ep.12 試行の陸 -王国に巣食う闇- (3)
浮遊していた足が地面に降り立つような、もうすっかり慣れ親しんだ感覚。
少し痛む頭を軽く振ると、背後から訝しげな声がした。
「ルイーゼ……?」
「……何でもありません、ホーエンベルク公爵」
そう言ってルイーゼは、横たわる痩せこけた女性に手を伸ばす。
深く病に侵された身体を魔女の力で『回帰』させてやりながら、ルイーゼは窓枠に反射した背後の男の表情を伺った。
そこには、治癒への感謝ではなく、妻の心配でもなく、深い憎悪が滲み出ていた。
◇
容体の改善した公爵夫人を寝台に寝かせたまま、ホーエンベルク公爵はルイーゼを屋敷の玄関まで送る。
何度も繰り返し礼を言う男に、ルイーゼはふと思い出したように、書面を預かりたい旨を伝えた。
ホーエンベルク公爵の執務室へと入ったところで、ルイーゼの両手が公爵の手をしっかりと握る。
「どうした、ルイーゼ」
「ホーエンベルク公爵……公爵には、返しきれぬ程の恩がございます」
ルイーゼの言葉に、公爵は少し戸惑ったように笑った。手は振り解かれないままだった。
「急にどうしたと言うのだ。それに、恩というのであれば儂の方だ。妻の身を治してくれたことに礼を言う」
「いえ、私のこの力がイザベラ様のお役に立てると言うのであれば、これ程嬉しいことはありません」
はっきりとそう言って、公爵の手を取ったまま、ルイーゼは深く首を垂れた。
「ホーエンベルク公爵、改めて、獣人の血を引く私の後見となって頂き、またクラウス殿下の理想にご理解を頂き、感謝の言葉もありません」
「儂の方こそ礼を言おう。クラウス殿下は気高いお方だ。この国において、獣人と人間とを等しく扱うなど、そのような夢幻を本気で唱えるものは後にも先にもおらんかった。儂は……それは、恥ずべきことだったと思っている。獣の血を引くが故に、同じ王国の民をまるで奴隷か動物か何かのように扱う。恐ろしいことに、殿下が立ち上がられるまで、疑問を持つ者すらおらんかったのだ」
少し困ったような、悔恨を滲ませたような声に、ルイーゼの顔がゆっくりと上がる。
じっと公爵の目を見つめると、首を横に振った。
「人間と獣人は、その魂からして違う。伝承ではそのように言われています。故に、私のような狭間の者が生まれ出ることなど、奇跡に等しい」
「ああ。だが、その血は誇りだ、ルイーゼ。貴公の父と母は、種族の垣根を超えて愛し合うことができたのだ。その奇跡の褒美が、稀有な魔力だ、そうだろう」
そう力強く言って、公爵がルイーゼの両手を握り返した。
ルイーゼはこくりと頷く。
「ええ、そのおかげでイザベラ様のお身体を癒すことすらできました。ところで、亡き王妃様も、やはり稀有な力をお持ちでいらっしゃったと」
「……ああ。故キャスリン妃は、時たま未来を見通すことができたとすら言われている。現王が如何に反対されようとも彼女を欲したのも、そのような理由だろうて」
「そうでなければ、獣人の血を引くものが王籍に入ることなどあり得ない」
ルイーゼが静かに公爵の言葉を補足する。
ホーエンベルク公爵は大きく頷いた。
「ああ、そうだ。獣人には優しくしてやらねばならん。しかしそれは、人間である儂らの魂をより良いものに昇華させる為だ」
「穢れた魂が大切なものに……奥方様の深層に触れることが、許せませんか?」
「あ、ああ……それは……」
また頷きかけて、公爵は途端に言い淀み、視線を彷徨わせ始めた。
ルイーゼが握った手を軽く引くと、公爵の目が再び彼女の瞳を捉える。
視線が合わさってから、ルイーゼは、静かにはっきりと告げた。
「ホーエンベルク公爵、貴方は誰より信心深く、気高い方だ。故に、獣人が真に人間と等しくなることなど、赦せはしないでしょう」
「ああ……ああ、そうだ、ルイーゼ。貴公も、聞き分けが良く、稀有な魔力と優れた剣の腕を持つ、有能な近衛騎士だ。しかし、だからと言って、爵位を与えるなど……」
再び言い淀む公爵に、ルイーゼは首を横に振る。
「王国の爵位は、国に貢献したと認められた者に与えられる。獣の血を引くものが、末席にさえあったとあれば、国の根幹が揺るがされる」
ルイーゼの言葉が呼水となったかのように、公爵はまた大きく頷き、語り始めた。
「ああ、ああそうだルイーゼ。お前ならば分かるだろう。対等などと、そのようなことは不可能なのだ。魔女の呪いを受けた獣の民は、永劫罰せられねばならない。犯した罪は裁かれねばならない。美しき秩序あるシュヴァルツ王国を守るためには、醜い獣人という存在が不可欠なのだ」
「ええ、理解しますよ公爵。殿下の夢物語などより、貴方の言い分は至極真っ当だ。共通の敵があれば、人間は団結することが容易い。それはあらゆる歴史が証明しています」
はっきりとそう言った後で、ルイーゼは真っ直ぐに公爵の目を見据える。
「しかし……その為にクラウス殿下を殺めようという点だけは、頂けません。ホーエンベルク公爵、貴方は隣国と内通されていますね。殿下を殺めたその後は、混血を娶った王をも弑されるおつもりでしょう」
「ああ……だがそれこそが、この国の為なのだ。儂は四大公爵として、シュヴァルツ王国を、守らねば……」
ルイーゼが手を離すと、だらりと公爵の両手が落ちる。
肩に触れて命じると、言われるがままに公爵は執務机へと向かって書面を記し始めた。
やがて完成した隣国との内通の証拠とそれを自白する文書、それらを手にしてルイーゼは部屋の扉へ向かう。
公爵は椅子に座ったまま、何かをぶつぶつと呟いていた。
「世話になったことは、本当に感謝しておりますよ。この後、イザベラ様のもとへ、治癒術師を向かわせます。国家反逆罪で裁かれるまでのお命ではありますが……執行人が私であれば良いですね」
純粋な獣人よりも、幾許か人間の血が混じったものに殺められる方が、魂が汚されないだろう、とルイーゼは薄く笑いながら告げる。
ふいと振り返ってドアノブに手を掛け、ルイーゼはほんの僅かに眉を寄せながら、公爵邸を後にした。