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ep.22 理想の果て (1)

 透明な揺蕩う空間に降り立つと、ルイーゼは深いため息を吐き、ぐしゃりと苛立たしげに頭を押さえる。指の間から漏れる髪は、宮殿にあった時と違って染色剤を用いていないため真っ白だった。


「今度こそ上手くいったと……あの、分からずや」


 ルイーゼはそう呟き、一層苛立たしそうに髪を軽く掻き乱す。


 あの時、宮殿で『終末の魔女』としての自分が死を迎え、それでクラウスの統治は絶対となる筈だった。シュヴァルツ王国の変革は屍兵を通して見聞きしており、隣国側の民にも魔女の死後は王国に降るよう暗示をかけておいた。


 今度こそは、求めた世界をあの男が手にできる筈であり、唯一の懸念は自分の永遠の死に戻りの件だけだった。


「それもロズを脅してでもどうにかしようと……いや、そんなことより次だ。次は何処に……記憶の破損は既に取り返しがつかない……開発が厳しい以上、魔装具の入手より後に戻って、それよりも、いっそ……」


 強く顔を顰めてぶつぶつと呟きながら、ルイーゼは次の試行について考えを巡らせた。


 次に戻った時、心身の状態は一層悪いことは分かりきっている。その為多くはやり直せないが、しかしまた隣国を理想郷としたとて、あの男が同じ結末を辿ることも理解している。

 何か妙案は無いかと、ルイーゼは苛立たしげに頭を抑えた。


 白い髪に深く絡め取られた指の爪先が、頭皮に突き立てられかけた時、不意にその腕が強く掴まれる。


「ようやく、捉えたぞ」


 気配と感触にルイーゼが振り返るより早く、背後から掛けられた低い声に、彼女は大きく肩を震わせる。


 次いで、掴まれた腕を振り解こうとしながら、透明な空間へと怒声を浴びせた。


「っ、ロズ‼︎ お前……次に邪魔をすれば殺すと……!」


 あの赤い女は姿を見せず、腕を掴む手の力は少しも緩むことはない。


 ルイーゼは強く舌打ちし、自由な方の手を腰の剣へと伸ばす。素早く柄を握った手が上から包まれるように抑え込まれ、ルイーゼはまた虚空へと怒鳴った。


「ロズ‼︎」


「ルイーゼ、こちらを見ろ」


 怒声が掻き消える前に掛けられた静かな声に、ルイーゼはまた肩を震わせる。

 彼女の顔が一向にこちらを向かないことに、クラウスはため息を吐いた。


「また逃げるのか」


 ぴくり、とクラウスに掴まれたルイーゼの腕が反応する。


 数秒の間の後で、ルイーゼからは、細く長い息が吐かれる音がした。


「……逃げる? お言葉ですが、私が、いつ、貴方から逃げたというのですか」


「現に今、逃れようとしているだろう。散々好き放題をした挙句に、弁明すらしないつもりか。私の騎士は、それほど無能だったか」


 柄へと触れたルイーゼの手が、重ねられた手ごと振り解かれる。自由になった手で、ルイーゼは、クラウスの胸元を掴み返した。


 宮殿で対峙した時とは違い、男の鎧は外されており、いつも彼が屋敷で纏っていた黒い衣がルイーゼの指先に絡まる。


 ぐい、と強く男の身を引き寄せて、ルイーゼは睨むように彼の目を見返した。


「お話というのは、何ですか、殿下。私のしでかしたことについてであれば、まさか弁明などありません。謝罪する気も撤回する気もない。私はただ、私の理念に従って行動したまでです」


「お前の理念とは」


「無論、貴方の近衛であることです。私に課された使命は、貴方の身をお守りすることのみです。私の落ち度により、一度はこの手から溢れ落ちましたが、再び貴方の命をお救いする機会を得た。であれば、それを達成することこそが、私の存在意義です」


 クラウスの短い問いに、ルイーゼは間髪入れずにそう返した。


 彼女の腕を掴む力を僅かに緩め、クラウスはもう片方の手で、自らの胸元を掴む手にそっと触れる。


「ルイーゼ、この空間では、試行によりお前の身に起こった損傷が消えると聞いた。つまり、お前の脳は、判断能力は正常だ。その上で、もう一度聞く。あのような手段を取ってまで、私の命を救おうとすることが、許されることだと思ったか」


 一言一言丁寧に、まるで子供に言い聞かせるように、クラウスがそう問う。


 ルイーゼは少し黙り、ふい、とその視線が斜め下へと逸らされた。


「……思いません。誰に許されたいとも思っていません。私のしたことは非道であり悪行です。それでも私は、どうあっても貴方をお救いせねばならない。お忘れですか。貴方の近衛でなければ、私は人間ですらない。貴方の近衛であったからこそ、私は理性を保てた。私は所詮、殺して血肉を食らうだけの獣です。私にはもとより、生まれ持っての善性などありません」


「ルイーゼ、こちらを向け」


「嫌です」


「ルイーゼ」


「嫌です、殿下。殿下は勝手です。私を勝手に人間にしておいて、貴方の為に生きろと言っておいて、ご自分は易々と、高潔な理想の為に命を捨てる。何故ですか。私は、ようやく道を見つけたのです。貴方が生きて、理想も叶う。その唯一の道を、ようやく、あれだけの屍を積み上げて、ようやく見つけたというのに……っ」


 次第に表情を歪ませ、ルイーゼは遂に言葉を詰まらせた。


 ルイーゼの手に重ねたクラウスの手が、彼女の手に掴み返される。赤い双眸が強く睨みつけるように、再びクラウスの目を捉えた。


「何故ですか⁈ 何故、邪魔をするのですか! 貴方が生きて、理想も叶う! それの……一体これ以上、何がご不満だと言うのですか‼︎」


「お前がいなければ意味がない‼︎」


 ルイーゼの悲鳴に重ねられた強い怒声に、彼女はびくりと身を跳ねさせた。


 途方もなく広い空間の果てへ、やがてクラウスの叫び声は飲まれて消える。


 辺りがすっかり静かになってから、クラウスは硬直したルイーゼの身体を引き寄せた。細い身は少しも抵抗することなく、クラウスの胸へと倒れ込む。


「私は、周囲が、お前が思うほどに、高尚な人間などではない。私が共存の理想を持ち続けられたのは、お前がいたからだ。お前に出会い、お前に恥じぬ自分でありたいと思った。私の為に我が身すら差し出すお前に恥じぬよう、高潔なお前の隣にある為に、そうあらねばならぬと思った。お前がいたから、私は理想を抱くことができた」


 頭上から降ってくる少し掠れた声に、ルイーゼは唇を戦慄かせる。

 腕を持ち上げ目の前の黒い布を再び握り、震える喉から声を絞り出した。


「なら、なんで……どうして、私を、置いて逝こうとした……?」


「……お前を、これ以上私の為に、苦しめたくはなかった」


 その答えに、ルイーゼは勢いよく弾かれたように顔を上げた。微かに潤んだ瞳には、強い眼光が灯り、同時にはっきりとした怒りが滲んでいた。


 どん、とルイーゼの拳が強くクラウスの胸を叩く。


「私、は……! 私は、苦しんでなんかない! 貴方に耳を捧げたことも、与えられる任も、城内で虐げられることも、何一つ犠牲だなんて思ってない! 貴方がいれば、何も辛いことなんてなかった! 理想なんて、叶えてくれなくてよかった! どれだけ救われたって、貴方がいないと、意味がない‼︎」


 無我夢中で捲し立てながら、滲んだ視界の端に炎が揺らいだ気がした。

 あの夜とまるで同じく、焼け付いたように喉が苦しい。そこからあの時と同じ言葉が衝いて出た。


「私は――貴方が側にいてくれれば、それだけで良かった……! 私は、あなたが……っ」


 それ以上は、もはや声にならなかった。嗚咽が喉の奥で震え、意味を成さない音だけが漏れ出る。


 不意に、視界に影が差した。


 頬に触れる大きな手のひらの、慣れ親しんだ硬い感触。唇を塞ぐ熱は、それよりも遥かに柔らかい。息を吸うことも、吐くこともできない。


 それが口付けだと、気がつくまでに、数秒を要した。



 瞬きすら忘れ、どれだけか分からない時間が過ぎる。やがて重なった時と同じく、一切の前触れもなく、その温もりは離れていった。


 呆然とするルイーゼの濡れた目元に、クラウスの指が触れる。残った雫をそっと拭って、クラウスが少し困ったように目を細めた。


「ルイーゼ、愛している。私の為に、すまなかった。だが、もう繰り返すな。これ以上、お前自身を苦しめるな。お前に、傷付いて欲しくない。頼む」


「あ、い……」


 ルイーゼは呆然とした表情のまま、そう口の動きだけで呟く。


 愛、ともう一度噛み締めるように繰り返し、ルイーゼは少し伏せていた視線を持ち上げた。不安げに揺れる瞳が、ゆっくりとクラウスの顔を捉える。


 じわりと焦点があった先で、男の顔に浮かんでいるのは、これまでに幾度となく向けられてきたものと同じ微笑みだった。


「ぁ……」


 ルイーゼの喉から掠れた音が漏れる。


 ようやく瞬きを一つすると、目尻からは一滴の雫が溢れ落ちた。


「私……貴方、を…………愛して、いる……?」


「そうあって欲しいと思う」


 苦笑混じりの返答を聞くと、ルイーゼの頭が力無く前へと倒れ込む。軽い音を立てて、額がクラウスの胸に受け止められた。


「私、貴方に、生きてて欲しかった」


 さほど間を置かず、そう掠れたような呟きが漏れ出る。


 ルイーゼは緩慢な動きで両腕を持ち上げると、指先でそっとクラウスの衣を掴んだ。


「難しい理想を追って、一緒に戦って、ご飯食べて、本を読んで、庭の花を、育てて……それが出来なくても、いい。ただ、生きて、笑ってて欲しかった……そばにいて、欲しかっ、た……!」


 呟きは次第に詰まり、ぎゅっと布を握りしめる音がした。

 折れそうな程に細い両手が、男の胸元に縋り付く。黒い上質な服には深い皺がより、そこへ埋まる震える指先は白く筋張っている。


 温かく硬い胸に、痛みを感じる程強く額を押し当てて、ルイーゼはついに堪えきれずに嗚咽を漏らした。


「わ、たし……私、貴方が好きで、生きてて、欲しくて……っ、それで……でも、もう……もう出来ない……! もう、私には何も出来ない……っ、理想も、救済も……何も、叶わない……っ、ごめんなさい……ごめんなさい、クラウス様……うっ、うああぁああ……!」


 そう叫ぶように訴えて、ルイーゼは堰を切ったように大声を上げて泣いた。


 静かな空間に、女の慟哭だけが響いた。

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