9話
レクシアがラコットと話している内に、図書室の中にはどんどん人が増えていっていた。イグザの在室を聞きつけた女子学生が、図書室内に押し寄せたからだ。
ここまで椅子が埋まった図書室を見るのは、レクシアにとって初めてのことだ。女子学生達による騒ぎは徐々にエスカレートしていき、きゃあきゃあと騒ぐ者は、すぐにラコットが司書権限で図書室から追い出していった。ラコットの足元には魔法陣が浮かび上がっており、ラコットは本気だ。
「レクシアはんの代理の時もぎょうさん来はるさかい、大変やったわぁ」
追い出し業務から戻ってきたラコットは、大げさに肩をすくめた。
「すみません」
とりあえず謝ったものの、レクシアは別に悪くないのではなかろうか? だがラコットも本気で言っているわけではない。軽口を叩くのも、レクシアとラコットが勝手知ったる仲だからだ。
それはさておきレクシアとしては、朝寮の門前から今図書室の中まで、イグザに付き纏われている理由が分からない。どうやら謝罪以外の理由が、イグザにはあるようだ。レクシアに心当たりはあるにはあるが、それが真実だとは限らない。
イグザの目的は何なのか。いつまでつきまとう気なのか。レクシアが聞きたいことは山ほどある。このままよく分からずに、イグザに付き纏われてはかなわない。修羅場の一件のように、妙なところで災難に巻き込まれるのはだいぶ困る。
「二人で話したいから、少しだけ奥の部屋を借りていい?」
返事代わりにラコットが、レクシアに鍵を投げて寄越した。
「今日は当番の仕事はええさかい、ゆっくりしとき」
「お言葉に甘えてそうさせてもらう。ありがとう」
レクシアが言った奥の部屋とは、図書室に併設された談話室のことだ。イスとテーブル完備、外に音が漏れないように防音も完璧、密談にはもってこいの場所だった。図書室との間の壁には大きなガラス窓がついていて、図書室から中が窺えるようになっている。レクシアとイグザの二人で籠っても、ぎりぎりで大丈夫な場所だ。
鍵を開けて談話室の中に入ったレクシアとイグザは、備品のイスとテーブルに、向かい合わせで座った。持っていた鞄を足元に置いて、レクシアはイグザに真意を問い質した。
「イグザ様、貴方は朝からわたしに絡んできて、一体何をしたいんですか? 謝罪で用が済むかと思えば、図書室の中までついて来るのは何故ですか?」
イグザがレクシアさんと呼んでくるので、レクシアも遠慮なくイグザ様と呼ぶことにした。これで呼ぶなと言われたら、お前も呼ぶなという話になる。
限られた時間の中で考えた結果、修羅場に巻き込んだ罪滅ぼしで、一時の夢を見させてやる的なものかと、レクシアは勘繰っていた。それを言っても許されるぐらいに、イグザの顔は良い。そしてレクシア好みだ。
整った顔立ちで真面目な顔をされると、すごく様になる。レクシアはイグザに見惚れて、溜息が出そうになった。
「うん、よく聞いてくれたね。当て馬になるためなんだよ!」
「え~?」
レクシアの口から、溜息代わりに間抜けな声が漏れ出た。レクシア自身も間抜けな表情で、イグザに言われたことを理解するのに時間がかかった。
真面目な顔で、何言ってるんだ、こいつ。馬鹿か、こいつ。なぜ当て馬になりたがる。病み上がりに悪い冗談は止めてほしいとレクシアは思った。学園に戻っては来たものの、体力は完全には戻っていないのが現状だ。
「僕に任せて。君の望みは必ず叶えてみせるよ」
イグザは間違いなく何かを勘違いしているようだ。
「望みって」
「いや皆まで言わなくて大丈夫だよ。全部分かっているからね」
たぶん何も分かっていない。いや間違いなく、何も分かっていない。
レクシアの身体は病み上がりで、放課後の今は割と疲労困憊だ。ちょっとどころか、だいぶ怠い。結果としてレクシアは、イグザの誤解を解くのが面倒くさくなった。なぜイグザがそんなことを言い出したのか、考えるのも面倒くさくなった。
見当違いなことを言い出したイグザがどこに行き着くのか、放っておいたら面白いのではないかと、レクシアの中の悪魔が囁く。明後日な方向に向かうイケメン、こういうのは放っておいたら、愉快なことになるのが物語の定石だ。
それにレクシアだって年頃の令嬢である。イグザのような人物と過ごせて嬉しくないはずがない。
レクシアの人生はこれまで、今まで素敵な恋とは無縁だった。キッカランの令嬢ということで、大体の人は引くか避けるか、寄って来る人はまずいない。この先誰かと婚約できるかさえ怪しい。結婚なんて夢のまた夢だ。
イグザはファンクラブがあるほどに絶大な人気がある人物だが、嫉妬による実害は今のところないし、今後もないだろう。キッカラン辺境伯家の人間であるレクシアに手を出すような命知らずは、学園内にたぶんいない。いたとしても間違いなく周囲が止める。止めてくれる周囲がいるならの前提だが。
「もういいです。貴方の好きにしてください」
もう少しこの夢みたいな時間を楽しませてもらおう。レクシアが至ったのは、打算しかない結論だった。
さてラコットはレクシアに、今日は仕事しなくてもいいとさっき言っていた。時間を有効活用しようと、レクシアは足元の鞄の中から筆記用具と自分のノートと、ファリンが貸してくれたノートを取り出し、テーブルの上に広げた。
「何をするのかな?」
「ファリン様に借りたノートを写します。休んでいた分、早く授業に追いつかないといけません」
寝不足に気付いて心配してくれるファリンは優しい人だ。ノートも快く貸してくれた。レクシアがファリンと友人になったのは、決して間違いではなかった。
さっそく手を動かしだしたレクシアは、イグザのことを無視して手元に集中した。見ていても面白くないだろうに、イグザはノートを写すレクシアをじっと見つめている。落ち着かないので何か別のことをしてくれないだろうかと、レクシアが考え始めた時だった。
「え~、どういうこと?」
ノートを写すレクシアの手が止まった。
「もしかして、分からないところがあった? レクシアさん、僕で良ければ、分からないところは教えるよ?」
「ここからここで、なんで急に話が飛ぶのかが分からないんです」
おずおずとレクシアが分からない部分を示すと、イグザが解説をしてくれた。レクシアが信じられないほどに、分かりやすい解説だった。
イグザもファリン同様頭が良く、魔法はかなりの腕前だ。成績はイグザとファリンでいつもトップ争いをしている。そこに他の学生が入る余地はない。
ならばなぜファリンが不動の首席に君臨しているのか。それは武術等といった魔法以外の実技が、イグザはだいぶ壊滅的だからだ。イグザは致命的に運動神経が残念らしい。
チョコミントの会では『運動神経に触れてはいけない派』と、『運動できなくてギャップ萌え』派の二大派閥に分かれていると、レクシアはフィエから以前聞いたことがある。噂話に疎いレクシアでも知っているぐらいなのだから、相当なのだろう。
「これぐらいはお安い御用だからね。僕のことはいくらでも、利用してくれて構わないよ」
レクシアの口から『貴方がわたしを利用しているからですか?』と出そうになったが、余計なことは尋ねない。わざわざイグザがこんなことを言ったのは、レクシアを利用したいからだ。きっとそうだ。どうやらイグザの奇妙な申し出は、単純な勘違いだけによるものではないらしい。
だが人からただ怖がられるだけの、レクシアの利用価値とは一体何だろう。レクシアは何も思いつかなかった。
イグザがレクシアを利用するというのなら、レクシアにだって考えがある。イグザに利用される分、目の保養になる時間を楽しませてもらうだけだ。対価が何であれ、眼福な時間を過ごさせてもらえる上に、勉強まで教えてもらえる。しかも教師より教え方が分かりやすい。得られるものとしては十分だろう。降って湧いた幸運を噛みしめながら、レクシアは手を動かし続けた。
しばらくしてレクシアの集中が切れてきた。少しだけ休憩しようと、レクシアは持っていたペンを机の上に置いた。
微笑を浮かべて見つめてくるイグザから視線を外し、レクシアは窓の向こう側の図書室の方を見た。談話室内に熱い視線を送る女子学生が複数いる。彼女達の眼中にあるのはイグザだけで、彼女たちにとってレクシアは背景と一緒だ。
異常なまでに人気があるイグザが、禁呪魔法を受けなくて良かったのでは。レクシアだったから全ては内密に処理できて、皆表向きは平穏な学園生活を送れている。もしもイグザがあの禁呪魔法を受けていたら、表沙汰になってファリンに敵意や悪意が向いていたかもしれない。
「彼女達がどうかした?」
何を見ているか察したイグザが、レクシアに尋ねた。
「いえ、ファリン様の禁呪魔法を受けたのが、貴方ではなくてわたしで良かったと思っただけです」
レクシアが図書室から視線を戻すと、一瞬イグザが動揺した気がした。レクシアは休憩を終えると図書室の閉室時間まで、分からない部分をイグザに教えてもらいながら、ノートを写し続けた。
「レクシアさんが授業に追いつけるまで協力するよ」
今後も二人で談話室を借りられるように、イグザがラコットに話をつけた。普通ならたかが一学生に、ここまで便宜を図ってはもらえない。レクシアがここまで融通をきかせてもらえるのは、ラコットがレクシアの母方の親戚だからだ。レクシアが本好きなのはラコットの影響だったりする。
イグザは図書室を出た後も、レクシアを寮の前まで送ってくれた。もちろん鞄はイグザが持ってだ。元々そうするつもりだったらしく、女子寮の門の前ではラフロスト侯爵家の馬車が、イグザを待ち構えていた。
「また明日」
「今日はありがとうございました」
馬車に乗り込むイグザと別れ、レクシアはお辞儀して見送った。
「ただいま」
「レクシア様、お帰りなさいませ。何か良いことでもありましたか?」
寮の部屋に帰ったレクシアは、いつも通りに振る舞っているつもりだったが、ルダには全部お見通しだったようだ。
「なんだかよく分からないし、いろいろあったけど、今日はとっても眼福だった」
笑顔になったレクシアに、ルダが微笑み返す。
こうして修羅場に巻き込まれる前とは違う、レクシアの日常が始まることになった。