ep.15 灰の設計 (2)
グンターの部屋は、あの研究室とよく似た様相をしていた。
床にも机にも所狭しと書物や紙が積み上げられ、少し埃っぽく、テーブルに置かれたままのカップには焦茶の液体が少しと、それから茶渋が幾重にも残されている。
この時点では会ったこともないルイーゼの師は、当然怪訝な顔をしたが、しかし彼女が差し出した手帳を数枚捲るや否や態度を一変させた。
皺の刻まれた手で、忙しなさそうに手帳のページを捲っては戻り、反対の手で握られたペンはガリガリと音を立てながら紙の上を走る。
やがて読み終わったグンターが深いため息と共に顔を上げた。
そこに浮かぶ意図を察して、ルイーゼは小さく首を横に振る。
グンターが読み耽っている間に屋敷の湯殿を借りたことで、白い髪が頭の動きに合わせて揺れた。
「申し訳ありませんが、それで全てです。私としたことが忘れてしまいまして」
「先程言っていた時間遡行、もしくはこの魔装具とやらの影響か。明らかに脳を損傷しそうな設計ではあるな」
「ええ、ですが以前の貴方は、それすらも克服した完全な装置を作り上げておられましたよ」
ルイーゼの返答に、グンターはまた深い息を吐く。
屋敷を唐突に訪れたこの獣人の少女は、正しくは人間との混血であり、そして遥か未来から彼のもとへと戻ってきた、彼の研究の弟子なのだと言った。
現在は魔力や脳に関する研究を行っている彼が、少し先の未来ではこの魔装具という装置の開発を行なう技師となっているという。
正直半信半疑ではあったが、手帳の内容から、全くの与太話だとはグンターには思えなかった。
「獣人が、魔力を持ったか。これは儂の見解だが、獣人と人間とは恐らく脳の作りからして異なる。五感の差から知覚できる世界に違いがあることは当然として、思考パターン、認知能力、記憶力、そして何より魔力の有無だ。儂は、魔力というものは人間の脳にある何らかの器官が生み出すものと仮定しているが、その根拠として――」
「博士、全て、存じ上げております。私は、十年より先からここへ来ております。しかもその間ずっと、貴方の弟子をさせて頂いておりました」
少し苦笑しながらルイーゼがグンターの言葉を遮る。彼に研究の話をさせると長いことは十分に理解しており、そのような時間の猶予はなかった。
ルイーゼが机に向かうグンターのもとへと歩み寄り、とん、と指先で手帳を軽く叩いた。
「概ねはここにある通りですが、お分かりの通り、これでは不完全です。故に、今から実験を行い、せめて試作品まで辿り着いて頂きたい」
「しかし、道具も何も無い。まずは然るべき研究所を立ち上げ――」
「博士」
グンターの言葉が再び遮られる。
彼が手帳から視線を上げると、見下ろすルイーゼの瞳は先程までよりずっと冷たく感じられた。
「でしたら、今から作ってください。ここに。大急ぎで。早くしなければ、クラウス殿下が衰弱死されてしまいますよ」
グンターは僅かに目を見開く。
先程の彼女の話から、この魔装具というものの研究は王族の一人であるクラウスを主導に立ち上げられたものだと聞いたが、この得体の知れない少女が不穏なことをしようとしていることもまた理解していた。
グンターは無言で立ち上がり、屋敷の者を呼ぼうとして、口を閉じる。
そのまま無言で、散らかった室内の床に乱雑に場所を作り、実験に必要であろう道具や装置を掻き集めていく男の背中を見て、ルイーゼは満足げに微笑んだ。
「博士、貴方のことは誰より、それこそクラウス殿下よりもよく知っています。目の前に革新があり、手を伸ばさずにいられる貴方ではない。その非情なまでの合理性、狂気的な知識への貪欲さ、私は貴方を心より尊敬しております」
そう言って深くルイーゼが腰を折る。
グンターは実験の支度を進める手を止めることなく、ルイーゼに背を向けたまま低く問うた。
「……未来の儂は、実験の為に人を殺めたか」
ルイーゼは頷き、グンターの隣に並んで共に道具の選定を始める。
「獣人の罪人を一人。それから、それ以前より何人かの被検体の脳に、修復不可能な損傷を負わせたことを知っております。殿下には報告差し上げませんでしたが……凍結されたことをみるに、きっとご存知だったのですね」
「ふん。確かにお前は、儂の弟子だったらしいな。人間の血が通っているとはとても思えん」
「四分の三は人間の血筋だと、そう鑑定してくださったのは師ですよ」
どうぞ、とケーブルを差し出しながらルイーゼは微笑んだ。
◇
実験のための装置は、半日を経たずして完成した。
無数のケーブルが繋がれた兜を手に持ち、ルイーゼが懐かしいものだと言って笑う。
あの時は四度の試行で試作品の完成まで漕ぎ着けられたが、肝心の基幹部分を思い出せなかった為に、今回は更に多くの回数が必要だろうと思われた。
「答えは私の頭の中にはある筈なのです。それを直接引き摺り出してもらえれば、一番話は早いのですが」
ルイーゼがグンターを振り返りながらそう問うた。
グンターは少し考えてから、苛立たしげに首を横に振る。
「それが出来れば苦労はない。試してやってもいいかと思ったが、失敗してお前の脳が完全に破損してしまった場合、次回以降の試行や、最悪死に戻りとやらに支障が出る可能性があるだろう」
「さすが師、私も同じ見解です。時間は掛かりますが、結局この手法が最短でしょう。大丈夫です、何度やり直したところで、貴方の体感ではこの装置を作った時間ほどは掛かりませんよ」
ルイーゼは肩を竦めてそう言って、椅子に腰掛け兜を被る。
もし死に損ねた場合にはとどめを刺すようグンターへと再び念を押し、そして脳が砕けそうなほどの頭痛に意識を失った。
◇
「……ぅ……ぐ……」
はっきりと目を覚ます前に身を襲った酷い頭痛に、ルイーゼは苦悶の表情を浮かべる。
思わず額を抑えようとして、腕に鎖が繋がれていることに気が付いた。
「また好き放題したものだな」
錆びた格子の向こう側から掛けられた低い声に、ルイーゼはため息を吐きながら顔をそちらへと向けた。
やがて掠れていた焦点が合ってきて、ここが想像通り城の地下牢であることが分かった。
独房の外の椅子に座るクラウスの手には、黒い手帳があった。
こちらに見せるように開かれた最後のページは、恐らくはルイーゼのものであろう血で汚れ、文字の形は完全に崩れて解読すら難しい状態だった。
「グンターを過大評価したな。あの男は時に非道だが、お前ほど螺子が外れ切った男ではない」
「繰り返す試行に耐え切れず、殿下を呼びに行かれましたか。そういえば博士の奥方様は、事故により脳を破損されて亡くなられたのでしたね。まだ少し記憶が混濁しておりまして、ちなみに試行は、何回目まで?」
「九十六だ」
「それは殿下にも御苦労を。記憶の引き戻しは、さほど良い感触ではないでしょう。確か、五十辺りで基幹までは辿り着いたと思いましたが、やはり間に合わせの実験装置では難しかったようですね」
やれやれ、とルイーゼは少し大袈裟に肩を竦めた。
クラウスは手帳を閉じ、懐にしまう。無言で椅子から立ち上がり、独房の中に両腕を繋がれたルイーゼをじっと見据えた。
地下の薄闇よりもずっと黒い瞳は、記憶に残っている限りだが、これまでルイーゼが見てきたどの時よりも冷たく思えた。
「暫く、頭を冷やせ」
その端的な命令に、ルイーゼは思わず小さく吹き出し、くすくすと笑う。
「殺せば、また見失ってしまう。問題解決のための手段が制限されるというのは、実に歯痒いものでしょう?」
「……また来る」
それだけを吐き捨てるように言って、クラウスの足は地上への階段を登り始めた。
やがてすっかり気配が無くなってから、ルイーゼは冷たい石の床に横たわり、閉じた瞼を鎖の付いた手で塞ぐ。
「ええ、時間なら、無限にあります」
そう淡々とした声で言うと、頭の中に数式を思い浮かべ、グンターの家で行っていた試行の続きを始めた。