5話
寮での療養生活を一ヶ月ほど続け、レクシアはようやく学園に復帰できるほどに回復した。ディストのお墨付きもばっちりもらっている。
レクシアが暫くぶりに袖を通す黒を基調とした制服は、新しいものに変わっていた。吐血の汚れが落ちなかったために、スレノーラ公爵家が用意してくれたものだ。
制服に着替え終えたレクシアは、姿見に自身の姿を映した。おかしいところは無いはずだ。ただ重くないはずの制服が、とても重く感じる。出掛ける前から身体はもう怠いが、それは仕方ない。
一ヶ月前に比べて、レクシアの体力はすっかり落ちてしまっていた。レクシアはこの一ヶ月を、ずっとベッド上で過ごしていたのだから当たり前だ。落ちた体力は、これから徐々に戻していくしかないだろう。
「ルダ、行ってくる」
「いってらっしゃいませ」
いつものように両サイドの髪に細い三つ編みを施してもらい、レクシアはルダに挨拶してから、寮の部屋を出て学園に向かった。
レクシアにとって約一ヶ月ぶりの外は、これ以上ないほどに快晴だ。太陽の光を眩しく感じながら、レクシアはグライズ王立学園と女子寮をつなぐ道をのんびりと歩く。
後ろからきた人が、足早にレクシアを追い抜いて行った。制服が重く感じるならば、鞄だって重く感じる。今まで遠いとは思わなかった教室までが、とても遠く思えた。病み上がりの身体は疲労感が凄まじく、レクシアは校門の辺りでもう溜息が出そうになっていた。
微妙に俯きながら歩き、校舎の入り口でふと顔を上げたところで、レクシアは見知った顔を見つけた。ツインテールにした白髪に、釣り眼気味の赤い瞳、レクシアの幼馴染であるフィエ・エントラ子爵令嬢だった。
「おはよう、フィエ」
「おはよう。朝からレクシアに会ったって、全っ然嬉しくないし」
悪態をついていても、それが本心でないことをレクシアは知っている。フィエが話すことは、大体本心の百八十度逆のことだ。今の言葉を翻訳するならば、レクシアに会えて嬉しいということだろう。
レクシアはフィエと話すと、つい笑顔になってしまう。
「うんうん、そっか」
「別にレクシアのことなんか心配してないし。いなくて清々すると思ってたし」
「フィエ、レクシア、おはよう」
二人で話すレクシアとフィエに、黒髪黒目の男子学生が声をかけた。ロギア・リオー伯爵令息、彼もまたレクシアの幼馴染だった。
「「おはよう」」
レクシアとフィエの声が重なった。
「レクシア、もう体は平気か?」
「体力はだいぶ落ちてるけど、体調は大丈夫」
「ならいい。フィエ、あまり」
「うるさい。ロギアは黙ってて。レクシアなんかもっと休んでればいいんだからね」
可愛さのあまりレクシアが、フィエの頭に手を伸ばそうとすると、むっとしたロギアが強引にフィエを引き寄せた。フィエには触れさせないと言いたげだ。
「俺達はもう行く」
「またね、レクシア」
手を振るフィエに、レクシアが手を振り返した。
「またね、フィエ」
レクシアから逃げるように、ロギアがフィエを連れて行ってしまう。すっかり二人が遠ざかってから、レクシアは小さく呟いた、
「あ~あ、行っちゃった」
久しぶりに会えたので、レクシアはフィエともう少し話したかった。だがしかし、レクシアだって馬に蹴られたくはないのだ。いつも通りツンデレだったフィエと話せただけでも良しとしよう。
朝からフィエと話せたおかげで、レクシアは日常に戻って来たと実感が湧いた。先程よりも元気が出たレクシアは、自分の教室へと向かうことにした。
レクシアが一ヶ月ぶりの教室に入ると、既に登校している人はまだ半分ほどだった。レクシアが倒れたのは二年生に進級直後のことだったので、レクシアは教室自体に懐かしさをいまいち感じない。クラスメートも名前と顔が一致しない人の方が多かった。
クラス替えから一ヶ月も経てば、クラス内での人間関係はほぼ出来上がっていた。レクシアは否応なしに疎外感を感じてしまう。
元々キッカラン辺境伯家というだけで、レクシアは周囲から距離を取られていた。それに加えて今回は、療養生活のせいで始めから躓いている。
そんな中でレクシアは、教室内で一際目を引く存在に視線を奪われた。教室に咲く一輪の銀の花、無慈悲な公爵令嬢の名に恥じない無表情、レクシアに禁呪魔法をぶつけた張本人ファリン・スレノーラその人だった。
ファリンは教科書を読み、授業に備えて予習をしているようだ。もしかしてあの手紙は代筆だったのではと、レクシアは今更ながらに疑った。王妃教育もあり忙しいファリンが、レクシアへの手紙程度に割ける時間があるとは思えない。
手紙を受け取るまで、レクシアはファリンの字を知らなかった。誰かが代わりに書いたものを、ファリンが書いたとレクシアに信じ込ませることは可能だ。
「おはようございます」
レクシアは自分の席に向かう途中で、ファリンに挨拶をしてみた。
「おはようございます」
挨拶は返ってきたが、ファリンは相変わらずの無表情だ。あの修羅場事件は表向き無かったことになっているので、この反応も当然のことだとレクシアは思うことにした。
これでレクシアとファリンの関係は、終わりになるはずだった。少なくともレクシアにとってはそうだった。
自分の席につき読書しようと本を鞄から取り出した時、レクシアはどこからか視線を感じた。レクシアに堂々と視線をぶつけてくる命知らずは、そうそういるものではない。視線の正体はすぐに分かった。
振り返ったファリンが何故か、ちらちらとレクシアのことを見てくるのだ。レクシアと目が合いそうになると、ファリンに目を逸らされる。レクシアが本に視線を落とし、視線を感じてファリンの方を見れば、再び目を逸らされた。それが何度も繰り返される。レクシアは世に言う、話しかけて欲しいオーラを、ファリンから感じた。
挨拶ならまだしも、身分が下のものからは声をかけるのはあまり良いことでないと、レクシアはどこかで聞いたことがある。でも明らかに話しかけて欲しそうだし、昼休みに話しかけてみようとレクシアは決心した。
そうこうしている内に、午前の授業が始まる。とりあえず午前中の授業をなんとか乗り切ろうと、レクシアは気合を入れた。
先に言っておくと、レクシアは療養生活中も教科書を読んではいた。だが授業が始まってすぐに、レクシアの心は折れた。
絶望的に分からなかった。びっくりするほど分からなかった。分からなさすぎて、笑ってしまう程に。心の中でひとしきり爆笑した後で、一ヶ月は長かった……とがっつり落ち込むレクシアだった。
午前中の授業で一度も教師に指されずに済んだのは、不幸中の幸いだろうか。仮にレクシアが長く休んでいたことを分かった上で指したなら、それはキッカランにケンカを売るようなものだ。レクシアはそれなら指されるわけないかと、とても納得した。
午前中の授業が終わり、心身ともに疲労困憊の状態で、レクシアは学園内にあるカフェテリアに一人で向かった。入り口に置かれた本日のメニューを見て、レクシアが選んだのはハンバーグランチだった。カフェテリアの料理は当たり外れなく美味しいため、悩む意味はあまりない。
王立学園内には、侍女や侍従を連れて来てはいけないという決まりが存在する。なので身分に関係なく学生は皆、自分の食事は自分で運ぶ。
レクシアはハンバーグランチが乗ったトレーをカウンターで受け取り、カフェテリア中央付近の長テーブルで食べ始めた。徐々にカフェテリア内が混雑してきても、レクシアの周囲の席は空いたままだ。
同じようにぽっかり空いているのが、窓辺の席にいるファリンの周囲だった。避けられる理由が違っていても、レクシアはファリンに妙な親近感を覚えてしまう。
レクシアは昼食を食べ終えて、お茶を飲みながらファリンの様子を窺った。見惚れるような美しい所作で食事するファリンは、相も変わらず無表情だ。
昼食を食べ終えたのを見計らって、レクシアはファリンに近寄り声をかけた。
「突然声をかけるご無礼を許しくださいませ。レクシア・キッカランと申します」
自己紹介はあくまで念の為だ。ファリンだってレクシアのことを分かっているだろうが、周囲の目というものもある。レクシアが声をかけても、無表情のファリンからは何も読み取れなかった。
「ファリン・スレノーラ公爵令嬢、この後のお時間よろしいでしょうか?」
「ええ、構いませんわ」
トレーを所定の位置に片づけてから、レクシアとファリンは連れ立って廊下を歩いた。向かう先は人があまりいない裏庭だ。あまりに珍しすぎる組み合わせなので、道すがらすれ違う人々には変な目で見られた。