ep.9 試行の参 -ホーエンベルク公爵夫人- (2)
美しいが過度な華美さはない応接室で、ルイーゼはクラウスに託された提案書と書簡をホーエンベルク公爵へと渡す。予算案に賛同して欲しい旨と、互いの近況について幾つか言葉を交わしてから、ルイーゼが一歩踏み込んだ。
「――そういえば、奥方様はお元気にされていらっしゃいますか?」
世話になったことをまた挨拶に伺いたいと続けると、これまで朗らかであった公爵の表情が曇る。それを見て、ルイーゼは少し慌てたように素早く立ち上がり、深く頭を下げた。
「公爵閣下、大変な失礼を致しました、不躾な問いでした。……もし許されるのであれば、どうぞ私からとは告げず、花が美しく咲いている頃だとお伝えください。公爵夫人は、大層お好きでいらっしゃいましたので」
「……待て、ルイーゼ」
部屋を出ようとするルイーゼを、公爵が呼び止めた。続けて少し時間はあるかと問い、ルイーゼが頷いたことを確認して、男は馬車の用意をすると言って一度部屋を後にした。
「上手くやったな。懐に潜り込めそうだ」
応接室に一人残されたルイーゼの耳奥に、ロズの楽しそうな声が響く。ルイーゼは疲れたように首を回した。このやり取りに至るまで、屋敷の訪問を三度やり直すことになった。
「夫人のところでは、もう幾許か上手くやりたいものですね」
そうロズに答えて、ルイーゼは腰の剣に触れながら、少し重くなった頭を軽く振った。
◇
「半年程前より持病が悪化し……近頃では立ち上がることも出来ぬのだ」
がたごとと走る馬車の中で、ホーエンベルク公爵は徐にそう切り出した。ルイーゼが正面に座る男の顔をそっと伺う。いつもの快活さはなりを潜め、そこには深い苦悩が見てとれた。
「それは、何と言っていいか……私などと話されて、お身体に障りはないので?」
眉尻を下げてそう問うと、公爵は笑って首を横に振った。
「本人の希望なのだ。ルイーゼ、貴公のことは、妻はずっと気に掛けておった。柵や陰謀渦巻く城内において、気を病んではおらぬかと。その稀有な血筋を利用され、挙句に命を狙われるようなことはないかと」
公爵の手が、掬うようにしてルイーゼの膝に置かれた手を取った。そこに含まれた意図を察して、ルイーゼは座ったまま深く頭を下げる。
「奥方様は、亡くなられた王妃様と親しき仲でいらっしゃいましたね。恩を返し切れぬ程世話になったばかりか、深い心労をお掛けし、大変申し訳ございません」
「やめろやめろ。貴公にそのようなことをさせたとあれば、イザベラに叱られてしまうわ」
公爵はルイーゼの肩を持って強引に顔を上げさせると、そう言ってからからと笑った。
◇
やがて馬車は屋敷に到着した。
ホーエンベルク公爵に先導されて立ち入った一室には、寝台の上に痩せ細った女性が座っている。
ルイーゼは部屋の入り口で背筋を正し、深々と頭を下げた。
「ホーエンベルク公爵夫人、ご無沙汰してしまい、またこのような鎧姿のまま、大変な失礼を」
すぐにくすくすと笑う声がして、顔を上げてこちらに来るようにという指示があった。
ルイーゼが素直にそれに従う。寝台のそばまでやって来た顔を見上げながら、公爵夫人は嬉しそうに目を細めた。
「いいのよ、ルイーゼ。それよりも、こちらこそ座ったままで申し訳ないわね。足が動けば、また貴女にダンスを教えてあげたかったのだけれど」
「公爵夫人のご厚意により、何とか人前に出ても恥をかかない程度には習得致しました。問題は、披露する場が無いことでございます」
「あら、だめよ。騎士の仕事は大切だわ。でもそれ以上に、淑女としての技能も磨かなければ」
婚礼期がすぎるのはあっという間だと、また夫人に笑われ、返す言葉もないとルイーゼが頭を下げる。
かつて、孤児であったルイーゼがクラウスに引き取られ、騎士の登用をさせるにあたり、ホーエンベルク公爵には後見人となってもらった過去がある。その際に夫人には、社交について学ばせてもらう機会があった。
公爵夫人がルイーゼに顔をもっとよく見せてくれと頼む。少し屈んだルイーゼの目の下に、痩せ細った白い指先がそっと触れた。
「隈が出来ているわ。相変わらず無理をしているのね」
「クラウス殿下のため、出来ることをしているだけです」
「ええ、立派だわ。本当に、貴女は頑張っている。ごめんなさいね、あの人がもっと助けになってあげられれば良かったのだけれど」
公爵夫人はそう言ってルイーゼに手を差し出す。ルイーゼはそれを上下から包むように取った。
「もったいないお言葉です。公爵閣下には、これ以上ないほどのご助力を賜っております。聡明であられるばかりでなく、仁徳にも溢れていらっしゃいます」
そうはっきりと告げると、部屋の入り口付近から、何やら居心地悪そうな咳払いが聞こえた。
ルイーゼの肩越しに公爵の顔を一瞥してから、夫人は夫に聞こえないよう、ルイーゼの耳元へと口を近づける。
「ねえルイーゼ、貴女は立派よ。でも、たまには自分の胸の内にも問い掛けてみるといいわ。クラウス殿下はご立派な方です。しかし、時に高潔過ぎる。理性だけで生きられる程、人間はそれほど強くない」
再び身を離した公爵夫人の目には、死が近い人間とは思えない程の強い意志が灯っていた。
ルイーゼは数秒だけ口を噤んでから、しっかりと頷く。
「……イザベラ様、承知いたしました。申し訳ございません、長くお話しし過ぎました」
軽く咳き込み始めたイザベラを再び横にさせると、ルイーゼは公爵と共に応接室へと戻った。
公爵は、ルイーゼがここを訪れたことに対する礼と、加えて治癒術師からはもって数月だろうと言われたことを告げる。
「そう、ですか……」
「そんな顔をするな、ルイーゼ。儂は本当に、貴公には感謝しておるのだ。イザベラがあのように楽しそうにしておったのは、本当に久方ぶりのことで――すまんな、ルイーゼ。ここで暫し待たれよ」
話の途中で、夫人に呼ばれた公爵は応接室を出て行った。
使用人の気配も遠ざかったことを確認してから、ルイーゼは虚空に向かって囁いた。
「……貴女の力を何度か使わせてもらい、それから師と討議して気が付きました。貴女の『回生』は、その根幹は私の魔力と似通っている。過去へと戻るのではなく、正確には過去の己に干渉し、今の己と同一にしている、と言った方が正しい。どうでしょうか?」
ロズからの返答は無かったが、然程気にした様子もなくルイーゼは頷いた。
「それであれば、試してみたいことがあります」