ep.3 現実 (2)
城の地下に設けられた尋問室へと足を踏み入れると、籠ったような空気の中に新鮮な血の匂いを感じた。
埃っぽい空間には複数の牢屋が並び、そのうちの一つに数人が集まっていることが確認できる。彼らのうちの一人がルイーゼのもとへと駆け寄って、手短に状況の報告をする。
ルイーゼは少しも温度を感じさせない表情で頷いてから、錆びついた牢の扉を開き、中央の椅子に固く縛り付けられた男へと歩み寄った。
「その義理堅さは評価に値しますが、残念ながら貴方の庇う御仁は貴方を、それから貴方の大切な方のことも守ってはくれませんよ」
薄暗い牢の中に響いた冷たい声に、男の肩が微かに揺れた。項垂れていた灰色の耳が震え、ゆっくりとその顔が持ち上がる。
頬を腫れ上がらせた獣人の男は、数秒だけ躊躇った後で視線を下方へと逸らした。その唇が固く結ばれていることを一瞥し、ルイーゼがふいと牢の天窓の方を見る。
「王族の殺人未遂は重罪です。貴方は勿論のこと、一族郎党が罪に問われることになる。この牢での扱いは、幼い少女に耐えられそうなものでしたか?」
「っ……妹は関係ないだろ!」
弾かれるようにして男がそう叫んだ。
ルイーゼがゆったりとした動作で振り返り、男は思わず身を竦める。小さな灯りがぶら下げられているだけのこの独房で、血を湛えたような色の瞳は微かな光を放っているようにも見えた。
「それを決めるのは、貴方でも、我々でもない。貴族院の諮問官です。今一度聞きますが、貴方を雇った御仁は、自らの立場も顧みず、貴方やご令妹を守ってくださる方ですか?」
ルイーゼの静かな問いに、男は唇を戦慄かせると、やがて深く俯いた。その肩は小刻みに震え、膝に落ちた雫が赤黒く濁りながら、薄汚れた床へと滴っていく。
「俺……俺たちは、西の貧民街に、暮らしてた……親もとっくに死んで……住むところも、なくて……」
さほど間もなく、男の口から簡単な顛末が語られた。生活に困窮していたところを、一人の男に拾われ、金をやる代わりにこの凶行を命じられたとのことだった。
たとえ捕まったとしても裏で手を回せば何とでもなると、それだけの地位があるのだと、貧民街にそぐわない身なりの良いその男は、そう告げたという。
至って想像通りの背景に、ルイーゼの背後から舌打ちの音がした。隊士のうちの一人が、縛られた男へと荒い足取りで近付く。
「それで、お前は馬鹿正直にそれを信じたってのか。お前をここまで虐げ続けた人間の、それもよりにもよって貴族様の言いなりになって、何も分からないまま殿下を殺そうとしたってか。お前が住んでた西の区画、あそこが十年前よりずっとマシな状況になったのは誰がやったと思ってんだ」
深い苛立ちを滲ませた低い声に、男は弾かれたように顔を上げる。涙に濡れた顔で、縄に縛られた身体を捩るようにして彼は少し枯れた声で訴えた。
「だって、あの人は妹の薬代をくれたんだよ! それに……クラウス殿下は、人間と獣人の共存を謳いながら、その裏では屋敷に大量の奴隷を飼ってるって……! 教えられた屋敷には本当に、大勢の獣人が働かされてて、それで……!」
「ふざけんなよ、お前みたいのがいるから、どんなに手柄を上げたって俺らの立場が一向に良くならねぇんだよ。殿下は絶対に、俺らを少しも下に見たりしねぇ。俺らは皆、好きであの人の改革を手伝ってんだ。役に立たねぇ馬鹿が、何も出来ねぇなりに、せめて足引っ張んじゃねぇよ」
「それでも……! それを待ってたら、妹は助からなかった! この間まで元気だったのに、急に熱を出して、衰弱して……! ごめん、ごめんサラ……うっ、ううぅうう……!」
最後にそう絞り出すように言って、男は再び深く俯き、激しい嗚咽を漏らし始めた。
ルイーゼが彼と会話していた隊士の肩に手を置き、一歩下がらせる。大きく身を震わせている男の前に再び立つと、薄汚れた後頭部からうなじにかけてを上から見下ろした。
「貴方の処刑は恐らくは明日か明後日、私が務めることになるでしょう。力を抜いていてくだされば、出来るだけ痛みのないよう一瞬で終わらせて差し上げます。最後に、何か恨み節はありますか?」
憐憫どころか、何の感情すらも滲まない淡々とした言葉に、男は反応することなくただ鳴き声だけを漏らした。
ルイーゼは無言で振り返り、牢の入り口の方へと踵を返す。可能であればさらに情報を聞き出すよう、周囲の部下へと告げてから、それよりも幾分静かな声で続けた。
「西の区画の娼館、及び周辺の奴隷を保有している貴族邸について、獣人の入出録を調べてください。齢や特徴が一致する女性がいれば、報告をお願い致します。裁判にかかる前にこちらで保護します」
「……小隊長、王家に弓引く逆賊です。一族郎党の見せしめが無ければ許されないでしょう」
隊士の反論に、ルイーゼは首を横に振り、縛られた男へと視線を向けた。
「籍も持たない獣人の孤児です。一体どうやって、彼女との血縁を公式に証明すると?」
「どう……して……」
すっかりしゃがれた声で、男が呆然とそう呟く。彼女が己の妹を助けようとしているのだということは、この国の法をほとんど知らない彼にも辛うじて理解ができた。
その視線から目を逸らし、ルイーゼは再び入り口の方へと振り返る。先程男に苦言を浴びせていた隊士を呼びつけ、共に来るように短く指示して、扉を開く直前に男の問いに答えた。
「クラウス殿下の剣として、そうするべきだと判断したからです」
それだけを言って、ルイーゼは隊士と共に牢を出る。
尋問室を出て扉を閉めるまで、背後からは激しい嗚咽の音だけが聞こえた。