7話
翌日の朝、寝ぼけ眼をこすりながら女子寮を出たレクシアは、違和感に襲われた。首を傾げたレクシアの視界に入ったのは、何故か女子寮の門の前に停まっている馬車だった。
学園の寮に実家から侍女や従者を連れてくるかどうかは、当人の自由だ。だが学園内は学生以外立ち入り禁止となっていることもあって、寮で生活する学生達は皆徒歩で学園に向かう。なので馬車が寮の前で停まっているのは、かなりおかしいことだった。
ちなみに寮で暮らす貴族の学生と、実家の屋敷から通う貴族の学生は半々ほどで、どちらを選ぶかは個人の好みによることが多い。
門に向かって歩を進めながら、馬車の側面に描かれた紋章はどこぞの侯爵家だったかと、レクシアが記憶を辿る。レクシアが答えに辿り着く前に、その答えは判明した。
馬車の中にいたのは忘れもしない、ファリンと修羅場を起こしていたあのイグザだった。馬車の中からぼんやりと外を眺めるイグザに、馬車の横を通る通行人の視線は否応なしに引き寄せられていた。
イグザと目が合ったとレクシアが思った次の瞬間。急いでイグザが馬車を降りてきたため、レクシアは自分の目を疑った。
「レクシアさん、おはよう」
全く親しくないのに名前をさん付け呼びとはいったいどうしたと、レクシアは自分の耳を疑った。驚き過ぎてレクシアは挨拶を忘れている。
「一緒に教室まで行こう」
イグザにそう誘われて、レクシアは最終的にイグザの正気と頭を疑った。
「先に行ってしまってなくて良かった。レクシアさんのことを待ってたんだよ」
「あ~、はい」
何を言っていいか分からず、レクシアの返事がてきとーなことになる。ゆっくりとした歩調のレクシアに合わせて、イグザもゆっくりと歩きだした。イグザはレクシアよりも頭一つ分背が高いので、顔を見るならレクシアが見上げることになる。どの角度から見ても、イグザの顔は本当にいい。
「重いよね? 持つよ」
イグザは有無を言わせずに、レクシアから鞄を掻っ攫った。人気者のイグザに荷物持ちをさせていいものだろうか。でも重い鞄を持ってもらえるのは楽だ。結局レクシアは楽をさせてもらうことにした。
並んで歩くレクシアとイグザの間では、あの修羅場の話は一切出て来ず、核心を突かないような他愛も無い雑談が続いた。探り探りの会話とも言える。それにも関わらず、二人の会話が途切れることはなかった。
レクシア自身は話し上手な方ではない。それでも話が続いたのは、イグザの話術によるところが大きい。これなら圧倒的女性人気も頷ける。人気の理由が顔だけではなかったことを、レクシアは思い知った。
イグザと話していると、昨日はあんなに遠く感じた寮から校門までが、今日はずっと近くに感じられた。しかしイグザとの会話を楽しみつつも、なぜこうなった? と疑問がレクシアの頭を過り続けている。
校舎の入り口付近まで来ると前日と同じように、フィエとロギアに遭遇した。レクシアがわざわざ会えるように時間を調節して、寮を出た甲斐があったというものだ。イグザとの話を一旦切り上げて、レクシアはフィエとロギアに挨拶をした。
「おはよう、フィエ、ロギア」
「ああ、おはよう」
「おはようレクシア、男連れのレクシアと朝から会ったって、全然嬉しくなんてないんだからね」
フィエが伝えたいのは、朝からレクシアに会えて嬉しいということだ。視線を逸らしながらのお手本のようなツンデレに、レクシアはつい笑顔になる。
「え? あれ? 男連れのレクシア? レクシアが男連れ? あれ? チョコミントの君? え?」
自分で口走ったことに対して、フィエは急に動揺し出した。
「え、知り合い?? 図書室の代理頼んでたし? え? え? あれ?」
「行くぞ」
混乱して収拾がつかなくなったフィエは、ロギアにより回収されて行った。困惑するとツンデレが行方不明になるのも、フィエの可愛いところだとレクシアは思う。一方で真顔になっていたイグザは、レクシアの視線に気付くと、再び微笑みを浮かべた。
「行こうか」
相変わらず状況を飲み込めないまま、レクシアは校舎の中をイグザと一緒に歩いた。すでに登校している学生たちが、レクシアと歩くイグザに目を丸くする。続いてレクシアに奇異の視線が刺さった。周囲が混乱しているのがレクシアにも分かる。でもそれはレクシアも同じなのだ。
「え、チョコミントの君がなんであの人と?」
「あの人たしか化け物一族の箱入り令嬢」
「まさかチョコミントの君ご乱心なの?」
フィエも言っていたが、『チョコミントの君』とはイグザの二つ名だ。チョコレート色の髪とミントグリーンの瞳で、ほらチョコミントということである。
こそこそとした女子学生の話し声は、レクシアの耳にまで入ってくる。おそらくイグザにも聞こえているだろう。それでもイグザは笑顔を絶やさずにいる。
レクシアはどことなく、イグザの笑顔に違和感を抱き始めた。絶えない笑顔はおそらくイグザの本心ではない。
絶大な人気を誇るとはつまり、多大な注目も集めるということだ。レクシア自身も悪い意味で、注目を集める存在と言える。そんなレクシアの処世術が目立つ行動をとらないことであるように、イグザの処世術は常に微笑んでいることなのかもしれない。人から避けられるレクシアには分からない、絶大な人気を誇る故の苦労もあるのだろう。
思考が脱線し、上の空になっていたレクシアが気付けば、もう教室は目と鼻の先だった。
「じゃあ、また後でね」
別れの挨拶を言い残してイグザが入って行ったのは、レクシアの隣の教室だ。イグザはレクシアの隣のクラスだったという、レクシアにとってわりとどうでもいい情報が判明した。
あと、また後でね? まだ何かあるの? 引っかかることを言われたものの、レクシアはとりあえず深く気にしないことにする。普段以上に注目を集めて、朝から疲れたレクシアだった。
気を取り直して自分の教室に入ったレクシアは、既に教室に来ていたファリンの元に近付いた。
「おはようございます」
「おはよう」
何も変わらず無表情なファリンに、昨日の笑顔は幻なのか、昨日の出来事はレクシアの夢なのかと不安を抱いた。だがファリンが差し出したノートの束が、現実だと証明してくれた。渡されたノートを受け取り、レクシアは昨日借りたノートをファリンに返した。
「昨日お借りした分をお返しします。ありがとうございました」
「急がなくても平気よ。レクシアさんは病み上がりなのだから、しっかり寝て無理はしないで欲しいわ」
「お気づかいありがとうございます」
レクシアが昨夜あまり眠れていないことは、ファリンにお見通しだったようだ。ファリンは人のことをよく見ていると、レクシアは驚きを隠せなかった。
そして今日もうんざりな授業が始まる。レクシアは勉強が元々嫌いではないが、このままでは嫌いになってしまいそうだ。だが昨日一日で心の準備はできた。レクシアの心は、今日は折れずに済みそうだ。本当に早く追いつかないとまずい。よく分からないながらに、レクシアは無心で黒板の内容をノートに書き写した。