あの子が消えた夜
民を苦しめた悪い皇族に、民は立ち向かうことを決めた。
革命前夜、隠された皇女はたった一人、鏡とともに城の中で死を待つ。
死の鎌に微笑む皇女と、皇女を守りたかった鏡の話。
古の物語の始まりは、このようにして始まる。
革命前夜、モルブェビナ帝国の皇女は、自身の行いを悔いていた。
明日の朝には帝国国民が城を取り囲み、逃げ出した皇帝と皇后を捜し、やがて皇女を見つけ出すだろうことを、皇女は理解していた。
昼には帝国の帝都の広場に断頭台が用意されるであろう事も。
全ては、帝国の腐敗が招いた事である。
皇帝は自身の責務を果たさず逃げ出し、皇后は皇帝とともに娘を生贄に置いていく。家臣たちは見切りをつけ、使用人は次々と辞めていった。
最期に城に残ったのは、皇女と皇女の影武者のみ。
「わたくしにもっと力があれば良かったのかしら」
皇女は淡く微笑み、自身の後ろへ目を向ける。
「貴方も早く逃げ出したほうが良くってよ?」
「それは出来ません…あたしの仕事は貴方の鏡なので」
無表情で皇女にそう告げ、アレッタは時計を見やる。
皇女は怒った様子で、アレッタの名を呼んだ。
「貴方はここにいるべきではないの。被害者は被害者らしく、加害者を恨むべきよ」
「あたしが貴方様を恨む理由なんてありません」
「いいえ、貴方には恨む理由があるわ。恨んでもいい理由がある。今なら簡単に復讐できるわ、易くするわよ?」
皮肉な口調で皇女が言う言葉に、アレッタはただ微笑んだ。アレッタが時計を見ると、時は12時をまわろうとしていた。
「そんな必要はありません」
皇女殿下はお優しいですね、とアレッタが呟いた声は、空気に溶けた。皇女はアレッタにそれ以上の発言をさせぬように、言葉を紡ぐ。
「この帝国は終わります。これからは聖女と讃えられる彼女がなんとかしてくださるでしょう。役目を押し付けるようで嫌ですけれど……我が婚約者と弟は彼女の意見に賛同し、わたくしを殺しに来るのです。最期にあれに殺されるのなら、わたくしは自分で死んだほうがずっと素敵だと思うの」
「帝国は終わっても、貴方の命が尽きることはありえません」
皇女は何かを言いかけ、しかし口をつぐんでしまった。
アレッタはそっと皇女の前に城の使用人の服を差し出す。
「あたしは、皇女様の事を一番理解していると自負しています」
「だったら……!」
「だからこそ、皇女様はここであれらの手にかけられるべきではないと判断いたします」
「それは違うわ。貴方が、ここで亡くなってはいけないのよ」
―――――本当の皇女は、貴方なのだから。
皇女は絞り出すような声でアレッタに言う。
「貴方は、この帝国の皇女である私より、皇女らしくあったわ。…贅沢が好きな皇后、そんな皇后や民から税を絞り取り、彼らを人と思わないような貴族たちに何も言えぬ皇帝も。帝国が腐敗していくことをとめられず、手を打つことのなかった、わたくしも。国の上にたつべきではなかった」
「ですが、それは」
「アレシナ、貴方は給金のほとんどを寄付していたわね。皇后が疎んで遠ざけた薬師を拾ったのも知っているわ。3年ほど前に城に紛れ込んだかわいい黒猫に名をつけたのも、他にも平民に対して支援をしていたことも、全部知っている。………ねぇ、ほんとうに覚えていないの」
それは、癇癪をおこす幼子に言い聞かせるような優しい声だ。優しくて寂しい声。
アレッタは、皇女の言葉を否定するように、皇女に告げる。
「あたしはアレッタですよ。皇女様」
「……わかりましたわ。これは命令です、アレッタ。今すぐこの帝国から出ていきなさい。これからは誰の命にも従ってはいけませんわ。勿論、わたくしの命にもです」
これが、我儘と言われた皇女の初めての命令だった。城の中で隠されるように育った皇女には、数多くの秘密があり、外へ出ることを禁じられた皇女は噂とは程遠い。しかし、帝国の現状を探る時間はあっても、探ってくれる人材がいなかった。ただ一人を除いて。
皇女は部屋の中で祈り、傍観する他なかった。けれどそれは、皇女が憎む、両親に加担していたと言えるのではないか。否、本当は皇女ですらないのだ。
「わたくしは貴女に命令しますわ」
「ですが……!」
「アレッタ、わたくしは、貴女に命令いたしますわ」
ごめんなさい、音にならない声で皇女は呟く。
アレッタは泣きそうな表情で、アレシナ皇女殿下の仰せのままに、と応えることしかできなかった。
「ああ、そうです。アレッタ、もう誰も文句を仰る方はおりませんし、わたくしの最期のお願いとしてお友達になりませんか?」
「え……?そ、それは…」
「だめ、かしら」
「い、え」
皇女の、最期の願いを叶えないという選択は、アレッタにはできなかった。
けれど、最期の願い、と彼女が口にする言葉を許容することもできなくて。
「よかった!お友だちというのは文通をするものだと昔本で読みました。ですから、アレッタに、こちらを」
そう言い、皇女はアレッタへ一通の手紙を差し出した。
美しい文字に不釣り合いな質の悪い紙の手紙だった。くすんだ色、ところどころよれたそれ。とても皇族が持つものとは思えない。けれど。
「お手紙と言っても、お返事を書くことは叶わないかもしれないわ。でもね、空の彼方へなら届くかもしれないじゃない」
それでは、さようなら、と皇女はアレッタに言い、アレッタの肩を押した。
皇女の部屋の扉はアレッタと皇女を引き離すようにして閉まっていく。
ガタンッと音がして、中からカチャリと鍵をしめる音がした。
大切にしてね、わたしの一番大切なお友だちのために、心からの言葉で、飾らない言葉で書いたものなんだから、そう皇女は、扉の向こうへ呟くと、笑顔を作る。
「いやです…!やっぱりこんなの嫌です嫌ですいやです!!…どうして…どうしてなんですか…さよ、なら…なんて…、いやです。アレシナ皇女殿下…いえ、アレシナ、さま、いっしょに…!」
最初は小さな呟きだった。しかし、しだいに声は大きくなり、嗚咽が混ざり始める。
扉の向こうから返事はなく、アレッタは泣きながら扉を叩き続けた。
なんども、なんども、なんども、そうして、時間切れを知らせる黒猫が彼女を抱えて城を去った。
これが、アレッタが皇女の側にいられた最後であった。
しかし本当に、事実はそうだったのだろうか。
古のお話には、終わりが描かれていない。なぜなら、そう。
誰も物語の終わりを知らなかったから、記せなかったのだ。
誰もが皆、国などなかったとそう言った。
みな、口を揃えてあの場に"人"はいなかったと、そう言った。
誰かが言った。皇女は美しく、誇り高い人だったと。
誰かは語る。皇女は生きていると。
彼女は嘲笑う。私があの方を殺してしまったのだと。
古のお話は終わりを紡がなかった。
古の話を、細かく説明することのできるものはいない。人々の想像によって物語は描かれた。しかし、誰一人として、終わりを想像することのできるものはいなかった。
だから、誰も、かつての帝国のはなしを知らない。
呪い渦巻くその場所へ、足を踏み入れてはいけないよ
名を捨てた女が微笑う。この目が何も映さなかったなら、わたしは死ねたのかしら、と。確かに首は落ちたはずだった。泣き叫び、とても穏やかな死とはいえない痛みを、苦しみを体験したはずなのだ。
しかし女は生きている。
「ごめんなさい、アレシナ。あなたの為だったなんて言わないわ」
ただ、あなたが死ぬ未来などみたくなかった。あなたのいない世界に意味はなく、そんな世界はいらないと、そう思ってしまったの。
それならわたしが死ねばいいと、入れ替わり、あなたの記憶を消したのよ。自分で消したくせに、覚えていてくれないのは悲しくて、我儘なんだわ。
それに、記憶を消したって、あなたはあなただった。どうすればその道を曲げられるのか、どこまでがアレシナの道で、どこからが皇女の道なのか、日々映る世界と照らし合わせて。
薬師も、黒猫も、あなたが手を差し伸べた全ての人達との出会いが、アレシナの道だった。希望をみた。幸福な日々をこの目は映したのに、それでもあなたは、皇女だった。皇女の道には死が鎌を持って追いかけてきた。いつだってあなたは、それを受け入れてしまうのだ。わたしはいつだって、鏡としてあなたの側にいたのに何もできなかった。
でも、皇女はあなたではなければならないわけではなかった。それに気づけた時、神様を信じようと思ったわ。わたしが皇女になればいい。どの道でも、わたしが誰にも言えなかったそれで。
大嫌いだったわたしの異常さをわたしは喜んで使った。
だから、これはアレシナ、あなたの為じゃない
「わたしの我儘なの」
わたしは死ねないから、古の物語は終わりを綴れない。
呪い渦巻くその場所へ足を踏み入れたなら、どうか鏡を割ってくれないか。
死をはねのけるその鏡を。