ep.5 炎の夜 (2)
誰もいなくなった部屋で、ルイーゼは振り返り、クラウスの亡骸へと歩み寄った。
すぐに頭もとへと辿り着くと、糸を切らしたように彼女の両足は崩れ落ちた。
無言のまま震える手を伸ばし、瞼を下ろして光を映さない瞳を隠す。その手を頬へと滑らせると、白い手の甲に数滴の雫が落ちた。
「だから、気を付けろと……理想より己の身を鑑みろと、そう言ったでは、ないですか……」
細い喉奥から絞り出すような声は、やがて咽び泣くような音に変わった。
片手は頬に、反対の手で胸元に縋り付くようにして、ルイーゼはクラウスの首元に顔を伏せる。鼻腔に篭る血の匂いに、また嗚咽を漏らした。
「改革なんて……安寧、なんて……要らなかった……! 貴方が……貴方がいなければ……貴方が居てくれれば……私は、それだけで……う、う……ぅ……!」
ぐっと指先に力がこもり、クラウスの服に皺が集まる。城にいる時とは異なり、普段より少しだけ軽装で、身を寄せればその下にある屈強な身体がよく感じ取れた。
がらがらと少し遠くで何かが崩れ落ちる音がする。室内に舞い込む空気は先程よりも一層熱く、吸い込む度に喉を焼くようだった。
暫くの間、亡骸に縋り付いて咽び泣いていたルイーゼは、やがて静かに顔を上げた。涙に濡れた赤い瞳は、暗い光を湛えていた。
「それ程までに……理想を……平等の世を……望まれますか……」
虚な瞳でルイーゼは呟く。脳裏には、つい先日に隊士と交わした会話が思い浮かんでいた。
――死体になってでも俺の剣がお役に立つのであれば、俺の魂も浮かばれる。
ルイーゼはそっとクラウスの手のひらに自らの手を重ね、目を閉じて自身の内の魔力に意識を向ける。
自分の身の強化には殆ど役に立たないそれは、接触した相手へと干渉することには長けていた。すっかり命の消えた肉体へと潜り込み、内側から強制的にそれを操作してやる。
ぴくり、と硬い指先が動き、ルイーゼは小さな悲鳴を上げて重ねていた手を離した。
「あ……ぁ、あ……」
駄目だ、とルイーゼは震える首で被りを振る。
死体となった彼が身を起こしたところで、不死の剣が敵を全て討ち果たしたところで、それは男が求める『理想』とは全くかけ離れたものだと理解していた。
「あ……ああぁあああぁあ――!」
喉を震わせて叫び、ルイーゼは床に落ちたクラウスの手へと縋り付いた。
彼を殺めた敵への恨み、死して尚己を邪魔立てする高潔な理想への憤り、それらを遥かに凌駕するほどの途方も無い絶望だけがあった。
このような思いをするのであれば最初から救って欲しくなかった、あの暗い路地裏から何故連れ出したと、ルイーゼは半狂乱になりながらただ泣き叫ぶ。
「クラウス様……クラウス様……! ぐっ……ごほっ……クラウス、さま……!」
次第に肺を侵す熱と煙に何度も咳き込み、足先を炎に舐められても尚、ルイーゼはクラウスの名を呼び続けた。
「クラ……ス……さ……」
最後にそう発して、彼の手を握り寄り添ったまま、ルイーゼの身体は動かなくなった。
間も無く崩れ落ちた燃えたぎる天井が、轟音と共に二人の亡骸を飲み込んだ。