31枚目 ばつ
これが夢であったのならば、どれだけよかっただろう。
――あつい。
世界が、全てが紅蓮に塗りたくられていく。
撒きたらされる炎が目に映ることごとくを喰らい焼き尽くしていく。
まさしく、地獄のような光景。
悪夢が現実を侵食するかのようにあらゆるモノを――人が築き上げてきた全てを焼き尽くしていく。
その中心に、クライはいた。
クライの身に巣食っていた呪い《滅却樹》の種子。
それがグラトニル城を丸呑みするようにして大地に根差した炎の大樹の中である。
大樹を形成する炎によって辛うじて崩壊は免れた城内。
吹き抜けになった玄関口の大広間にクライは佇んでいた。
吹き抜けの二階部分に立ちすくみ、クライは炎に呑み込まれた大広間を見回す。
天井のシャンデリアや階段は崩落し、床や壁を突き破って膨大な炎が所狭しと噴き出している。
しつらえられた装飾の数々はすでに原型をとどめておらず、暴虐が形になったような炎たちが、目に映るもの全てを蹂躙していく。
まるで、人の文明が、人間が築き上げてきた全てが無駄であったと嘲笑するように。
「クライ……ッ!」
しかし、その中でただ一人。
クライの眼下で立ち上がる男の姿があった。
うすぼんやりとした彼女の視界が、その男を捉える。
男はクライの眼下、炎の海に囲まれ、片膝を床につきながらもなおこちらを果敢に見上げていた。
クライの父、ヘイグリッドである。
「自分を強く保つのだ、クライッ! この城に張り巡らせた術式と、お前に教えた魔術を会わせて使うんだ! そうすれば、滅却樹の制御も――ぐぅ!?」
撒き散らされた炎に焼かれた左腕をだらりと下げ、その身に多くの火傷を負いながらもヘイグリッドは残る古城の術式を起動させようと右手で床をなぞる。
代行という形ではあるが、彼は魔女衆、ひいてはこのグラトニル城の主である。
彼が即興で組み上げた術式が瞬く間に炎の侵食を免れた城内の術式たちに接続し、その術式を組み替え、虚空にまでいくつもの幾何学模様が描き出される。
有事の際を見越して編み上げた、対『滅却樹』用の魔術。
無数の幾何学模様を成した術式の群れが煌めき、魔術が起動――
「なにッ!?」
――することはなかった。
術式の幾何学模様が構築を終えて魔術が起動しようとした、その寸前。
空中に描き出された術式に周囲の炎が襲いかかったのだ。
炎は瞬く間に魔術を焼き尽くし、さらにはヘイグリッドが決死の思いで組み上げた術式さえもその紅蓮の餌食にしてしまう。
滅却樹の炎は、世のことごとくを焼き尽くす。
それは人間の編み出した魔術、その術式であっても同様である。
滅却樹が起動した以上は呪いを封じるための術式など意味を成さず、術式を喰らった真紅色の火炎がそれだけでは足りないとばかりに術者であるヘイグリッドへ牙を剥く。
「お父さま、逃げ――」
「だめだッ!」
悲鳴じみたクライの声を遮り、ヘイグリッドが怒鳴る。
娘のクライでさえ初めて聞く怒声。
炎が燃え移っていた左腕が焼け落ちている。
普通ならば激痛で声を上げることだってままならないはず。だというのに、ヘイグリッドはなおも残った手で術式を描くのをやめることはない。
「諦めて、たまるものかッ! 逃げて、たまるものかッ! ティアルスが、アイツが命を賭して守ったお前を――呪いなんぞに奪われてたまるものかッ!」
たとえ、己が命を投げうとうとも。この場で燃え尽きようとも。
全てをなげうって費やした研究が、刹那のうちに焼き払われようとも。
クライの父は、娘を諦めはしない。
「私は……ヘイグリッド・レヴィアテイルはッ、ティアルスの夫で――クライの父だッ! 例え世界の全てがクライを諦めようとも、私だけは諦めない!」
――クライの身に宿った呪いを世に知られれば、世界は必ず彼女を殺す。
なにせ世界を焼き尽くすといわれる滅却樹の種子だ。
たった一人の犠牲で世界が存続するというなら、誰だって世界の方を選ぶに決まっている。
……ただ一つ、その一人の親を除いて。
ゆえにヘイグリッドはクライを隠し、危険を犯してまで禁忌の研究に手を染めた。
全ては、妻が命を賭して守った娘を救うため。
すでに古城の術式は焼き尽くされ、手持ちの魔導具は尽きた。
焼けた左腕は使い物にならず、両足はもう立ち上がるだけの力も残っていない。
しかし、だとしても。
ヘイグリッドは諦めない。
まだ辛うじて右腕は動く。
術式を刻む道具がなくとも、とめどなく流れ出す自らの血を触媒にすれば、術式を描くことはできる。
まだ、クライを呪いから救い出すことは、できる。
自らの命すらいとわないとばかりに、ヘイグリッドは叫ぶ。
「見くびるなよ、呪い風情がッ……種子への、貴様への研究はこの日、この時のために続けたモノだ! こんな……ところで――」
「はい、ざんねん」
だが、それが放たれることはなかった。
「な、に――――」
見開かれるヘイグリッドの瞳。
唖然としたように声が彼の喉から漏れ出し――
それはすぐに悲鳴へと変わった。
「あああ、ああああああぁぁぁぁああぁぁッ!?」
巻き上がる炎が津波となってヘイグリッドを襲ったのだ。
四肢のほとんどが動かず、全ての意識を術式の構築に費やしていた彼にそれを退ける術はなく、ヘイグリッドの身体は瞬く間に炎の中へと呑み込まれてしまった。
「ホント、身の程知らずったらありゃしない。君は知っているはずだ。コレは世界の文明をなかったことにする回帰の炎。どんな策を講じたって、たかだか高名な魔術師一人で御しきれるような代物じゃないってさ」
ヘイグリッドを炎が襲う寸前にも聞こえた、少女の声。
それは、クライのすぐ近くから聞こえた。
…………だれ?
この場にいるのはクライとヘイグリッドの二人のみ。
アンシアを含めた従者たちはヘイグリッドの命ですでに古城を離れ、カウレインへと避難している。
アグルや教会の聖女たちも退避しているし、この場にはクライたちの他に誰もいないはずだ。
「――――貴様、は」
「ん? 知らないはずがないだろう?」
おそらく声の主はクライのすぐ近くにいるのだろう。
ヘイグリッドの視線はクライを睨んだまま呻くように言い、声がさらに言葉を返す。
聞き覚えのある声。
しかし、思い当たる記憶はなく、その正体を捉えようにも身体が言うことを聞いてくれない。
言うことを聞かないクライの身体。
それが、まるで他の誰かの意思によって肩をすくめてみせ、何者かの声が続く。
「見ての通り、ボクは『クライ・レヴィアテイル』さ。どこをどう見たって本人に変わりないじゃないだろう? ねえ……お、と、う、さ、ま?」
――――え?
聞こえた言葉の意味をクライは理解できなかった。
クライ・レヴィアテイルは他でもなく自分だ。
他の誰であろうと、クライであるはずがない。
すぐにクライは反論の声を上げる。
――クライは、わたし……
しかし、それは声にはならなかった。
訴えの言葉が喉から出てこず、心の内で困惑するクライ。
自分の身体が、まるで誰かに乗っ取られたかのように言うことを聞かないのだ。
それでもクライが訴えを言葉にしようと言葉を紡ごうとすれば、代わりとばかりに彼女の喉は別の言葉を口にした。
「あれ、まだ気がつかない?」
クライの背筋が凍りついた。
先ほどから聞こえてくる、何者かの言葉。
聞き覚えがあると気付いた時から、それだけはないだろうと切り捨てていた可能性――
何者かの言葉は、クライの声音をしていた。
「娘から、出ていけ! この、怨――」
「ああ、いいよ。そういうの」
ヘイグリッドの怒号を遮り、自分の声がぞんざいに告げる。
続けて、自分の身体がうんざりするとばかりに片手を振るった。
「君じゃもう、ボクを止められない」
それはまるで、決着を告げるかのように。
ヘイグリッドが最期に聞いた、娘の言葉となった。
「――――――――――」
彼の身を襲っていた爆炎が爆ぜる。
――あ、あ、あ、ああ……ッ!
炎から吐き捨てられたようにして姿を見せたのは、黒。
崩れ落ちた両足は膝から先の形を失い、胴体からはボロボロと黒炭が剥がれ落ちる。
辛うじて骨の形だけ残った顔は力なくうつむき、それでもクライの方へと向けられた手が――
力なく砕け、床に崩れ落ちた。
――ああ、あああ、ああああ――
あんなにも、呆気なく。
あんなにも、残酷に。
クライの父、ヘイグリッド・レヴィアテイルは――
――ああああああああぁぁぁぁぁぁあああああぁぁあぁああぁッ!?
殺した。
殺した。
殺してしまった!
また、また、家族を、自分のせいで――
父も、母も、クライの手で――
クライが、殺した。
否定の声などあるはずもない。
全てが自分のせいだとクライを責める。
無限にわき上がる自責。
とめどなく吐き出される悲嘆。
嗚咽か悲鳴かも分からない慟哭がクライをぐちゃぐちゃに掻き混ぜていくが、しかし、それらがクライの外へ出ていくことはなかった。
クライの意思から離れ、別の何かによって動かされるクライの身体。
それは、形を失った父だったモノを一瞥して嘲るように呟く。
「あーあ、死んじゃったね。キミのパパ」
――キミが生きていてくれたから、殺せちゃったよ。
まるで、クライ自身が己へと突き立てる刃のように。




