―96― 答え
「そうだな。もはや、限界が来たようじゃ」
パラケルススが、深く、重い吐息とともに同意した。
その言葉に、ゾーエーが柳眉を逆立てるが、アントローポスがそれを制して語り続ける。
「よいか、ゾーエー。認めたくはないだろうが、すでにこの男――アベルの力は、我ら偽神の想定を上回っている」
「……たかが人間ごときがか?」
「その人間ごときが、ヌースを葬り、貴様を機能不全に追い込んだのだ。それに、今ここでアベルを殺したところで意味はない」
アントローポスは、瓦礫の山となった学院を見渡した。
「アベルの『科学』は、すでに衆目に晒された。雷を操る術、鉄を飛ばす理屈……それらは一度知られてしまえば、誰にでも再現可能な『知識』だ。種は撒かれたのだよ。今こやつを殺したところで、いずれ第二、第三のアベルが現れ、我らを脅かすだろう」
科学とは、再現性だ。
奇跡ではない。誰にでも扱える法則。それが一度世界に解き放たれてしまえば、もはや偽神の力といえど封殺することはできない。
「チッ……」
ゾーエーは不満げに舌打ちをし、沈黙した。
反論できないことを悟ったのだろう。
「そうだな、パラケルススよ」
「……ああ。隠し通すには、この男は賢すぎた」
賢者パラケルススもまた、諦観の笑みを浮かべて頷いた。
俺は正直、こいつらが何を納得し合っているのか完全には理解できていなかったが、少なくとも今の状況が「俺の勝ち」に傾いていることだけは感じ取っていた。
「さて、アベルよ。貴様には話しておかねばなるまい」
アントローポスが、俺に向き直る。
その瞳は、幼女のそれではなく、遥か太古を見通す偽神の眼差しだった。
「昔話をしよう」
彼女が語り始めたのは、この世界の根幹に関わる創世の記憶だった。
かつて、至高神と呼ばれる存在がいた。
至高神は、欠けるもののない完璧な世界――『イデア界』を創造した。
そして、その世界を管理するために8柱の眷属を生み出した。それが『アルコーン』。人々が後に偽神と呼ぶ存在だ。
「だが、ある時、至高神は9柱目の末っ子を創り出した。それが『デミウルゴス』だ」
デミウルゴスは野心家だった。
至高神に並び立とうと、自らの手で新しい世界を創り出したのだ。
だが、その試みは失敗した。
創られた世界は、イデア界とは似ても似つかぬ、不完全で、無秩序で、悲劇に満ちた失敗作だった。
「それが、この世界――物質界だ」
アントローポスは地面を指差した。
「この世界を支配している法則、それこそが『科学』だ。冷徹な物理法則、残酷なエントロピーの増大……デミウルゴスは嘆いた。あまりにも醜く、不完全な自分の作品にな」
だから、デミウルゴスは修正しようとした。
イデア界と物質界を無理やり繋げ、完璧な『イデア』をこの世界に流し込むことで、不完全さを覆い隠そうとしたのだ。
それによって生まれた力が――『魔術』である。
「だが、それは許されざる行為だ。不完全な世界に完全な力を混ぜれば、歪みが生じる。我らアルコーンはそれを正すため、この失敗作であるこの世界を滅ぼそうとした。ゆえに、人は我らを『偽神』と呼び、忌み嫌う」
アントローポスの視線が、パラケルススへと移る。
「そのとおりだ」
パラケルススが、重々しく口を開いた。
「創造神デミウルゴス……またの名を、賢者パラケルスス。我はこの世界を愛してしまったのだ。だが同時に、この世界の根幹を成す『科学』という法則を憎んでもいた」
矛盾に満ちた神。
世界を守りたいが、その世界が科学によって発展することは許せなかった。
科学が発展すれば、この世界が「不完全な失敗作」であることが露呈してしまうからだ。
「だから我は、人の姿を借り、魔術という『理想の力』を人々に与えた。科学の痕跡を歴史から消し去り、魔術こそが真理であると偽ったのだ。そうすれば、人々は偽神に対抗できる力を得つつ、科学という醜い真実に触れずに済むとな」
イデア(魔術)と科学は矛盾する。
本来なら相容れない水と油。
だからこそ、パラケルススは科学を封印し続けた。
「しかし、まさか……その相反する二つを融合させ、より強力な力を手に入れる人間が現れるとはな」
パラケルススは、どこか誇らしげに、そして寂しげに俺を見た。
「アベルよ。貴様が決めるんだ」
アントローポスが、俺に指を突きつける。
「この世界の未来を、貴様が選ぶのだ」
突きつけられた選択肢は二つ、とアントローポスは言う。
「その一。我ら偽神との最終戦争を行うか。貴様の科学魔術があれば、我らアルコーンを退けることも不可能ではない。だが、戦いは熾烈を極める。短期的には大勢の人間が死に、世界は荒廃するだろう。だが最終的には、貴様ら人類が勝ち、この世界は存続する」
修羅の道だ。
だが、勝ち目はあるはずだ。
「その二。デミウルゴスを殺すか」
「……は?」
「この世界の創造主であるデミウルゴス――パラケルススを殺し、この『失敗作の世界』を畳むのだ。そうすれば、我々偽神も文句はない。もちろん、貴様ら人類を見捨てるわけではないぞ。全人類の魂は我らが責任を持って保護し、イデア界へと連れて行く」
アントローポスは甘美な声で誘う。
「イデア界はいいぞ。こことは違って、病も、老いも、死もない完璧な世界だ。妹の呪いも解けるどころか、永遠の安寧が手に入る。誰も傷つかず、誰も悲しまない。全てが満たされた楽園だ」
戦って、血を流して、不完全な世界を守るか。
神を殺して、世界を終わらせ、完璧な楽園へ移住するか。
究極の二択。
ミレイアも、ユーディットもアウニャも、そしてシエナまでもが固唾を飲んで俺を見つめている。
パラケルススは静かに目を閉じ、俺の決断を待っている。
俺はゆっくりと口を開いた。
考えるまでもない。
そんなの、答えは一つしかなかった。




