ライム
毎月の残業時間が八十時間を超えた。
NISAの口座を作った。無駄な人間関係はSNSのアカウントごと消去した。
休みの日にはヨガへ通い始めた。カップ麺に頼る食生活もやめ、税理士の資格勉強も始めた。ただ身軽に、頑丈に、胸を張って生きてゆけるようになりたかった。
無駄遣いも今度で最後にすると決め、たまたま見つけたバーに迷い込んで強めのジントニックを注文した。見れば、隣の人も同じものを頼んでいた。
そんなに搾ったら何も残らないよ。
力任せにライムを潰そうとしたら彼女に笑われた。
そうじゃなくて、こう。逆さにして皮に果汁を伝わせるの。飲み馴れてないのがバレバレだよ。
からかうような彼女のまなざしに、つい苛立ちが込み上げた。酸味の効いたアルコールに脳を揺さぶられ、勢いのまま彼女に絡んだ。遊び慣れずに過ぎた半生も、ダメな恋に身をやつして彼氏に見捨てられた顛末も、全部ぶちまけた。もう恋人なんて要らない、ひとりで生きてゆく準備をしているのだと、塩辛い唇で強がった。
「もう搾られた後だったんだ」
彼女はグラスの中から、入れたばかりのライムを拾い上げた。
「でも私、そんな不器用なあなたが好きだけどな?」
は、と素っ頓狂な悲鳴がこぼれ落ちた。雷に打たれたように痺れたまま、音を立てて彼女のライムが自分のグラスに沈んでゆくのを見つめていた。エメラルド色の半球からは小さな泡が無数に立っていた。ひとくち含むと熱い味がして、ひどく酔いが回って、迫ってきた彼女の口紅が網膜に赤く焼き付いた。
飲まれる。
ぞくりと痺れが強まった。
交わされた口づけの味は覚えていない。
仕事が手につかなくなった。
始めたばかりの投資はいきなり大損を出した。
連絡先を教えろと迫られ、SNSのアカウントを復活させてしまった。
来週末もここで飲もうよ。そういってはにかんだ彼女の真っ赤な唇が、どんな食べ物よりも美味しそうに見えた。ジム通いの予定は崩され、急な暴飲暴食の欲に襲われた。何を頬張っても物足りない。ライムのような刺激を身体が欲していた。
一週間が途方もない長さに感じられた。鏡を覗き込むたび、自分が自分でなくなってゆくのが分かった。彼女が見ていてくれないから、髪型をセットする気力も湧かない。彼女の顔がちらついて離れないから資格の勉強も進まない。
あなたのせいだ。
あなたの一言で全部骨抜きにされた。
バーの扉を開け、当然のごとく隣席に腰を下ろした彼女へ、烏龍茶を暴飲しながら食ってかかった。「お酒は頼まないの?」と惚けられたので突っぱねた。あのとき大人しくソフトドリンクに甘んじておけば、あなたの言葉に酩酊することもなかったのだ。
「じゃあ、これで台無し」
そういって彼女はグラスを傾けた。
飲みかけのジントニックとライムの欠片が、手元のグラスへ流れ込んだ。
どうしてこんなことをするの。ふわんと香るクエン酸の風味に、問い詰める声が震えた。せっかく一人で生きてゆく覚悟を決めていたのに、もう一人じゃ生きてゆけない。暗闇で交わした唇の熱さを、ライムの刺激的な緑色を、あなたがこの身体に教え込んだせいだ。
あなたと知り合いたくなかった。
あなたを好きになりたくなかった。
そんなところが好きだからだよと、彼女はなおも嘯いた。
「純粋で、ほんのり甘くて、誰のことも汚せない。少し心のかけらを注いだだけで、あっという間に私の味に染まってくれる。そんな綺麗な子をずっと探していたの」
真新しいライムを搾りながら、彼女の顔は恍惚としていた。私も新しいライムに過ぎないのだと、そのときようやく分かった気がした。分かっていてもグラスの中からは這い上がれない。もはや、彼女の望むままに酸味を吐き出すばかりだ。
「ねぇ……。一緒にグラスの底へ沈んでいかない?」
ぐいと彼女がキスを迫る。
まだ好きとも言えないまま、彼女の華奢な腕に抱きしめられる。
嗚呼、ぜんぶ吸い上げられるのかな。
それもいいかな。
ぐったりと流れ込んでゆく諦観と、あわい期待。どうか約束を違えないでと、腕の中で目を閉じる。──その真っ赤な唇の中へ、何も残らなくなるまで。




