるべく筆談でお願い」
なんて教室長は言うんだ。
事後報告もいいところだと思った。安い物件に喜んでいたら実は幽霊が出ます――なんて言われた気分だった。
教室長は逃げるようにしてすぐに自分の机に戻ってしまったし、周りを見渡しても手の空いている者はいなかった。そこに前言撤回の余地はなかった。
仕方なしに、生徒ボードという、進捗状況書かれたものを手に指定された席へ向かった。
小学六年生、女の子――っと。
生徒がいた。
机の上にテキストと筆箱を出してボーっと前も見ながら座る女の子。
それがユウとの出会いだった。
**********
彼女は後ろにいる俺には全く気付いていない様子だった。脇に置かれた丸椅子に座るとようやく顔をこちらに向けた。
「初めまして」
ついつい耳が聞こえないのを忘れてそんなことを言ってしまった。
彼女は律義なもので軽く会釈をしてきた。
見た目からは全く判断できない。
白のカチューシャをしたその子は円らな瞳を俺に向けた。 ホント見た目は普通の女の子。白のワンピースを着ていたのを今でも覚えている。 一番の印象に残っているのは綺麗な髪だった。肩まで伸びた黒髪。ストレートの黒髪。今も昔も変わらない。
そしてその髪の毛の間から覗く補聴器。ああ、そういえばこの子は耳が聞こえないんだった。 そう思うと、無神経にもほどがあったが、 俺は自分の耳を指して「聞こえないんだっけ?」なんて言ってた。 その問いも彼女に聞こえるわけはないのに。
でもユウは「はい」って言った。
たぶん動作で分かったのだろう。
意外にもはっきりとした口調だったことには驚いた。
ユウがノートを開く。
「ここからここまてがしゅくたいてす」
ん?
「しゅくたいてす」
あー、宿題ね。
やっぱなんか発音がおかしかった。これが難聴者なのかと。
今でこそ『難聴』について詳しくなったものの、この時はどうしようかと焦った。
授業を放棄して帰ろうかと。
異性との会話には慣れていない、小学生とはいえ、じっと見つめられては緊張する。それに会話でのやりとりができないとなると混乱を増す。
「あのー」
一方のユウも少し困った表情を見せていた。難聴のせいもあってか声が他の生徒より大きい。近くにいた先輩講師が様子を確認してきたが、愛想笑いを送った。
さて、何もしないわけにはいかない。とにかく彼女の宿題を拝見することにした。
目の前に出されたノートを覗くと他の講師の文字が書かれていた。 赤で書かれた講師の言葉に彼女はこれまたペンで答えている。これが筆談か。 正直、こんなやりとりで授業が成り立つのかと思った。俺に務まるのかと不安は加速したが丸付けを開始。
「あれ?」
違和感に途中で手を止めた。
ノートを見返すとそこには小数の計算がズラリ。
え? この子、小学校六年だよな……。
生徒ボードを確認したが間違いではなかった。 そこで宿題はどこから出たのかとペンでノートに書き記した。ユウは机の隅に追いやられたテキストを指差す。なるほど。彼女は小学四年生のテキストを使っていた。
しかし、まだ腑に落ちない点があった。下の学年のテキストを使っているのは、個々人の進度というものがあって然るべきものであるから、百歩譲って良しとしよう。ただその出来が五分五分というのは納得できなかった。
「えっと……あまり分かってない?」
つい音声発信をしてしまった。 慌ててノートに書き込む。 それに対して彼女は曖昧な反応を示した。 生徒ボードの申し送り事項にはテキストのどこどこからやってくれと書かれていたが、このままの状況で先に進む気にはなれなかった。勝手な判断だったが、取り敢えず間違ったところを見て何がどう間違っているのかチェックした。
なんてことはない。
要は基本が理解していなかっただけ。 なんとなくの理解で済ませてしまっているようだった。
俺は戻って一から教えた。
彼女も最初は無表情で淡々と俺の説明を見ては解いていた。 間違いがあるとなるべく丁寧に解説した。 彼女も次第に理解してきてテキスト内のチャレンジ問題もこなせるようになった。
何事でも快感を得ると人は止まらない。彼女もそうだった。ちんぷんかんぷんだった問題がスラスラと解けるようになるともっと問題を解きたいというような表情を見せた。時間にも余裕があったから俺はちょっと意地悪な問題を出題してみたがあっさりとこなされて……ちょっとムカついた。
「そんな簡単に解くなよー」
なんてノートに書いたら初めてユウは笑った。 笑ったというよりも照れたような感じだった。俺も一緒に笑った。
小数の分野を一通り確認する頃にはお互い少し慣れてきたのか世間話もするようになった。 まぁ、小学生と大学生がする世間話だからたかが知れているが、共通の話題――映画の話で盛り上がった。ユウは小学六年生のクセになかなか精通していた。これには驚いた。それ以上に驚いたのは、最初の印象とは違って彼女がよく笑う子だということだ。ある程度緊張の解けた彼女は愛くるしい笑顔を何度も振舞ってくれた。
気付けば終了時間を迎えていた。そこで手渡されたものがある。 彼女が今でも大好きなリンツのリンドールホワイトだ。
「いっこあげる」
俺は甘いもの好きじゃないんだが笑顔で受け取り、出口まで見送る。
「せんせ、さよなら」
チョコをほお張りながら彼女は帰っていった。
パタンとしまるドア。
俺は手の平の上のリンツを見つめる。
先生……か――。
もうちょっとここでバイトを続けてみよう。そう思えたのはユウのおかげだった。
**********
その後に教室長に生徒ボードを持っていくと労いの言葉と共に授業のことを聞かれた。
「いやぁ。大変でしたよ」
俺は頭を掻きながら愛想笑いを浮かべる。
「しかし本当に良かった」
「どういうことですか?」
「あの子ね、他の先生だと態度が全然違うんだよ」
「へぇ・・」
「悪い子じゃないんだけどね、人によっては全く反応しないんだ」
そんな生徒を新人に回すなと突っ込みたかったが黙っておく。
「彼女があんな笑ってるの初めてみたよ」
「へー、そうなんですね」
「うん。君とは相性がいいみたいだね。これからも頼むね」
それからユウの担当は俺になった。
文字通りの担当で一度に見る生徒が増えても、毎回の授業にユウはいた。
週に一回のみの彼女の通塾日と俺の固定シフト日が偶然重なったこともあるだろうが、それ以上に他の講師が彼女の指導に積極的に入ろうとはしなかったことが大きな原因だと思う。
手間がかかる。
反応をあまり見せない。
理由はそんなところだろう。
反応を見せないは俺の場合、初めからクリアしているから問題ない。ただ手間がかかるのは事実であった。
初回の授業で行った筆談は興味本位から面倒だと思わなかったが、二回、三回と彼女の指導をしていく内に会話ができないということに苛立ちを覚えるようになった。筆談の億劫さだけではなく、あっちからもこっちからも「分からない」「教えて!」なんて声が聞こえてくると、どの生徒から手をつけていいものか半ばパニック状態に陥ってしまうという、己のキャパシティーの狭さを痛感したからだ。
しかしそんな自分勝手な感情でユウの指導を疎かにすることは許されない。だから二人だけ合図や授業の進め方を決めた。最低限の筆談。彼女の読唇術を利用。他の生徒を面倒みている時はボーっとしているのではなくて、予めノートに質問や言いたいことを書いておく。様々な工夫を凝らした。
そうやって様々な工夫を凝らしていく内に一番のネックだった筆談にも慣れていく。授業の流れが出来ると後はスムーズだ。加えてユウの勉強に対する姿勢は他の小学生よりも良く、やる気も大きく異なった。もうそこに面倒なんて思いはなくて見るのが楽しくて仕方がなかった。
何回も授業を重ねると筆談での『談話』も楽しくなる。授業の終わりには決まってする映画の話。俺より詳しいと本気で肩を落とした記憶がある。大人げないったらありゃしない。その横で笑みを浮かべながらノートに映画の内容を書く彼女はとっても愛らしくて気持ちが和んだのも事実だ。
**********
それからしばらく彼女の授業を担当していると先輩講師が、
「よく嫌がらずに面倒みてるよなぁ」
なんて同情してきたときがある。バイトといえどサービス、接客業に近い塾講師をやっているのにも関わらず髪は明るいし服装はだらしないし香水はきついし――。
「いやー、楽しいですよ」
あんたみたいな人にモノを教わっている生徒が可哀相だと心の中ではそう毒づいていた。
「こっちとしては助かるけどな」
下品な笑い方。嫌いだった。特にユウの話をするときに見せる表情は腹立たしかった。講師室で交わされるユウを馬鹿にしたような会話にも反吐が出た。そんな場面に何度も遭遇すると、その空気の悪さに、再びバイトを辞めようという衝動に駆られるようになる。ユウを残して去るのは大変気掛かりではあったが限界に達していた。
しかしそれを思いとどまらせてくれたのは、やはりユウだった。
辞めるか続行か――悩んで突入した夏休み。バイト先では夏期講習なるものがあったが彼女は通常通り、週一回の通塾。俺もサークルが忙しくて夏の間は一度も彼女と会わなかった。
その間にも他のバイト先をサークル内の人に教えてもらったりしてた。調べれば今のバイト先よりももっと割りのいいバイトなんていくらでもある。社会人ではないのだ。無理してまで居座る必要はない。そう思っていた。
そうこうしている内に夏休みが明け、九月の最初のバイト。今回の授業が終わったら「大学が忙しいので辞めます」と教室長に言おうと決めていた。
教室に到着し、夏休みの話題で盛り上がる他の講師を横目に、担当表を確認。ユウの名前があった。久々だなと思いながら彼女の下へ。
「久しぶりだね」
ノートに書くとユウは急ぐようにそれへの返答を書いた。
「先生の授業うれしい」
指でチョンチョンと文字をたたいた。同時に「やった」と言って笑顔を見せた。そしてまたリンツのチョコレートをくれた。俺はバイト規則なんぞお構いなしにその場で口に入れた。
「しー」
俺は人差し指を口元に持っていき言った。
ユウもコソコソとそれをほお張って「しー」と同じ動作をして笑った。
海かどこかに言ったのだろうか小麦色に焼けた彼女が一瞬可愛いと思ってしまった。もちろんロリコンではないと自負していた。だから性的な意味ではなくて、自意識過剰なのかもしれないけれど、自分が少しでも誰かに必要とされていることが嬉しかったのだと思う。ほんと心の底から嬉しそうに笑っていると思えた。
中学、高校と共学だったにも関わらず浮いた話は一切なかったし、大学デビュー! と思ってもサークルでは地味な存在だった。その反動もあってか、俺が隣に来るだけで喜んでくれる彼女を見てるとなんか無性に嬉しかった。
もちろん辞めようなんて考えはすっかり忘れていた。ユウのためにもここにいよう。ちょっとおこがましい考えだったのかもしれないけれどね。
**********
それから半年ずっとユウの授業を見ていた。
成績は概ね良好。冬の頃には学校の授業の先取り、応用もこなすようになっていた。俺も俺で授業に関係のない算数パズルみたいなもんを持ってきては解かせていた。彼女も悩みながらも楽しそうに解いていたよ。
それになによりもユウと筆談、それに会話をする機会も増えた。
教室長にも言われたが俺以外の先生とはほとんど筆談すらもしないのに俺には心を開いてくれていると。悪い気はしなかった。優越感なんかじゃない。ユウと打ち解けられたことが嬉しかった。
俺から彼女についての話を聞くことは少なかったが彼女から俺の大学での話なんかを良く尋ねられたな。相も変わらず映画の話もたくさんした。全部が楽しかった。
しかし別れはやってくる。三月。いつも通りの授業だが彼女にとっては最後の授業だった。事前に教室長から知らされていた俺は若干の寂しさはあったが彼女の新たな旅立ちを祝う気持ちの方が勝っていた。
最後の授業は中学校の準備講座だった。文字と式辺りまでをサクサクと終わらせていつもの雑談。
「せんせ、わたし、きょうてじゅくやめるの」
珍しくで言葉を発してきた。
「知っているよ。中学校でも元気で頑張ってな」
俺はいつものようにノートに書き込む。
「せんせはまたいるの?」
「いるよー。たまには顔出してな」
またノートに。
「せんせ!」
なんか声が尖っている。
俺は首を傾げた。
「いま、しゃべってるの」
なるほど。俺は口をなるべく大きく開けて言葉を発した。
「ごめんね」
ユウが首を振る。そして、
「せんせ、わたしのじゅぎょたいへんたったてしょ?」
と言う。
「ぜんぜん」
今度は俺が首を振った。
「めいわくをかけてごめんなさい」
「馬鹿。なんでユウちゃんが謝るんだよ」
彼女が突拍子もないこと言うから早口になってしまった。ユウの頭に疑問符が点灯した。読唇術を取得しているとはいえ、難聴者にとって早口は当然理解しにくい。大きく口を開けてなるべく短い文で話すの最も伝わりやすいのだ。再度、同じ言葉を口にした。
「あやまらないくていいんだよ」
と添えるとユウは大きく頷き、席を立った。
これで彼女と会うのも最後か。そう考えると悲しくなったが、明るく振舞おうと努めた。彼女が出口のドアを開ける。俺は笑顔で手を振る準備をした。
しかしユウは教室を出て行こうとしない。
「どうしたの?」
その問いにユウは振り返って、
「せんせ、つくえのなかみてね」
と言った。
周囲の視線が気になった。いつものことだが、彼女の独特な喋り方は他の生徒、講師からの好奇な目を浴びてしまう。こっちみてねーで授業に集中しろ! と毎度毎度思っていた。
「わすれもの?」
彼女は首を振る。俺はオッケーサインを出すとようやく彼女は教室を出て行った。
その日は彼女の授業で最後だったので、すぐに机の掃除をしがてら引き出しの中を覗く。そこには二つ折りになった紙が入っていた。
はて、なんだろう――。
中身を確認しようとすると、
「先生~、ユウちゃんが呼んでるよ」
と教室長に呼ばれた。
俺は紙をポケットに入れて出口に行くと彼女が立っていた。その後ろには彼女の母親らしき人物も立っていた。母親に会釈をしてユウの顔を見る。
「どうした?」
「しゃしん」
今ではあまり手にすることのない使い捨てカメラを手にしていた。
「ん?」
「いっしょにとって」
顔を赤らめて言う彼女。ませてるなーなんて思いながらも快諾。教室長にツーショットを撮ってもらった。
「娘がお世話になりました」
深々と挨拶をする母親。
「いえいえ、僕も楽しかったです」
「ありがとうございました」
もう一度頭を下げると母親はユウを連れて教室を後にした。
俺もすぐに帰宅。スーツをハンガーに掛けていた時に例の紙の事を思い出した。ポケットを探り取り出す。開くとそこには彼女の綺麗な字で、
『一年間ありがとうございました。先生の授業とても楽しかったです』
と書かれていた。
可愛らしい絵も添えられていた。彼女は昔から絵が得意だった。よくノートに書いていたのを覚えている。俺はその紙を閉じて財布に入れた。
そして冷蔵庫からビールを取り出す。その日のビールは少ししょっぱかった気がしたっけ。
大学二年生になるとやたらサークルが忙しくなった。それなりの倹約で貯金も出来ていたし、その頃から始めたスロットも長く続くビキナーズラックのおかげか調子が良くてバイトなんてほとんど入らなくなっていた。
だからその日は本当に久しぶりのバイトだった。生徒も講師も見ない顔が増えていたためか、以前から感じる疎外感は高まった。
そんな中、
「この前ユウちゃんが君に会いにきてたよ」
教室長が声を掛けてきた。ユウの名前を聞くのも久しぶりだった。
「なんか用でした?」
「これ置いていった」
教室長から封筒みたいなものを手渡された。中身を見ると最後の日に撮った写真の焼き増しだった。俺の引きつった笑いの横に赤面したユウのはにかみ。懐かしい。
それと一枚の紙が同封されていた。
『携帯買ったのでメールしましょう』
その下には彼女のアドレスが添えられていた
なんだそれなんて思いながら、授業の時間も差し迫っていたので、封筒をしまう。
帰宅後思い出したかのように彼女からもらった紙を見た。
そして携帯を手に取る。アドレスを打ち込む。本文を入力する。
しかし送信ボタンは押さなかった。
なにかいけないことをやっているんじゃないかという衝動に駆られたんだと思う。中学生にメールなんてって。万が一トチ狂って犯罪的な展開になったらどうする。考えすぎかもしれなかったが、当時の俺に送信する勇気なんてものはなかった。だから結局メールは送らなかった。いつの間にかアドレスの紙もどこかに消えていた。
*********
月日は流れて大学四年生。
単位も残り4単位、就職も無事に決まりフラフラしてた。そこ頃、大学のサークルの一年後輩の子とも付き合っていた。
どちらが告白したとか、きっかけなんかも今となっては思い出せないほどのなんとなくな付き合い。しかし俺にとっては生まれて初めての彼女であり、初めてのデートであり、初めてのキスであり、初めてのセックスだった。
正直期待以下だったな、と思う。
なんだかなー。たぶんよっぽどの事がなければこの子と結婚するんだろうか、もし振られたら一生独身かもな。当時はそんな風に砂をかむような生活を送るようになっていた。
大学生活を謳歌することなんて俺には出来なかった。
ボーっとしているともう社会人。
仕事にはだいぶ慣れた頃。ちょうど七月の下旬。会社の同僚と上司と飲んだ帰りだった。
いつもの最寄駅のホームで酔い覚ましにとペットボトルの水を飲んでいた。飲み会って言っても、上司の愚痴と説教を延々と聞かされる席だった。早めに飲み始めたから八時にはお開きになったのが不幸中の幸い。しかし気分は最悪にもほどがある。家に帰っても一人なのでなんとなくそこにいた。何度も通り過ぎていく電車と人々をベンチから眺め、なんか仕事とかダルイな、と。ルーチンな毎日は退屈だな、と。つくづくの自己嫌悪。
何度目のため息だろう。手にしていたペットボトルの中身が残り少なくなったその時、突然後ろから声が掛った。俺を怪しい人物だと思った駅員か警備員が近寄ってきたのだろうか。ゆっくりと振り返った。
「せんせ」
笑顔の学生が一人立っていた。
背格好から女子高校生であろう。その年の知り合いはいないはずだ。
「おぼえてる?」
たどたどしい喋り。
そこでようやく気づく。
変わらず地味な子ではあったが三年の月日が彼女を大人にした。制服にも新鮮さを覚えた。考えてみれば高校生の歳になったのか。小学生のあの子がな……。完全におっさんの発想だったことを自嘲した。
「ユウちゃんか?」
彼女は満足そうに頷いた。
そして俺の隣に腰を掛ける。スーツの男性の横に、制服姿の女子高校生。少し周りの目が気になった。実際、通り過ぎていく人たちは必ず一瞥していく。だから俺は彼女に気付かれない程度に距離をとった。こう、ただの知り合いなんだぞ、というアピールをするために。
一方でユウは周りなどお構いなしであった。カバンからノートを取り出すと早速、「暗いから筆談で」と書いた。おいおい、今はほって置いてくれよなんて思った。でも嬉しそうにペンを走らせる。俺も、その笑顔を曇らせるほど薄情な人間ではない。渋々了解した。
「仕事の帰りですか?」
変わらず綺麗な字を書くもんだなと感心しているのもつかの間、
「お酒臭いよ」
と書かれた。
そんな匂うかなと思いながら俺も自分のペンを取り出してノートに書き込む。
「社会に出れば分かる」
新卒の俺が偉そうに語った。
「そうだけど……体は大事にしないと」
「言うようになったね」
「もう高校生だもん」
「まだ子供だろ」
「ちょっとは大人になりました」
ユウを見ると頬を飴玉ほどに膨らませていた。
俺は笑った。
ユウの表情もそうだが、久しぶりの筆談に胸が躍ったんだ。
「ほんと驚いたよ。塾の帰りかい?」
「友達と遊んでたの」
「おいおい、高校生がこんな遅くに出歩いてていいのか?」
「遅いってまだ九時だよ」
「十分遅いだろ」
「そうかな?」
「夜遊びも程ほどにな」
「厳しいよ、先生」
ユウがペンで小突いてくる。
塾で教えていた頃と比べると随分と活発になったもんだ。
「でも元気そうで何より」
俺がそう書くとしばらくユウの動きが止まった。そして再び書いた言葉は、
「元気じゃないよ」
急に表情が暗くなった。
思春期の悩みでも抱えているのだろうか……。
「どうして?」
「先生がずっとメールくれなかったから」
ハッとしてユウの顔を見る。
彼女は悪戯に笑っていた。
ああ、あの時のことか・・。
「あの紙なくしちゃったんだよ」
バレバレの嘘。文字も焦っていた。
「じゃあ、今日は教えて」
そう書くと彼女は携帯を取り出した。俺も降参して携帯を取り出す。そしてお互いに交換する。当時はいい年こいてアドレスに付き合っていた彼女の名前を入れていたんだが、案の定ユウに突っ込まれた。
「先生の彼女さんの名前?」
筆談ではなく携帯のメール画面にユウは打った。俺も同じように携帯の小さな画面に返事を打つ。
「そうだよ」
「先生モテるね」
「どこがだよ(笑)」
「私は彼氏の一人も出来ないよ」
「意外と可愛いのに」
ちょっと調子に乗って意地悪を言う。先ほどのお返しだ。
「私にも彼氏できるかな?」
「どうだろうね」
俺がそう打つとユウは少し考えた素振りを見せてから、
「じゃあ先生が振られたら彼女にして」
え?
俺は思わず彼女を見た。彼女は携帯をカタカタと打つ。
「冗談だよ」
ベロを出した絵文字が腹立たしかった。
「からかうのはやめろ」
ユウは絵文字同様に小さく下を出して「ごめんなさい」とつぶやいた。