ep.20 臨界 (2)
シュヴァルツ国王は、このところはずっと自室の寝台で伏せっていた。
記憶にあるよりもまた一層痩せ細った身体に、一礼してからクラウスが歩み寄る。
「お加減は如何ですか」
「見ての通りだ、クラウス。して、いよいよ儂に決断を求めに来たか」
「諸侯の緊張、及び民の不安はもはや限界です。これ以上、対立を引き延ばすことは出来ますまい」
クラウスの返答に、王は横たわったまま深い息を吐いた。
長い沈黙の後で、乾いた指が震えながら、寝台そばのテーブルへと伸ばされる。ペンを寄せようとするクラウスの助力を拒み、取り落としそうになりながらそれを握った指が、紙面に滲んだ文字を書き付けていく。
かつて剛健と恐れられた男のものとは思えぬ、細くのたくったような文字。確かに自らの名を記して、王は上質な紙を持ち上げた。
「クラウス、まだ口が動くうちに、お前に告げておかねばならぬことがある。キャスリンのことだ」
王は少し苦しげな呼吸の合間でそう告げた。
クラウスは答えず、視線で先を促す。
また少し咳き込んでから、王は話を続けた。
「お前の考えるように、あれは、城内に巣食う古き闇により殺された。毒を盛ったは他にあるが、それを仕組んだは、四大公爵を筆頭とした、古き家の当主たちだ」
「ホーエンベルク公爵より、既に裏は取れております。今この場でそれを告げた意図は」
そう問うクラウスの目は、普段よりも一層冷たい光を放っていた。
ああ、と王はまた深い息を吐き、寝台に身を沈めると瞼を下した。
「儂は……儂は、知っておったのだ。公爵らがあれを弑そうとしておることも、凶刃が差し向けられることにも気づいておった。それでいて、止めることをせんかった。既に分裂しかけた国を、崩壊させぬ為だ」
まるで独り言のようにそう呟き、王の震える指先が室内の机を指した。
クラウスがそちらへと向かい、指示された隠し引き出しを開くと、そこから一枚の古びた紙が舞い落ちる。
拾い上げた手紙のようなそれに軽く目を通して、クラウスの眉根が寄った。
「あの者の遺書だ。キャスリンは、己の死すらも予知しておった。どのような恨み辛みが連ねられておるかと思えば、儂や周囲の者への礼、それからクラウス、お前について書かれておった。『いずれこの国に訪れる脅威より、民を守護する者となる』と。全くもって……清廉高潔な者よ」
貴族諸侯を抑えることすら出来ぬ自分などよりも、稀有な力を持つ彼女が国を導いていれば、状況も今よりずっと良かったろう、と王は嘆息混じりに続けた。
クラウスは手にした手紙をそっと机上に伏せると、王のいる寝台の方へと歩み寄る。
すぐにそこまで辿り着くと、黒い瞳が枯れた老人を見下ろした。
「前王妃は、自らの力を忌避されておられた」
クラウスの低い声に、王は訝しげに眉を顰める。
王からの返答を待たず、クラウスは静かに王妃に対する見解を述べた。
故・キャサリン妃が初めに予知を行ったのは、今より二十年以上前のことであった。
『赤き目を持つ少女は再び魔女となり、王国に脅威をもたらすであろう』
伝承を信じる貴族を中心に瞬く間に広まり、やがて王の興味を惹くきっかけとなったその予知によって、『赤目』を持って生まれた者がどのような目に遭うこととなったか、クラウスは淡々と続けた。
「――純粋な赤だけでない、少しでも赤目に近い双眸の者は迫害され、親に捨てられ、売り飛ばされ、路傍で孤独に生を終えた。そのことに、前王妃は深く心を痛め、誰かを追い詰めるような予知は二度としないと、以降はあえて抽象的な予知ばかりを行った。自らを殺める謀略についても、全てを知っていて、それでいて死の運命を回避しなかった」
黙ってクラウスの話を聞き終えると、王はまた深い息と共に目を閉じた。
「……お前のような者が隣にあれば、キャスリンもきっと、より幸せな生を送ることができた。その力を、正しく国の為に発揮し、そして、このような状況にはならなかった。件の魔女は、稀有な力を持つと聞く。或いはあの者のように、混血の出自なのではないか。予知により、生を歪められたものなのではないか。だとすれば、魔女の誕生は、すべて儂の責任だ」
そう吐息混じりに告げて、不意に老人の瞼が持ち上がった。
生命の火の消えかけた、すっかり乾き切った手が、信じられないほど力強くクラウスの腕を掴む。
「その上で、クラウス・フォン・シュヴァルツ王国軍総司令、お前にシュヴァルツ国王として命じる。『終末の魔女』を、討伐せよ。あれがある限り、この国に平穏はない。脅威に対する団結、それは一時のまやかしに過ぎぬと、お前も理解しているだろう」
「まやかしでは終わらせません。此度の件で、人間と獣人は深く交わり、互いを知った。この先がどうなろうとも、もはや知らなかった頃には戻れはしない。そうでしょう」
クラウスの手が、王の手をそっと解き、寝台へと置く。その場で背筋を正すと、胸に手を当て一礼した。
「討伐の件、謹んでお引き受け致します。明朝、編成した兵団と共に、隣国へと攻め入ります」
そう言って、クラウスはテーブルに置かれた王の署名が入った書面を手に取った。
そのまま踵を返そうとすると、彼の腰の辺りに王の指先が触れる。
「お前の出自が側腹であることが、実に口惜しい。戦争が終わったとて、獣人のことと同様に、戦を遠いものとして生きる安寧の王国には戻りはしない。第一王子は、戦国の世を統べるには甘過ぎる。このような世になると分かっていれば、お前に王位継承権を」
「不要です。私はそのようなものを望んだことはない」
はっきりとクラウスはそう言い切って、また一礼してから扉の方へと足を向ける。
それに手をかけ、まさに開かれる寸前に、彼はほんの僅かに表情を歪めた。
「今のこの国を統べようと、私の望んだものは、もはや手に入らぬ」
王の耳に届かぬ程の低い声でそう呟き、クラウスは王の居室を後にして、兵の詰める宿舎へと向かった。