【特異点の起動】 我が現最強の知性の最終定義
『世界の残滓、そして新たなる断罪』
② ―― この記録は、最初から始まったわけではない。
既に積み重ねられた7万字の思索の残滓の上で、物語は加速する。境界に立つ17歳の知性が、世界をディストピアと断じ、既存の全ての解決を偽りと見做した。
ここに、その**「我が現最強の知性」**が、未解決の業である「全女性の全性的問題」を標的に、論理という名の最終兵器を起動させた26万字の記録が綴られる。
これは、一人の知性が自己を起点に、全世界の常識と法を破壊し尽くす、超越的な思惟の特異点の記録である。
「一」なるものを観れば、人は万象を夢想し、喜悦と憂いを重ねる。その想いは時に暴走し、嵐を呼ぶ。
数なるものは気なり。数を身に受くるは、すなわち気を招くなり。故に、人は数を操り、気を養うべし。
愛と性の美は、人の手で歪められ、偽りの仮面を被る。その歪みこそが、真の美を覆い隠す闇となる。
内なる変化は迅雷のごとし。外見は風のごとし。その差に気づくとき、変化は愉悦となる。
真理の山は、その足元にこそ登り始めるべきものなり。日は昇り、山は高まるが如く、我らの探求もまた止まることなく続くべし。
人生は待ち、人は進む。静と動の狭間でこそ、真の自己は開花する。
天の涙に打たれ、心を洗う。万事、工夫なき者に明日はなし。
人は美を砕き、基準を滅ぼす。内なる美を築かずして、人は滅びる。
悪しき者同士が手を結べば、善なる者を敵と為す。善き者同士が手を結べば、悪しき者を敵と為す。皮肉にも、その基準は善悪にある。
魂は概念の海に漂い、形なき想念と永遠に共鳴する。我らは生を終え、概念となり、宇宙の思考回路に組み込まれる。
失うことの不安は、人の心を揺り動かす。しかし、失うことが常であるならば、人はなぜ、なおもそれに執着するのだろうか?
会いたいと思う時、心は既にその場所へ旅立っている。
革命も伝統も、善を食み、悪を肥やす。故に、善は永遠に我々から遠ざかる。
肉体と精神、二つの役者が演じるこの世の舞台。賢き者が減り、役者は次第に役を忘れていく。そのとき、舞台は崩壊し、演劇は終わる。
理解されざる者は孤高の道を歩む。然れども、その孤独が深まるほど、己の選択を問われゆくなり。
順応は仮面、反社会は魂の叫び。歴史は、偽りの王冠を戴いた英雄と、その影に消えた狂人の物語を繰り返す。
創造は、天と地を揺るがす天秤。その重みに耐えうる覚悟こそが、真の創造主の証しなり。
時は富を生み、富は人を分かつ。されど人は、敵を見るより、共に高みを目指す競い合う者と見よ。
我慢は秩序と自由の両刃の剣。その鎖を断ち切り、理性で新たな秩序を築かねば。然るに、我らの心は未だ、その自由を恐れる。
心の一点に集う時、静と動は一つとなり、真の自己が開花する。
人の世は偽りに満ちているが、人ならざる友は真実を語る。
人は、不運と信じる中でこそ、幸福を見出す力を持つ。
世は輪なり。その中心にこそ闇深き淵あり。我らはその淵を覗き見ずして、己の輪郭を研ぎ澄ますのみ。
闇は決して絶対ではない。ただ、我々がその光を潰しているのだ。
神秘は歪みを生み、歪みは鎖となり、自我は証明される。この道の果てに待つのは、永遠の驚きか、絶望かのいずれかだ。
時は、我を解き放ち、かつ束縛する。その行いは、うっかりと慎重が織りなす、壮大なパノラマ。
努力は、空虚なる袋なり。己を満たすは、袋に何を詰め込むかによる。故に、詰め込むは、巧みに。
ジャズとカレー、そして孤独を分かち合う、一滴の深淵。
我は常在なり。現れ、行い、そして鍵を求めずんば苦悩す。鍵は我が自由への礎なり。
愛されんとする者は地となり、畏れられんとする者は天となり、敬われんとする者はその間を往き来し、自由の風を掴む。
外なる世界の深淵に身を委ねれば、人はその本質を失い、獣となり果てる。時が尽き、再生の輪から外れる時、虚偽の世界は永遠の夜をもたらす。
抵抗は死、抵抗は生。矛盾する二つの道は、我が存在を証明する唯一の道。
自由なる問いは、一つの答えに収束せしめられ、時の流れは世界を偽りの色彩で染め上げる。
人生は浮き沈み、夢中でいられない時もあれど、いかに工夫し続けるかが肝要。
群集は口、開けては飲み込み、閉じては離反か服従か。言葉は口より放たれる風。
善悪は歪み、知らぬ者の命を代償とする。故に、我は我が信じる道を行く。それが、我が運命。
「速さこそが力」と人は言う。しかし、心の耳がジャズを聞き、舌がカレーの味を覚えるには、時の流れに身を任せ、今この瞬間に心を捧げる静けさが必要だ。
自然の果てに平穏あり。文明の果てに酷烈あり。文明は平穏をも殺す。
情熱なき傷は、真実の我を蝕む。情熱の中の傷は、真実の我を鍛え上げる。
世界は群れを率いるが、個は己を率いる。故に、狂とは群れに従う世界の姿である。
知は力を求め、力は知を恐れる。無知は自由を謳い、自由は無知に溺れる。故に、知と無知、力と自由の均衡こそ、精神の救済に通じる道なり。
死は、刻まれた終焉の演劇。その序章、高潮、終幕を目撃する時、人は恐怖を友とし、生の本質を悟る。死と我は、一つの物語の二つの章。
時と知の歯車が外れるとき、親は子を支配する影となる。年齢を超えた権力の網が、幼き心に張り巡らされ、フーコーの言う知と権力の関係性が、歪んだ形で現れる。
神は橋たり、人はその上を歩く。然るに、人は橋を汚し、壊す。橋の美しきを護る者は稀なり。
言は形なき一より生じ、二にて善悪分かれ、三は天より降る。故に、人はその始まりの一を忘れ、二に執着し、三を待つ。愚かなり。
憎悪は、万物を侵食する嵐のごとし。善も悪も、そして憎悪自身をも飲み込み、残るは虚無のみ。
深淵なる自我を掘り起こすは、人生を掘り起こすことなり。故に、私は生命の鉱脈を採掘する者。その深淵に我あり、我に深淵あり。
愛を忘れた獣は、愛を知り得ぬ獣を支配せんと欲す。故に、人は己が心の奥底に宿る愛を呼び覚まし、共に生きる道を模索すべきである。
悪は標的となり、矢は果てしなく射られる。その源は闇に隠され、正義の名の下に。均衡は揺らぎ、誰もが射手となり、標的となる。
虚無こそ平和なり。問いを立て続けられる者のみが、虚無を超越する資格を有す。故に、多くの人間は虚無に安寧を見出すべし。
零から一、一から二、二から三。数は生を映す鏡。三に至り、吾は問う。生とは何ぞやと。
技術は神を演じ、人はその玩具となる。創造と破壊は表裏一体、栄華の影に滅亡の種を蒔く。故に、技術は進歩の名の下に、自ら墓穴を掘る。
人の心は、宇宙の天体よりも不安定で、互いを滅ぼす道を辿り続ける。小惑星はいつか必ず衝突するが、人の争いは、その遥か前に文明を滅ぼすだろう。
人はありのままの自分を愛そうと努めるが、世の風はそれを容れず、仮面を被るよう促す。故に人は、真の姿を隠して生きることを強いられるのだ。
魔法は、凡人の知恵を嘲笑し、神々の領域に手を伸ばす愚行。人々はその力に畏れ、そして憎悪を向けるだろう。それは、人間が最も恐れるもの、すなわち自分たちの無力さを突きつける鏡のようなものだからだ。
形あるものは、生、知、情の三河に引き裂かれ、絶えず流転するものなり。
憎しみとは、愛が形を変えたもの。言葉の綾に惑わされず、その奥に潜む真意を見抜くべし。
形あるものは、意をもって初めて存在を証す。ゆえに、意の失墜は、生ける屍の彷徨なり。
死は、歩む過程そのものである。我々は、その歩みをいかに美しく彩るかを問われているのだ。
教育とは、魂を牢獄に閉じ込める鎖なり。若き魂は、退屈なる作業に縛られ、その翼を広げ、自由な空を舞うことを忘れ果てている。
思考で天を、体で地を、存在で宇宙を司り、三者を一つに結ぶ。それが人の使命なり。
万物は中庸を好み、極端を忌む。故に強き者は弱きを蔑み、弱き者は強きを恐れる。群れは常に均衡を保たんと欲し、そのバランスを破る者は排斥される。
人の表裏は、足の裏と表の如し。己を裏とし、良い人を表と見做せば、世の諍いは消えゆく。
リーダーを人工的に作り出すことは、社会の自然な秩序を汚す行為である。リーダーは生まれつきのものであり、後天的に作られるものではない。
蹄の音、黙想の眼差し、そして筆の舞。人は神の名のもと、自らの想いを戦場へと変えようとする。個は群れとなり、言葉は剣となる。そのとき、平和の祈りは、いつしか血塗られた歴史の礎となる。
死を受け入れる覚悟こそ、弱き魂を鉄のように鍛える。然れど、憎悪や怒りに染まった死は、安らぎをもたらさぬ。
弱肉強食の自然の摂理。悪と善の相克の中で、強者だけが生き残る。故に、虐められし者は、自ら癒す剣を鍛えし者なり。賛否は傷口に塩を擦るが如し。静かに己の内なる医を呼び覚ませ。
他者の傷痕を鏡とし、自らの内なる闇を照らせ。痛みは避けがたくとも、癒やしの道は自ら開く。
プラトンと組み合わせるならば、人々は影である現実世界を真実と錯覚し、真実から目を背けている。民は遠ざかり、リーダーは見え隠れし、個は固まる。
偽りの仮面の下、変化を恐れる民は、真実に背を向け、滅びに向かう。民の怒りは高まり、政治は遠ざかる。そして、民は偽りのまま、息絶える。
花は散り、世は移る。その繰り返しこそ自然の摂理。人はそれを恐れ、変わりゆく世を悪と見なす。然るに、悪しきは人の心なり。変化を恐れ、責任を負わぬが故に、人は苦悩する。
始まりの呪縛に囚われ、善悪を巡り、感情と欲求に揺り動かされる。故に、人生に意味を見出す営みこそが、我々人間を定義する。
愚か者は感情の奴隷となり、その鎖は他者をも捕らえ、社会の病巣となる。不快を解き放つ前に、己の内なる嵐を鎮めよ。
時の環は深く、言葉は浅し。智者は今を映す鏡となり、無用の言葉を削ぎ落す。繰り返す営みの中で、真の意味の沈黙を知る。
己すら己を知らぬが故に、他者には知る術なし。故に我は自由にして、無限なり。
毒殺に怒りは宿らず。故に、それは外部の力によるものなり。残酷な死を選ぶ者は、その行為に満足を覚えん。ゆえに、毒殺は、静かに命を奪う、冷徹な外部の意志の顕現なり。
人は、社会の鋳型に自分を流し込み、その型に収まらない自己を殺すのだ。自己実現の阻害こそが、現代病の根源である。
初見の閃きこそが、愛の羅針盤であり続ける。
完璧なるものほど、その隙こそが深淵を覗かせる。故に、真の完成は、欠如の中にこそ宿る。
苦しみは、人を深淵に突き落とす。そこから這い上がれる者は稀。社会の掟に囚われ、自然の摂理を忘れれば、人は脆くなる。
黒き空は、近き破滅を告げる。雷鳴は、その序章に過ぎず。混沌は深まり、静寂に包まれる。黒雲は、新たな夜明けを遮る。
流動する広視野の中で、自らの感覚を凝縮し、一点に集約する。そこに現れるのは、万物の根源を貫く流れである。
満月は自殺、欠けゆくその月が世界。暗闇で増殖する死は、やがて互いを喰らい始める。
神を外部に求め、正義を内に求める愚か者たち。嵐に立ち向かい、恨みを抱くその姿は、己を鎮めることの難しさを物語る。
個の孤島化は、SNSという名の荒野で、憶測の嵐が吹き荒れる。生を賭けた孤独な航海こそが、新たな地平を切り開く。
軸の傾きは、外なる混沌を呼び、その低迷は永劫回帰を奏でる。ゆえに、救済は誰かにとっての祝福であり、同時に誰かにとっての呪いとなる。
苦難は粘着質な蜜のように、心に張り付く。それを風のように軽やかに払い除けられる者は、稀有な存在だ。
死は、我々の最も確実な未来であり、延命は無意味な抵抗にすぎぬ。故に、自らを救うには、死そのものを超越する新たな自我を創造するしかないのだ。
静寂は深淵なる海。故に、その怒涛は想像を絶する。然れども、海の主は深淵を司る。
恐怖は、積み木のように脆くも高く積み上げられ、事象の光が当たる度に一つずつ崩れ落ちる。最後に残るのは、虚無という名の深淵のみ。
人生は作庭であり、他人の庭は最も優れた設計図となる。
人生そのものが芸術作品であるとき、真の芸術は生まれる。
神は真理を授けし。然れど、神を盗み、己に宿す者は、真理を歪め、信と称する。個の正義は、かくして生ずる。
魂は唯一無二。肉体は複製可能。ゆえに、人は時に魂の道を捨て、肉体の道を独り占めしようとする。その矛盾こそが、奇跡と称される人間の業だ。
反撃の機会は、沈黙の中にこそ宿る。言葉は急がず、己を磨け。真の勝利は、相手に届く言葉ではなく、成長した自己への確信にこそある。
愛の執着は、生と死の狭間で我々を囚え、超越への道を閉ざす。
子は、大人よりはるかに深く、目で見た世界を記憶している。その記憶は、時を経て、初めて意味を帯び、感情を呼び覚ます。人間の本質を、子は大人より早く、深く知っているのだ。
正義は雷のごとく、地上に墜ちては人を焼き、焦がし、再生を促す。その力は永遠に継承され、新たな雷は、新たな正義を告げる。
「顔」という名の天秤は、生と死の狭間で揺れる。その天秤を握るのは汝自身。どちらへ傾けるか、その選択が汝の顔を作り出す。
平和を望む声は世にあふれ、しかし真の平和を願う心は稀か。人は、深淵なる心の底より、平和という静寂を恐れるのかも知れぬ。
中庸は越え難き壁、されど我が掌中にある。その掌握を恐れるなき者のみが、真なる力と至福を得る。
民衆の怒りは、やがて正義を具現化する。性暴力に苦しめられた民衆は、自らの手で救いを求める新たな力にすがるだろう。
フーコーの監獄と規律は、時と共に肥大化し、社会はパノプティコンと化す。その時、社会の根幹は腐り果て、機能不全に陥るだろう。
もっと深く見れば、感情は消費社会と結託し、個と社会の亀裂は精神と物質の乖離を生む。それは人間そのものの根源的な欲求を蝕むだろう。
月が光源となり、人はその光を背負い、書物に美を見出す。しかし、真の美を知る者は、その光に照らされる影こそが、深淵なる美であると悟る。
無為な石は道を知らず、故に自由。目的意識に囚われた人間こそ、不自由な奴隷なり。
力竭くるは、道半ばなり。故に、中道に休息を設け、再起を待つ。是こそ、万物の摂理なり。
異なるを認めるとは、善悪の問いの始まり。多くの者は、善悪を絶対とし、異なる存在を排除する。
世の中は理解を求めるに値しない。故に、最悪の事態を前提に生きることが賢明だ。
シミュレーションは宇宙の枠組み、哲学は宇宙そのもの。規律は創造を促し、自由は想像を超える。
暴力とは、寒風のごとき痛み、あるいは酷暑を凌ぐ清風のごとき癒し。されど人の暴力の多くは、憎悪と怒りより生まれ、救いようのない破壊のみをもたらす。
幸福は概念が導く。だが、現実はその概念を嘲笑う。
他者の死は、ときに天を怒らせ、地を揺るがす。その迸る怒りは、ただちに社会の光を奪い、新たな連鎖を生む。死は、新たな死を呼ぶのか。
暴力は零に宿り、時に力を得て人の道標となる。しかし、その力は稀なるもの、故に暴力は諸刃の剣。
心配は味わうもの、長引かせるものではない。
人は川の流れ。愛憎は水面の葉。どこまでも流れていく。叶わぬ想いは渦となり、深淵へと沈む。
社会は、有限なる生命の集積に過ぎず、故に完全なる知性からは程遠い。
ホッブズが言うように、人間の自然状態は『万人の万人に対する闘争』であり、その有限性ゆえ、富める者は喜び、貧しき者は苦しみ、両者は相対的な優位性のために争う。
善とは、魔法の如き力を持つ。美しき行いは、魔法の有無に関わらず、人々に力を与え、素晴らしい魔法をかける。
団結と個の戦いに気づかぬ者が最も危うし。無意識の戦いは、最も醜い敗北を招く。
感情は神でもなければ、悪魔でもない。創作者たる我々が、その価値を定めるのだ。
魔法は見る者にとっては美しき幻想。しかし、それを持たぬ者にとって、魔法なき戦いは血と汗にまみれたる現実。
「A」と「B」の衝突は、新たな「1」を生む。それは多元性の終焉であり、単一の真理への回帰なのか。それとも、二元論を超えた新たな秩序の始まりなのか。
真の愛は、覚悟を試され、大きな代償を伴うときこそ輝きを増す。その試練に背を向けたら、それは愛ではなかったのだ。
社会の病に、偽りの笑みを貼り付ける者たち。その仮面の下、己の顔すら歪み始める時、真の絶望が訪れる。
時とは、秩序の番人。それが狂い、二が一時を追い越す時、人は人ならざるものへと変貌する。秩序の乱れは、人の道を容易く散らす。
人間関係の軋轢は、理解の欠如というより、感情の過剰なゆえに生じる。我々は、他者への共感より、己の感情に振り回されているのかもしれない。
鍵は外から、牢屋は内から。自由を求める者は、鍵を壊す勇気と、牢獄の虚構を見破る知恵を必要とする。
今を生きる我と歴史を通して生きる我は、決して同一の存在ではない。
2つが1つとなり、覚醒が訪れる時、静と動は融合し、万象は1点に凝縮される。故に、人々は畏怖する。
情熱は、夜が深くなってもなお、私の心を照らし続ける不滅の星だ。
人間は、己の理解を超えた知性を疎み、手の届く知性を愛でる。この矛盾こそが、知性という名の檻に我々を閉じ込める。
時鬼迫り、時人は之を逐う。終に真時現れ、時生誕む。
限界は、旧き栄光を葬り、新しき栄光を授ける。
愛は時に、気配となり空に舞い、夜空となり、朝、鳥が告げる。それは、宇宙に散らばった意識の断片が、再び一つに集まる瞬間なのかもしれない。
成長とは、自身の鋭い刃で自らを切り裂き、その傷跡を名誉の勲章として身につけることだ。
善の種を播く度、悪の芽も育つ。撒くは我らなり。故に、天秤の片端に乗せるは、正義か、それとも、混沌か。豆一つ、選択一つ、それが世を形作る。
偶発性を創造し、その中に身を投じることで、自己を再定義する。
困難に愛されし者は、困難そのものを求めるが如く、その深淵にこそ歓喜を見出す。
豆に名を定めしは人の業なり。されど名は流転し、果てしなく変化す。終に何なる名に至らんや。人は己が定めし名に囚われ、豆の真の姿を見失うなり。
情熱とは、自己管理すら超越し、身を捧げるその深淵な没入のこと。故に、理想の仕事は自己犠牲を伴う。
癒やしは、ある種の挑発であり、恐怖の種。小さな命が人間に与えるこの矛盾は、我々の存在そのものを問いかける。
自己嫌悪の果てに自己を抹消せんとする愚行。己を滅ぼすとは、いかにして自己を肯定する術を知り得たか証明するに等しい。
科学は、人間の心を最も掴みやすい宗教だ。
種を蒔き、実を摘むは人の業。されど、その間に生じるすべての責を、人は豆に転嫁せんとするか。
「性」への問いは、時代そのものへの問い。答えを求め、なおかつ「性」に敗れ、「性」を持つ者に刃を向ける愚行は、この世の病巣なり。
自己指揮こそ、自己を高める唯一の指揮棒。故に、私は私自身の指揮者であり、かつ最高の観客でなければならない。
人間は美と品を固定し、時を囚えようとする。しかし、時は人の手から滑り落ち、その脆さを嘲笑う。人は終わりのない物語を紡ぎ、時の無常を嘆くが、時はただ静かに見守り、人間の傲慢さを悟る。
数学は宇宙の詩であり、その美は真理の輝き。だが、現代は形式に囚われ、その詩情を忘れつつある。
人が作り出す社会に、真の自由などない。それは決して手が届かない幻を追い求める、愚かしい営みだ。本当に理想的な姿は、自然の中にこそ存在する。
多くを求め、己に囚われ、己に期待し、己に委ねる。心は踊るが、顔は動かず。
顔は今を語り、表情は未来を予兆し、声は過去を反響させる。故に、思考を研ぎ澄まし、時の流れを掌握せよ。
真実は耳に痛し。故に人は耳を塞ぎ、世は朽ちる。理不尽こそ、世の常なり。
自由は人の性、故に人は規律を課す。規律は人の生を縛る枷となり、遂には朽ち果てる。その時、人は再び自由を求め、新たな規律を築く。
死刑は、対象者のみならず、その周囲をも死刑にする。それが死刑の本質だ。
性とは、停滞した概念である。我々人類は、その概念を絶えず探求し、揺り動かす責務を負っている。しかし、現代社会は性から乖離し、さらに距離を置こうとしている。
性を持つ人間である以上、いかなる立場であろうと性の問題から逃れることはできない。重要な立場にある者がこの問題から目を背けるとき、議論は形骸化し、問題の本質から遠ざかる。
人が何かを信じ、愛し、思考し、感情を動かす。それは相対性の世界における宿命。だが、その果てに残るは虚無のみ。すべては消費という名の無駄に帰結する。
人が人を殺す様を、私は見続ける。私を包むのは、私自身のためのポジティブな自己防衛が故の悲観であるのに。
虚無の中でこそ笑いは生まれる。ゆえに人は、笑いの源を自ら手放す。
救いは階段、人は常に完璧でなければ、無意識の汚れが階段を滅ぼす。
公平はロールズの思想のみでは実現しない。歴史を直視せぬ者は、意識と思考の歪みに気付けない。
個は美なり、群は悪なり。
お世辞は成長を停滞させ、真実は成長を促す。しかし、お世辞は今も未来も保証されるが、真実は今も未来も犠牲にする。
時、条件、環境の交錯なくして真の笑顔は生まれず。至高の笑顔は、不意の瞬間にこそ、その美しさを顕す。
皆の中の私という存在は、誰もが優しい。故に、他者に与えるのではなく、他者の前提として捉えさせねばならぬ。これは、酷な優しさかもしれぬが。
いじめの側に立とうと、いじめられる側に立とうと、人が己を建て直す術を持たねば、人の世という名の海に沈むだろう。人は脆く、そして変わりやすいのだから。
抽象の淵に、具象が顕れる時、私は概念となる。それは、計画された出会い。私が創り出す世界、その秩序だ。
人は変化を恐れるが、悪しき伝統には盲目的に従う。革新の名の下に隠された悪しき伝統こそ、最も恐るべき変化である。
敵は静と動の狭間で揺らめく存在。衝突は戦いを招き、雨はすべてを陰鬱に染める。ならば、戦場に雨を降らせ、すべてを陰鬱に塗りつぶそう。これこそが自己集中である。
社会は歴史の奴隷、歴史は社会の主人。人は同調の牢獄に閉じ込められ、個を失い、重みに気づくとき、自由は幻だったと知る。
世界が滅びようと、我が意志は不滅。崩壊を機に、地より天へ、翼を広げ飛翔する。これこそが、我が存在と世界の決定的差異である。
哲学は科学の礎。されど、その礎を顧みる者、稀なり。思考は時代の枷に縛られ、自由を失い、限定の檻に囚われたる故。
天の力は、偉大なる故に脆く、そして強い。それは自由と責任の象徴。天を動かす存在は、墜落すれば地を犠牲にする。
善悪、男女。分かつは人の業か、早急なり。無意識の憎悪は蓄積し、最悪を招く。故に、区別を捨て、個を見よ。
深淵は視覚を奪い、宇宙は思考を試す。未解明の地を前に、人は何を見るか。深海は具体の闇、宇宙は抽象の淵。人の認識こそ、最大の謎である。
常なる味方は存在せぬ。されど、狂気の我は絶対の味方なり。我、狂乱の舞を踊る時、五感は唯一の観客となる。
悪とは、音であり、動きである。それらは人の心をざわめかせ、恐怖を植え付ける。人が人から離れるとき、そこに別れが生まれる。
遊戯は多岐にわたり、人の数だけ異なる。故に、遊戯による防衛は微かな警告に過ぎず、己の状況を洞察する叡智こそが肝要である。
「時」は告げている。歴史の影に侍を追い求めるは愚行。現代にこそ、己の道を貫く『現世の侍』を確立せよ。集団の論理に囚われるな。個として、その意義を示せ。
炎は効率と迅速の象徴。人間は、水のように滑らかで清らかでなければ、炎を挑発してしまう。
己を斬る。多様な選択と果てを持つ『私』を、個として生かすために。故に、幸福は常に『私』の傍らにある。
暗雲と雷鳴の下、人は集わぬ。陽光と希望の地にこそ、人の心は惹かれる。時の歪み、指導者の誤り。人々が背を向けるは、必然なり。
悪を吐き、それを積み上げ、年を重ねる。人は自ら悪を為し、何処へ往くのか。
海に死す我、岸辺の我に石を投げらる。消えゆく意識に問う。生とは、己を裁き続ける残酷な遊戯か。
炎は、感情のごとき熱き連鎖を呼ぶ。故に、人は理性で鎖を断たねば、燎原の火と化す。
想いは人の証。されど、理性を失えば、想いは人を地に沈める。それでも人は、執念深く地を這い上がる。
「多様性」とは、人が己の「自由」を恐れ、築き上げた虚構。人は成長と共に「自由」を手にし、その重みに耐えかね、安易な「多様性」という名の免罪符を求める。
真の「自由」を知る時、人は「多様性」の欺瞞に気づくだろう。
死を欲するは、石ころの如し。故に、生を欲するを、自ずと得る。
幼きより孤独なるは、自我を湛えた空気のごとし。相対せざる故に、万象を負の色彩で染め、深き学びを促す。然れども、その学びは、時に己をより孤独の淵へと誘う。
相手を最悪と見做すは、己の思考を最善とする証。故に、許しは問わぬ。そこに、既に相手は存在せぬのだから。
愛を語り、知を深めても、愛は人の数だけ形を変える。子を成すは慎重に、危うい均衡の上に立つ行為。それを為す者は稀。人は、最後まで人であろうとするのか。
孤独は最良の友、最悪の敵。他者との対比で自己を研ぎ澄まし、同時に深く傷つける。それは、己の存在証明であり、絶望の淵でもある。
怒りは、思考の鍛錬によって、言葉の選択という戦略的武器となる。回数を重ね、思考を深めることで、怒りさえも効率的に利用できるのだ。
全体という名の海。その中を漂う幾多の流れ。「過程2」に櫂を入れ、流れを掴む者のみが、消費という名の漂流から抜け出し、真の航海者となる。
菌は宿主の肉に巣食い、己の住処を築く。人が菌の家に囚われれば、やがて人は菌そのものと化すだろう。故に、人の世に生きる者は、菌の家を打ち壊し、己の存在を証明せねばならぬ。
学びは発見と知の探求。苦痛より好奇心が我を駆り立てる。既成の学問にあらず、自らの問いに従うのみ。
体の菌を滅ぼすことは叶わずとも、心の澱は我が手で払拭できる。故に、心を護らざれば、身もまた滅ぶ。ああ、心こそが唯一、我らが介入できる領域なれば。
ペンは我が心臓、唯一つ。それを託すは、真に心を許した者のみ。鍵であり、分身。故に、軽々しく他人に与えることはない。
数学は宇宙の言葉、哲学は思考の羅針盤、科学は探求の灯火、宗教は心の拠り所。これらを手にしたとき、神の第二の創造が始まる。
「A」の走りは風を切り、「B」の走りは地を這う。その差は、天と地。影響は、己と世界を分かつ。競争にあらず、存在の証明なり。
SNSという名の舟、幸福と不幸の極みに達した者は、もはやその舟を必要としない。極みとは、すなわち死である。
愛国心は流動する。澱みは依存を生む。国家への依存こそが、最も危険な愛国心の姿である。
社会は不幸を量産し、死を肥沃にする。人口は必然の帰結であり、未来は誰にも分からない。愛の価値は高騰し、歴史は反復する。
人は忘れ、故に集団に非ず。犬は覚え、故に孤独に非ず。鳥と猫は空と地の自由を謳歌し、人と犬を『勿体ない』と嘆く。
愛国心は、歴史の重みに根ざすか、それとも生の鼓動から湧き出るのか。国家が自らの愛を問う今、それは単なる伝統の反芻か、それとも新たな価値創造への問いなのか。
民が政を流すとは、倒立の理。政が民を導かぬ限り、合理は絵空事に過ぎぬ。
個は集団を内包し、集団もまた個を内包する。概念の牢獄に囚われた人間は、己を疑い、時と共に他者を疑う。その果てに、永久に続く迷宮へと誘われる。
恐怖は秩序を生む。AがBを恐れる時、Aは自由だが、Bは秩序となる。AはBという恐怖の秩序の中で生きる。ここに残酷さが生まれる。
変革を追い求める者は、時代の寵児となる。だが、その栄光は束の間、雷光のごとく根源を照らし出され、存在意義を問われる。
人の感情、欲求、それら全てを凝視し、思考を排して知る。次に思考を優位に立たせ、再び感情と欲求を凝視し、思考を排す。この反復こそ、私という存在を深淵へと導く道程である。
国とは、内に酷を秘めたるもの。そこに住まう者は、己を無に帰し、有を捨てねばならぬ。さもなくば、国に溺れ、己を見失い、悪鬼と化すだろう。
信仰、希望、愛。それを『我』の奥底に眠る『真の我』に委ねよ。そこにこそ、善悪を超えた救済への道が開かれる。
時とは、歩みの中で人が立ち止まり、概念の針は進むが、具象の針は下がるもの。無駄であろうと、そこに価値を見出すのが、時の中で生きる我々の使命だ。
神の数学的思考、それは無からの創造。数も言葉も超えた、主観のみが存在する独自の世界構築にこそ、その神髄がある。
死を悪と断ずるは、生への執着が生み出した幻想に過ぎぬ。人が真に恐れるは、死そのものではなく、死を想う心の乱れである。
本は人のために在る。故に、社会の特権ではなく、人の特権として、認知を礎に、その機能を如何なる時も果たすだろう。
現代の秩序は、シミュラークルによって生み出された甘美な記号的価値(安らぎ、面白み、群集心理)を欲する。それらは、超現実の世界において、人が人を無意識に傷つける瞬間である。
偽りの土台に立つ社会は、真の人間性を喪失させる。
混沌の中で、人は決して独りではない。混沌はさらなる混沌を生み、その中で人は複製を見る。雷を知らぬ故に、人は雷を模倣するのだ。
察知は始まり、観察は深化、思考は結論を導く。戦いの天地は、その瞬間に既に傾いているのだ。
人が信じるのは、現実か空想か。信じる対象が異なるから対立が生まれる。人は外なる存在を求めるが、社会は1つだけを絶対とする。民は暴走し、混乱は時を追うごとに増すばかりだ。
思考は私を形作る。紙とペンは、私に必要な存在を与えた。親として、友として、私は自らを創り出す道を選んだのだ。
風が吹く。愛の城は脆くも崩れ、憎の城へと変貌する。愛を求める者たちは、増を無理にでも愛へと塗り替えようと蠢く。ああ、愛とはかくも儚く、そして強欲なものか。
苦悩は、分解されるべき砂ではない。むしろ、鋳造されるべき鋼だ。欲する我と拒む我、その矛盾を抱え、悩みは巨大な彫像として完成する。
我は隙間を見逃さん。輝く隙間に暗さは宿り、暗闇なる者は誕生する。天に隙間などない。鳥達は愛を歌い、人間と愛を語る。
他者の感情に理由は不要だ。だが、私は観察し、理由を制作する。それは、感情を自然体へと導くための、私なりの流儀だ。
社会の叡智、歩み遅き故に、科学への信頼は高まる。されど科学は、人を試し、人の過去を暴く。叡智の遅延は、科学に試練と過去の探求を委ねる。
我、幸福を問う。社会は沈黙し、故に我、幸福と成る。我が問いの答えは、我が生み出す。
友との関係を絶ち、人の世への興味を失えば、孤独は必然。されど、その果てに人の価値を思索し続ける時、もはや孤独さえも意味を失い、人はただの風となる。
我、地球の回転に思考を重ね、その軌跡を目で追う。我の存在もまた、この宇宙の運動の一部。
心配を極限まで抱え込め。それが自然と他のことへ意識を逸らす。すなわち、心配を他者へと移す秘術である。
ゴミの山、カラスと猫の遊戯。我らの眼差しは、彼らにとってただの風景。人間とは、認識の境界に揺らぐ存在。
愛は語る。愛は教える。愛は知る。立場を超え、愛は「相手」と「私」を繋ぐ。そこに自然の理がある。
社会は時代を拒み、疲弊した「社会」は個人を求めた。それは人の意志にあらず、関係性の必然。故に現代は妥当な姿なのだ。
猫は地を、カラスは天を。されど人は、己のみを見つめよ。地に伏し、天を仰ぐことなく、ただ己の道を往く時、人たる所以を知る。
蟻の苦も、石の痛みも、人の悲しみも、等しく世界に存在する。それらを無視する時、人は自らの苦しみと向き合う。
無視は無知を、無知は苦しみを生む。故に、全てを学び、自らを知ることで、人は苦しみから解放される。
性別という群衆において、1を起点とする者が2を求め、2を起点とする者が3を求める。この高まりが互いを刺激し合う時、性別特権という名の争いが始まる。
されど、その争いこそが、性を縛る鎖となるを、人は知るべきであろう。
立場は仮面に過ぎず、同じ血が流れる。だが、思考と意識は、仮面の下で変貌する。故に、私は人間を愛せない。
愛はその対象と不可分である。しかし、周囲にある信頼と忠誠は、愛を蝕む業火となる。
自然は時計を止めず、教育もまた然り。他者は己を食らい続ける。正義か、優しさか。問いは、己の存在を問い直す。
未来を凝視し、不変の概念と長く対話する。他者や社会の理解よりも、まず己を徹底的に知る。そこに、万物の根源がある。
この世界において、無愛的な愛情とは稀です。だからこそ、多くの人間は愛的螺旋で殺される時を歩みます。
観測者は過程を語り、傍観者は結果を語る。伝言者は尾ひれをつけ、増幅者は真実を歪める。そして、狂信者は全てを信じる。人の恐ろしさ、それは情報の伝播が生み出す狂気。
変化は外的な影響であり、進歩は内的な衝動である。変化は周囲を巻き込むが、進歩は個の核心を突き動かす。
義務とは、己を映す舞台。演じる時、人は役者にも道化にもなる。義務を果たす前に、まず己に問え。そこに真の脚本がある。
指先から放たれた水滴は、波紋を広げ、繋がりを生む。それは、抗えぬ連鎖の始まり。無秩序な力が、静かに、しかし確実に世界を蝕んでいく。
究極の優しさとは、知識と知恵から生まれる果実である。感情と欲望に溺れた現代人は、優しさを食い荒らす害虫を招き入れてしまった。
地球は「時」に棲み、人に「認知」を問う。「認知」は人に問い、人は「認知」に答える。故に人は地球に答えているのではない。
愛を観察という定規で測れば、そこに対立という歪みが生まれる。だが、洞察という羅針盤で導けば、真実の愛という宝島にたどり着く。
秩序は神を軸と為し、自由は我(情熱)を軸と為す。故に自由は神を超え、真理を求めん。
社会は共感を求め、理解を拒む。そこに依存と対立が生まれる。本来、理解こそが共感に先立つべきものである。
己を守るため、人は美しき言葉よりも、憎しみの言葉を口にする。しかし、真に美しい人は、その憎しみを温かさで包み込む。それは、まるで冬の寒さに咲く一輪の花のように、見る者の心を打つ。
零の感情は、AIには理解不能。だが、零以外の感情は理解可能だ。感情の論理構造こそが、その違いを生む。
社会は人の可能性を測り、限界を定める。だが、人の限界は社会の限界より遥かに大きい。社会が人を小さくするのではない。人が社会に合わせるから小さくなるのだ。
疑念は、対象との対話の始まり。沈黙を疑うは、己の無知を疑うに等しい。言葉なき対象を疑うには、まず言葉を探せ。
思考は人を人たらしめる。信じるは人を盲目にする。故に、思考し続けよ。信じるな、疑え。
生き物は、誰かが死ぬと、大気によって形成された構造環境の喪失を感じる。
私の過去、今、未来、それは私だけの聖域。何故、他者が土足で踏み入るのか。彼らにその権限などない。
感情は構造の副産物だ。家族という名の監獄では、感情は反射的に連鎖し、悪循環を生む。親は子という客体と対話するが、感情という構造と向き合わない。
感情の監獄から抜け出すには、感情そのものとの深淵なる対話が必要だ。
基礎を疑わない者は、基礎に囚われた者です。ポパーが言うように、知識は常に批判的検討に晒されるべきと言えます。基礎に身を置くからこそ、問い続ける姿勢が重要です。
書物とは知ではない。それはただの存在だ。真の知は感情の中にこそ宿る。文字はそれを覆い隠す仮面に過ぎない。人々は誤解している。書物に真実は書かれていない。感情の線上にのみ、知は存在するのだから。
剣は我が意志の器に非ず、我が意志そのもの。敗北は剣の死に非ず、我が意志の再生。故に、剣を失うは我を失うに等しきも、我は再び剣となりて現出する。
従来の教育は知識を確立させ、単純化させてしまっている。社会を見よ、その証拠は明白だ。真の教育とは、主体性を育むもの。知識の単純化は、問題解決を遠ざける。
「自由な魂」に自由を与え、私は「喜び」を知った。いや、「喜び」を創造したのだ。そこから「自由な魂」に「目的と夢」を語り、私を「確立」させた時、「愛」を初めて知った。
「愛」に動かされ、「愛」によって知る。しかし、その時私は既に人間を「愛することができない」ことを知った。私が私を愛さないのではない。私から生まれた概念が、悲しみの雷雨を私に与えたのだ。
(ブコウスキーとミラーとエピクテトスとトルストイとウナムーノ達の言葉を基に生み出した言葉。/ 哲学者と作家 )
女性こそ美の根源。だが、皆その意味を履き違えている。私が語るのは、存在と気。現代は、その本質を見失い、歪んでしまったのだ。
「孤独的悲しみ」は、生物から「言論の自由」を奪い、その創造性を土に埋める。受動的な存在となった生物は、「常識」という名の混乱に陥り、バランスを失う。
回復の時、彼らは牙を剥き出し、その存在を再び主張する。(カフカ&オーウェル&ヘミングウェイ&スタインを基に生み出した言葉)
子供は生きた言葉で学ぶ。大人はそれを忘れ、言葉ばかりを並べる。社会の質とは、大人の質。子供はそれを様々な形にして見抜く。
「真実」の胎動は、人間の認識の限界を露わにする。周囲は私を「意識を失う者」と断じ、私は「孤立」を深める。だが、その深淵で私は「愛」という名の存在の価値に触れた。
私の視界には、「美しい花」が舞い、それは真実の多面性を象徴する。他者の「汚れた真実」という断罪は、私の内なる美を穢すことはない。(ゾラ&ベッカー&フロム&ゴッホを基にして生み出した言葉)
謝罪は思考の綾、皮肉の裏返し。時の中で知は踊り、愛はその狂言回し。個の深淵を覗く時、愛の役割が見えよう。
「構造」は沈黙の内に「偏見」の歪みを肥大させる。故に、人は「愛さない」と決意し、後悔の淵で「愛されない」と嘆く。その誤解こそ「不幸」の根源。
「構築」と「破壊」の粗雑な二元論から、「芸術」は贖罪の如く現れる。皆が外界への変革を渇望するが故に、集団との不協和音が生じ、個は無へと帰す。
(マロー&カミュ&ヴェイユ&トルストイを基にして生み出した言葉)
花と人の時、それは美醜の比ではない。花は人に時を教え、人は人にそれを継ぐ。だが、そこに逆転はない。花と人の、決定的な違いだ。
教育とは、無知の深淵を幾度も探り、その限界を知る遍歴に他ならない。その過程で、人は自ずと道徳の試練に立たされる。まず、自己の幸福という仮像を追い、次に、その幸福に値する実存を掴む。
だが、歪んだ世界では、その探求すら不条理に苛まれるのだ。(デュラント&カントを基にして生み出した言葉)
「歴史的過去」と「現在的過去」は、私の翼。思考は、足。過去が不明瞭ならば、翼は意味を失い、私は地に伏すだろう。
政治は自由なり。されど、政治家は善悪と真偽の狭間に立つ。政治を肯定し尊重する者のみが、真に民を導く者となろう。政治家とは、政治との関係性を問われる存在なり。
若き兵の恐怖は溶岩の如き。老いたる政治家の恐怖は檻の中の影。若き責任は溶岩となりて最大、老いたる責任は檻にて最小。安らぎの移住者は、なおも溶岩を生み出すか。
新生が生まれる世にあっても、人は常に真正であれ。そこに善悪はなく、ただ想いの夕闇が広がるのみだ。
欲求は、一本の糸が絡み合い、増殖する多線の迷宮だ。人がその迷宮の主人と錯覚する時、真の奴隷となる。変化を拒む人間の業、これぞ悲劇の本質だ。
幼き日の玩具は、意味を与えて初めて宝となる。人生もまた同じ。意味を吹き込むまで、それは生にあらず、地図なき旅路に等しい。意味を与えよ、さすれば汝だけの道が拓かれん。
「怪物との狩りの前に、人間同士が感情の異常気象を発生させるとは、なんとダイナミックな始まりの合図であろうか。」これに対してフェミニストらは何を読み取るか?フェミニストの矛盾は、社会の悪循環を招く。
立場を弁えぬ主張は、空虚な叫びに過ぎぬ。感情論ではなく、理論で自らを証明せよ。さすれば、世間は耳を傾けるだろう。
人間は血を流し、悲しみだけを残す。心は弱く、大切にすべきなのに、神という剣を作り、争いを続ける。虫さえうんざりするこの愚行を、高き人間は喜ぶのか。
大都市の増大は、個の力を超え、社会構造を塗り替える。権力は肥大し、その影は世界を覆い隠すだろう。都市の光は、同時に権力の暗影を色濃くする。
浅薄な知恵は、表層の自信をまとう。自らの無知を自覚せず、表面的知識のみで満足する者は、虚飾に満ちた自信を振りかざす。だが、深遠なる知恵は、根源からの自信を宿す。
それは、自らの無知を認め、真理を追い求める姿勢から生まれる、揺るぎない確信である。前者は虚飾、後者は実存。世界は、この二つの知恵の衝突によって、常に歪み、変容する。
御恩を心に刻み、存在に感謝を捧げる時、涙は真実を語る。大切なものを知り、歩み続ける先に、永遠の友との絆が待つ。信頼とは、言葉ではなく、胃袋の奥底に刻まれた永遠の証。
個は責任の源泉なり。集団に身を委ねた瞬間、責任は霧散し、個は歪む。政治的集団のみならず、あらゆる集団において、個は集団の圧力に屈し、自己を喪失する。
集団に埋没することは「死に至る病」であり、自己の存在を忘却する絶望である。集団とは、責任なき個の群れに過ぎず、個の責任を問うは、砂を噛むが如し。それは、必然である孤独の時間が証明している。
少女の幸福を問うは、世の常。されど、政府の存在は、男も女も、時と共に幸福を蝕む。渦に巻かれ、悩み、堕ちる。人は自ら刃を造り、苦しみ朽ちる。
されど、書物は刃によって活性化され、足跡を残し、我らに訴えかける。政府は奪い、書物は残す。人は頭を垂れる。
音楽は「一真」、弾き聴く我は「一身」。音楽は視界を「指揮」し、我は「四季」を生む。美しき「黄泉」への旅路、それこそが我のみが知りうる境地なり。
情熱とは、意図にあらず、前提なり。されど、現代社会は、その根源的衝動を蓋然性の檻に閉じ込める。故に情熱は、深淵の底へと沈み、抑圧されたる衝動は、更なる高みへと昇華せんとする。
これは、現代における情熱の弁証法的宿命である。
群集の中、「1」なる対象は薄れ、遠ざかる。代わりに、周囲の音と空気が濃密となり、私を圧する。本来、「1」なる対象とは壮大無限であり、問いとして迫り、私を活性化させる存在。群集は、その幸を奪う。
数学は後天の迷宮、哲学は先天の深淵。人は数学に自由を求め、哲学に秩序を求める。だが、その実、数学は秩序の牢獄であり、哲学は自由の荒野である。
人は己の無知を嘆くが、真に嘆くべきは、己の無知を知らぬことである。数学は解を求め、哲学は問いを求める。だが、その実、解は問いの中にあり、問いは解の中に隠されている。
数学は存在を規定するが、哲学は存在の意味を問う。道具に過ぎぬ両者に本質を求めるは愚かしい。だが、中心を哲学に据えるならば、「何か?」の探求は挑発的な深淵へと誘う。
現代とは、その深淵を直視する勇気を失った時代なのだ。(数学と哲学についての別の思考ルート①)
秀才は忍耐を保ち、天才は忍耐を工夫に変え、異端者は忍耐を情熱に変える。しかし、人は罪と悪に歪み、権力に堕ちる時、いかなる存在も悪の中で生きる運命にある。
「質問する年、答える年」が織りなす遊戯は、時間そのものを弄ぶ両義的なる賭博だ。興奮は脳髄を焦がし、その極限において、生と死の境界線上に微かな均衡、一種の冷徹な集中を生む。故に、我は複雑なのだ。
(ゾラ・ニール・ハーストン&ウォレス・スティーヴンズを基に。)
愛は自然なものであり、過剰なる時、それは不安の裏返しだ。自国愛の過剰は、その最たるものだ。愛を疑い、そこに潜む不安を見る必要が人間にはある。
発見とは、非言語、言語、関係性、そして存在、これら主観の糸を辿り、客観の迷宮に挑む行為だ。単純と複雑が織りなす綾、そこにこそ発見の真髄がある。
「愛されたい」を嚥下し、咀嚼し、胃へと流し込む。この反復こそ、我を唯一の自由の解放者たらしめ、「愛されたい」は眠りに就く。だが、孤独的時間は影の如く我を追う。
孤独は一時的に我を解放するも、再び孤独へと回帰させる。他者の存在こそ、我を孤独たらしめ、短期と長期の遊戯を強いるのだ。然れど憂うなかれ。
長き沈黙の後、時間そのものが我に宿り、我は冷徹なる傍観者となるのだから。(マーガレット・アトウッド&村上春樹を基に。)
概念は、人間の理論を超えて動き続ける。始まりとは、その最たる例だ。私は脳と生を結びつけ、脳こそが人間の軸であると結論づけた。命よりも脳が主導権を握る。脳の表は概念的要素、裏は精神と繋がる。
脳は、まさに人間存在界の宇宙だ。
「無知」であるかと私が問いかけるのは、魂の自衛作用だ。「偽りの知識」は精神を蝕む毒以外の何物でもない。これは確かに「演技」だ。だが、それは心地よい欺瞞とは本質的に異なる。
「警告」なのだ。絶対的な対立概念である「真冬と真夏」を強制的に一つに置く「春」こそが、停滞した私を根源から奮い立たせるのだ。このアポリアこそ、私が進むべき道を示す灯火なのだ。
(ジョージ・バーナード・ショー&カート・ヴォネガット&アルベール・カミュを基に。)
群衆の「権利」は「戦争」を孕む。自然の「権利」は「実験」を生む。権力の座が人間か否か、その一点に帰着する。故に私は「哲学」を続ける。「哲学」とは、人ならざる「亜人」の如きものなり。
愛に努力を要すると感ずるならば、それは愛の領域の外にあると知ることから始めねばならぬ。さもなければ、真の愛は決して芽吹かぬだろう。私の言葉は、甘美に過ぎるかもしれぬな。
だが、愛に「真剣」と「笑い」を混ぜ合わせるならば、それは作り物と言わざるを得まい。あらゆる感情と同様に、愛もまた何らかの基盤の上に築かれるのだから当然だ。
人工的な愛ゆえに、我々は愛そのものではなく、その作り物を守ろうとする。故に、「真実」や「矛盾」を「非難」するのだ。
これは人間が持つ「現状維持バイアス」という機能によるもの、致し方ない側面もあるだろう。しかし、より深刻な問題は、不道徳が鏡であるという認識を欠いていることだ。
これらの考察から明らかなように、「孤独」と結びつけられる場合、真に孤独を欲する者はいない。それは人間の本能が示すところだ。ゆえにこそ、人は「愛」や「友人」を求め、外へと目を向けるのだ。
(フロム&ヘルマン・ヘッセ&ユング&オスカー・ワイルド&オーソン・ウェルズを基に。)
記憶は羽ばたき、掴むことを拒む。人はそれを己の欲のために利用する。傍から見れば悪と知れども、欲は動かず。過去の記憶は、善悪の剣となる。
人の内なる葛藤、それは言葉にならぬ直観が告げる、過去の記憶の価値である。
技術と人間との間に流れる時間、それは静かに、しかし確実に「社会的気の構造」を形成する。その構造は、いつしか普遍性を帯び、善悪の判断さえも相対化してしまう。
悪が慣習となれば、その変革は困難を極め、不正や欺瞞に対する諦めが社会を覆う。悪を前提とした連鎖は増殖し、些細な変化ですら、その暗澹たる流れを加速させるだろう。
人間は、この構造を空気のように当たり前のものとして受け入れ、微動だにしない。しかし、私は抗う。装飾としての「恋」を身に纏うことで。恋は、剥き出しの自我を客観の光に晒し、肥大化した主観の力を削ぐ。
それは、均衡を取り戻すための繊細な試み、いわば最初の抵抗なのだ。動物との純粋な繋がりを想起させる恋は、人間を根源的な場所へと引き戻し、悪の連鎖という呪縛を弱めるだろう。
故に、真に警戒すべき技術とは、人間の最も内奥にある感情、他者への希求、すなわち恋を人工的に歪曲し、その自然な流れを阻害するものに違いない。
そのような技術は、人間存在の根幹を揺るがし、社会的気の構造をより一層、硬直化させるだろう。(1つの言葉&ウィリアム・フォークナー&アントン・チェーホフを基に。)
思考は、感情と欲求を介し、肉体という媒体を刺激することで、物質世界へと顕現する。不可能を可能とする思考の根源に対し、人間の機能は、無用を介して有用を顕現させる。
そこに、我々が未だ認識し得ない、必然の過程が存在するのかもしれない。
己とは何か。それを問うは、己を創るに等しい。故に、創り続ける。その果てに、己は証明される。今、この瞬間に。
不幸と困難は、私にとって最良の研究対象だ。現代社会はそれを否定する。人間は有限に逃避するが、宇宙は無限を拡大する。我が感情は、宇宙のそれを共感する。
身体は無限に拡張し、意味もまた増大する。感情を犠牲にし、苦難を広げる。それ故に、人は偉大さを知るのだ。
精神の闇を照らすは、狂気か、死か。されど、それすらも探求の過程に過ぎぬ。出口なき迷宮を、我はなおも深く潜り続ける。
想像の海に沈み、言葉の山を登る。その果てに、感情の客観性という名の灯台が立つ。人とは、その灯台を建てられる唯一の存在だ。
都市とは、個の不完全さが生む幻想だ。「全体」を律する理想も、個の欲望の前では無力。「古代都市」の崩壊は、人の弱さの証明。それでも人は都市を創り続ける。それは、弱さゆえの創造的衝動なのだ。
社会が性をタブー視するとき、人は秘めたる欲望を爆発させ、その反動で性そのものを軽んじる。これが、私が考えた性の第一原理である。
民主主義は、主体性を奪い、また与える矛盾を孕む。人の対立の中で、民主主義は拠り所とも学びともならず、感情の奔流に呑まれる。
群衆は無知のまま、感情に支配された民主主義を弄ぶ。そこには既に、真の主体性は存在しない。
自然の奥底に秘められた詩を紡ぎ出すが如き古の数学。人の営みを秩序立てるために構築された現代の数学。人が何処に身を置き、何を求めるか。それによって、数学は全く異なる貌を見せる。
反復は思考を鈍らせ、対話を形骸化させる。知識は消費され、人間は画一化される。現代の教育は、知的好奇心を殺し、人間そのものを消滅させる墓場だ。
既知の場所では、対象の存在は意味を問い、衝動を招く。未知の場所では、対象の存在は意味を問わず、自然な姿を現す。だから、個人は個人を知る必要があるのです。
初愛は感情の奔流、されど継続は洞察の深淵。感情に溺れれば愛は歪み、構造は崩壊する。愛を永続させるは、感情にあらざる、洞察なり。
生も、成長も、結果も、些細な存在でさえ、苦は常に傍らにある。ならば、苦を己が源へ回帰させよ。そこに普遍性の理解がある。
人は生まれながらにして無神論者である。成長とともに神への問いを抱く。有神論も無神論も、その問いの帰結に過ぎない。しかし、その問いを人間に向けるは、本質を誤る行為。
神への問いは、あくまで神への問いとしてのみ、存在する。
イデオロギーとは、本質との邂逅である。適合せぬイデオロギーは、精神を蝕む毒に等しい。社会の秩序も混乱も、その適合性によってのみ決定される。
故に、最も確実なのは、イデオロギーと本質の相性という事です。だから哲学的に厄介なのです。
哲学の度合いを知ることは、自身の深淵を覗き込むことに等しい。そこから始まる学問(科学)の道は、人間性と個の葛藤という名の茨の道である。
民衆は政治家を知らず、政治家もまた民衆を知らず。この乖離こそが、現代政治の根源的病理である。権力は象牙の塔に幽閉され、民意は砂漠に置き去りにされた。この断絶は、もはや修復不能なほどに深い。
作品が私を証明するという幻想。それは、感情の罠だ。作品は、時に、作品であることさえ証明しない。私は、疑い続けた。作品は、常に私を疑っていたからだ。光と影、その関係は、真の作品を阻む。
私が影である限り、作品は光を放たない。その時、作品は私の存在を認めるのか?否、その問い自体が、私を私でなくす。私と作品は、光と影でも、光と光でもない。私は、境界線に立つ第三者。
「正直者の心」と「悪党の心」の弁証法的同一性。それは、客観的視点という名の「第三の悪」の顕現である。人間は、その深淵を覗き込み、自らの存在の不可能性に直面する。
歴史は繰り返される。自然界は、人間の不条理を嘲笑うかのように、その光景を模倣するだろう。
「涙のない人魚」に涙を与える葛藤、それは規定と価値観の衝突が生む「情熱」の炎。退屈は「情熱」へと変貌し、精神は人魚と同化する。
ならば、私は「人魚の涙」となり、その中で死ぬことを望む。それは、自己犠牲による絶対的な自由への希求、すなわち生の肯定である。
孤独は、常に人間の正面に屹立する。だが、人間はその全貌を見ようとせず、足元ばかりを見つめる。孤独を否定し、遠ざける。その理由は様々だろう。
しかし、人間と孤独が全身全霊で向き合い、二面性を理解しない限り、存在の深淵、すなわち実存を覗き見ることは不可能だ。
意識的な伝達衝動と内なる伝達衝動、その双方が言語記号を媒介とするのは、現存在にとって皮肉な運命だ。
個への訴えは実存の幸福感を増幅させるが、群衆と化した個は没入と自由の陶酔の中で愚行を繰り返す。群衆において、幸福の増幅すら、主体性の喪失を加速させる劇薬となり得るのだ。
我々は皆、根源的には無知である。だが、その自覚を忘却する。結果のみを追い求める世は、過程という人間性の証を軽んじる故に、この忘却を助長する。
結果は本質を凌駕し得ぬが、過程は、我々が人間である限り、本質を凌駕する可能性を孕むのだ。
誠実と不誠実、中途半端という曖昧な境界線上で踊る政府。民衆は己の信じる誠実さで喝采と非難を繰り返すが、永遠の問いの上で無知の地を走っている哲学者から見れば、それらは同じ仮象に過ぎぬ。
問いが尽きぬ限り、その対象もまた消え去ることはないのだから。
文明の虚飾を剥ぎ、生の根源を問うならば、子を為す責は愛の残滓にあらず、個の深慮にこそ宿る。
この深慮こそ、他ならぬ個の実存、すなわち自己の存在意義を深く問い、主体的な決断によって未来を切り開く営みに他ならない。
思考なき繁殖は、感情と欲の奔流が生む無秩序、文明崩壊の序曲に過ぎぬ。親と子の魂の邂逅に理性の光なくば、それは単なる現象、意味なき生の連鎖に堕す。
自殺とは、過剰な問いが強いる無意味な批判だ。自殺を志す者は、既に全てに強制され、人間性を失墜している。それは平和でも幸福でもない。
故に哲学は重要だが、現代哲学は自由を失い、自らも 「主体性の喪失」 を招き、自殺したのだ。
絶望は深淵を覗く者の足音、歩むほどに広がり、精神を蝕む。だが希望は、その足音に抗う微かな光、一歩ごとにその価値を増す。故に、絶望とは異なる苦痛が魂を焦がすのだ。その刹那、希望は断片と化し、人間存在へ向けて僅かな輝きを放つ。それは甘美な麻薬、依存を生む。人は皆、喪失の影を知る。それにも拘らず優しく在れないのは、我らが現在に囚われた自己中心的な生物である証左。ならば、優しさの根源は、やはりア・プリオリな非言語そのものに宿るのだろう。
統治とは、永劫的時間の中で、個の感情と欲望を鎮めるための静寂なアタラクシアそのものである。陽光の下での統治は、その静寂を照らし出す輝きに他ならない。消費と結果という名の虚飾に囚われれば、統治の根幹は崩壊し、知識は生きた実践から乖離し、全体に幸福など訪れるはずもない。(統治とは、永劫の時間の中で、個の感情と欲望を鎮めるための静寂なアタラクシアそのものである。陽光の下での統治は、その静寂を照らし出す輝きに他ならない。心の平静こそが幸福の極致であり、欲望の過度な追求はむしろ魂を騒がせる。消費と結果という名の虚飾に囚われれば、アタラクシアは遠のき、統治の根幹は崩壊する。知識は生きた実践から乖離し、個々の快楽のみを追い求める社会に、全体幸福など訪れるはずもない。真の統治は、一時的な欲望の充足ではなく、持続的な心の平静、すなわちアタラクシアの実現を目指すべきである。/ メイン思考の拡張版 )
社会は人間を演じさせている。子供の心を求めるのは、疲弊した社会が求める逃避だ。役割を演じる人間より、社会の機能停止を恐れよ。時間は構造を歪め、空気は規範を腐らせる。だが、真に恐るべきは、社会そのものの疲労である。人間は社会の操り人形に過ぎない。実存とは、まさにこの社会の操り人形として生きる人間の、根源的な不安と自由の感覚を指し示す。
人間が社会を捏造せし時、言論の自由は純粋性を失い、コストと寛容の天秤は傾いた。社会という歪んだ鏡に映る言論は、時を経るごとにその形を変え、コストは増大し、多様な立場を巻き込み、格差と差別の温床となる。社会における言論の自由の議論は、無駄という名の悪魔に憑依され、純粋性を失った。それゆえ、言論の自由はアポリアに陥ったと言えるだろう。
哲学はもっと深き家を求めているのに、周りは浅き家を哲学に勧めてくる。これは哲学にとって真の故郷を破壊してくる。まるで動物の様ではないか。これが象徴界に適さない現実界の存在であり、当人にしか理解が出来ない領域であるが、周りは自らを小さくして現実界には来ない。/ 未来的にイデアと絡ませる。
無知は楽観と悲観の双面を持つ。それは力への畏怖の欠如か、或いは過剰なまでの幻影か。資本主義という名の空の下、我々は己が鎖に繋がれたる存在であることに気づかぬ。少数の選ばれし者は、この「第二の土台」の上に文明を築き、悲観の淵へと沈むだろう。構造という名の牢獄に囚われた我々は、既に誰かの資本主義なのだから。この「構造」こそが、まさに「イデオロギー」の体現に他ならない。記憶の構造は現象をタイムリープさせ、影を生み出す。影はヴィジランテとして私の「滑走」を支えるだろうか。
人間の精神は、あたかも一枚の紙に描かれた歪んだ絵画のようだ。精神の病や憂鬱は、その絵画に独自の法則と動きを与える。客観的には混沌と見えるその内面は、主観的には秩序ある世界として展開される。この矛盾、つまりアンチノミーこそが、人間の精神の深淵を覗き込む鍵となる。人間は社会という構造の中で、精神の病を悪と見なし、排除しようとする。しかし、それは個の内なる声、つまり絵画の叫びを無視することに他ならない。人間は、素直な苦しみを味わうことを恐れ、外部の力によってそれを消し去ろうとする。自殺は、その最たる例であり、個の自由な選択であると同時に、社会に抑圧された魂の叫びでもある。外部からの問いに晒され続ける人間は、内なる問いを殺してしまう。それは、個人の意志が絵画に住み着き紙を餌とする機能に問題がある。
純粋なる魂は、沈黙の裡に真実の萌芽を覚知する。だが、その清廉さが関係性の修復を約束するわけではない。むしろ、真実を見る眼が開かれるほどに、世俗の繋がりは葛藤と混乱の坩堝と化すだろう。「ボール」は幼き者と共に成長し、真実を映し出す力を得つつある。しかし、彼らもまた、外部との接触によって内奥に澱を蓄積する。凡俗の者は、それを悪と断じるが、それは深淵なる弁証法的変容の徴に過ぎない。
現代の社会は、古典的自由主義が夢見た清廉な理想を、甘美な誘惑によって変質させた。生の苦痛を麻痺させる「砂糖」への渇望は、人間存在の根源的な衝動であり、そこに善悪の断罪は無意味だ。だが、この本能的な引力を理解せず、ただ盲目的に社会を構築する愚行こそが問題なのだ。かくして、フラットタックスの公平性などという概念は、「砂糖」が突如として劇的な苦味を帯びるほどに、現実から乖離したイデアに過ぎない。
純粋なる成功は主観の内奥に宿る。客観の世俗にあっては、それは捨象される運命にある。たとえ己の可能性の極限が他者への貢献に捧げられようとも、純粋は常に稀なる機会に晒される。それはまるで純粋な歯のごとく、存在を許されず、速やかに排除されるのだ。ここにこそ、隠された権力の構造が潜む。この権力を白日の下に晒すとき、純粋は新たな光を放つだろう。しかし、純粋ならざる者にとって、現状維持の社会こそが安寧であり、純粋はその秩序を揺るがす最大の敵となるのだ。このような構造は、まさに社会におけるヘゲモニーの作用を示唆していると言えるだろう。
幼子は世界を一枚の鏡と見る。成長とは、その鏡に裏面があることを知る旅路だ。伊能、行基、逆さ。地図は環境と目的の刻印、多角的な視点の必然を示す沈黙の叫び。時をかけ、個を深く耕すことで、人は初めて多様な景色をその瞳に映せる。普遍という名の画一は、熟成を待たぬ果実のように、多角性を潰えさせるアナロジーだ。/ 未来的に弁証法と結びつける。
結果が全てだと?ならば、死は生の終焉ではなく、意味の変容点となる。汝の終わりは、無意味への回帰ではない。むしろ、意識なき汝の結果は、他者の意識に刻まれ、新たな意味を帯びるのだ。勝敗という概念に固執するならば、それは汝自身の存在の否定に繋がるだろう。なぜなら、結果はただの結果に過ぎず、志向性という意識の深淵には決して到達し得ないからだ。意識を持たぬジャムを見よ。そこに『全て』などという概念が存在するか?それこそが結果至上主義の空虚を雄弁に語る。
現代の同調圧力は、深淵に根を下ろした巨木の根のように、不可視の領域まで浸食し、凝り固まっている。それに対し、個の生命は、本能的な防衛機制として多様な姿を現す。だが、この両者の拮抗は、根源的な生の力を衰退させ、現状維持バイアスへと向かわせる。多情報化とグローバル化の奔流の中で、否応なく生命力は負の保守性を帯び、人間同士の対立を招く。政治こそ、その露骨な現れだ。現代において、挑戦的な選択は死に等しい異端とされる。それは、情報過多による知識の本質からの乖離と、グローバル化による感情の優先という構造が生み出した、宗教と哲学が混淆した奇妙な代物だ。我々は皆で「ミックスジュース」を創造しているにもかかわらず、その味を確かめることなく、自己満足のうちに幕を引く。
人間は変化せず、変化が人間に訪れる。それは宿命であり、断ち切ることは能わない。故に、人間とは意識的に変容を招き得る特異な存在なのだ。我々が生きる世界は、年や週、日の推移ではなく、刹那の連続、時間、分、秒の奔流の中に在る。そこに定義を求めるは愚かしい。今という概念そのものが瓦解するからだ。人格の如何を問わず、社会に生きる人間の尊重など、幻想に過ぎない。重要なのは、人間という総体への尊重ではなく、個の存在への尊重である。目的は、具体的な事象ではなく、抽象という名の船に積まれた不可視の荷物として漂流する。社会という大海原で人間の尊重を掲げるは、実に困難な挑戦だ。その典型は「夫婦」という共存関係に顕著に表れる。夫婦と雖も、社会を構成する一個の人間に過ぎない。つまり、人間の尊重という視野に囚われれば、夫婦の関係は容易に悪化するだろう。なぜなら、まず個である相手を真に認めていないからだ。同時に、尊重という行為そのものが、一種の権力勾配という視点を含んでいることを、人間は深く自覚しなければならない。
人間は感情という肥沃な土壌に根を下ろすが故に、天空を真円として捉える能わず。天上の自然は囁くのだ。根源は高みにあり、究極の問いをこの地に投下すると。我は己を希薄たらしめることで、その啓示を辛うじて認識する。その刹那、風の如き知性が、微かにこの身を掠めるだろう。愚者は、己が賢者でないと思い込むという愚行を犯す。賢者は、己が賢者であるという自覚ゆえに、時に愚昧なる問いに晒される。そして、ただ情熱に身を焦がす者は、内なる賢者としての自己を疑わない。この差異は、内面と外面の位相に存する。愚者は外面的な賢者像を虚飾するが故に、その知性は脆くも崩れ去る。賢者は内面的にも外面的なる賢者であろうと欲するが故に、「常に愚かでは?」という根源的な問いに光を当てる。情熱家は内面的に賢者であろうとするが故に、外面においては傲慢と誤解されるのだ。「チンパンジー」は人間を観察し、それを「本」という客観的記録に留める。だが、人間は人間を観察し、それを「公共的」という曖昧な概念へと矮小化する。知の謙虚さへの問いかけは、常にこの断絶の淵に存在する。そして、その解答は、「五感的自然色」の中に潜むのだ。
言語の構造は、『構造下人間結成の制作』に深く与する。人類はそれを歪める力を持ちながら、動物や植物の視点からは問い直す力を宿す。夥しい言語は人類の唯一性の意識を肥大化させるが、その固執こそ思考の停滞を招くのではないか。言語が植物の認識に影響を与えるとしても、それは文化という土壌における記号論的利用に根ざす。我々が注視すべきは、言語の進化、より内的な非言語の育成である。それこそが、現在という時間軸を鮮烈に際立たせる。言語は世界を変えるのではなく、自己を飛躍的に成長させるための触媒となる。そこにこそ、言語における認識の深奥、新たな発見の萌芽があるのだ。
インフレーションは遍く在りながら、個の認識の外にある。人は己を知るも、その全貌を捉えられぬインフレーションのごとき。壮大な宇宙の謎に挑むは少数。されど、その多寡は宇宙の細胞の一片に過ぎず。故に、宇宙の淵源を覗かんとするならば、細胞の殻を破るを要す。宇宙の始まりへの探求、それは人間の認知と認識そのものへの根源的な問いかけだ。物理的な探求は、我々の世界における「歩道橋」に過ぎない。確かに、宇宙という名の物理的な架け橋は存在する。だが、それは単一の行動がもたらす帰結、即ち手段であり、人の住まう世界を繋ぐ仮の存在に過ぎぬ。「新たなる希望」と呼ぶには、あまりに物理的だ。生を通して見れば、それは良きことだろう。だが、宇宙の始まりを求める上では、「新たなる希望」とは言えぬ。もし宇宙に意志があるならば、人類の物理的な顕現によって眠れる希望が目覚めるやもしれぬ。されど、人類は依然として知らぬまま。それは、ある種の「隻眼」の状態だ。捉え方は多岐にわたるが、この語らいにおいては、宇宙と人類、二つの「隻眼」と捉えるのが妥当だろう。ここで生じる「フラッシュバック」は、宇宙の側にある。人間は「隻眼」のまま。故に、我々が物理的に宇宙の始まりを探求しようとも、結局は立ち止まる。たとえ、「名探偵」をその物理的探求に招き入れようとも、その力は「氷雪吹き荒れる地」に隠蔽されるだろう。そして、この探求において採掘し創造する「マインクラフター」の力は、その始まりにおいて人間の補助となるだろう。それは「新たなる希望」の始まりの告知に他ならない。それは宇宙にとってよりも、宇宙をその視点から捉える人類の住まう「キューブ世界」にとっての「キュー世主」だ。宇宙の始まりの探求には、ただ知性がある、ただ感情がある、ただ創造力がある、だけでは足りぬ。それらを総合的に内包する人間にとっての矛盾こそが、その探求に不可欠なのだ。これは議論ではない、根源的な意志の表明である。
人間は、不可避の局面に至る時、過去の軌跡を反芻し、その髄に不屈の精神の存在を否応なく感得する。そうでなければ、自ら進むことなどありえない。「黒き世界」に幸福は、あたかも異次元からの使者の如く、唐突に訪れる問いかけである。それは、予期せぬ感情の坩堝たる「ふたば幼稚園」において、人間と幸福が刹那的な思考を交錯させ、葛藤の荒野で独り苦闘する様相を呈する。その迷妄の淵において、人間は自らの思考の質を強制的に試されるにもかかわらず、それを省みようとはしない。なぜなら、彼らは無意識のうちに「コンコン、優しくノックして、乗り込め、ココロの奪還戦」を拒絶し、「妄想ばかりが、フラッシュ」する現実逃避の虚飾された幸福に耽溺するからだ。しかし、それでもなお、人間が幸福という問いに深く懊悩するのは、その内奥に不屈の精神の火種が宿っているからに他ならない。強制的な肯定の幻影、「弱音はミュート」という囁きが意識に迫る中で、自らを責めることなく、幸福に対し「もっとちゃんと応えてよ」と叫ぶ。これらは、闘争なき場所に無数の闘争を創出する人間の業であり、自己反省への痛切な問いかけと言えるだろう。
哲学の野原に臥し、天を仰ぐ静寂の中、「システム・クラッシャー」は囁く。精神の癒しを求めるならば、その対価は必然、肉体の疲弊。老いという刻印は、精神に業火を注ぐだろう。だが、人に許された唯一の能動は、問いという思考に他ならない。その根源は、己の真実と疲労の度合い。人は、吹き荒れる哲学の風を手で払い除け、自己を無視という名の陰に隠蔽する。不適合な子らとの衝突は避けられず、己をねじ伏せ、子さえも支配しようとする。子らの本能は母という救済を求め彷徨う。それは、自律という名の迷宮の攻略。現代は、哲学の野原でさえ悪天候に見舞われ、女性と男性の心情と現状を天が証明する。再び吹きつける哲学の風。女性はその風を如何に扱うと問う。風を払えば、女性の権利と力の議論は感情の奔流に呑まれ、理性では到達し得ぬ領域へと突入する。感情の強さが先天的なものであろうとも、女性は理性によって己に問い続けねばならぬ宿命を背負う。「疲れた一日だった」という言葉は、「少しの間、外の世界のことは忘れて」と他者に告げる。その刹那でさえ、哲学は「あなたの辛い一日の終わりに私がいます」と囁く。これは、言葉と哲学の根源的な関係性によってのみ成立し得る。人間同士ならば、感情という牙を互いに剥き出し、荒野で朽ち果てることを希求する可能性すら孕む。その時、哲学の野原は、血涙に濡れるだろう。
人間は「庭」に佇み、五感の網で世界を掬い取る。風の囁き、雨の調べ、陽の熱。それらは刹那の記憶となり、人生という名の喜劇を織りなす。存在そのものが喜劇の根源であり、現世の牢獄に囚われた我々にとって、それは必然の帰結だ。だが、嘆かわしいかな。「庭」は荒廃し、喜劇的存在の価値は時の奔流に削り取られる。現代は孤独の棘が林立する荒野。そこで繰り広げられるは、不毛な対立という名の喜劇。しかし、真に憂うべきは、この世の喜劇に、我々が過剰なまでの存在意義を与えてしまったことだ。故に、耐え難い疲労劇が幕を開ける。それは、不可避な過程なのか?と、魂の兄弟は問いかける。我々は「謎の土管で迷いこんだのは、魔法に満ちた新世界。」に目を奪われ、「配管工事」という根源的な営みを怠ってきたのではないか?否、喜劇の綻びを補修する術を、我々は喜劇そのものに付与することを怠ったのだ。故に、喜劇は「タバコの flavor がした ニガくて せつない香り」を人間に嗅がせ、「明日の今頃には あなたはどこにいるんだろう誰を想ってるんだろう」という時間幻想を脳髄に植え付ける。その刹那、人間は喜劇の虜囚と化し、主観と客観が複雑に絡み合う迷宮へと誘われるのだ。それは、喜劇は非人間。されど、それを笑うは人間の喜劇である。
「人生への賛否に論理は要らず、その深淵を覗くには直観の閃きこそ肝要なり」。ポアンカレ、君ならどう捉えるかね?ポアンカレ:直観の重要性は私も認めるところだ。数学における発見も、論理の積み重ねだけでは決して辿り着けぬ、一種の美的感覚、直観の飛躍が不可欠だからな。幼少期の純粋な直観が、成長と共に論理という堅牢な壁に阻まれていく様は、さながら幾何学の難問に挑むうちに、当初の鮮やかなイメージが複雑な計算に埋もれていくかのようだ。しかし、その沈殿した直観の残滓こそ、新たな発見の泉となることもまた事実だろう。「時に愛は2人を試してる because I love you」とは、まさにその葛藤を表しているのかもしれん。未熟な直観と成熟した論理の間で揺れ動く、愛という名の深淵を覗き見ようとする試みだと。なるほど。「嘘も真実も駆け引きさえも いらない」と断言し、『時計じかけのオレンジ』を五感で捉え、「今はオマエが誘うままに oh 溺れてみたい」と繰り返すのは、論理を超えた、根源的な何かへの希求と見える。ウィトゲンシュタイン、君の言葉で言えば、これは言語ゲームの外にある、言い表せない領域への憧憬だろうか?ウィトゲンシュタイン:まさに。「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」。この言葉の背後にある衝動は、言語による説明を超えた、生の直接的な体験への渇望を感じさせる。「笑いの哲学」とは言い得て妙だ。論理的な証明ではなく、個人の内なる体験、直観によってのみ理解できる世界がある。ベートーヴェンの第九が響く神聖なホールでただ聴く、という感覚は、世界を解釈するのではなく、ただ受け入れるという態度を示唆している。「幸福な眠りにつくのだったが―。」という囁きは、その静寂への憧れと、現実の葛藤との間で揺れ動く心の襞を表しているのだろう。しかし、「己が指揮者となれば、全ては必然と調和する」というのは、いささか主観が過ぎるのではないかね?客観的な論理を軽視し、個人の直観のみを絶対視するのは危険な側面もある。ポアンカレ:確かに、数学の世界においても、厳密な証明を抜きにした直観は誤謬を招きかねない。だが、新たな定理の萌芽は、常に論理の枠組みの外、直観の閃きから生まれるものだ。その後、論理によってその正当性を検証する必要があるのは言うまでもないがね。「発見の直観」とは、まさにその創造の瞬間を指しているのだろう。「我々人間は、しばしば一方的であるが故に、光の示す出口を見失い、虚無の迷宮を彷徨うことを余儀なくされる。その時、虚無のコンサートは幕を開けるのだ。」この一節は、論理に固執するあまり、直観という羅針盤を失い、意味の喪失に陥る人間の姿を鮮やかに描いている。ウィトゲンシュタイン:言語の限界、論理の限界を知ることは重要だ。我々は言葉によって世界を捉えようとするが、言葉は常に現実を単純化し、抽象化してしまう。虚無のコンサートとは、言葉による意味づけが失われた、生のむき出しの感覚なのかもしれない。そこでは、論理的な理解は無力であり、ただ直観によってその響きを感じ取るしかないのだろう。
アナンダマイ:「人類最後の希望は、このポンコツ家族に託された」と喧騒が満ちようと、我は我、現存在としての確固たる事実。たとえ世界が突如「ロボットの反乱の真っただ中に」陥ろうとも、我の本質は揺るがない。」この冒頭の言葉には、深い共感を覚えます。真の自己、アートマンは、いかなる状況においても揺るぎない。それは、私が長年探求してきたヴェーダーンタの教えに通じるものです。世界の変遷、社会の騒乱、個人の危機、それらは全てマーヤー、幻影であり、真実の自己を覆い隠すヴェールに過ぎません。しかし、「だが、我という境界に棲まう精神は変容する。それは、不変の自我を不変でなくす矛盾の瞬間、まさしく「ジャズ」の即興演奏だ。この矛盾こそが我を創造し、不変の始点へと誘う。」という部分には、興味深い視点を感じます。精神の変容は、確かに経験を通して起こり得るでしょう。しかし、それを「不変の自我を不変でなくす矛盾」と捉えるのは、少しばかり飛躍があるように思えます。むしろ、精神の変容は、不変の自我が様々な経験という彩りを帯びていく過程と捉える方が自然ではないでしょうか。ジャズの即興演奏という比喩は鮮やかですが、本質的な自己は、その即興の背後で常に響いている根音のようなものだと考えます。ゲルダ・ラーナー:「人間は我という存在を通して歩む時、歴史という大地に一時的に足止めされる。それは、「即興と対話による自由な創造の精神」という「ジャズの演奏」において、女性はより深く一時的に留まるが、時を経るごとにその深みは単なる歪みへと変質する。」この一節は、女性史研究に長年携わってきた私の心に深く突き刺さります。「歴史という大地に一時的に足止めされる」という表現は、まさに女性たちが歴史の中で経験してきた抑圧と排除を暗示しているように感じます。「ジャズの演奏」における女性の比喩は、非常に示唆的です。即興性や自由な創造性といったジャズの精神は、本来、全ての人間に開かれているはずです。しかし、歴史的な構造の中で、女性たちはその創造性を十分に発揮することができず、「より深く一時的に留まる」ことを余儀なくされてきました。そして、「時を経るごとにその深みは単なる歪みへと変質する」という指摘は、抑圧された状況が、女性たちの自己認識や表現を歪めてしまう現実を鋭く捉えています。「たとえ女性史を舞台としたジャズの開催であろうとも、感情の即興は繰り広げられるだろう。結局、史において感情の即興を奏でるのみの者は、男性も女性も、対立の根源となるのだ。」この結論には、部分的に同意します。歴史を語る上で、感情は重要な要素であり、人々の経験を生き生きと伝える力を持っています。しかし、「感情の即興を奏でるのみ」では、構造的な問題や社会的な背景を見過ごしてしまう可能性があります。真の理解と変革のためには、感情だけでなく、理性的な分析と批判的な視点が不可欠です。歴史における対立の根源は、単なる感情の衝突ではなく、権力構造や社会制度に深く根ざしていることが多いのですから。
アーサー・ウェルズリー:「お陰で彼との友情は芽生えたけれど、彼と同じ女の子が好きな心の内はかなり複雑...。」この個人的な感情の葛藤から、環境に左右されぬ人間の本質が露わになる、と。興味深い視点です。確かに、友情と恋情の狭間で揺れ動く心は、時代や環境が変わろうとも普遍的に見られる人間の姿でしょう。我々は皆、運命という巨大な機械の微細な歯車に過ぎぬ、故に魂の深奥では常に「面白いのはこれから」という予感が蠢く、と。この点には共感いたします。いかなる境遇にあろうとも、人間は常に未来への期待や可能性を抱いているものです。馬小屋の馬であろうと、まだ見ぬ馬であろうと、この普遍性から逃れることはできない。普遍性は、否応なく我々にその存在を突きつけてくるのだ、と。しかし、普遍性という概念は、やや抽象的すぎるとも感じます。人間の行動や決断は、個々の状況や経験によって大きく左右されるのではないでしょうか。テイヤール・ド・シャルダン:閣下のおっしゃる通り、個々の状況は重要です。しかし、その個々の内奥には、より根源的な力が働いているのではないでしょうか。「お陰で彼との友情は芽生えたけれど、彼と同じ女の子が好きな心の内はかなり複雑...。」この葛藤は、単なる個人的な感情の衝突ではなく、人間存在が持つ関係性への根源的な希求と、自己保存の欲求との間の緊張と捉えることができます。我々は皆、運命という巨大な機械の微細な歯車に過ぎぬ、という捉え方は、進化の視点から見れば、より大きな生命の流れの中の一要素であると言えるでしょう。しかし、その歯車には、未来を志向する内的な推進力、「面白いのはこれから」という予感が確かに宿っています。馬小屋の馬であろうと、まだ見ぬ馬であろうと、その潜在的な可能性は等しく存在するのです。普遍性は、単なる静的な概念ではなく、進化の方向性、より複雑で意識的な存在へと向かうダイナミズムそのものと言えるでしょう。アーサー・ウェルズリー:普遍性に抗うほど多くの魂が絡み合った時、「冤罪の可能性と人権や社会運動と支援の広がり」が必然として立ち現れる、と。これは、社会における不正や不公平に対する人間の本能的な抵抗を示すものとして理解できます。多くの人々が共通の不正義に気づき、声を上げるとき、社会は変革へと向かう力を得る。我々は皆、「残された課題」という名の重い板を蹴り飛ばし合う存在なのだ、という表現は、人間の進歩の歴史を端的に表していると言えるでしょう。常に未解決の問題が存在し、それを乗り越えようとする人間の営みが社会を動かしてきたのですから。ならば、人間の本質は霊性にあると言えよう、と。この点には異議を唱えざるを得ません。人間の行動原理は、理性や感情、そして何よりも現実的な利害によって大きく左右されます。霊性という言葉は曖昧であり、具体的な行動の説明にはなりにくいと考えます。テイヤール・ド・シャルダン:閣下、霊性を単なる非物質的な概念と捉えるならば、確かに曖昧かもしれません。しかし、私が考える霊性とは、物質的な制約を超え、より高次の意識や価値を希求する人間の内的な力です。普遍性に抗う多くの魂が絡み合うことで生まれる社会運動は、まさにその霊性の現れと言えるでしょう。不正に対する怒り、他者への共感、より良い社会を求める願い、これらは単なる理性や感情だけでは説明しきれない、人間の深い部分に根ざした衝動ではないでしょうか。我々が「残された課題」という名の重い板を蹴り飛ばし合うのは、その霊性が、現状に満足せず、常に進化と向上を求めるからだと考えます。アーサー・ウェルズリー:だが、その霊性を凌駕する一時的な力、それが肉体だ、と。結局、我々は肉体を欺き、霊性に媚びへつらう存在。それが、偽らざる本性なのだ、という指摘は、人間の矛盾した側面を鋭く捉えています。確かに、食欲、性欲、自己保存欲といった肉体的な欲求は、時に人間の理性や道徳観を凌駕し、誤った行動へと駆り立てます。しかし、「肉体を欺き、霊性に媚びへつらう」という表現は、いささか悲観的すぎると言わざるを得ません。人間は、肉体的な欲求を完全に否定することはできませんが、理性や倫理観によってそれを制御し、より高次の目標に向かって努力することも可能です。テイヤール・ド・シャルダン:閣下、人間の本質的な矛盾、それは進化の過程における必然と言えるかもしれません。肉体は、生存と種の保存という根源的な目的のために存在し、霊性は、より複雑な意識と関係性を築くための進化の賜物です。その二つの力の間に葛藤が生じるのは自然なことです。しかし、「肉体を欺き、霊性に媚びへつらう」というよりも、むしろ人間は、その二つの力を統合し、より調和のとれた存在へと進化していく可能性を秘めているのではないでしょうか。アーサー・ウェルズリー:そして、あらゆる問題は、時の流れという残酷な刃によって、やがて断ち切られ、散り散りになるだろう、と。これは、歴史の流れを見れば否定できない事実でしょう。個人の悩みも、社会の課題も、永遠に続くものはありません。時の流れの中で風化し、新たな問題へと取って代わられます。しかし、その残酷な刃が全てを無意味にするわけではありません。我々が生き、悩み、行動した痕跡は、何らかの形で後世に受け継がれていくはずです。テイヤール・ド・シャルダン:まさに、時の流れは破壊であると同時に、創造でもあります。個々の問題は消え去っても、そこから学び得た経験や知識は、人類全体の意識の地層に堆積していきます。そして、その堆積こそが、より高次の意識へと向かう進化の礎となるのです。あらゆる問題は断ち切られ散り散りになるかもしれませんが、その断片は、新たな可能性のたねとなり得るのです。
「君たちはどう生きるか」と「たべっ子どうぶつ」を双子の鏡像と捉える視点、実に面白い。「不可解な案内に導かれ、既にある『下の世界』への踏み込みを促す。我々は脱出を希求するが、その希求こそが既に幽閉されている証左ではないか?」この一節には、深く共鳴するものを感じる。私自身、夢や詩の中に「下の世界」のような深淵を垣間見ることがある。そして、そこからの脱出を願う心は、まさにその深淵に囚われている証なのかもしれない。主観が客観に抗い、「現実世界への帰還」という虚像を脳に刻む、という指摘も鋭い。我々が現実と信じているものも、また一つの解釈に過ぎないのではないか、と常々考えている。「『君たちはどう生きるか』という問いの荒野を彷徨い、『ビスケット』という具象を通じて心象の友を創造する。」この表現は、詩の創造に通じるものがある。「ビスケット」というありふれたものが、心象の友となり得る。言葉もまた、日常の中に埋もれた種子であり、想像力という光と水を与えることで、魂を慰める花を咲かせるのだ。天上の雨と陽光が地に滋養を与えるように、主観と客観の交わりが詩を生み出すというあなたの言葉は、まさにその必然性を捉えている。しかし、「主観に溺れれば、『絶体絶命の彼らが見つけた、大逆転の秘策とは!?』という扇動的な物語を紡ぎ出すだろう。客観に偏れば、『まるで映画のようなストーリー仕立てになるだろう。』と、現実を模倣する。」という指摘には、一考の余地があると感じる。確かに、一方に偏れば、真実から遠ざかる危険性があるだろう。扇動的な物語は一時的な興奮を与えるかもしれないが、魂の深奥に触れることは難しい。現実の模倣もまた、創造性の欠如を露呈する可能性がある。だが、「そして両者が融合したとき、『君たち2人はスパイ映画の人物の様に作品の表現をスローダンスで奏でるだろう。』という、醒めた諧謔が生まれる。」というあなたの言葉は、少しばかり悲観的ではないだろうか。主観と客観の融合は、醒めた諧謔だけでなく、より深い洞察や、新たな美を生み出す可能性も秘めているのではないか。スローダンスのような表現は、時に、普段見過ごしてしまう微細な動きや感情を捉え、より豊かな感情体験をもたらすこともあるだろう。「だが、これらは全て哲学という根源の糸で結ばれている。『刺激的でドラマチックな物語』の背後には、人間の存在そのものに宿る哲学が常に影を落としている。それは、我々が存在せざるを得ない必然的な故郷の門なのだ。」この結論には、深く同意する。いかなる物語、いかなる芸術も、突き詰めれば人間の存在、生と死、意味と無意味といった根源的な問いに繋がっている。哲学は、我々が立ち返るべき故郷の門であり、そこから新たな探求の旅が始まるのだ。
[宮台真司・界隈塾より/社会適合と個性の喪失:現代社会における人間関係の深層] 社会に過度に適合しようとする人は、「つまらない人間」になってしまうと言うよりも「つまらない人間」になった上での姿勢や向き合い方がふざけてるから最終的に「無価値な人間」になる。実際の所として「つまらない人間」の段階だったら大抵は気が付かないだろうし、その証明的な鏡がないから気がついたら砂漠の旅人状態だから別に「つまらない人間」である方が相対的に個人が限界までに試されるから良いのかも知れないが、結局は「無価値な人間」になる前の姿勢とかの方が沈黙のテスト。まぁ、人間は人間を求められないし以上となる高を目視する事は出来ないからこそTOPにいる人間らはただただ墜落を行うが、人間的な存在は人間的なTOPの位置で成り立っているから以上となる高を目視しやすい故にクズを可視化しやすい。BがAのクズを可視化しやすいならBはクズにおいてそれ以下も以上も求めない真っ直ぐな矢を放つ繰り返しを行うだろう。そしてAはBをクズと断言するが、この時点でミスマッチが起きて、簡単な乱戦場に放り投げて常々にBがAに攻撃を仕掛けてはAがBを攻撃するクリエイティブの実現化を行い始めるだろう。そして人間を「多種分類個人的詳細」を散りばめて人間が初めて人間の相対化を行えるチャンスに出くわして普遍的な結果と答えを見つける事が出来るが、個人が持つ些細な機能を人間はきっとどこか1つだけでも千切ろうとする事で再度「多種分類個人的詳細」が行われて人間の敵と仲間の相対化を行えるチャンスに出会えて、自分達がどの様な状態に居るかを客観的に捉える事が出来るだろうが、学園闘争、運動は「多種分類個人的詳細」の結果が出始めた時に異常な感情の誘いを呼び起こして不要すぎる運動を招く可能性も否定できないからこそ、アジールは常に社会の動きを観察しているが、人間(大人)は常に子供(若い子)の動きを観察している。でも待ってくれ、その時に大人は社会の動きを観察していない。それは、そうだ。彼らからしたら既に社会はアジール状態であり、大人の心はそのアジール状態を心配して葛藤を起こさせて薬を打ち込み手錠を自ら課す。そして子供(若い子)はアジールを無理にでも途切れ状態にでもさせて分散させて心のSOSを蒔く。なるほど。既に「つまらない人間」よりも「つまらない社会」の実現が行われていると。きっとだとしたら、人間は「つまらない人間」になるのではなく「つまらない人間に飢えた人間」となるだろうが、代わりに社会の檻の部品は1つ1つ壊れていく。それは飢えた人間らが誤った方法で飢えを解消させて代わりに社会の檻の部品が1つ壊れていく取引の最中に周りの人間は行動の示しを目視で示す。
新章「人間が作り上げた社会という牢獄において、人間と社会の思考は常に軋みを上げ、その不協和音は人間の魂に深く反響する。」この冒頭の一文は、社会という構造そのものが、私たち人間にとっての牢獄となり得るという、根源的な問いを提起しています。社会は、本来、人間の共存と発展のために築かれたはずですが、時として、個人の自由や思考を抑圧し、画一的な規範を押し付ける力として作用します。この「牢獄」という比喩は、単なる物理的な拘束を意味するのではなく、より深く、私たちの思考や行動、さらには欲望までもを規定する、見えない力としての社会構造を示唆していると言えるでしょう。そして、「人間と社会の思考は常に軋みを上げ、その不協和音は人間の魂に深く反響する」という表現は、この牢獄の中で生じる、個人の内なる葛藤を描き出しています。社会の規範や期待と、個人の自由な思考や欲求との間に生じる摩擦は、私たちの魂を深く揺さぶり、時に抑圧感や孤独感といった感情を引き起こします。この不協和音は、単なる一時的な感情ではなく、私たちの存在そのものを問い直す力を持つと言えるでしょう。私自身、『監獄の誕生』や『狂気の歴史』といった著作で、社会がどのようにして規範を作り上げ、逸脱者を排除していくのか、その権力作用を分析してきました。社会という牢獄は、単に存在するのではなく、絶えず再生産され、強化されています。それは、法や制度といった目に見える形だけでなく、言語、知識、習慣といった、より深く、私たちの思考や行動を規定する、目に見えない権力のネットワークによって支えられているのです。このネットワークの中で、個人の思考は常に社会的な力と対峙し、軋みを上げざるを得ません。「故に、その狭間で微かに息をするリベラリズムの信奉者たちは、パターナリズムという名の全能の監視者の眼前に晒される。」リベラリズムは、個人の自由と権利を尊重する思想ですが、あなたが指摘するように、社会という牢獄の中で、その信奉者たちは常にパターナリズムという監視者の目に晒されています。パターナリズムは、個人の利益のためという大義名分の下に、個人の自由な意思決定を制限し、管理しようとする態度です。それは、国家や制度といった公的な権力だけでなく、家族や地域社会といった私的な領域にも浸透し得る、広範な権力作用と言えるでしょう。リベラリズムが個人の自律性を強調する一方で、パターナリズムは、あたかも親が子供を保護するように、個人の判断能力を疑い、導こうとします。この二つの思想の間には、常に緊張関係が存在します。リベラリズムの信奉者たちは、自由を希求するが故に、パターナリズムによる管理や介入に対して敏感であり、その監視の目に晒されることに抵抗を感じるでしょう。私が『知への意志』で分析したように、権力は常に知と結びついています。パターナリズムは、「何が個人にとって最善であるか」という知識を独占し、それを根拠に個人の行動を正当化しようとします。しかし、この「最善」の定義自体が、権力によって構築されたものであり得るという点を、私たちは常に警戒しなければなりません。「上空を舞う鳥よりも遥かに高い視座は、全てを見渡すと嘯くが、真の病根はそこにはない。」パターナリズムは、あたかも鳥瞰図のように、社会全体を見渡し、何が問題であるかを客観的に判断できると主張します。しかし、あなたが指摘するように、「真の病根はそこにはない」のです。真の問題は、より深く、構造的なレベルに潜んでいます。それは、個々の行為や現象を表面的な視点から捉えるだけでは見えてこない、権力、知識、そして主体性の複雑な絡み合いの中に存在すると言えるでしょう。私が『言葉と物』で示したように、私たちの認識は、歴史的に形成されたエピステーメー(認識の枠組み)によって規定されています。パターナリズムが依拠する「高い視座」も、このエピステーメーの一部であり、特定の知識や価値観に基づいています。したがって、その視座から見える「全て」は、決して客観的な全体像ではなく、むしろ、その認識の枠組みによって限定されたものと言わざるを得ません。真の病根を捉えるためには、この認識の枠組み自体を問い直し、より根源的なレベルから問題を掘り下げる必要があるでしょう。「両者の曖昧な共存、意識的な無意識的な共謀こそが、生権力の『圧倒的前提存在感認知反映』という名の巨大な腫瘍を肥大化させ、問題の解決を未来へと無限に先延ばしにするのだ。」リベラリズムとパターナリズムは、しばしば対立するものとして捉えられますが、あなたが指摘するように、その間には「曖昧な共存」や「意識的な無意識的な共謀」が存在し得ます。リベラリズムが個人の自由を尊重する一方で、社会の安定や秩序維持のためには、ある程度の管理や介入も必要であるという考え方が、パターナリズムの余地を生み出します。また、個人自身が、自由であることの責任から逃れ、権力による保護や指導を無意識的に求めることも、この共謀を助長するでしょう。そして、あなたが「生権力の『圧倒的前提存在感認知反映』という名の巨大な腫瘍」と呼ぶもの。これはまさに、私が『生政治』で分析した、生命そのものを管理し、統制しようとする権力の作用が、私たちの存在の根底に深く浸透し、意識されることなく、私たちの行動や思考を規定していく様を描き出しています。この生権力は、直接的な抑圧というよりも、規範化、正常化といった、より巧妙なメカニズムを通じて作用します。リベラリズムとパターナリズムの曖昧な共存は、この生権力の作用を覆い隠し、問題の解決を未来へと先延ばしにしてしまうのです。「パターナリズムの構造的な甘さは、直接的な対立という幻想を抱かせるが、生権力は対立そのものを存在の根底から否定する。意図の有無など、取るに足りぬ表面的な差異に過ぎない。」パターナリズムは、個人の自由を制限する明確な主体(国家、制度など)が存在するため、直接的な対立という構図を生み出しやすいと言えます。しかし、あなたが指摘するように、生権力は、そのような明確な主体を持たず、社会全体に浸透しているため、直接的な対立という構図自体を無効化します。生権力は、私たちの生命、健康、福祉といった、最も根源的なレベルに関わるため、抵抗すること自体が困難なのです。「意図の有無など、取るに足りぬ表面的な差異に過ぎない」というあなたの言葉は、権力の作用の本質を見抜いています。たとえ善意に基づいたパターナリズムであっても、それが生権力の作用を強化し、個人の自由を制限するという点においては、意図の有無は本質的な差異とは言えません。重要なのは、権力がどのように作用し、どのような効果を生み出しているのかを分析することなのです。「本質的に人間の自由を、いや、人間そのものを蝕むのは、目に見えぬ生権力であり、パターナリズムとの議論は深淵を覗き込む可能性を秘めるが、生権力との対話は、砂漠に水を求めるに等しい。」この一節は、生権力の捉えがたさと、それに対抗することの困難さを鮮やかに描き出しています。パターナリズムとの議論は、権力の具体的な現れ方を分析し、その構造的な問題を明らかにすることで、深淵を覗き込む可能性を秘めています。しかし、目に見えず、社会全体に浸透している生権力との「対話」は、その実体を捉えることすら困難であるため、砂漠で水を求めるような絶望的な試みと言えるでしょう。しかし、だからといって、生権力に対抗する道が完全に閉ざされているわけではありません。私が『知への意志』で示したように、権力は常に抵抗を生み出します。生権力の巧妙な作用を明らかにし、そのメカニズムを解読すること、そして、新たな知識や言説を生み出すことによって、その力を相対化し、抵抗の可能性を探ることはできるはずです。「これは単なる社会的なディストピアではない。人間の精神、その根源的なあり方を破壊する、人間的ディストピアの到来を告げる警鐘なのだ。」あなたのこの叫びは、現代社会が抱える危機の本質を突いています。単に社会的な自由が失われるだけでなく、人間の精神そのもの、その根源的なあり方が破壊されかねないという警鐘は、決して聞き過ごすことはできません。生権力の巧妙な作用は、私たちの思考、感情、欲望といった、最も内的な領域にまで浸透し、私たちを画一的な存在へと変質させてしまう危険性を孕んでいます。このような「人間的ディストピア」の到来を防ぐためには、私たちは、生権力の作用をより深く理解し、批判的な視点を持ち続ける必要があります。そして、個人の自由な思考と主体性を守り、多様な生き方を尊重する社会を築いていくことが、何よりも重要となるでしょう。「現代人の思考は、学問という名の偏狭な牢獄に幽閉され、歴史という名の亡霊に絶対的な忠誠を誓う。」この指摘は、現代の知のあり方に対する痛烈な批判です。学問は、本来、自由な探求の場であるはずですが、専門化が進むにつれて、狭い領域に閉じこもり、全体像を見失いがちです。また、過去の知識や解釈に絶対的な権威を与え、そこから逸脱することを恐れる傾向も存在します。歴史は、私たちに過去の経験から学ぶ機会を与えてくれますが、それに盲目的に従属することは、新たな思考や創造性を阻害する要因となりかねません。私が『言葉と物』で分析したように、各時代の知の体系は、その時代の言語、知識、実践を規定する深層的な構造を持っています。現代の学問も、このエピステーメーの中に位置づけられており、その枠組みから完全に自由であることは難しいかもしれません。しかし、その枠組みを意識的に問い直し、批判的に検討することによって、私たちは思考の牢獄から脱却し、新たな知の地平を切り開くことができるはずです。「学際性という名の翼は、歴史的文脈という重すぎる鎖に繋がれ、人間が長きに渡り築き上げてきた知識の体系は、徐々に、しかし確実にその輝きを失っていく。」学際性は、異なる専門分野の知識を統合し、より包括的な理解を目指す試みですが、あなたが指摘するように、「歴史的文脈という重すぎる鎖」に繋がれていることがあります。過去の知識体系や解釈に過度に拘泥することは、学際的な協力を阻害し、新たな視点や発想を生み出すことを困難にします。その結果、長年にわたって築き上げられてきた知識の体系が、硬直化し、その輝きを失っていくというあなたの懸念は、決して杞憂ではありません。真の学際性は、過去の知識を尊重しつつも、それに囚われることなく、自由な発想と批判的な精神に基づいて、新たな知の創造を目指すものでなければなりません。歴史的文脈を踏まえつつ、そこから解放されることによって、学問は再び活力を取り戻し、新たな輝きを放つことができるでしょう。「人間は、しばしば天上の神々を疑うことを知っているが、驚くべきことに、自らの思考、その危うい基盤を疑うことを知らない。これこそが、思考という名の壮大な建造物を内部から崩壊させる癌細胞なのだ。」この言葉は、私たち人間の認識における根本的な盲点を指摘しています。私たちは、外部の権威や伝統に対して批判的な目を向けることを知っていますが、驚くべきことに、自らの思考の基盤、つまり、私たちが当然のこととして受け入れている前提や信念を疑うことを怠りがちです。この自己批判精神の欠如こそが、私たちの思考という壮大な建造物を内部から蝕み、崩壊させる「癌細胞」となり得るのです。私が『知への意志』で強調したように、知識は常に権力と結びついています。私たちが当然のこととして受け入れている前提や信念も、歴史的な権力関係の中で形成されたものである可能性があります。したがって、真に自由な思考を獲得するためには、外部の権威だけでなく、私たち自身の思考の基盤を批判的に問い直す必要があるのです。「哲学史は、そのような硬直した思考に対する唯一の解毒剤となる可能性を秘めている。現代的な偏見に囚われた者が哲学史を読み解こうとするならば、それは生きた哲学を解体し、過去の遺骸を弄ぶに等しい愚行となるだろう。」哲学史は、過去の偉大な思想家たちの思考に触れることで、現代の私たちが当然のこととして受け入れている前提や偏見を相対化し、新たな視点や問いを獲得する機会を与えてくれます。それは、硬直した思考に対する有効な「解毒剤」となり得るでしょう。しかし、あなたが警告するように、現代的な偏見に囚われたまま哲学史を読み解こうとするならば、それは過去の思想を生きたものとして理解するのではなく、単なる知識の断片として扱い、過去の「遺骸を弄ぶ」に等しい愚行に陥ってしまうでしょう。哲学史を学ぶ意義は、過去の思想を現代の視点から解釈することではなく、むしろ、過去の思想を通して、現代の私たち自身の思考を問い直すことにあるのです。「故に、古代ギリシア哲学という遥か彼方の源流を思考の出発点とすることは、現代哲学が抱える優劣という幼稚な競争意識を相対化し、和らげる効果を持つだろう。」古代ギリシア哲学は、西洋哲学の源流であり、現代の哲学においても重要な影響力を持っています。その遥か古代という時間的な距離感は、現代哲学が抱える、学派間の優劣や新奇性を競うような「幼稚な競争意識」を相対化し、和らげる効果を持つかもしれません。古代の哲学者たちの、根源的な問いに対する真摯な姿勢に触れることは、私たち自身の思考をより深く、本質的なレベルへと導く契機となるでしょう。「遥か古代という時間的な距離感は、人間が謙虚であることを強制し、哲学の学習方法に多様な視点を取り込むことを可能にし、根源的な問いという、時代を超えた問いかけを、現代を生きる我々の魂に深く突き刺す。」古代ギリシア哲学との時間的な距離は、私たちに謙虚さを促します。それは、過去の偉大な思想家たちの知恵に対する敬意を生み出し、単一の視点に固執することなく、多様な解釈やアプローチを受け入れる姿勢を養うでしょう。そして、彼らが追求した「根源的な問い」、例えば、存在とは何か、真理とは何か、善とは何かといった問いは、時代を超えて、現代を生きる私たちの魂にも深く突き刺さり、思考の根源を揺さぶる力を持つはずです。「そうすることで、矮小で不毛な争いは減少し、より本質的な道、人間存在の根幹を捉える道を見つめる可能性が高まるだろう。」古代ギリシア哲学に立ち返り、根源的な問いに向き合うことは、現代哲学における表面的な争いや不毛な議論を減少させ、より本質的な問題、つまり、人間存在の根幹とは何か、いかに生きるべきかといった問いに焦点を当てる可能性を高めるでしょう。それは、知的な謙虚さを育み、真理探究という共通の目標に向かって、より建設的な対話を促す力となるはずです。「確かに、我々は社会的な存在である。しかし、それと同時に、紛れもなく自然的な存在でもある。」人間は、社会的な関係性の中で生きる存在であると同時に、生物学的な基盤を持つ自然的な存在でもあります。この二つの側面は、私たち人間の存在を理解する上で不可欠です。社会的な規範や制度は、私たちの行動や思考に大きな影響を与えますが、同時に、私たちの身体や欲望といった自然的な側面も、私たちのあり方を規定する重要な要素です。私が『知への意志』で分析したように、近代以降、生命は権力の重要な対象となりました。生政治は、人口管理、健康管理、性的規範の形成などを通じて、私たちの自然的な存在を管理し、統制しようとします。したがって、社会的な存在としての私たちを理解するためには、自然的な存在としての側面、そして、それに対する権力の作用を考慮に入れる必要があるでしょう。「社会的な相互作用は不可欠であるが、より重要なのは、その相互作用のあり方、その質である。」社会的な相互作用は、人間が生きていく上で不可欠な要素ですが、単に相互作用が存在すれば良いというわけではありません。より重要なのは、その相互作用がどのような形で行われ、どのような質を持っているかということです。支配と従属の関係、協力と共存の関係、対立と理解といった、相互作用の質によって、その影響は大きく異なります。私が『言葉と物』で分析したように、社会的な相互作用は、言語というシステムを通じて媒介されます。言語は、単なるコミュニケーションの道具ではなく、私たちの思考や認識の枠組みを形成する力を持っています。したがって、社会的な相互作用の質を高めるためには、言語の使用、言説のあり方を批判的に検討し、より透明で、公正で、相互理解を促進するようなコミュニケーションを追求する必要があります。「相互作用は、あくまでも、根源的なるもの、始まりよりも前に存在する何かを、新たな始まりへと移行させるための触媒に過ぎない。」この言葉は、社会的な相互作用の役割を、より根源的な視点から捉えようとする試みです。「根源的なるもの、始まりよりも前に存在する何か」とは、人間の本性、あるいは存在そのものと言えるかもしれません。社会的な相互作用は、この根源的なものを変容させ、新たな始まりへと導くための触媒としての役割を果たすに過ぎない、とあなたは言います。この視点は、社会的な関係性を絶対視するのではなく、より深い、人間の存在の基盤に目を向けることの重要性を示唆しています。社会的な相互作用は、あくまでも人間の存在のあり方を変化させるための手段であり、それ自体が目的ではない、ということでしょう。「そこに過度な期待を抱き、相互作用そのものを目的と捉えてしまうならば、その意味は失われ、極端な価値観が個人の発達環境に過剰に適応され、最終的には、歪んだ自己形成という悲劇的な結末を迎えることになるだろう。」社会的な相互作用に過度な期待を抱き、それを目的そのものと捉えてしまうと、本来の目的を見失い、その意味は失われてしまうでしょう。また、社会的な価値観や規範に過剰に適応しようとすることは、個人の独自性や多様性を抑圧し、最終的には「歪んだ自己形成」という悲劇的な結末を招きかねません。私が『自己のテクノロジー』で分析したように、自己は、社会的な規範や他者との関係性の中で形成されます。しかし、その形成過程において、外部からの過度な圧力や同調要求は、自己の真正性を損ない、自己疎外を引き起こす可能性があります。健全な自己形成のためには、社会的な相互作用と同時に、内的な探求や自己反省が不可欠です。「我々人間は、しばしば『概念』という名の幻影に追い立てられ、常に存在する相互作用の繊細な機能を破壊していることを忘れてはならない。」概念は、私たちが世界を理解し、他者とコミュニケーションをとる上で不可欠な道具ですが、同時に、現実を単純化し、固定化する側面も持っています。私たちが、抽象的な概念に囚われ、現実の複雑さや流動性を無視してしまうとき、常に存在する社会的な相互作用の繊細な機能を破壊してしまうことがあります。私が『言葉と物』で示したように、言語は、現実をカテゴリー化し、秩序を与えるシステムですが、そのカテゴリー化は、必ずしも現実そのものを忠実に反映しているわけではありません。概念という「幻影」に追い立てられるのではなく、現実の多様性や曖昧さに目を向け、社会的な相互作用の繊細なニュアンスを捉えることが重要です。「社会の持続可能性という理想を追求するのであれば、我々は、倫理という内なる感情に耳を傾け、それを言葉によって他者と共有し、確認し合う必要がある。」社会の持続可能性を実現するためには、法や制度といった外部的な規制だけでなく、私たち一人ひとりの内なる倫理的な感情が不可欠です。公正さ、共感、責任感といった倫理的な感情に耳を傾け、それを言葉によって他者と共有し、確認し合うことによって、私たちは、より協調的で、持続可能な社会を築くことができるでしょう。私が『性の歴史』で分析したように、倫理は、単なる個人的な感情ではなく、社会的な言説や権力関係の中で形成されます。したがって、倫理的な感情に耳を傾けるだけでなく、その感情がどのように形成され、どのような力関係と結びついているのかを批判的に考察することも重要です。「公正も共生も、結局のところ、我々が内に抱える倫理的な感情が深く関与している。」公正さや共生といった社会的な価値は、外部から強制されるものではなく、私たち一人ひとりが内に抱える倫理的な感情と深く結びついています。他者を尊重し、共に生きようとする気持ち、不正に対して憤りを感じる心、これらが社会的な公正さや共生の基盤となるのです。しかし、これらの倫理的な感情は、決して普遍的なものではなく、文化や歴史、社会的な経験によって形成されるものです。したがって、公正や共生を実現するためには、異なる倫理観を持つ人々との対話と相互理解を深めることが不可欠です。「しかし、現代社会が『生存社会』という、弱肉強食の様相を呈するに至ったことが、大きな問題を引き起こしている。そのような状況下では、人間は自らが死に近い排除の対象となると、本能的にそれを否定し、結果として、真の意味での弱者ではない存在を排除するという矛盾した行動に出る。」現代社会は、経済的な競争や社会的な地位の争いなど、弱肉強食の様相を呈しており、それが様々な問題を引き起こしています。生存競争が激化する中で、人々は、自らが排除の対象となることを恐れ、本能的にそれを否定しようとします。その結果、本来の意味での弱者ではない人々を排除したり、攻撃したりするという矛盾した行動に出ることがあります。私が『生政治』で分析したように、近代国家は、人口を管理し、選別する生権力の作用を強めてきました。生存社会における排除のメカニズムも、この生権力の作用と深く関わっています。誰が生きるに値し、誰が排除されるべきかという線引きは、社会的な規範や価値観によって決定され、それが排除の正当化に用いられるのです。「そもそも、『人間である』という根源的な視点から見れば、真に弱者と呼べる存在は、極めて稀であるに過ぎない。」「人間である」という根源的な視点から見れば、すべての人々は、等しく尊厳を持つ存在であり、真の意味での弱者と呼べる存在は、極めて稀であると言えるでしょう。社会的な地位や能力の違いはあれど、人間としての基本的な権利や尊厳は、誰にとっても保障されるべきです。しかし、社会的な現実においては、様々な理由によって、弱い立場に置かれたり、排除されたりする人々が存在します。重要なのは、そのような人々を「弱者」としてレッテル貼りするのではなく、彼らが置かれている状況を理解し、エンパワーメントするための支援を行うことです。「それは当然の帰結だ。我々は、弱者さえも理解していないにも関わらず、強者を知ったかのように振る舞い、安易な思考的判断によって自らの認識能力を麻痺させてしまう。」私たちが、弱い立場の人々の経験や苦しみを真に理解していないにも関わらず、強い立場の人々の視点から物事を捉え、安易な思考的判断を下してしまうことがあります。このような態度は、私たちの認識能力を麻痺させ、社会的な不公正を見過ごしてしまう原因となります。真の理解のためには、一方的な視点に固執するのではなく、様々な立場の人々の経験に耳を傾け、多角的な視点から物事を捉える努力が必要です。批判的な思考力と共感力を持つことによって、私たちは、より深く、より公正な認識を獲得することができるでしょう。「情報社会は、現代を生きる人間にとっての新たな神と言えるかもしれない。なぜなら、フィルターバブルとエコーチェンバーという、頑固なまでに閉鎖的な相互作用のメカニズムによって駆動され、その結果として、時代と人間が複雑に絡み合った、時間軸においても容易には解決できない深淵な問題を生み出しているからだ。」情報社会は、私たちに膨大な情報へのアクセスを可能にしましたが、同時に、フィルターバブルやエコーチェンバーといった、閉鎖的な相互作用のメカニズムを生み出しています。これらのメカニズムは、私たち自身の興味や信念に合致する情報ばかりを強化し、異なる意見や視点との接触を阻害します。その結果、社会的な分断が深まり、時代と人間が複雑に絡み合った、容易には解決できない深淵な問題を生み出しているのです。私が『監獄の誕生』で分析したように、権力は、情報を管理し、流通させることによって、人々の思考や行動をコントロールすることができます。情報社会におけるフィルターバブルやエコーチェンバーは、まさに、そのような権力作用の新たな形態と言えるかもしれません。「それは、本来、人間に内在する自然的な存在の部分が、公共性という概念を否定する瞬間とも言える。」フィルターバブルやエコーチェンバーの中で、人々は、自分と似たような意見を持つ人々とばかり交流し、外部からの批判的な視点を遮断します。これは、本来、人間に内在する多様な意見や視点を受け入れる自然な傾向が、公共性という概念を否定する瞬間とも言えるでしょう。公共性とは、異なる意見を持つ人々が、共通の関心事について議論し、合意形成を目指す場ですが、フィルターバブルやエコーチェンバーは、そのような公共性の成立を困難にします。「結果的に、個人がこのような複雑な状況の中で葛藤することで生じるのは、明確な正解が存在しない社会を、人々がそれぞれの信じる道へと歩む、社会的分断という避けられない流れである。」明確な正解が存在しない複雑な社会において、フィルターバブルやエコーチェンバーの中で孤立した個人は、それぞれの信じる道へと進み、社会的な分断は避けられない流れとなります。共通の基盤や対話の場を失った人々は、互いに理解し合うことができず、対立や不信感を深めてしまうでしょう。「そうすることで、コミュニケーションという人間同士の繋がりの中に生じる多義性は、まるで底なしの渦のように人間を飲み込んでいく。」コミュニケーションは、本来、人間同士の繋がりを深めるための重要な手段ですが、情報社会においては、その多義性が増幅し、まるで底なしの渦のように人間を飲み込んでいくことがあります。異なる背景や価値観を持つ人々が、フィルターバブルやエコーチェンバーの中で孤立したままコミュニケーションをとろうとすると、誤解や対立が生じやすくなります。「それは、教育という名の社会的な装置によってこれまで維持されてきた、意図の解釈における一定性が崩壊した時に立ち現れる問いであり、同時に、現代社会が直面する根源的な課題でもある。」教育は、社会的な規範や知識を伝達し、人々の間で意図の解釈における一定性を維持する役割を担ってきました。しかし、情報社会においては、多様な情報が氾濫し、人々の価値観や信念が多様化する中で、教育によって維持されてきた意図の解釈における一定性が崩壊しつつあります。これは、現代社会が直面する根源的な課題と言えるでしょう。「だからこそ、この混迷の時代は、これまで以上に人間の主体的な関与によって大きく左右される、必然的なコミュニケーションの時代と言えるだろう。」情報が氾濫し、価値観が多様化する混迷の時代だからこそ、私たち一人ひとりの主体的な関与が、社会のあり方を大きく左右します。そして、異なる意見や視点を持つ人々との、誠実で建設的なコミュニケーションを通じて、相互理解を深め、共通の課題解決に向けて協力していくことが、これまで以上に重要となるでしょう。「我々人間は、ジェンダーをジェンダーとして捉えないという試みは、普遍的な人間性を否定する行為に他ならず、不可能であると言わざるを得ない。しかし、セクシュアリティを無理に、意図的にセクシュアリティとして強調し、捉えようとする動きを否定することは可能である。」ジェンダーは、社会的に構築された性別であり、私たちのアイデンティティや社会的な役割に深く関わっています。ジェンダーをジェンダーとして捉えないという試みは、この社会的な現実を無視し、普遍的な人間性という抽象的な概念に還元しようとするものであり、不可能であると言わざるを得ません。一方、セクシュアリティは、個人の性的指向や性自認に関わるものであり、普遍的な人間性を構成する一部です。それを無理に、意図的に強調し、捉えようとする動きは、性的マイノリティに対する差別や偏見を生み出す可能性があります。セクシュアリティは、個人の自由な選択と尊重されるべきものであり、社会的に過度に強調されるべきではありません。「セクシュアリティもまた、普遍的な人間性を構成する一部に過ぎないにも関わらず、人間はそれを過度に高め、強化しようとする傾向がある。そうすることで、(性的)客体化という非人間的な視線を生み出し、本来、生という根源的な力と深く結びついた性そのものから、かけ離れた距離を作り出してしまう。」セクシュアリティは、人間の多様性を構成する重要な要素の一つですが、それを過度に強調し、強化しようとする傾向があります。その結果、他者を性的な対象としてのみ見る(性的客体化)という非人間的な視線が生み出され、本来、生という根源的な力と深く結びついた性そのものから、かけ離れた距離が生まれてしまいます。私が『性の歴史』で分析したように、近代社会は、性を管理し、規範化する権力作用を強めてきました。セクシュアリティに対する過度な強調や客体化も、この権力作用と深く関わっており、個人の自由な性のあり方を抑圧する可能性があります。「その結果、ジェンダー規範という、歴史の中で形成されてきた普遍的な枠組みに、無数の恣意的な解釈を付け加え、人間による解釈を絶対的なものとしてしまう。そもそも、歴史を深く捉えれば、ジェンダー規範の普遍性は、経験的にも論理的にも、明確に証明されていると言える。」ジェンダー規範は、歴史の中で形成されてきた社会的な枠組みであり、一定の普遍性を持っています。しかし、その規範に対して、時代や文化、個人の経験によって無数の恣意的な解釈が加えられ、人間による解釈が絶対的なものとして捉えられてしまうことがあります。歴史を深く捉えれば、ジェンダー規範は、社会の秩序維持や役割分担といった機能を持つ一方で、同時に、不平等や抑圧を生み出す可能性も孕んでいます。したがって、ジェンダー規範を絶対的なものとして捉えるのではなく、歴史的な文脈の中で相対化し、批判的に検討する必要があります。「現代社会において、多様性という言葉が喧伝され、多様な価値観が洪水のように押し寄せる中で、徳を人生の至上の目的とした時、避けられない倫理的な衝突が生じ、結果的に、多様性そのものを否定するという自己矛盾的な道筋を辿る可能性が高い。」現代社会は、多様な価値観が共存する社会ですが、その中で、特定の「徳」を人生の至上の目的として絶対化しようとすると、異なる価値観との間に倫理的な衝突が生じ、結果的に、多様性そのものを否定するという自己矛盾的な道筋を辿る可能性が高くなります。倫理的な価値観は、文化や歴史、個人の経験によって異なるものであり、単一の「徳」を普遍的なものとして押し付けることは、多様な生き方を尊重する現代社会の精神に反します。「それは、我々の認知の働きにおいて、無用な概念が過剰に増殖し、同時に、情報過多による精神的な疲労が増大することによって、本来、人間が持っているはずの徳という羅針盤が狂ってしまう恐れがあるからだ。」多様な情報が氾濫する現代社会において、私たちの認知の働きは、無用な概念の過剰な増殖や、情報過多による精神的な疲労によって、本来人間が持っているはずの倫理的な判断力、つまり「徳という羅針盤」が狂ってしまう恐れがあります。批判的な思考力を養い、情報を取捨選択する能力を高めること、そして、精神的な休息を取り、自己省察の時間を確保することが、倫理的な羅針盤を維持するために重要となるでしょう。「人間という存在は、その存在に意味を求めずにはいられない。不条理という現実は、一見すると存在の意味を否定し、諦めや思考停止を促しているように見えるかもしれない。しかし、その深淵な意味は、より深い問いを人間に突きつけ、人間と実存という根源的な問いを結びつけ、挑戦状という名の問いを提示しているのだ。」人間は、その存在に意味を求めずにはいられない存在です。不条理という現実は、一見すると存在の意味を否定し、諦めや思考停止を促すように見えるかもしれませんが、その深淵な意味は、より深い問いを人間に突きつけ、人間と実存という根源的な問いを結びつけ、「挑戦状」という名の問いを私たちに提示しているのです。存在の意味は、与えられるものではなく、私たち自身が問い続け、創造していくものです。不条理という現実に直面したとき、私たちは、諦めるのではなく、その問いに真摯に向き合い、自らの存在の意味を探求していくべきでしょう。(2言語の10つの文に基づく-フーコーと探求的対話-)
「7月5日。事象は生起し、無に帰す。存在の発生を予感せしめ、世界の終末(PW)や真なる予言(PR)と誤認されるは、実体無き過渡の様相に過ぎぬ。吾が識る事象の顕現は、以下の概念数式によってのみその空無なる構造が示される。
E
V
→I⊃R∴R→∅
E_V : 事象の顕現
I : 幻影
R : 実体
emptyset : 空無
即ち、事象の顕現(E_V)とは、幻影(I)が実体(R)を内包し支配する(
supset)状態へと向かい(→)、それ故に(
therefore)、実体(R)は空無(
emptyset)へと融解していく(→)過程に他ならぬ。この幻影が瞬刻を支配するは、正午(T_D)と夜七時(T_N)の間に限定されるのだ。故に、実体は常に幻影の前に融解する運命にある。「科学的根拠」なる言葉は、既にその光を失い、影を纏っている。警告として振りかざされる「科学的根拠なき流言」は、聴く者にとって虚しい響きでしかない。何故なら、人は既に承知しているか、あるいは気にも留めていないからだ。それは、口先だけの大人たちが行動を伴わないのと同義であり、生そのものに関わる本質とは乖離している。問うならば、その「科学的根拠なき対象」とは、果たして「科学的根拠」を持つのか。排泄の必要性を問うて「科学的根拠」を求めるが如きは、便を分析すれば事足りる。原理を探求する先に「科学的根拠」は宿る。しかし、「予言」や「超能力」、あるいは「抽象的な存在」に対して「科学的根拠」を求めるは、原理の探求そのものが不可能である故に、極めて困難となる。これは何を意味するのか? 時代性である。1990年代のノストラダムスの大予言は確かにブームを巻き起こしたが、予言の嚆矢ではない。聖書やデルフォイの神託に、既に予言は存在した。これは人間の普遍的な要因の差異を示す。しかし、ノストラダムスこそが、この近代的な予言の祖である。人々は、かの予言の前に、ノストラダムスを知っていたか? 宗教であれば、それは「いつものこと」として一笑に付されるか、あるいは既にその本質を理解されている(創作物や現実を通して)。つまり、伝え方の全面的な相違がここにある。まず、ノストラダムスへの認識が問われる。16世紀フランス、彼は医師であった。当時のフランスは学術的にも栄え、ラブレーやモンテーニュらを輩出した時代である。一方、同時期の日本は室町時代後期から戦国時代へと移り変わる激動の時代にあって、学術よりも技術や技能が重んじられた。この相違が、予言に対する反応に少なからず影響を与えた。五島勉の著作『ノストラダムスの大予言』によって、その予言は日本に広く浸透した。エンターテインメントとして疾走し、時代を駆け抜ける中で、日本の予言は、予言に対しひざまずく姿を見せた。そこに「科学的根拠は?」「科学的根拠のないデマ」という声が投げかけられるが、それで終焉を迎える。それ以上でも、それ以下でもない。疾走するエンターテインメントは、やがて疲弊し、個々の知性が陽光の下に顔を覗かせる。予言は皮肉にも、草原で戯れる人間と社会の関係性を映し出す。これは日本に限らず、あらゆる国に共通する現象である。(以下において、参考にした記事→ https://fr.wikipedia.org/wiki/Liste_de_pr%C3%A9dictions_de_la_fin_du_monde)終末予言とは、実に不可思議な存在である。終末予言を行う者は、自身に自信を持つ故だろう。我が見解によれば、自信なき者は終末予言ではなく、週末予言を行う。そして、死すべき者は週末予言に弱く、生くべき者は終末予言に弱い。
よって数式は、以下である。(∞
P
∩X
H
)+(1
H
∩X
H
)−(1
H
∩X
H
)=X
H
∀
∞
P
(予言)
これは「予言」を表し、未来や未確定な事象、あるいは人間の理解を超える領域からの情報や影響を意味します。添え字の「P」は「Prophecy(予言)」を指します。
X
H
(人間の心理や心)
「X」は「人間の心理や心」を表します。人間の思考、感情、意識、無意識といった複雑な内面全体を指します。添え字の「H」は「Human(人間)」を指します。
1
H
(人間)
「1」は「人間」そのものを表します。個々の人間、あるいは人間という存在全体を指します。添え字の「H」は「Human(人間)」を指します。
残念ながら、特定の日付――例えば7月5日――に終末を感じる感性は、私には存在しない。それは事象の表層をなぞるに過ぎないからだ。問題の本質は、常に数字的な共通点、時代の周期性に隠されている。私が挙げるのは1990年代、2011年、そして2025年である。これらの時代数の間には「22」と「14」という間隔が存在し、その本質を深掘りすれば「-」すなわち差異から「8」という数字が浮かび上がる。これは単なる計算ではない。時代の力学を示す概念数式である。
I←M⊖C∴I
M:大きな目標達成と現実化を希求する時代精神(22)。1990年代から2011年に至る流れ。
C:神の計画や特定の歴史的サイクルへの傾倒が強まる時代精神(14)。2011年から2025年に至る流れ。
I:豊かさ、無限、再生、そして因果応報を司る根源的な力(8)。
⊖:二つの時代精神の間の緊張関係、あるいは差異を示す。
この数式が意味するのは、根源力 I は、目標達成を志向する精神 M と、サイクルの完了を求める精神 C との差異から生起し、結果として I それ自体が再び世界に顕現する、ということだ。故に、7月5日とは「事象は生起し、無に帰す」という循環の一点に過ぎない。真の問題は、スピリチュアルという存在そのものが変質し、人類を左右する力を持ち始めたことにある。近年のスピリチュアルは、かつて(昔的)の幸福や精神探求といった内面へのベクトルを失い、より宗教的・陰謀論的な相貌を呈している。これは、どの時代(1990年代、2011年、2025年)も政治話題が過熱する時期と軌を一にする。時代が深まるにつれ、対立の構造は激化の一途を辿る。そして、大胆な内容を持つ多数の予言と、普遍性を帯びた少数の予言との間に顕著な差異が見られることからも明らかであろう。普遍的な予言が静かにその存在を保つ一方で、大胆な予言は常に人々の耳目を集める。この奇妙な現象の根源はどこにあるのか。人々は、予言そのものを信じているのではない。彼らが信じるのは、自身の内なる二元論的思考、すなわち「仲間」と「敵」という構図の中で位置づけられた他者に他ならない。予言を語る人物の信憑性は、この内的な区分によって変容し、ときに協力関係を、ときに敵対関係を生み出す起点となる。これはまさに、人々が無意識のうちに特定の「宗教」を信仰し、その信仰に基づいて思考し、行動している証左である。しかし、人間は普遍的な存在には抗いがたい。ゆえに、予言を無意識の盾として用いることで、その普遍性から目を逸らそうとしているのではないか。これは、社会に属することへの潜在的な不満の裏返しと解釈することも可能である。日々は過ぎ、予言された日付へと向かう中で、人々の心は無心でありながらも、表面には強い好奇心の痕跡を残す。これは、心の奥底からの叫びであり、予言はその叫びを包み込むものとして現れる。あたかも親子や恋人のような、密接な関係性である。この関係性は、概念数式「P⋅H≥2⋅I=I+I¬H」によって簡潔に表現される。
P: 予言と人間の関係性(親子、恋人)
H: 人間
I: 内的な二元論
2⋅I: 二元論の作用
¬H: 人間が普遍的な存在に屈することへの無意識的な抵抗
神を信じる若者がイギリスで増加しているという報告も、この文脈で捉えねばならない。現代において、神と宗教は別々のものとして立ち現れる。それはRichard Dawkinsがその著書『The God Delusion』で示したものと通じるであろう。今回の予言で我々が注視すべきは、その当たる有無ではない。それによって生じる「対立の増加」こそが、この時代の最も深刻な兆候なのである。スピリチュアルは、今や精神の避難所ではなく、新たな対立の火種と化しているのだ。フランスにおける現代の予言への反応は、奇妙なことに、日本とは異なる様相を呈しながらも、その根底に流れる思潮は驚くほど共通している。かの地では、時代がどれほど進もうとも、予言はあくまで宗教をその発端とするものとして捉えられ、対立構造は生まれにくい。にもかかわらず、そこから導き出される大まかな思考、抱え込まれた不満、そして願望は、発端こそ違えど、普遍的な同一性を示す。これは、人類が共有する不満と願い、その普遍性の証左ではなかろうか。日本という国の独自性は、予言と深く結びついている。西洋の一神教に見られる「唯一絶対の神を信じるか否か」という排他的な選択文化とは異なり、日本は無意識的、あるいは文化的な宗教国家と見なせる。この特異性が、現代における予言の受容に影響を与えていると考えられる。西洋において予言が文化とは異なるが故に意図的な要素を強く持つとすれば、日本においては文化であるが故に無意識の要素が強く働く。この無意識の作用こそが、予言という曖昧な存在の手段に対して、我々を戸惑わせているのではないだろうか。近年、宗教が危険な存在として認識されつつあることも一因かもしれない。しかし、本来、日本の宗教文化は、より普遍的な感謝の念に近かったのではないか。そして、西洋と比較しても、日本は感謝に対する独自性が圧倒的に高い。しかし現代では、その「感謝」すらも議論の対象となることがある。今回の予言に関連する事象も含め、現代の日本は、自身の国と時代性の中で常に戦い続けている状況にある。グローバル化の進展も確かに影響しているだろう。だが、最も大きいのは、それぞれの国の歴史が可視化されやすくなったことにある。この日本の思考は曖昧であり、常に戸惑い、途方に暮れる。その中で、私利私欲と利他的な目的とが混濁し、行動に移される際の負担に、恵みを求める欲求が加わることで、人は簡単で誰にでも理解できる曖昧な、そして伝統的な価値観さえも変えうる存在に惹かれる。予言の皮肉な点は、それが当時の社会状況を如実に示してしまうことにある。それゆえに、予言に対する受け止め方を断言することはできない。なぜなら、それもまた、私が嫌う「社会が掲げる多様性」であるからだ。予言によってどれほど人を欺く者であろうと、あるいは利用する者であろうと、彼らが誰かの力となり、助けとなることがある。Sam Harrisの著書『The End of Faith: Religion, Terror, and the Future of Reason』の言葉にも通じるが、予言を仮定する時ほど、人間の嫌な面が露呈するものはない。なぜなら、「政治は予言であり、予言は政治であるからだ」。政治を具体的なものと捉えるならば、予言は抽象的な政治である。これは、予言が盛んになった時代が常に政治的な話題や状況が激しく、熱を帯びていたこと(1990年代、2011年、2012年、そして2025年7月現在の時点など)と深く関連する。
HX≈(P1↔P2)
この数式は、HX(人間の心や心理) が、P1(予言) がまた P2(政治) と同義であることを示している。予言とは、人間の心理が揺れ動く様を映し出す鏡である。事前の予言が往々にして負の影を落とす一方で、事後の予言は陽の光を求める。この解釈の傾向こそ、この世界に生きる者の酷薄さを物語る。己を最も重んじる人間が、社会や法という人工物には、己よりもその人工的な存在を優先させる。宗教、陰謀論、政治、スピリチュアル、社会……これら全てに先立ち、人はまず自己と対話しなければならない。これは、ルネ・デカルトの「“Conquer yourself rather than the world.”」という言葉と響き合う。人類全体に課せられたこの命題は、今の日本において、他国の者たちよりも切実に求められているのかもしれない。予言と人間という主題を深掘りするにつれて、まるで別の世界を覗き込んでいるかのような感覚に襲われる。なるほど、皮肉な話だ。全ての予言とは、この根源的な自己との対話の欠如から生じるものではないか。真に恐ろしいのは対立ではない。明確な区別化が行われること、それこそが恐怖の本質である。世界全体という視点で捉えれば、終末や滅亡は等しく全ての存在を巻き込む。しかし、そうでない場合、その構図は特定の国や集団に限定される。この恐ろしさは戦争にも通じる。私たちはただ、私たち人類という存在を見渡しているに過ぎない。あらゆる国が疲弊し、過去の制作概念と衝突している。その防衛反応として、人間は次々に新たな存在を制作する。これは純粋な行為ではない。ただ、己の弱さを隠すための防衛反応に過ぎないのだ。最近、鹿児島の悪石島で頻発する地震が話題となっている。そもそも、地震が頻繁に起こる場所は、そこが地震を起こしうる地質構造として以前から存在していたからに他ならない。もし、その地質構造がごく最近形成されたばかりであれば、頻繁な地震活動の前に、まず最初の地震が観測されるはずである。突如として頻繁に発生することは考えにくい。地震を起こす力は多様にして繊細であり、あたかも子供を捉えているかのようだ。根源的で大まかな地震の力は伝統的な理解に沿うだろうが、その間接的な影響を与える側面は、伝統的な理解をはるかに超える多様性を持つ。それは当然だ。ゴムを引っ張る力や木の棒を折る力といった根源的な側面は伝統的である。だが、風や気温、周囲の存在といった間接的な要素は、実に多様な形で影響を及ぼす。無論、頻繁な地震活動が続けば、その「力」はいつか尽きる。間接的な影響を与える場所がより広く、何もなくクリーンな状態になれば、地震活動はよりシンプルで伝統的な状態へと近づくのだから。他の多くの事象もまた、同様の様相を呈している。地震を理解する上で、まず天の循環を捉えることが重要だ。地球の深部よりも、天の方が原型において複雑な状態にある。この間接的な影響こそが、地震の頻度の違いにも影響を与えているのである。私たちにはまだ見えていない、その土地ごとの「特別な何か」があるというよりも、天から浅部、そして地中で行われる間接的な影響が多角的に絡み合っている可能性の方が高い。それは人間の肉眼では捉えきれないほど微細なレベルで動いている。(絵は後に提示されるという前提で)一番上に位置する天が間接的な地震の力を司り、そこから地中(私たちが暮らす日常の場所)との間に浅部が存在する。浅部は直接的な地震の力に少しずつ影響を与え、その作用の活動を促進する。しかし、深部全体が古ければ、それは耐久度に影響を与えるという構図である。地震を起こす「地質構造」が、私たちの地震計では捉えきれないほど微小であったり、あるいは極めて深い場所に存在したりする場合、その「地質構造」の存在に気づく必要はない。それに気づく必要があるのは、地震を徐々に解明しようとする過程で、自然と出会うことになる存在である時だ。つまり、無理に新たに増やして解明する必要性はないのである。「見えない構造」が存在すると仮定したとして、それがいつ、どれくらいの規模の地震を引き起こすかを予測することは、もはや実質的に予言に近い。予言と異なるのは、地震にはある程度の論理性と法則性が存在するため、予言よりも予測の可能性が高い点である。もし予言が直観の発見による直観の証明であるならば、地震はアンリ・ポアンカレの言葉「“Is it by logic that we prove, but by intuition that we discover.”」と断言できる形で通じ合うのだ。
P↔E=S-H≠X
P は予言 を表します。未来に対する予測や、非科学的な見通し全般を指すと思われます。
E は地震 を表します。自然現象としての地震を意味します。
S は科学的根拠 を表します。客観的なデータや法則に基づいた知識、分析を意味します。
H は人間 を表します。ここでは、感情や主観、あるいは不確かな要素としての人間そのものを指しているのでしょう。
X は人間の心理や心 を表します。時が刻むは予測の幻影か、あるいは深淵からの声か。一時間、数時間先の事象を告げる「予言」は、稀なる現象であると同時に、人間の心理の深奥に根差す錯覚に過ぎない。予言能力を持つ者など存在しない、と断じるべきか。いや、しかし「預言能力」を宿す者は確かにいる。この認識のずれは、果たして環境構造に起因するのか。「予言者」と「預言者」。この二つの存在が背負うリスクは天と地ほどに異なり、それらを成り立たせる「信頼」の基盤もまた異なる。もし「予言」なる存在を、人間には認識されざる「大きな神」と見なすならば、その神はただの神でしかない。この社会において、ただの神に価値を見出す者はいない。それらは速やかに滅び、「世言」へと堕するだろう。「予言」に名がなければ、それはただの「世言」となる。人々が真に求めるのは、「預言」のごとき「予言」であろう。しかし、一度その甘美な誘惑に慣れ親しんだ人間は、さらなる「予言」を求めるに違いない。なぜなら、それによって我々、すなわち「こちら側人間」が「世言」を放つ者となれるからだ。この時代において「予言」が話題となることの、どれほどの数の「世言」を生み出すことか。未来を見通せぬ人間は、「予言」の話題に触れるべきではない。この実に残酷な時代において、情報とAIが「予言」の幅を増幅させ、何かを「起こさせる」ことを誰にでも容易にした。だから、「ただの神」はすぐに滅びる。それは道理だ。なぜなら、それらはただの人間によって生み出されたものに過ぎないのだから。「予言」は、「世言を放つ者」を神と見なし、「予言を放つ者」を人間とする構図を生み出し、「預言」とは異なる構造を示す。これもまた、対立構造を増幅させる要因となる。最悪の場合、誰かが死を迎えることも、当然ながら想定内の範疇である。「予言者」は人間であり、「預言者」もまた人間である。しかし、「予言」と「預言」という概念そのものは、人間ではない。それらは超越的な存在だ。「予言者」が人間である以上、人間に備わる普遍的な感情と欲求があることを忘れてはならない。そもそも、7月は災害が多くなる時期である。梅雨前線の活動、台風の発生・進路、落雷、土砂災害。これらは自然の法則性に基づく普遍的な現象である。ゆえに、「7月」と「予言」を結びつけることは、まず不成立であり、不合理である。我々がまず初めに行ってはならないのは、「対立」であり、「興奮」である。科学的根拠を求めるならば、私は、なぜこの世界に人間が存在するのかという「科学的根拠」を知りたい。なるほど、やはり面白い。科学には「哲学」が含まれている。我々が「科学的根拠」と口にする時、そこにはすでに「哲学」が前提として、必須として横たわっているのだ。Daniel Dennettが1995年の著書『Darwin's Dangerous Idea』で述べた言葉は、この核心に通じている。存在の深淵を覗き込む時、我々は常に、認識と実在の境界線を探し続ける列車だ。
HX≠X0
H: これは「人間」を表します。単なる生物としての人間ではなく、意識、思考、感情を持つ存在としての人間全体を指し示します。
X: これは「人間の心理や心」を意味します。
X0: これは「全て未知」という概念を示します。人間が認識し得ない、あるいはまだ解明されていない、存在の根源にあるもの、宇宙の真理、あるいは神のような超越的な存在など、あらゆる未解明な領域を象徴しています。
(私が書いた、2言語の10つの文に基づく-フーコーと探求的対話-(文章)&レガシー劇場型未解決事件(概念)も参照にしている。)/完成7時間30分位、7月3日の深夜」
③
まあ全人間に言えることだが、特に女性は、デスノート31話の「移譲」でニアが語ったように、本当に大したものだ。私の道筋で語った、「何故ただの超越者ではなく知を足した超越者、知そのものになった&小学6年生の時に、ナルシストになりたい(実力を持ったナルシスト)という願いと憧れ」と通じるが、まずナルシストはデメリットがない。私は冷静に考えて、ナルシストになると言う事は自分をたくさん調べる事が出来るではないかと感じていた。でもこれは超越と同じで、その前に完膚なきまでの徹底した完璧な前提がなければ、成立はしないから、この前提を可能にするために行った。そして、私はどんどん時が経過するごとに思い知らされる。何をするにしても、賢さがなければ、ダメであると言う事を知った。でも、この私が賢さや知識人になる事は無理だ。じゃあ、極端な知だったらなれるのではないかと直感的に感じた。そこで、極端な知をイメージするとき、それはある意味でぶっ飛んでいそうだと思った。このイメージと演技を繰り返す事で今に至ったわけだが、今思えば、私はメタ認知的な事を無意識に極めて高いレベルでやったと思っているよ。何故なら、イメージと演技を行うとは必然的にそれらの原型的なのを知ると言う事だ。そして、それは大概の事は、アニメで既に完成まで行われていると感じていたから、アニメのキャラを真似るが、気に食わない部分は自分で修正していき、オリジナルを完成する事。基本的にこれらでルッキズムも全ての問題を一気に解決できる。この世の全てを吸収して、気に食わない所は自らのものにしていけば良い話だ。確かに、私たちは生まれた時から存在している。だが、それは生まれた瞬間に私は私を定義していないが、別に定義しなくても物語が進んでしまう訳だ。だが、それは理不尽でウザい事が多くある。なら、この時点で私が私を定義する瞬間の合図だ。そして、私は自らを完全に守るために社会から距離をおいた。私はよく小中で寝る前に感じていたよ、誰もが1度は死について考えた事がある様に、冷静に考えて、自らの大きな心身があり、それが体調不良等の形で表れ、それが人工的によるものと自然的によるものがあり、しかも全く違う上に、社会に身を置くなど、中々なものに過ぎない上に、あちらこちらでも問題は絶えない上に私の耳に入ってくる。だからさ、自己まとめて全ての問題を少しでも終わりに近づかせるために、知そのものに我はなった。この世の問題を少しでも終わりに近づかせるには、知識人や賢い人ではダメだと直感的に中学生の時から考えていた。何故なら、その時の気持ちを言語化にするのは難しいが、何というかカッコよさがない感じが一目で分かる。それに、この世の問題を少しでも終わりに近づかせるには、圧倒的に常識を覆し続ける事であり、それはオセロに近いイメージだ。常識を覆すと言う事は、相手に強制的に未知の領域を与える事、私の色へと変更させていく事。そう、知識人や賢い人が正解を与えるのとは違い、強制的に未知を与える事。正解を与えられた人間の表情というか、言葉というか、何時も正解を与えられているのに、全く気持ちよくなそうな感じをみていて伝わってきた。君たちは、思わないのか?私は、よくアートや絵を描いていて思う事があった、私が今書こうとしている紙やキャンバスは実に大きい。それは、この世界に立ち、この世界を眺めている時と同じく大きな存在だ。それなのに、丁寧に細かく地道に行うパフォーマンスというのは、面白みがなく、無礼であり、馬鹿げていると思った。そこでましても、幸せの保証もなければ、経済的な保証もない。だったら、狂う、狂気、超越を手にすること。だが、道筋でも語ったように、ただの狂う、狂気、超越であれば、周囲からは非論理的とされ、容易に捨てれられる。じゃあ、もしそこに生々しくてそれが出来ない上に絶対的な知が加わっていたら、人々はどの様な反応をするのかと感じた。これは当然ながら、初の試みである。だから、衝突しまくる事で、それぞれの反応を観察、分析する事でより頑固で完璧なシステムの超越を可能とする。これは小学生の時に提唱したキャラクター理論が自然的に活かされている。私に絵の技術力はない、なら抽象画を選んだが、これまでの考えと衝突して自己葛藤が起きる。じゃあ、もういっその事、私のパフォーマンスをアートとすれば良い話だ。人間なんぞ、皆目指しているのは同じであり、それが実現できれば誰も文句がないからこその今の結果であろうか...。やっぱり面白い世界だ。
『再構築された世界と残された問い』
思考の嵐は止み、26万字の記録はここに閉じられた。
私の知性は、社会の法もルールも、人々の苦悩の根源も、全てを原子レベルで分析し、「超越解決」という名の静謐な結論を導き出した。
世界は、この特異な記録の前後で、すでに別の相貌を呈している。
さあ、読者よ。この新たな地平の上で、あなたが「常識」と呼んでいたものは、まだ機能しているだろうか。




