めてお!!
――泣かないで、ほら。私といよう。ここは君に意地悪だからね――
ぐにゃりぐにゃりとねじ曲がる歪み、ここは悪魔の悪戯によって「ひと」と「ばけもの」の世界をつなげる空間。
そんな場所に「わるいひと」によってあげられてしまったいたいけな幼子は、うねる自分の影に大きく目を見開き、肩からさげる愛らしいうさぎの鞄を抱きしめた。どろどろとした黒いものが影から浮かび上がり、それを突き破るようにして美しい顔が現れる。どろどろした何かは光沢のある夜闇色のドレスへと変化していき、うねる影は女の形をとった。
これは僕をつれてきた「わるいひと」だ。
「はやいんだね」
ついさっき、この「わるいひと」はしばらくここを離れるから良い子にしているんだよと僕に告げて、お別れをしたはずなのに。びっくりして、思っていたより冷ややかな声が僕からした。
「わるいひと」は綺麗な紫色の目を瞬いて蝶を生む。それから、さらりと闇色の髪が揺れた。
「急いで帰ってきたんだよ。君を一人にしておくのは不安だからね」
「どこにもいけないよ」
「いいや、君はどこへだっていってしまうよ」
さみしげに微笑む「わるいひと」に、僕は何も言えない。だって僕はほんとうにどこにもいけないのに、何処にだって行けると、「わるいひと」は信じているんだもの。
「……、」
「君は知らないだけだ。君が知らないだけで、君は多くの可能性をもつ。君は私とは違うのだから、知らないのも仕方がないのだけどね」
ひとりごちる「わるいひと」の言葉に、僕はうなずきかけて、ゆっくり首を傾げる。
アークレクト、そう呼ばれているこの世界には不可思議が蔓延っていて、「ひと」と「ばけもの」それぞれの国が鏡みたいに、重なっている、らしい。
「ひと」は「ばけもの」の国なんて信じていない人のほうが多い。「ばけもの」はめったに姿を現さないし、隠れている「ばけもの」を「ひと」と見分けることのできる眼を持つ人は、今はもう少ないからだ。
一方「ばけもの」は「ひと」へいたずらをしてはあざ笑い、「ひと」の世に紛れては「ひと」の世に混乱をもたらす、らしい。
僕は「ひと」の世で生きてきた。これからも、そのつもりだ。だから僕は「ひと」の考えをみて、きいて、知っている。だけどそれは「僕」のみてきたことじゃないし、僕はまだ「わるいひと」の考えをみて、きいたことがないから知らない。
だから僕の考えは「わからない」だから、ほんとうに「ばけもの」と呼ぶ必要があるのかわからない。
だから「わるいひと」が僕と「わるいひと」が違うというのはわかる。でも、「知らないこと」を仕方がないというのは違うと思うのだ。
「知らないことは、つみだよ」
知らないことは悲しいことを呼ぶ。苦しくなって、灰色のうさぎさんを抱きしめる力が強くなる。ふかふかでかわいいうさぎ。この子は僕の宝物。
ぎゅうぎゅうと抱きしめながら、それでもうさぎ鞄を潰さないようにしている幼子に「わるいひと」は苦笑いを浮かべる。
「それなら、教えられないということが諸悪の根源なのかな。知らないのは、知る機会がないからだ」
「ほんとうに知ろうとおもえばどんなところにかくしてあっても見つけることができるんだよ。だから知ろうとしないこと、が悪いことなの」
どんなことも、知りたいならば知るためになんだってできるはずだ。しかしそこまでして知ろうとおもうものは少ない。僕も、そうまでして知ろうとは思わかなった「わるいやつ」の一人だ。だから僕は「つみ」を背負って、あの日の「こわれたひと」や「うしなわれたもの」そういう哀しみや絶望を、向けられた「にくしみ」を忘れてはいけない。
「君は…周囲の人々に背負う必要のない悪意を背負わさせれているんだね。あれらはほんとうに醜いことをする」
ざわり、夜闇のドレスがうごめいた。荒ぶる影は大きく口を開いてシャーッとなにかを威嚇する。
ぐにゃりぐにゃりと歪み続ける鏡の世界に、ぽっかりと黒い穴が空いていた。僕の足元に空いたそれは、この白い歪みのなかではあまりに目立つ。
「わるいひと」が僕を抱き上げて、穴から遠ざけたのと同時に、穴から「ひと」が現れた。「ひと」がここにくる方法はまだみつかっていない。「ひと」だけでは来られないから歪みの場所に行ってしまうことを、「空間にあげられる」というのだ。「あげられる」のだから、空間に「あげるひと」が必要で、だからこのひとたちは誰かに呼ばれたということなのだ。
だけど僕を抱えた「わるいひと」は現れた「ひと」たちを影と一緒にずっとずっと威嚇している。とても彼等を呼んだという雰囲気ではなかった。それどころか招かれざる客がきたといった様子だ。
「ああ!!!イエスタ様!」
「ひと」に僕の名前を呼ばれた。あの人は僕の知り合いだろうか、心当たりが全く無くて困る。もともと僕は鏡あわせの住人の顔を覚えるのが苦手だ。
「ひと」も「ばけもの」も同じに見える。もちろん、「ばけもの」は「ひと」とは違う特徴を持っている場合が多いから違うのは、わかるのだけど。
でも、僕は「ひと」のなかに「ひと」としての本質をみるから、やっぱり「ばけもの」と「ひと」は同じだと思う。
キッと「わるいひと」を睨みつけて、僕をほんとうに心配した目でみている「ひと」は大きな杖を持ち、黒く長いローブを着ている。ローブには銀糸の刺繍がされていて、それはどうやら魔術式になっているようだ。銀糸を使えるのなら、たぶんあの人は人の国の偉い人。
偉い人は「わるいひと」に向かって、杖を掲げて魔術を展開しながら言う。
「我らが王を返していただこう!」
「おや、いつの間にこの子は王になったのか。私が知るこの子は国から追い出されたのだよ、守ろうとした者たちによってね。そうだろう?」
否定など許さないし、認めない、そんな様子で「わるいひと」は歪みを夜闇色に染めていく。発動したばかりの術式は全て歪みが呑みこんでしまった。
それがひどく苦しくて、思わず震えてしまうと「わるいひと」は優しく僕の背中を撫でてくれた。小さくごめんね、と声をかけられる。
「君はどう思う?」
つい、と「ひと」へ視線をうつし「わるいひと」が僕に問う。僕はなにか言わなくちゃいけないのに、何も思い浮かばなくてゆっくり首を横に振った。
「なにも、おもわない」
だけど、そう言ってから少し違うな、と思う。
「僕は、守れなかったからつみを覚えていなくてはいけなくて、だから僕は生かされていることがふしぎなくらい、なんだよ。だからね、僕は王様にはなれなくて、王とよばれるのは違うと思う、けど、呼ばれたのなら王なんだろう、とも思うの」
「つまり?」
「ぐちゃぐちゃだからまとまってなくて、ちゃんとした言葉にならないから、あなたに問われたものになにも思えない」
だけど、ここにきた「ひと」を「わるいひと」が追い出したり、怪我をさせたりするのではなく話を聞いている。そうして必ず僕の言葉を知ろうとしてくれる。それだけで本当は、「わるいひと」に問われた「僕」のこたえはでているのだろう。
そんな僕の気持ちも考えも全てわかっていると「わるいひと」は頷いて、微笑んでくれた。
夜闇のドレスが溶けていく。どろりどろり、それに怯えて「ひと」たちが後ずさったり、ひぃひぃ声をあげたりする。だけど、銀糸を纏うその人だけはまっすぐ「僕」をみていた。
「我らが王、イエスタ様。私はあなたをお迎えに来ました。どうか、どうか、私とともにあちらへ帰ってきてはくださりませんでしょうか」
歪みは正され、現れるのは美しく整った白い場所。
この歪みは僕がつくった。僕の「かなしい」に呼ばれた僕の影が、鏡合わせの僕が、僕をこの歪みにあげたのだ。
知っていればどうにかできたかもしれない。僕がしっかりしていたら、あの子は僕を頼ってくれたかもしれない、僕が賢かったら、魔術が使えたら、僕は今無力ではなかったかもしれない、そうしたら、僕は、間に合ったかもしれないのに。
そんな僕の「かなしみ」に「くるしみ」に、「あなた」は呼ばれてしまった。
僕を抱えていた闇色の君は、いつの間にか僕と同じ銀糸と紫をまとい、ズボンを履いている。長い銀糸を一つに結ったあなたは、いつかの僕だ。
「僕はたくさん知らねばならないことがある。だから王として僕が機能するまでにきっと時間がかかります」
「私にできることでしたら何でもいたしましょう」
「僕は、あなたがいい人なのか悪い人なのかわかりません。それは知らないからです。知らないのは、いけないことだと思います」
だから僕は、知らなきゃいけません。
ぎゅっとうさぎを抱きしめて、僕は僕のための「魔術師」をみつめる。あの人は銀糸を纏うことがゆるされている。それは王のための「魔術師」だけで、あの人は僕を「王」と呼んだ。ならば僕はあの人の王様だ。
銀糸の魔術師は王様に逆らえない。王様にぜったいのちゅうせいを誓うからだ。しかし、銀糸の魔術師は王を選ぶ。銀糸の魔術師に選ばれなければ王にはなれないし、銀糸の魔術師が認めなければ王ではなくなる。新たな王が生まれ、かつての王は塵となる。それが「ひと」の国の王様だ。
「あなたがた銀糸の魔術師が僕を王に選んだ。間違いありませんね?」
「イエスタ様、あなたこそ私の王です」
選ばれたのだ。僕はそれにこたえなくてはならない。あの国をころしたくないのなら。
「イエスタ、応えなくともいいんだよ。あれらは勝手に君を選んだのだから、君があれらの勝手に振り回されてやる必要なんてないんだ」
「いつかの僕」が僕にいう。さらりと頭を撫でられ髪をすかれる。それが心地よくて思わず目を閉じた。
どうしてあなたは僕の選択肢に「選ばない」を提示するのだろう。
だってあなたは選んだのでしょう?
選んだからあなたは、その身に夜闇と銀をまとっているのでしょう。
その色の組み合わせと、あなたの服の細やかな紋章と施された刺繍の図案は「ひと」の国の「王」にのみゆるされたものだって僕は知っている。
ああ、だけど、あなたは僕だ。それならきっと僕はいつか、僕に「選ばない」こともできたのだと知ってほしいと思うのかな。
僕はもう「選ばない」ことを知っているよ。あなたが僕を空間にあげた、その時から。
ぱっと僕を抱えるあなたを見上げて言う。
「あのね、僕はいつかあなたが銀糸の魔術師たちに思う気持ちをわかるようになるのだと思います。だけど今は知りません。あなたは影だ、影には光がついている」
だからきっと、あなたともうひとり僕はいるはずだ。
「ひと」を空間にあげたのは、影ではない方の僕なのだろう。
「僕は銀糸の魔術師とひとの国へ行くよ。投げだしてしまったら、あなたにちゃんと笑ってがんばったでしょって言えない気がするの」
僕は、思い返したときに僕自身に失望なんてしたくない。やれるだけのことをしたのだと胸を張って言えるようになりたいし、誰かに尊敬されるひとになりたい。
思いだしたときに、あの道を選ばなかったから、あのときこうしていれば、そんなふうに思うのはイヤなんだ。
選ばなかったことを後悔するのではなく、選んだことを後悔しよう。
「だからね、たくさん頑張ったらいつか、さっきみたいに頭を撫でて髪をすいて褒めてくれる?」
「ふふ、もちろんだよイエスタ」
僕が僕を撫でるなんてきっとできない。だけどいいの。そう言ってくれたことが僕にとってはご褒美だ。
「行ってくるねイエスタ!」
「行ってらっしゃい」
銀糸の魔術師たちと穴へ飛び込んでいく。最後に聞こえたその声は「ほら、やっぱりどこへだっていってしまう」そう呟くさみしげで、だけどとっても暖かくて悪戯な、夜と月の声だった。