天国ポイントが貯まったら
朝起きると、死んだはずのお父さんがキッチンでコーヒーを淹れていた。
「えっどうして」
「久しぶり、ナギー。ポイントが貯まったんだ」
私の名前は、渚という。
「ポイント?」
「うん、天国って別にヒマな訳でもなくてさ、ちょと仕事をしたりとか、神サマの手伝いをしたりとかすることがあって」
「神サマの手伝い?」
「うん。神サマ家の周りの草むしりとか。で、そういう事をすると神サマポイントカードにハンコをくれる」
「ポイントカード」
「スマホのアプリにも対応してるけどね、僕は昔ながらのポイントカードの方が好きだから。
で、10万ポイント溜まったから願いを一つ叶えてもらえることになった」
「10万ポイントって、なんか大変そう」
「死んでからすぐにコツコツ貯めてきたんだ。貯まるまで5年も掛かっちゃったけど」
お父さんは話しながら、モコモコと膨らんだコーヒーの粉末に“の”の字を描きながらお湯を注いでいる。
「今日一日だけ、ナギーと一緒にいられるよ」
私はコーヒーを淹れるお父さんの背中に飛びついた。勢いで注いでいたお湯がこぼれたが、
お父さんは何も言わずにそっと抱き着いた私の手を握ってくれた。
温かくて、生きているみたいだった。
「ごめんね、死んじゃって」
「本当だよ」
掲題
『天国ポイントカード』
お父さんが淹れてくれたコーヒーを飲みながら、私達は少し話をした。
「どうして今日に限って、お母さんが旅行なんだろう」
「ははは、本当にね」
「皆にも見えるのかな」
「僕を知ってる人だと、ナギー以外には見えないらしいよ。ものに触れる事もできない」
「コーヒー、淹れてくれたじゃん」
「本当だ、どうしてだろ」
私達は笑った。
お父さんが死んだ時私は13歳で、私はお父さんが淹れるコーヒーを飲んだことが無かった。
マグカップごとレンジで温めたミルクを、イケアで買った小さなミルクフォーマーで泡立てる。
そして少し濃いめのコーヒーをマグカップの端から注いでゆく。
「カフェミストっていうんだ」
フワフワに膨らんだミルクの泡が、マグカップから溢れそうだ。
「カフェミスト」
机の上にはマグカップが二つと、赤いパッケージのロータスビスケット。シナモンの香りが私もお父さんも好きだった。
「さぁ、何がしたい? 映画でもみる? 買い物に行く? それともナギーと小さなころによく行った、水族館に行こうか」
私は少し考えた。
小さなころによく連れて行ってもらった江の島の水族館は魅力的な選択肢だったが、悩んだ末にこう答えた。
「私、お父さんと一緒に絵を描きたい」
「絵、か」
父さんは少し意外そうな顔をした。
「お父さん、ずっと絵を描いていたでしょう? 私も描いてるんだ。私、この春から美大生になるんだよ。一日しかいれないなら、私は一緒に絵を描きたい」
「見てたよ。中学、高校の絵画コンクールはいつも金賞だったね。すごいよナギー」
「見てくれてたんだ」
「もちろん。ちなみに僕の絵は見た?」
「小学生の頃に見たけど……もう、あんまり覚えてないや。引っ越しの時にお母さんが処分しちゃったから」
「うん、それも見てた」
お父さんは少し寂しそうに笑った。
「でもね、でも、お母さんも悩んでたんだよ? 本当に最後まで……」
言い終える前に、お父さんは私の肩を優しく叩いた。
「ちゃんと見てたよ」
「……うん」
「ナギーは何を描きたい?」
「お父さんは何を描いてほしい? 物には触れないんでしょ? お父さんの描きたいものを、私が描きたい」
「じゃあ………クジラを描いてほしいな」
「どうしてクジラ?」
「お父さん昔から海が好きだったでしょ。中でも一番大きなクジラって、神サマみたいな畏怖を感じて好きなんだ。神々しいっていうのかな」
「会ったんでしょ?神様に。クジラみたいだった?」
「いや、しょぼくれたじいさんだったよ」
そう言って、お父さんは笑った。
あっという間に半日が過ぎた。
背丈程もあるキャンパスに、あの日の私は下書きまでを一気に描きあげ、アクリル絵の具で色も入れた。でもーーーー
「何か、足りない」
絡まるコードもそのままに電源を繋いだキヤノンのプリンター、ピンク色のドライヤー。飛び散ったアクリル絵の具。
様々な角度でプリントされ、床を埋めるほど散らばったコピー用紙のクジラ達。
「お父さんの感想は?」
「リアルで巧い。アクリルとガッシュの使い分けもいい。ジェッソ(下地)もドライヤーで無理矢理乾かしたにしてはよく機能してる。
でも、これは『巧い絵』であって、まだ『良い絵』じゃない」
「ははは、遠慮ナシだね」
「共作だからね」
「どうしたらいいと思う?」
「シロナガスクジラは体が灰青色。でも、見たままの表現ではどうしても地味になっちゃう。写実的に色を再現しても良い絵にするのは難しい」
「じゃあ、本物が見たい」
「こればっかりは、江の島水族館にもいないからなあ」
「じゃあ、どうすればいいの?」
「絵をうまく方法は2つ」
「本物に触れて、よく考察することでしょ」
「うん、1つ正解」
「もう1つは何?」
「自分とよく向き合う事。ナギーの中で海はきっと、薄暗くて、良くないものになってしまってるのだと思う」
「それはお父さんのせいじゃん」
「それはごめん」
「………」
「でも……勝手かもしれないけれど、ナギーには僕が好きだった海を好きでいてほしい。それにクジラはいなくても、クジラの暮らす場所に触れる事はできる」
「………」
「だから…海に行かないか?」
「歩いたら遠いよ。絵を完成させられない」
「この間取ったろ? 車の免許」
「……ホント、何でも知ってるんだね」
「ナギーに、絵を完成させて欲しいんだ」
我が家には、去年母さんが買い替えたSUZUKIのラパンがある。
私にとっては、大分大きな車だ。
「はぁ……分かった。分かったよ。運転するよ」
「高速道路を使えばすぐさ」
だが、大変なのはここからだった。
「わあああああーームリムリムリッ!!」
「落ち着けナギー、スピード出しすぎ!!」
「合流……!合流だ!! ムリ、ホント無理!!」
「ブレーキ! ブレーキ! ナギー、アクセルじゃない!! ブレーキッ!!」
高速道路なんて教習所の講習以来だったけど、私達はどうにして海に着いた。
海は、思ったよりも近くにあった。
お父さんのコーヒーが入った水筒を取り出し、2人で1つのカップで飲んだ。
私達は何も喋らず、丁度よい大きさの転がった流木に腰掛け、海を眺め、そしてコーヒーを飲んだ。
しばらく時間が経ってから、お父さんが言った。
「どう? 海はどんな色をしてる?」
「思ったよりも灰色。どうして、みんな海を青く描くのだろう」
「僕達に海の色は変えられない。けど僕達が、海を鮮やかだと感じ取ることはある」
「……よく分からないや」
「きっと、ナギーにもわかる時が来るよ」
「……」
「……」
「今日ね………お父さんと会ってから、聞かなきゃって思ってたことがあるの」
「何だい、ナギー」
「おとっ……おとうさんは」
喉がつまってうまく言葉にならなかった。しゃべれば、泣き出してしまうと自分でも分かっていた。
それでも私は無理やり喋り続けた。
「どうしてお父さんは……溺れた知らない子どもを助けて、死んじゃったの」
こぼれ落ちた涙の粒はすぐに砂へと吸い込まれ、無くなってゆく。
「何で……私達を残して、行ってしまったの。 もっとお父さんと一緒にいたかった。 お父さんの新しい絵も見たかった。 生きてるお父さんと一緒に絵が描きたかった。 知らない子供なんか助けなくて良かった。 私達と一緒に生きて欲しかったのに……!」
お父さんはしばらく何も喋らなかった。きっとお父さんもすぐに喋ったら、泣いてしまうと思ったのだろう。
やがて口を開いた時、お父さんは全然違う話をした。
「僕達男はさ。子供を産めない」
「……急に……何の話してるのさ」
「女の人は偉大だ。お腹をいためて、命を生み出し繋ぎ、生きた証を残すことができる」
「何の話?ってば」
「男は子供を残せないから……生きてきた中で悟った哲学とか信念、『僕はこう考える』を残す事しかできないんだ。小説を書いたり絵を描くのも、『僕はこう考える』を残す行為だと思ってる」
「女の人だって、子供を産むだけがすべてじゃないよ。子供を産まず『私はこう考える』を残す人だっている」
「どっちも出来るから、女の人はすごいんだ。僕は急に死んだから……何も残せなかった」
そう言ってお父さんは笑った。
お父さん自身に向けたような、乾いた笑い方だった。
「家族で海水浴に行ったあの日……目の前で知らない子供が溺れていた。お父さんは小学校まで水泳をやっていたから、その子を助けられると思ったんだ」
「………」
「子どもを助けて、お父さんも生きるつもりだった。『お父さんすごいだろ、目の前に子どもが溺れてて、ほっとけないだろ?』ってナギーと母さんに自慢しながら、その日の食卓でビールでも飲むつもりだったんだ」
「………」
「……でも、死んじゃった。ごめんねナギー。馬鹿なお父さんを許してほしい」
「……聞けて、よかった」
「僕の謝罪の言葉を?」
「ううん、『死ぬつもりじゃなかった』って言葉を」
「……そっか」
日が沈み始めていた。
「お父さんの言ってた事、分かったよ。私達に海の色は変えられないけどさ」
映像や写真では何度も見てきた、夕陽を浴びてきらめく海原。
思い返せば、私はあの日初めて本物を見た気がする。
「海が鮮やかだと感じることは、あるんだね」
それから私達は車に乗って、もう一度高速道路を走って帰った。
そこからキャンバスに一度白で埋め尽くし、もう一度色を塗り直した。自分でも驚くほど、一切の迷いなく筆は進んだ。
お父さんは後ろで私を見ながらほとんど何も言わなかった。それでも私達はあの日、間違いなく一緒に絵を描いていた。
「出来た……出来たよ、お父さん」
夢中になって描いていたから、振り返った時にお父さんがいないのが怖かったけど、お父さんはまだ全然ちゃんといた。
お父さんは嬉しそうに、目じりのあたりにシワを寄せて笑っていた。
お父さんは絵について、もう何も言わなかった。
私も、もう何も聞かなかった。
それから、私達は一杯のコーヒーとロータスのビスケットを食べ、ベッドに入った。
お父さんはベッドに入った私の横で腰掛け、私が眠るまで隣にいてくれた。
小さかった頃よく同じ事をしてくれたと思い出しながら、私はどっと襲ってきた疲れに抗えず、いつの間にか眠っていた。
朝起きると、死んだはずのお父さんはもういなかった。昨日描いたはずの絵も無くなっていた。
出しっぱなしだったはずのコーヒーの器具達はホコリをかぶり、ロータスのビスケットも、封が切られていないパッケージのまま残っていた。
すべては夢だったのだ。
物語でよくあるような展開は無い。
夢だと思ったけれど手にアクリル絵の具が付いていたり、床の隅っこにコーヒー豆が一粒落ちていたりもしない。
けれども、私は笑った。
私には昨日お父さんと一緒に描いた、橙色にきらめく美しいクジラの記憶が残っていたからだ。
私は確かに、お父さんと一緒に絵を描いたのだ。
お父さんは天国ポイントを10万ポイント貯めて、”私の夢に”出てきてくれたのだ。
きっと神サマの家の草むしりなんかしながら、お父さんはまたポイントを貯めているのだろう。
私は起き上がり、白いキャンバスへと向かう。
今日もまた、一日が始まる。