9枚目 色の悪魔
小さな言葉。
魔術の名前などではない、力なき呼び声。
しかし、ソレは確かに応えてくれた。
白い腕。
霞のように薄く、今にも消えてしまいそうな細い腕だ。
背後からにゅっと伸びたそれがアグルの胸を優しく撫でてから腰のベルトへと伸びて、両手足を拘束されたアグルに代わって小瓶の蓋を開け放つ。
「……何ですか、それは!?」
「いいことを教えてやる。オレの手品は――何も自分で小瓶に触る必要はない」
ただ、そう思いこませるためにアグルが仕向けていたことだ。
枷鎖の獣たちの奥でアンシアが怪訝に眉をひそめる。
それに対しアグルは皮肉げに笑った。
不気味に思うのも仕方がない。
なにせ彼女からは見えているのだから。
アグルの背後に漂う、白い幽鬼の姿が。
「《黒の虚偽》……全部、塗り替えるぞ」
アグルが言うと共に、開け放たれた小瓶から絵具がひとりでに飛び出した。
色は白と青。
白い幽鬼が消えていく気配と共に二色の絵具はまるで生き物のようにうごめき、アグルの眼前でその形を変質させていった。
鈍色の獣に対抗するかのような、薄氷色の大狼。
大狼は雄叫びを上げて鈍色の獣どもに対抗するが、しかしあまりにも数が違った。
抵抗空しく、大狼は瞬く間に無数の枷鎖に喰らい尽くされてしまう。再びアグルの方へとその牙を向けてくる枷鎖の獣たちの向こう側で、アンシアが冷たく失笑を浮かべた。
「フン、そんな模倣品如きで――」
「ただの模倣なんかじゃない。なにせ悪魔が描いた騙し絵だぞ?」
アグルがそう言った直後だった。
アンシアの枷鎖たちがいっせいに動きを止めた。
ピタリと動きを止める魔鎖の獣たち。それはまるで氷漬けのオブジェにでもされたかのように、枷鎖の一本一本がアグルに殺到する直前でその動きを静止させた。
「な――いったい何をしたのですかッ!?」
「すぐに分かるさ」
驚愕の声を上げるアンシアに、拘束されたままのアグルは平然と告げる。
よくよく見れば彼女なら気付くはずだ。
一斉に動きを止めた鎖枷たちに大狼の――薄氷色の絵具が飛びっている光景を。
そして、その絵具が鎖を伝って瞬く間に大元に、魔術を行使している術式をまっすぐに目指している事を。
それに気づいたアンシアが慌てて別の術式を構築しようとするが、流石に遅い。
彼女が次の術式を描き始めるよりも早く、薄氷色の絵具は枷鎖を構築する術式にまでも浸食して、アンシアの魔術を文字通り食い破った。
「…………な、な……」
魔術を維持できなくなった術式が崩壊する。
魔力で形成していた枷鎖と共に術式が魔力の粒子となって霧散していくのを見上げて呆然と立ち尽くすアンシア。その間にアグルはアンシアの魔術を模倣するために使った鈍色の絵具で古城の防衛魔術を無力化した。
「魔術の術式と言うのは繊細なものだ。なにせ世界を騙して奇跡を起こしてるんだ、ほんの少しでも形が変わってしまえば、こうも簡単に瓦解する。魔術師の常識だろ?」
「……行使している最中の術式に介入するなど、デタラメにもほどがあります」
「魔術なんてものはそういうものだろ」
平然と言うアグルに対し、アンシアは苦虫を噛み潰す。
「現行の魔術では空論に近い現象を軽々と引き起こして見せるデタラメさ。それでいて術式を形成した形跡も見せない。――ようやくハッキリしました。アグル・バレンダ。アナタは……魔術師ではありませんね?」
「ああ。オレは絵描き――」
「呪い持ち」
――初めて、アグルの目が鋭く尖った。
その反応が図星であると確信したアンシアが一歩前に出て言葉を続ける。
「呪い。悪しき祝福とも呼ばれる、魔術とは似て非なる法則をもった現象。それを制御できれば、時として魔術以上の現象を引き起こすことすら可能とする……アナタのような例を実際に見るのは初めてでしたが、間違いありませんね?」
「さあ、どうだか」
……全て、事実である。
アグルは涼しい顔で生唾を飲み下す。アグルの《色の悪魔》は、彼女の指摘の通り『呪い』だ。
厳密に言えば普通の呪いとは異なるのだが、おおむね間違いではない。
アグルは自らに植えつけられた呪いを扱って、魔術のような現象を起こしているのだ。
……それが、アイツがオレに残した呪いだからな。
アグルが代わりとなって、彼女の願いを全うするための、力。
そこに託された思いに背を向けて、アグルが今ここにいる。
チリリと胸に痛みを覚えながらアグルは平然として肩をすくませた。
「仮にそうだとしても、どうするつもりだ? この近くの魔術はだいたいオレの《色の悪魔》が無力化している。見たところじゃ、さっきの魔術がアンタの全力みたいだし、どうだろうか。ここで大人しく降参してくれても――」
「変態を見逃すつもりはありません」
「……オレは変態じゃない」
「お嬢様の秘部をまじまじと凝視しただけでも万死に値するというのに、あまつさえ筆を中にまで――どこまで鬼畜なのですかッ?」
「あ、あれはアイツが勝手に動いたから入りそうになっただけ――」
「言い訳を聞く耳はございません!」
鋭くアグルを見据え、アンシアは新たなナイフを左右の手に握る。
二度目の突貫。再びアンシアが駆け出し、常人離れした速度でアグルへと迫った。
アグルはとっさに新たな絵具を仕向けるが、アンシアが立て続けに展開する術式を無力化するだけで彼女自身の施された強化魔術に届くことはなかった。
「チッ、器用な奴だな……!」
「魔術が破られるなら相応の対応をするまで。アナタの奇怪な絵具でも、この速度なら私を捉えれれないでしょう!?」
言葉を共に地を蹴飛ばして、アンシアがアグルの眼前に躍り出た。
「終わらせます――」
「…………チッ!」
舌打ちと共にアグルはコートの左側を大きく開き、《色の悪魔》の白い手が開いた小瓶から絵具を飛ばす。
が、それはアンシアが身体を捻ることで容易く避けてしまう。
反撃を避けられたアグルに肉薄したアンシアのナイフが煌めいた。
迫りくる銀色の鋭い剣閃。《色の悪魔》ではもう間に合わない。アンシアの放つ鋭い一撃がアグルに迫りくる中で、彼は腰に巻いたベルトの左側へと手を伸ばし――
金色の軌跡が、銀の煌めきを弾き飛ばした。
「…………え」
金と銀の交差。
同時に、アグルとアンシアの身体がすれ違う。
静まり返った通路に、カランという音が響いた。
アンシアの遥か後方で、彼女が握っていたはずのナイフが床に落ちた音だ。
アンシアの両手は何も掴んでおらず、自らの獲物を弾き飛ばされたのだと気付いた彼女がとっさにアグルの方へ振り返り――
眼前に突き付けられた金色の剣先を見て、大きく目を見開いた。
「こ、金色の剣!? では、まさかアナタは、教会騎士――」
「よく見たらどうだ? それは昔の肩書だよ」
言って、アグルは剣先をアンシアから外した。
彼が握っていたのは、剣と呼ぶには剣身が短かった。
持ち手などはそのままに、剣身だけが半分ほどの長さになった、奇妙な金色の短剣である。
「……短剣?」
「普段は絵を描くときに使う……まあ、ペインティングブレードなんて言った所か。剣身が折れて廃棄予定だった剣を譲り受けて短剣に打ち治したものだ」
簡単に説明してやりながら、アグルは短剣を腰のベルトに収めた。
金色の剣身が鞘に納められ、灰色のコートによって隠される。
戦いは終わったとばかりのアグルに、アンシアが眉を吊り上げた。
「ま、まだ終わっては――」
「いいや、終わりだよ」
――アンタも、それでいいだろう?
アンシアの声を遮ってアグルが投げやりに声を向けた。
それは目の前に立つアンシアへではなく、その後方。
不審に思ったアンシアがつられて自身の背後へ振り返った。
「それでいい」
アンシアの主、クライ・レヴィアテイルの言葉。
戦闘の痕が刻まれたの通路の向こうから、クライが姿を現したのだ。
紅いネグリジェの上にストールを羽織った姿のクライを見てアンシアが驚きの声を上げる。
「お、お嬢様ッ!? なぜここに……」
「アンシア。もう下がって」
「で、ですが……ッ!」
「やろうと思えば、さっきのでアグルはアナタを殺せた」
「――――ッ、ぐ、かしこまりました」
反論の言葉が出なかったのだろう。
ぴしゃりと言い切られたアンシアは苦渋を飲みこむような顔で立ち上がり、恨みまがしくアグルを睨みながらクライの後ろへと下がった。
彼女らのやり取りを見届けてから、アグルはそそくさと踵を返す。
「それじゃ、そっちの事情は勝手にしてくれ。久しぶりに身体を動かしたからもうクタクタでな。オレは部屋に帰って――」
「まって」
そのまま部屋に帰ろうとした所でクライにコートの裾を掴まれた。
コートの裾をちょんとつまんだだけの、小さな引き止め。
振り払うことなど容易かったが、報酬を受け取っていない以上はクライはまだ依頼主だ。ここで彼女の機嫌を損ねるのは得策ではなく、仕方なくアグルは面倒くさがりながら彼女の方へ振り返った。
「……なんだよ? 明日はまた長旅になるから早く休みたいってのに――」
「まだ、依頼は終わっていない」
「……は?」
思わず、素っ頓狂な声が出た。
予想だにしていなかった言葉に硬直するアグル。
クライの背後でもアンシアがどういうことだと言わんばかりにアグルを睨んでいる。そんな中で、当のクライは涼しげな無表情のまま、おもむろにネグリジェのスカートをたくし上げた。
「な――ッ」
「――はあッ!?」
アンシアとアグルの驚愕が重なる。
スカートに隠されていたクライの下半身は当然のようにパンツを履いておらず、まっさらなキャンバスのような白磁の身体がアグルの眼前に顕わとなっていた。
夜は流石に冷えるのだろう。小さく身震いをしながら、クライはまっすぐにアグルの瞳を見つめながら言葉を告げた。
「また、描いてほしい」
「……オレが受けたのはパンツの絵を描くことだが?」
「だれも、あれ一回だけとは言ってない」
「ぐ……」
反論に詰まってアグルは呻く。
確かに、依頼が一回限りとは言われていない。
普通の絵画ならば一回描き上げれてしまえば洗い流されることがないため、一回限りだと思い込んでいたのだ。ならば描き上げた時時にでも言ってくれればよかったのだが、確認しなかったアグルにも非があるだろう。
予想だにしていなかった事態に頭を悩ませるアグルに対し、そんな彼をじっと見つめていたクライがぽつりと新たな提案を投げかけてきた。
「他に依頼があるのなら、その後でもいい」
「……え?」
アグルが顔を上げると、クライの宝石のような紅い瞳がまっすぐに彼を見つめた。
「依頼じゃなくてもいい。他に用事があるなら、その後でもいい。わたしは待ってる。だから、また……わたしにパンツを描いてほしい」
……正直な所、実際に他に受けている依頼があるのかと言われれば……ない。
白状してしまえばヘイグリッドに目を点けられてしまったので、可能な限り早く報酬をもらってここからおさらばしたいというのがアグルの本音である。
依頼の内容はともかくとして、それを断る理由は今のアグルにはなかった。
……まあ、その後の行き先なんてないしな。
もとより目的も何もない、行き当たりばったりの旅路なのだ。
ここでしばらく一か所に留まったとして、怒り散らす者なんて――もう、どこにもいない。
長い長い熟考の末に、アグルは大きな嘆息を吐き出した。
「……スカートを下ろせ。風邪引くぞ」
「アグル……」
「悪いが、描くのは明日にしてくれ。今日は疲れた」
「……ッ! わかった」
無表情で顔を俯かせたクライが一転、パアァっとその瞳を輝かせた。
少女の喜びの感情。
ここまで明確な変化は初めてだった。
何がそんなに嬉しいのかは不明だが、まあ人間の性癖は千差万別。クライのそれにアグルが口を出す理由はない。
「……アグル、失礼なこと考えてる?」
「いいや、そんなことはないぞ?」
「そう。なら、いろんなパンツを描いてほしい」
「……善処するよ」