―94― ゾーエ
「美しい……」
それは、ゾーエーと化した妹が最初に発した言葉だった。
プロセルの声帯を使いながら、そこには妹の面影は一切ない。冷徹で、無機質で、それでいて万物を睥睨するような傲岸さを孕んだ声。
彼女――ゾーエーは、自身の両手を掲げ、空を仰いだ。
プロセルの長いツインテールが、重力を無視して蛇のようにうねり、先端が鋭利な鉤爪のように変形している。
肌には脈打つ黒い紋様が血管のように走り、その背中からは光とも闇ともつかない翼のようなオーラが噴出していた。
「この世界は、なんと不完全で、そして脆弱なのだろう。すべてが無に還ることを望んでいるようだ」
黄金の瞳が、俺たちを見下ろす。
そこには殺意すらなかった。あるのは、ただの作業工程を確認するような冷めた感情のみ。
「さあ、始めようか。救済を」
ゾーエーが指を弾く。
それだけで、大気が悲鳴を上げた。
不可視の衝撃波が全方位に炸裂し、中庭の石畳が捲れ上がり、周囲の校舎の窓ガラスが一斉に砕け散る。
「くっ!」
俺はとっさに〈重力操作〉で自身を地面に固定し、衝撃に耐える。
だが、周囲の生徒たちはそうはいかない。吹き飛ばされ、悲鳴を上げて逃げ惑う。
「アベル兄、今すぐこの器を壊して。このままじゃ、みんなを……!!」
ゾーエーの口が動いたが、その声色はプロセルのものだった。一瞬だけ、妹の意識が表出したのか。
だが、すぐにゾーエーの人格が塗り潰す。
「おや、まだ自我が残っていたか。無駄な抵抗を。――消え失せろ」
ゾーエーの手から、黒い稲妻のような奔流が放たれた。
狙いは俺。
「させるかよッ!」
俺は〈磁力操作〉で周囲の瓦礫――鉄骨や鉄柵を集め、即席の盾を作り出す。
黒い稲妻が鉄盾に直撃し、蒸発させる。
だが、その一瞬の隙があれば十分だ。
「〈雷撃〉ッ!」
俺の手から放たれた紫電が、ゾーエーを打つ。
しかし、神の依代となったその身体には傷一つつかない。黒いオーラが自動防御のように雷を弾いたのだ。
「無駄だ。至高神により作られし我に、この不完全な世界の法則など通じぬ」
ゾーエーが嘲笑う。
だが、俺はニヤリと笑い返した。
俺は二度も偽神を打ち負かした男だぞ。
◆◆◆
一方、混乱の極みにある中庭の隅。
ミレイアは、呆然と目の前の光景を見つめていた。
「な、なんなの……これ……」
プロセルさんが異形の怪物となって、アベルくんと戦っている。
だが、その攻防はミレイアの知る『魔術戦』の常識を遥かに超えていた。
アベルくんが放つ紫電と、怪物が放つ漆黒の奔流が衝突するたび、空間そのものが軋むような轟音が響き渡る。余波だけで校舎の壁が紙細工のように吹き飛び、地面が捲れ上がる。
近づけない。
あそこはもう、人の立ち入れる領域ではない。
一歩でも踏み込めば、塵一つ残さず消滅してしまうだろうという本能的な恐怖が、足を縫い止めていた。
「ミレイア! 早く逃げるわよ!」
アウニャがミレイアの腕を強く掴んで引っ張る。
だが、ミレイアの足は動かない。
「だめ……アベルくんが……!」
「あいつなら大丈夫よ! それより私たちが足手まといになるわ!」
「ミレイアさんッ!!」
悲鳴のような声が響き、瓦礫の陰から一人の人物が飛び出してきた。
生徒会長、ユーディット・バルツァーだ。
いつもの優雅な笑みは消え失せ、髪は振り乱れ、制服は砂埃で汚れきっている。
「はぁ、はぁ……ッ! 一体、何が起きているんですか!?」
ユーディットは縋るようにミレイアの肩を掴んだ。その瞳は極限の恐怖と混乱で見開かれている。
「アベルさんと仲の良いあなたなら、何か知っているんじゃないですか!? あの怪物は……それに、あの老人は一体……!」
必死の形相で詰め寄るユーディット。
けれど、ミレイア自身、答えられることなど何もなかった。あまりの事態に思考が追いつかない。
ミレイアは「わからない」とそう告げようとして――その視線の先に、ありえない光景を見つけた。
瓦礫の山の上に、優雅に座って戦場を見下ろしている幼女――アントローポスの姿を。
「あ、アントローポスちゃん! なにやってるの!? 逃げないと!」
ミレイアの叫びに、幼女はチラリとこちらを見た。
「ん? ああ、ミレイアか。案ずるな、ここは特等席じゃ」
元・偽神は、まるで劇場のボックス席で観劇でもしているかのような様子で、退屈そうに頬杖をついている。
目の前で世界が壊れかけているというのに、彼女だけが日常の中にいるようだ。
「ねぇ、なにが起きてるの……?」
「くっくっく。面白いことになっておるじゃろ? こんなの見逃すには惜しい。貴様らもここに座って、観戦するといい」
話が通じない。
ミレイアが頭を抱えそうになったその時、アントローポスの足元の影が歪んだ。
そこから、一人の少女が音もなく現れる。
「……シエナさん?」
いつも眠たげな同級生、シエナだった。
だが、その姿を見た瞬間、生徒会長のユーディットが「ひぃッ」と甲高い悲鳴を上げて腰を抜かした。
以前、圧倒的な力で吹き飛ばされた恐怖が蘇ったのだろう。
シエナの背中には、純白の翼が生えていた。
以前、アベルが「天使を眷属にした」と言っていたのを思い出す。あれは本当だったのか。
シエナはミレイアたちを一瞥もしない。
まっすぐに、アベルの背後に浮いている謎の老人――パラケルススの元へと歩み寄る。
そして、戦場の轟音の中でもはっきりと聞こえる澄んだ声で、こう告げた。
「賢者パラケルスス様。なぜ、このような場所におられるのですか?」
賢者パラケルスス。
その単語が耳に入った瞬間、ミレイアは思考が停止するほどの衝撃を受けた。
パラケルスス。それは魔術を体系化した伝説の偉人であり、全ての魔術師が崇める始祖の名だ。
歴史の教科書や神話の中にしか存在しないはずの人物が、今、目の前にいるというのか。
しかし、パラケルススと呼ばれた老人は、それを否定もせず、シエナに向かってこう返したのだ。
「ほう? 貴様は……デミウルゴスの使いか」
デミウルゴス?
ミレイアはその聞き慣れない単語に首を傾げた。
それは一体、誰のことなのか。神の名か、あるいは組織の名か。
シエナさんとパラケルスス様は、一体なんの話をしているの?
ミレイアには、彼らが交わしている言葉の意味が何一つ理解できなかった。




