これが日常
目の前にある巨大な本棚の中から真新しい本を取り、テーブルに広げる。ページをパラパラとめくると面白そうな内容だったので今度は初めからじっくり読む。
暖かい日差しが差し込む窓際に座って本を読むのは気分が良い。でもそれも今だけの様だと私はため息を吐く。
見なくても分かる程にドタドタと廊下を走る音。段々ここへ近づいて来る気配。双子とは厄介なものだ。意識しなくとも互いがどこに居るのか本能で解ってしまうのだから。やけに焦りを含んだ足音に、今日はもう静かな読書は出来そうにないなと私は落胆した。
バンッとドアが壊れそうな勢いで開いた。あまり乱暴にするなと口酸っぱく言っているのだが、改善した試しが無いのでとっくに諦めている。
ここは王宮。どうせ壊れても構わない。ドア一つくらい、持て余す財力でぱぱっと直すだろう。
……いや、その前に魔法で直すか。いけない、どうにもまだ此方の世界の常識に慣れない。かれこれ半年ほど経つというのに。
「瑠璃!」
ドアの心配をしている私の名前を呼ぶのは、元凶である兄・翡翠。兄さんは名前と同じ黒っぽい緑の髪を揺らしながら私のところまで走ってきた。その姿を椅子に座ったまま見上げていると兄さんは焦った口調で捲し立てる。
「お願い、匿って! てかなんであいつらは毎回俺を追いかけてくるんだよ〜」
頼みながらぶつぶつ文句を言う兄さん。兄はこの世界の神子に選ばれた。だから皆が熱を上げる。おまけに兄さんは周囲から愛される素質があるようで、余計追っかけに拍車を掛けている状況。けれど兄さんは鬱陶しいと思っているらしく、いつもこうして逃げ回る。
何も知らない男達がこの話を聞けば、間違いなく兄さんを羨ましがるだろう。女の子に追いかけられるなんて羨ましいと。
ただの女の子であれば兄さんだって逃げたりしない。むしろ喜んで受け入れるだろう。相手が女の子と言うのなら……
「神子様!」
兄さんを追いかけてきた人たちが雪崩れ込むように書庫室に突入して来る。
高い身長の人も居ればそこそこ低い身長の人も居る。綺麗に均整のとれた筋肉を付けている人も居ればバッキバキに腹筋が割れている人、または全く筋肉を付けず丸みを帯びた身体をしている人も居る。顔立ちは精悍から愛らしいと十人十色。けれど皆容姿は恐ろしいほど整っていて、平凡な顔をしている私が恥ずかしくなってくる。
この様に容姿や年齢または身分が全く違うこの人達には、ある共通点がある。それは、全員が身体の中心に逸物をぶら下げていること。要はナニである。
この後に続く衝撃の事実を語れば、兄さんを羨ましいと思う男は現れないだろう。
兄さんの追っかけ、別名求婚をし続けているこの人達は全員男なのだ。
兄さんは毎日の様に求婚され、逃げて、追いかけられる日々を繰り返している。屈強な男どもに尻を追いかけられるなんて真っ平だと愚痴を零すほどに。
……ほんと、神子に選ばれたのが私じゃなくて良かった。心の底からそう喜んでいるとチャラついた出立ちの男が真っ先に私に駆け寄った。
バリシュード帝国の皇太子・ジェフリー皇子だ。皇太子なのにこんなチャラついた容姿で良いのかと思ったが、決して口には出さない。
金の髪が陽光に照らされ美しいまでの輝きを放つ。こんなイケメンが近寄って来たら、普通の人はドキドキくらいするんだろう。でも私はなんとも思えないので、ただ黙って見上げる。
「こんにちは、妹君様。今日もとびっきり可愛いね」
甘ったるい笑顔で甘ったるいホラを吹く男は何の躊躇もなく私の手を握る。この人は会う度に私を口説くような真似をする。その理由は分かってる。
だってこうして私に触れれば、多分……
「なに気安く妹に触ってんだああああ!!」
物陰に息を潜めていた兄さんは、私の手を握っている男の背中目掛けて飛び蹴りを喰らわした。しかし彼は咄嗟に防御魔法を展開したらしく、無傷。
ジェフリー皇子は姿を現した兄さんの腕を掴み離さない。それに慌てる兄。追われて隠れていたというのに自分から捕まりに行ってるんだから世話ない。
まあ兄の腕を掴んでいるこの男も狙ってやってるのだから、いっそ感心する。
「神子様も、どうして逃げるの? 授業もまだ途中なのに」
ジェフリー皇子が言う『授業』という単語にピクリと肩を揺らしてしまう。
どうやら兄さんは授業を受けるのが嫌で逃亡したらしい。昔から嫌な事から逃げてしまう癖が染み付いている兄さんは、異世界でもその癖が治らない。
が、だからといって私が兄さんにどうこう言う資格はないけど……神官様達に泣きつかれるのはごめんだ。
読んでいた本を閉じて椅子から立ち上がると、真っ先に兄さんが反応する。
「る、瑠璃っ!? お、お兄ちゃんは決して逃げたわけじゃ──」
顔を蒼くさせながら必死の形相で言い募る兄さんの肩に手をぽん。と置く。兄は肩に置かれた手と私の顔を交互に見遣る。
兄さんを守るのは私の役目。兄さんを守るのが私の生きる理由。幼い頃からそう教えられ育って来た。
それを放棄つもりは毛頭ない。私はあくまで一歩引いて後ろから兄さんを見守るだけ。
ーー平和な今は。
「……兄さん、授業はちゃんと受けなよ。神官様達が今にも泣きそうだよ」
部屋に雪崩れ込んできたのは、何も兄さんに求婚しようとする人達ばかりじゃない。兄さんに真面目に授業を受けてもらおうと連れ戻しに来た人達も居るのだ。けれど神子である兄さんに無礼な振る舞いが出来ない彼らは、先程から私にチラチラと視線を送っていた。
今に始まった事ではないし、もう慣れたから良いんだけど。兄さんが授業から逃げ出す度に私の下へ来られるのはちょっと……いやだいぶ迷惑。
しかし兄さんはこの期に及んでまだ反抗を繰り返す。
「違うんだって! 今日は、今日こそは真面目に受けようとしたら! アサド王子達が来たから……」
チラッとこの国の第一王子かつ王太子であるアサド王子へ視線を向ければ苦笑いされた。それだけでなんとなく察しが付いた私は兄さんへ氷の視線を向ける。
「アサド様達は様子を見に来ただけみたいだよ。第一、自分の責を他人の誰かの所為にしようとしたら人として終わりだよ」
「うっ……瑠璃ちゃん今日は手厳しい……」
「やかましい」
うだうだ言っている兄さんが面倒になって来たので一言『やかましい』で終わらせた。
私だって暇じゃない。まだまだ読みたい本が沢山──
「此処に居たのか!?」
突如書庫室全体に響き渡る男性の絶叫。また兄さん関連の人間かと思い目を向けたが、扉の前に立っている人を見た途端顔ごと逸らした。
決して後ろめたい気持ちからではなく、条件反射だ。
「……妹君様、お迎えが来ていますよ」
この国の騎士団の団長様が気を遣って声を掛けてくれたのに、私は怖くて振り向けない。ツカツカとその人が近づいて来る気配を感じ取り、ええい、ままよ。と振り返れば鬼の形相の魔術師団団長様が私を見下ろしている。
さすがに迫力があって思わず頬を引き攣らせる私に対し、国宝魔術師という異名を持つテオドール様は深いため息を吐いた。
「今日は午後から少し魔術の練習をしようと前々から言っていたのにも関わらず……なぜ書庫室に居る?」
「……ちょっと、本を読んでから行こうかと」
「ふぅん?」
テオドール様の冷え切った『ふぅん』に冷や汗が背中を流れる。
別に兄さんみたく、授業が嫌だから逃げ出したとかではない。単に、私は本を読み出すと時間を忘れて没頭しちゃうだけで……
「妹君様にとって、二時間はちょっとなのか」
「……すみませんでした」
返す言葉も無いので項垂れていると、ひょいっとテオドール様に首根っこを掴まれた。ぶらんと足が宙に浮き、焦ってバタバタしてしまう。
「テオドール殿、妹君様に乱暴を働くのはやめろ」
「そうだよ、テオドール。女の子にはもっと優しくしなきゃ」
騎士団長様とジェフリー皇子が諌めるとテオドール様は二人を睨みつける。
「私だって好きで仔猫の様な扱いをしているわけじゃない。それに、こっちの方が反省を示してる分、接しやすい」
そう言いながら私の首根っこを掴んだまま書庫室を出るテオドール様。不憫に思ったのか、犬獣人のウェル君が、妹君様ファイト〜。とエールを送ってくれた。
「これが、私達の日常。今日はたまたまやらかしてしまったけど、私は毎回こうじゃないもん!」
「誰に話してるんだ?」