7枚目 宵闇の中に紛れて
魔術に通ずる者たちの住処――魔術巧房と言うのは危険と隣り合わせの場所だ。
それは防衛用の魔術トラップは当然として下手に接すれば危険な研究や生物がいるからという意味もあるが、もっと根本的に言えば……とても迷いやすいのだ。
構造上という意味だけではなく、幾重にも張り巡らされた魔術によってあらゆる感覚が阻害されることで半ば異界のような迷宮へと変貌しているからである。
自らの魔術巧房で遭難して餓死した魔術師がいた、なんて話も珍しくはない。
そんな魔窟とも言うべき場所を何も知らぬ者が軽率に歩けば、行きつく結果はただ一つ。
「どこだ、ここは……」
……アグルは、ものの見事に古城の中で迷子になっていた。
部屋を出て、偶然通りがかったアンシアとは別のメイドに洗い場まで案内してもらったまではよかった。「帰りはまた声をかけてください」と仕事に戻った彼女を見送ってから道具の手入れを始めた。
しかし、終わった頃には件のメイドが見つからなかったのだ。
他の者に案内を頼もうとしても、不運なことに近くに誰もいない。
まあ、一度は通った道だし大丈夫だろう――と、古城の中を歩き続けること早一時間。
いっこうに元の部屋は見つからず、アグルは城内をさまよっていた。
「……なんで、階層が高くなってるんだ?」
窓から見える景色がいつの間にか高くなっているのにアグルは頭を抱える。
いったいどこで階段を昇ったのだろうか。
加えて通路は入り組んでいて先は見えず、壁に並ぶランプは無機質に揺れ、発見した扉の数々は鍵がかけられていた。
いくら歩けど人の姿は見えないし、引き返そうにも自分が歩いてきた道が見事に消えてしまっていた。
……まさか、ここまで複雑になっているとは……
己の認識不足を呪いながら、アグルは思考を巡らせる。
森に仕掛けられた魔術結界など比ではなかった。
認識阻害の魔術は当然として、構造的にも迷いやすくは設計しているのだろう。
物理的に変質しているような事態は流石にないと信じたいが、この複雑さを考えればそれもありえない話ではない。
アグルはこれまでにも何度か他人の魔術巧房に足を踏み入れたことはあるが、ここまで複雑な構造は初めてだ。
普通は外部からの侵入を防ぐために外を厳重にするものだが、この城のそれはまるで侵入者を外へ逃がさないかのような印象があった。
いったい、この古城の主はどこまで用心深いのだろうか。
「――って、そんなことを考えている暇はないぞ」
このままでは本当に古城の中で遭難してしまいかねない。
頭を振って思考を切り替えながら、アグルは改めて誰かいないか周囲を見回した。
窓の外は夜の帳に沈み、立ち並ぶ扉たちは沈黙を保ったまま。
曲がり角からは人が姿を現す気配もなく、アグルが再三の嘆息を洩らそうとした瞬間だった。
「――――――」
「――――、――――」
曲がり角の向こうから人の声が聞こえた。
内容までは分からないが、おそらくは使用人だろう。
いや、誰であろうとこれでようやく迷子から抜け出せると、アグルは歓喜のあまり曲がり角を飛び出す。
「突然申し訳ない! 道を……たずね、たかったのだが……」
飛び出した所で、アグルは己の失敗を呪った。
曲がり角の向こうにいたのは使用人だけではなかった。紳士服を纏った厳格そうな印象の男だ。
老齢の執事を連れていることから見るに、彼はおそらく――
「君は……ああ、君がクライの呼び付けた絵描きか」
「……失礼いたしました。レヴィアテイル卿」
すぐにアグルは片膝を突いて男に跪いた。
男の名は、ヘイグリッド・レヴィアテイル。
依頼主であるクライの父親にして、彼の妻である魔女ティアルス・レヴィアテイルが隠遁したために魔女衆の『頭目代行』を務める人物。そして、魔女衆に属する前は有名な魔術師でもあった男だ。
「卿はよしてくれ。貴族の身分はあくまでも形ばかりのもの、こちら側での私はあくまでも魔術師だ。せめて、代行とでも呼んでほしい」
「……分かりました。代行」
彼は古城の主だ。
従わない理由はない。
すぐにアグルが頷くと、ヘイグリッドは小さく頷いてからアグルへ立ち上がるよう促した。
「それで、見た所では城内で迷っていたのだろう? 君を案内したという子が血相を変えて探しまわっていたよ」
「……それは、悪いことをしましたね」
「君も他人の工房を歩き回ることが危険なのは知っているだろう? 彼女にはこちらから話しておこう。君の部屋はそこの道を進んで二つ目の角を曲がった先にある。認識阻害の魔術で隠されているから気を付けて戻りたまえ」
「ご忠告、痛み入ります」
仰々しく一礼してから、アグルはヘイグリッドに背中を向ける。
アグルに対する態度を見るに、おそらく彼はクライの依頼内容を知らない。
クライは彼の娘だ。
そんな彼女へ(パンツの絵を描いただけだが)アグルが手を出したも同然の事をしたと知られれば……訪れる結末は予想できる。
――下手に突っ込まれる前にこの場を離れよう。
と、アグルが足早にヘイグリッドの前から立ち去ろうとした時だった。
「我が城の探索ははかどったかな?」
予想外の問いがアグルの背中に投げかけられた。
「…………なんのことでしょう?」
立ち止まり、背後へと振り返るアグル。
そこには、先ほどと打って変わってこちらへの警戒を見せるヘイグリッドが――いや、彼を起点として古城そのものがアグルという部外者を警戒しだしたかのような、言い知れぬ威圧感がそこにあった。
緊張にアグルの喉が鳴る。
次いで、ヘイグリッドの言葉が響いた。
「とぼけなくてもいいさ。魔術に通じる君が不用意に城内を歩きまわる危険性を知らないはずがない。考えられる可能性といえば……魔女衆の頭目、その代行として取り仕切る私の首か、はたまた我々の研究成果あたりだろうか」
「ご冗談を」
あまりに見当違いの警戒にアグルは肩をすくめて見せた。
「ここにはあくまで依頼で赴いただけで、オレはただ迷っていただけです。外の森より警備は緩いと考えていたので。まんまと足元をすくわれてしまいました。ええ、本当に。ずいぶんと城内の警備が厳重なことで。驚きました」
「……いったい、何が言いたい?」
「いえ。まるで、何かを隠しているかのように見えまして」
今度こそ、ヘイグリッドの目の色が変わった。
緊迫した空気が、先ほどの威圧感がアグルへと襲いかかる。
ヘイグリッドのそばに控えていた老執事が主の前に出ようとしたが、それをヘイグリッドが片手で制した。
「そこまで調べて、君の目的は何だ?」
「オレはただの絵描きですよ? こんな所に用なんか――」
「君の経歴は把握している、アグル・バレンダ。絵描きになった後も教会には何かと入り浸っているようだ。教会の飼い犬である君が、いったい我らが古城へ何をしに来た?」
「……あなたの娘から依頼を受けただけですよ」
たらりと額に冷や汗を浮かべながらも、気丈にアグルは答える。
「確かにあなたが言った通り、オレは元々教会に属していた。だが、厳密に言えばそれは過去の話だし、なによりオレは魔術師ではない。あなたの研究成果にも興味はない」
おそらく、ヘイグリッドはアグルを教会のスパイだと警戒しているのだろう。
過去に起こった魔女狩りを経て「二度とこのような悲劇を起こさない」ように彼ら魔女衆と教会は相互監視の名目で同盟関係を結んだ。
それから百年ほど経った現在。
とある事件によって水面下で腹の探り合いをする現状で、アグルの訪問だ。
警戒されるのは当然だろう。
……だが、残念ながらその懸念はハズレだよ。
教会経由で依頼を受けただけで、今のアグルは教会と距離を置いている身だ。
向こうがどう思っていようとアグルはそのつもりだし、そうなるべく手続きも済ませている。
「いくら同盟関係を結んでいるアナタ方が腹の探り合いを続けていようとも、それとオレは無関係だ。オレを、そんなことに巻き込まないでほしい」
固い意志を込めた、アグルの言葉。対しヘイグリッドの瞳は静かに彼を見据え、固く口を閉ざした。
互いの視線だけが火花を散らし、長い静寂が緊張の糸を引き延ばす。
やがて、閉ざした口を開いたのはヘイグリッドだった。
「……ならば、いい」
彼は小さな嘆息を漏らしてから、静かな足取りでアグルへと背を向けた。
「君が本当に教会の管理下にいないというのなら、今後は疑われる事がないよう勝手な行動は慎みたまえ。アグル・バレンダ」
「……ええ。気を付けます」
交わした言葉は、それで終わった。
こちらへ顔を向けることなく、ヘイグリッドは老執事を連れ立ってこの場を立ち去って行く。
彼らの姿が曲がり角の向こうへと完全に消え、可能な限り気配が遠くなったのを見計らって、ようやくアグルはたまりにたまった息を吐き出した。
「あれが、魔女衆の男首領か……」
八年前に起こった不幸な事故が原因で隠遁した妻に代わり、魔女衆を取り仕切る男。
実力のみで魔女衆を取り仕切っているとも言われる現代屈指の魔術師に目を付けられたのだ。
下手な事はせずに、部屋に戻って大人しく朝を待つのが得策だろう。
アグルは先ほど案内された方向へ振り返る。
その瞬間だった。
「アグル・バレンダッ!」
アグルの耳に、聞き覚えのある侍女の怒声がつんざき――
彼の身体が固まった。
「な――――ッ!?」
違う。
アグルの全身を無数の鎖が絡め取ったのだ。
突如として飛び出してきた冷気を纏った鉛色の鎖。それが音もなくアグルの身体をがんじがらめにして動きを封じる。
これだけの数だ、投擲でもしようものなら鎖の音が聞こえるはず。
自分が何をされたのははすぐに分かった。
尋常でない殺気と共に感じるこの気配は、まさしく――
「魔術か……ッ」
「――《レイジング》。魔術の楔でございます」
呻くアグルに応えたのは、先ほどと同じ侍女の言葉。
コツコツという足音と共に近づいてきた声にアグルは自由の利く首だけでなんとか振り返る。
そこにいたのは――背後に鎖たちの大元であろう――虚空に広がる幾何学模様を連れた一人の侍女……アンシアであった。
整った顔に淑やかな笑みを貼り付けて、その手にナイフを握った彼女は告げる。
「こんばんは。虫を潰しに参りました。ええ、お嬢様に手を出した悪い害虫を」