ep.3 現実 (1)
日が殆ど沈み、他に人影のない城外の回廊を、外套を纏った人物が疾走する。目深に被ったフードが外れないよう片手で布の縁を握り、胸元に忍ばせた反対の手は冷たく固い柄を握った。
人目を忍んでようやく曲がり角までやって来ると、彼はごくりと唾を飲む。汗をかき始めた手で短剣を握り直し、両足が微かに震えていることに気がついて小さく舌打ちした。
そのまましばらく待つと、角を曲がった先の一室の扉が開かれた。そこから現れた男の髪と衣が共に漆黒であることを廊下に置かれた鎧に反射させて確認すると、彼は一度ぐっと強く目を瞑る。そして男の前に素早く身を踊り出させた。
「裏切り者クラウス! 覚悟――!」
叫び声を上げながら、外套から引き出した抜き身の短剣を大きく振りかぶる。標的である男の手が、一瞬だけ腰の剣へと向かってすぐに下ろされたことを、彼の目は確かに捉えた。
「ぐ、ぅうっ⁈」
次の瞬間に、彼の身体は床へとうつ伏せに倒れていた。肩に鈍い痛みを感じて、そこでようやく自分の手が身体の後ろに回されているのだと気が付く。
たった今まで手にしていたはずの短剣の行方は知れず、なんとか首を捻って視線を上へとやると、標的である男はただ冷たい視線でこちらを見下ろしていた。
確か齢は彼と同じく二十五、六のはずだったが、その歳の人間が持てるような威圧感ではないと、彼はようやく戦慄する。
「こ、の……ぅぐ――⁈」
何とか声をあげようとした賊の男は、口に深く噛まされた布によって苦しげな呻き声だけを漏らす。
彼の両腕を捻り上げる形で床に取り押さえていたルイーゼが、部下にこのまま連行するよう指示を出し、黒の衣を纏った隊士たちと賊の男は尋問室の方へと消えていった。
床に残されたフードの破片と、弾き飛ばした短剣を拾い上げて、ルイーゼはクラウスと共に再び彼の執務室へと足を踏み入れた。
◇
「剣ぐらい抜いて頂かなければ困ります」
部屋の扉が閉まり、第一声に、ルイーゼが咎めるようにそう言った。
執務机に提出された短剣を一瞥してクラウスが薄く笑う。
「私の騎士は無能だったか?」
その挑発的な問いに、ルイーゼは小さなため息を吐いた。
彼女自身、襲撃者の撃退と捕縛を任せられた理由など当然理解していた。先日彼女がテオに褒賞を上げさせたように、彼はこの一件をルイーゼや部隊の手柄とさせたかったのだろう。
無駄にはしないと礼を言った上で、ルイーゼはもう一つ嘆息した。
「ですがお次は、どうぞご自分でお願い致します。私たちは常日頃より殿下のために腕を磨いてはおりますが、それでも万が一ということもあります」
「ああ、検討しよう。それよりもルイーゼ、また呼称を誤っているようだが?」
「態とです、クラウス殿下」
目の前までやってきたクラウスの顔を見上げながら、ルイーゼがそう答える。
体格の良い彼にそばに並び立たれると、頭一個分は視線を持ち上げなければならない。ルイーゼは緋色の瞳でじっと、髪と同じく真っ黒なクラウスの目を見た。
そのいつもと変わらないように見える表情の中に微かに含まれた憤りを感じ取り、クラウスがふっと、少し困ったような笑みを浮かべた。
「すまなかった。私の身を守ってくれたことに礼を言う」
「……クラウス様は、獣人に対して甘過ぎます。ご立派な理想を抱かれることは結構、私たちも持てる力の全てを持ってお支えします。しかし、そのために貴方が死んでしまっては何の意味もありません」
「ああ、理解している。心労をかけたな、ルイーゼ」
ぽん、とクラウスの手がルイーゼの頭に乗せられる。白い髪の間に埋めるようにして、指腹がそこを繰り返し撫でた。
やがて、彼の手はルイーゼの頬へとするりと滑り下りる。
硬い親指で慈しむように目の縁をなぞられて、ルイーゼはくすぐったそうに瞼を閉じた。頬を包む大きな手のひらに少し身を擦り付けてから、ルイーゼはふと我に返り、小さく被りを振った。
「クラウス様、いつもいつもそうやって誤魔化そうとするのはおやめください。次同じことがあれば、私もいい加減に怒ります」
「ああ、承知した。腕が立つ上に信頼できる近衛騎士を持ち、私は他の王族の誰より恵まれている」
「貴方の剣には到底及びません」
きっぱりとそう言い切ると、ルイーゼは一歩下がってから深く一礼する。先程の賊の聴取と報告を上げた後は、予定通りに隊士たちの訓練を行う、という旨を伝えて、扉の方へと身を返した。
「ルイーゼ、すまない。いずれ必ず、お前が安寧と生きられる世に」
彼女が執務室を出る寸前に、クラウスが細い背中に声を掛ける。
先程までよりもずっと真剣さの感じられる謝罪に、ルイーゼは首を横に振った。
「既に、十分与えて頂いております」
扉のそばで振り返り、この部屋に入ってから一番柔らかな声でそう答えて、ルイーゼは再度頭を下げる。
「貴方の理想が成されるため、どうぞ我らをお使いください」
既にいつもの冷静さを取り戻した声音で淡々とそう告げると、ルイーゼは今度こそ彼の部屋を後にした。