兄さんは逃げの達人
テオドール様に無理矢理魔術塔に連れて行かれて早数日が過ぎた。結論から言えば、死にそうである。キツい、苦しい、酸素供給が足りない、解放して。そんな虫の息状態の私を放置してせっせと記録を付けているテオドール様は隠れドSだと思う。
魔力を安定させる為にずっと魔法を発動する。文字で見れば簡単にやれると思えるかもしれないけど、めちゃくちゃ体力の要る作業だった。そもそも魔法なんか無い世界に生まれた私の身体に突然魔力が宿る事は、魔力への適応力がない身体にとっては猛毒そのものになるらしい。だから慣れさせないと魔力が暴走するとテオドール様が言っていた。
そうならない様にこの数日意識を飛ばすほど魔法を使った。しんどいし慣れてない所為もあって後半では魔法の威力が殆ど失われていた。四六時中何らかの魔法を発動しなきゃいけないのがこんなに大変なことだったなんて知らなかった。もう二度とやりたくない。
初めて兄さんみたいに逃げ出したくなった。というか逃げようとした。しかしテオドール様に全て見抜かれあえなく失敗に終わった。
兄さんだったらもっと上手く逃げられるんだろうけど、私は逃げるのは得意じゃない。逃げるのが苦手なのになぜ逃げようとしたんだとテオドール様に訊かれ、想像以上にしんどくて現実逃避したいからですと正直に答えると呆れたため息を吐かれたのは良い思い出だ。
あとリアムさんが様子を見に来たそうだが、全く記憶にない。というか所々記憶が抜け落ちている部分がある。不思議に思ってテオドール様に訊ねると、半分意識を失いかけた状態で魔法を使っていたと聞かされる。危ないからもうするなとも言われた。貴方の所為ですと言えなかった自分が憎い。
そんなこんなで、どうにか地獄の日々を耐え抜いた私はやっと解放された。ああ、自由って素晴らしい。
が、テオドール様は兄さんにも同じ事をしたいと言った。良い考えだと思う。決して私が兄さんに同じ目に遭ってほしいからではなく、純粋に兄の魔力が暴走してほしくないという想いからである。嘘じゃないよ。
そういう訳で。兄さんを魔術塔まで連れて行くと約束した私は早速兄さんを迎えに行った。
またあの白髪お兄さん達と一緒に居るんだろうと踏んでその人達の元へ行ったのに、兄さんは居なかった。どうやら上手く撒いたらしい。無駄足になったなと思いながらその場を去ろうとした私をルーカスさんが目敏く見つけた。
次の瞬間、何故か脳裏にルーカスさんが私を担いで運んだ事が過り、そういえば男の人に抱っこされたのって初めてじゃ? と意識してしまった。そう考えるともう駄目で、屈託な笑顔を浮かべながらこちらへ向かって来た彼へ即座に背を向けた私に、あろうことかルーカスさんは抱き付いた。突然のハグに危うく投げ飛ばしそうになり、寸でのところで堪える。
「ルリちゃんさ〜、何で無視すんだよ」
バックハグなるものをされ更に至近距離から顔を覗き込まれて身体がガチガチに硬直する。お互いの顔が触れそうなほど、男の人にこんなにも近い距離で見つめられた事なんかない。私を口説こうとした村の男だって適切な距離を保ったままだったというのに。
口を閉じたまま何も言わない私を不審に思ったのか、ルーカスさんは私の前に回り込み大きな身体を曲げて下から様子を窺った。
「どしたの、また気分悪くなっちゃった?」
心配そうにしているルーカスさんには申し訳無いが、それ以上近づかないでほしい。今の私には心臓に悪すぎる。
けれどそう言えない私は自ら距離を取る。私の行動が意外だったのか目を丸くするルーカスさんに、異変を感じ取ったジェフリー様が声を掛けた。
「ルーカス、何が有ったの」
「え、わかんね。ルリちゃん急に固まっちゃってさー」
二人が話している間も尚も距離を取ろうとした私の腕をジェフリー様が掴んだ。ハッとすると白髪お兄さん達が傍まで来ていて、皆一様に怪訝な表情を浮かべている。
「こんにちは、妹君様。ルーカスが何か気に喰わない事でもしたかな? それなら僕がきちんと言い聞かせるから、怯えなくても大丈夫だよ」
相変わらずニコニコと何を考えているのか判らない笑みを携えるジェフリー様から視線を外して、不思議そうに首を傾げているルーカスさんを一瞥する。
「抱きつかれたのが……」
「え、抱き付くのやだった?」
私が嫌悪を感じていると思ったのか、ルーカスさんは困ったように眉を下げた。好き勝手に振る舞う様子を見て自由奔放な人だと思っていたので、彼の殊勝な態度に若干驚く。
「嫌というか……男の人に抱きつかれたの、初めてで……びっくりしただけです」
村の人達は兄さんのおまけである私なんか歯牙にも掛けなかったし、師匠は私を女として扱わなかった。唯一『私』自身を見てくれた村の男も手を出すような真似はしなかった。
しっかり手を繋いでくれるのも、優しく頭を撫でてくれるのも、包み込むように抱きしめてくれるのも兄さんだけ。そう考えると、今私が兄さん以外の異性に抱きしめられたのって、滅多に起こらない奇跡みたいだ。私一人で自己完結しているとふと周りから音が無くなったかのように静まり返った。
ルーカスさん達に目を向けると、全員口を閉じていて顔色も悪い。体調でも崩したんだろうかと思っていれば、突然ジェフリー様が一歩前へ出てガバッと頭を下げた。
王太子のみならず皇太子にまで頭を下げられた事に一瞬思考全てが吹き飛んだ。何でいきなり謝られるのか解らず困惑していると、ジェフリー様が口を開く。
「ルーカスが無神経な事をしてごめん。彼はスキンシップが激しくてよく誤解されるんだ。もうこんな事が無いようにキツく言っておくから、安心して」
ジェフリー様の説明を聞きながらふと疑問を抱く。この世界にはスキンシップが激しいだけで謝る風習でもあるのだろうか。それとも現代の日本と比べて男女の触れ合いを良しとしていないとか? 特にジェフリー様の様な皇族とか貴族の人間は婚約もしていない男女の距離とかに煩そう。
あ、もしかしてジェフリー様が謝ったのってそういう貴族的な教育を受けてるから? 思えば皇子様と平民じゃ互いの常識が全然違う。私にとっては当たり前の事でも、ジェフリー様達にとっては普通じゃないんだ。
なんてこと。つまり私は皇族であるジェフリー様に意味のない謝罪をさせてしまった事になる。しかも他国の人間が居る前で。事が知れたら大恥をかくのはジェフリー様だ。今のうちに誤解を解かなければ。私は顔を上げ、白髪のお兄さん達と共に不思議そうな表情をしているジェフリー様に視線を止めた。
(まず、私の常識を知ってもらわないと……)
此方の『普通』というものを知ってもらわなければ、ジェフリー様自身が感じている『普通』と齟齬が生じかねない。なるべく言葉を選びながら話そうと考え、口を開く。
「謝らなくて大丈夫です。私の世界ではキスもハグも当たり前にする事なので、わざわざ気にしません」
「えっ」
「マジ……?」
私の言い分を聞いて驚愕の声を上げるジェフリー様とルーカスさん。白髪のお兄さん達は何も言わないが、顔に困惑の感情が出ているので戸惑っているのだけは判る。やはりこの世界……というより貴族社会では無闇矢鱈にスキンシップはしないらしい。まあさすがにキスは人に寄るけど、友達同士でハグし合ったりするのは日本人でもする人はするし。……私はそういう相手が兄さん以外居ないけど。それにしても先ほどからジェフリー様達が何も言わない。皆何かを真剣に考え込んでいて、そんなに自分たちの『普通』を否定されたのがショックだったのだろうかと思ったが、それにしては様子が変だ。一体どうしたというのだろう。
全員が黙ったまま何も言わないので段々と気まずくなり、当初の兄さんを探す目的を思い出してその事を口に出そうとした瞬間、思わぬ救世主が現れた。
「瑠璃! ここに居たのか!」
ずっと探していた兄さんが向こうからやって来てくれて嬉しくなった私は、迷わず兄さんの胸元に駆け寄った。急に胸に飛び込んだにも拘らず兄さんはしっかりと私を受け止めてくれたが、表情は緩み切っていてちょっと気持ち悪い。
無言でサッと兄さんから離れると途端に残念そうな顔になる兄を見つめながら、唐突だとは思いつつ兄さんに一緒にテオドール様のところへ行こうと提案した。
「え、なぜ??」
「何でテオドールのところに行くんだよ?」
兄さんが驚いたのは予想通りだけど白髪のお兄さんが口を出して来たのは予想外だった。いやでもテオドール様をライバルと認識していたらこういう反応になるのかも? 今そういう反応は困るな。もしここで白髪のお兄さんが兄さんをテオドール様の元へ行くことを邪魔すれば、兄さんを私と同じ目に遭わせられない。
そうはさせるかと無詠唱で手のひらに水の塊を出現させると、村に居た時は出来ない事だったからか兄さんが興奮した様子で私の手のひらを覗き込んでくる。
「瑠璃、なにそれ? すげーなっ!」
「テオドール様が魔力を暴走しない様にって魔法を教えてくれたんだ。兄さんも使える様になったら色々便利だし、テオドール様に教えてもらおうよ」
「確かにせっかく魔法のある世界に来たんだから、一つくらいはマスターしたいよな。うん、行くか!」
私が魔法を使う姿を見て快い返事をした兄さんに内心ほくそ笑む。訓練の内容を知ったら兄さんは逃げの達人と言われる程の速さで逃げ出すだろうが、なんとなく逃げるのに失敗する未来が見えた気がした。
騙し打ちみたいな形になるがあんな地獄を私だけが味わわせられるなんて納得いかないので、機嫌が良い兄さんをテオドール様の元に連れて行った。その後魔術塔から兄さんの絶叫が聞こえたような聞こえなかったような……まあ頑張れ。
「謝らなくて大丈夫です。私の世界ではキスもハグも当たり前にする事なので、わざわざ気にしません」
(((それってキスやハグはオッケーってことか……?)))
思いっきり言葉選びを間違えている事に瑠璃は気付かない。