38話
踊り始めて十分後、レクシアとイグザは人混みから離れたベンチに座っていた。レクシアは真っ青な顔でぐったりだ。
「ごめんねレクシア。僕がはしゃぎ過ぎたせいで」
イグザの運動音痴による予測不可能の動きは、レクシアの三半規管に過剰な負荷を与えた。そしてレクシアの目は回った。イグザに声をかけられても、レクシアに返事する元気は一切ない。
「もたれてもいいよ」
レクシアはその言葉に甘えて、隣に座ったイグザの肩に頭を預けて目を閉じた。気持ち悪すぎて、イグザとの距離の近さはこの際どうでも良くなっていた。あの二人仲が良くてお似合いねと遠くで誰かが言うのを、レクシアは聞いたような気がした。
暫くじっとして気持ち悪さが落ち着いたレクシアは、イグザから体を離した。冷静に考えると近すぎだったので、早く距離を取りたいレクシアだった。
「ありがとう。もう平気。そういえば、さっき何をもらってたの?」
「これだよ」
イグザがレクシアに差し出したのは、蝶の形をした二枚の紙だ。レクシアはそれを見せられても、何だかよく分からない。
「夜蝶祭ではこの紙に願い事を書くんだよ。これには特殊な加工がしてあって、魔力を込めると上に向かって飛んで行くんだ。願い事を空に飛ばすと、神様に届いて願い事が叶うと言われているよ。夜蝶祭と呼ばれる由縁だね」
魔力と聞いて、一瞬でレクシアの表情が苦々しくなった。
「魔力か……」
多少は克服したものの、レクシアの魔法は相変わらず、爆発と隣り合わせであることが多いままだ。
「祭りでそんな顔をしたら駄目だよ。安心して。魔法薬を作るのと同じで、魔力さえ込められれば大丈夫だから、レクシアでも飛ばせるよ」
イグザのお墨付きならば、レクシアも安心だ。レクシアはイグザに渡された薄桃色の蝶を、まじまじと眺めた。しっかりとした紙で作られたそれは、あたかも蝶の羽の模様であるかのように、魔法陣が刻まれている。
レクシアが蝶から視線を移した先の空は、もうすっかり暗い。その中で誰かが飛ばした蝶が、ひらひらと空を舞っていた。
「飛ばした蝶は最終的にどうなるの?」
「込められた魔力がなくなったら、砕け散るようになってるから、願いは何を書いても大丈夫だよ。願い事が他の人に見られることはないから安心してね」
レクシアは渡された紙を再び見つめた。急に願いと言われても、すぐには思いつかない。レクシアが薄桃色の蝶に託す願いは、願いは……。
「あ、書くもの持ってない」
暫く考えてようやく書く願いを決めたのに、レクシアは書くものを何も持っていなかった。どうしようかとレクシアが考える前に、横からペンが差し出される。
「はいどうぞ」
得意げな顔でイグザが、ペンをレクシアに渡してきていた。レクシアが何を書くか悩んでいる間に、イグザは既に願いを書き終えたらしい。
「ありがとう」
受け取ったペンでレクシアは願いを書き記した。イグザを待たせているので、字は多少荒っぽくなってしまった。
「書き終わったかな?」
「うん」
イグザにペンを返しながら、レクシアは返事をした。
「それじゃあ、はい」
横からイグザの手が伸びてきて、レクシアの蝶を攫っていってしまった。代わりにイグザから薄緑色の蝶を渡される。
「レクシアのは僕が飛ばすよ。レクシアは僕のを飛ばしてね。裏の願い事は見たら駄目だよ」
レクシアはせーのの掛け声で、魔法薬を作る時と同じように、イグザの蝶にゆっくりと魔力を込めた。魔力を込める間、レクシアは自然とイグザのことを考えていた。
魔力を込められた蝶はゆっくりと動き出し、レクシアの手を離れていく。蝶が発する淡い光は儚げでありながら、確かな存在感がそこにあった。
二人が魔力を込めた二匹の蝶は、じゃあれあうようにして夜空を羽ばたいていった。寄り添うようにして遥かな空へと。レクシアはなぜかうらやましかった。あの仲良く寄り添う二匹の紙の蝶たちが。
レクシア達の蝶以外にも夜空のあちらこちらで、ほのかに光る蝶が飛ぶ光景はどこまでも幻想的だ。この光景を見たレクシアは、今だけは夜が嫌なものじゃないと思えた。
「イグザに聞いてほしいことがある」
夜空を見上げたままで、レクシアは以前言えなかったことをイグザに伝えようとしていた。
「わたしは夜が苦手。ほんの少しだけ苦手。あの時訓練場で魔法が爆発したのは、そのせいもある。禁呪魔法で苦しんでた時のこと、思い出しちゃったから」
レクシアが誰にも言わなかったことだ。幼いころからの付き合いであるルダの前であっても、レクシアは弱音を吐かなかった。
「禁呪魔法を受けた直後は、痛くて苦しくて辛くて眠れない程だった。部屋の中に一人ぼっちで朝を待つしかなくて、夜が怖くて仕方なかった」
ずっと蓋をしていたものが、レクシアの中から溢れだしていく。
「あとね、周りに怖がられるのも、本当は少しだけ寂しい」
レクシアが今まで生きてきて、言葉にしたことは一度も無かった。レクシアはどうしても、この話をイグザに聞いてもらいたかった。
微かに震えるレクシアの手を、イグザが力強く握りしめる。レクシアがイグザを見ると、何故かイグザはこの場に相応しくない笑顔だった。
「え、喜んでる?」
「そりゃあ嬉しいよ。どんなことでも、レクシアが自分のことを話してくれたんだからね。レクシアの不幸を喜んでるわけではないよ?」
「わたしが嫌だと思うものの話を聞いて嬉しいの?」
「覚えてるかな? 僕が胃痛の話をしたときのこと。僕はレクシアを信頼して胃痛の話をした。それと同じだと思うんだよね」
どうしても聞いてもらいたかった、この気持ちが同じ。レクシアは勘違いしそうだった。イグザは当て馬になるために、レクシアの近くにいるのだから。だから勘違いしてはいけない。
「今は僕が傍にいるから、不安にならなくていいよ」
イグザにそんなことを言われると、レクシアはますます勘違いしたくなる。このままでは駄目だとレクシアは思った。
「イグザ、訊きたいことがある」
そろそろ行き違いを正さないといけない。取り返しがつかなくなる前に。夢のような時間はもうお終いだ。
レクシアはイグザをまっすぐ見据えて尋ねた。
「ずっと訊きたかった。当て馬って何? どういうこと? そもそもわたしには」
「ごめん、ごめんよ、レクシア。僕は当て馬になりきれなかった。僕は当て馬失格だね」
レクシアの言葉を最後まで聞かずに、泣きそうな顔でイグザは走り去っていった。
取り残されたレクシアはただただポカンだ。我に返ったレクシアの瞳には、イグザの泣き出しそうな顔が焼きついている。イグザの傷ついた表情を思い出して、レクシアもどんどん悲しくなっていった。
一縷の望みをかけて、レクシアはベンチでイグザを待ちぼうけた。しかしいくら待っても、イグザが戻ってくる気配はない。
イグザがいないなら、レクシアがここにいる意味はもうない。足早に寮まで帰る間、イグザの胃痛は大丈夫なのか、レクシアはそれだけが気掛かりだった。
「お帰りさないませ、レクシアさ……ま……」
あんなに嬉しそうに出かけたのに、気落ちして帰ってきたレクシアに、出迎えたルダは何も言えなかった。
寮に帰ったレクシアはそのまま部屋に閉じこもった。どうやら言い間違いなどではなく、イグザは本気で当て馬になろうとしていたということになる。あの言葉は言葉通りの意味だった。
レクシアはそのまま、イグザが泣き出しそうだった理由を考え始めた。イグザは当て馬になりきれなかったと言っていた。当て馬のフリがフリでなくなる理由、レクシアは一つの仮説に行き着いた。
イグザがレクシアのことを、本気で好きになってしまったから。
いや違うと、レクシアはすぐに首を振った。こんなものはレクシアに都合の良い妄想だ。そんなはずがない。そもそもの話で、なぜイグザが当て馬になりたがったのかは謎のままだ。
真実や謎の真相が何であれ、レクシアの言葉がイグザを傷つけたのは確かだった。レクシアは取り返しがつかないことをしてしまったのかもしれない。最初にイグザを止めなかった、あの打算が間違いだったのか……。
今日はきっとろくに眠れない。レクシアは夜がひたすらに憂鬱だった。




