―93― 覚悟
「なんだって?」
「突然苦しみだして、胸に黒い紋様が……!」
目の前が真っ白になる。
その紋様は、どうみても偽神ゾーエのもの。
その呪いの表面化。それは、死へのカウントダウンが始まったことを意味する。
「急ぐぞ、アベル」
パラケルススの霊体が、俺に鋭く告げた。
「アゾット剣を持て。我は本体であるその剣から離れられん」
「わ、わかった」
俺は震える手で、祭壇からアゾット剣を掴み取った。
ずしりとした重みを感じる暇もなく、駆け出そうとする。だが、教官がその前に立ちはだかった。
「ま、待て! アゾット剣は保管庫の外に持ち出さない約束だ! いかに管理権を持つ君でも、それは許可できない!」
規則を盾にする教官。普段なら正論だが、今は一刻を争う。
俺が唇を噛んだ瞬間、俺の背後から雷鳴のような怒声が響いた。
「ええい、やかましいわ! 我が許可したのだぞ!」
「ひっ!?」
突然現れた謎の老人パラケルススの威圧に、教官が腰を抜かす。
「き、貴様は一体……!」
「この学院の創設者たる我の言葉が聞けぬのか、たわけ者め!」
「あ、あう……」
圧倒的な伝説の賢者の登場に、教官は気圧されてそのままなにも言い返せなくなる。
俺たちは廊下を全力で駆ける。
「アベルくん!」
向こうから、顔面蒼白のミレイアが走ってきた。
「妹さんの様子が変なんです! 苦しんでいて、誰も近づけなくて……!」
「わかってる! 今行く!」
案内されたのは、学院の救護室ではなく、中庭の広場だった。
そこにはすでに人だかりができていた。
生徒会長のユーディット、Dクラスの担任セレーヌ、それにアウニャやバブロといった見知った顔ぶれが、遠巻きに何かを囲んでいる。
その中心に、プロセルが倒れていた。
「プロセル!」
俺は人垣をかき分けて妹の元へ滑り込む。
プロセルは脂汗を流し、呼吸も浅く、うわ言のように苦痛を漏らしていた。
その胸元。制服がはだけたそこには、禍々しい黒い幾何学模様が脈打つように浮かび上がっている。
間違いない。偽神ゾーエーの呪いだ。
「ア……ベル……兄……?」
俺の声に反応してか、プロセルがうっすらと目を開けた。
だが、その瞳の焦点は定まっていない。
「くそっ、なんでだ……! こんなにも早く……!」
俺は歯ぎしりをする。
過去の文献や事例から推測するに、呪いが発動して死に至るのは三十代になってからのはずだった。プロセルはまだ十代だ。早すぎる。
「まずいな」
俺の背後で、パラケルススが苦い声を漏らした。
「このままだと、偽神ゾーエーが顕現するぞ」
「……は?」
俺を含め、周囲にいた者たちが一斉に賢者を見る。
顕現? 死ぬのではなく?
「くっくっく。短命の呪いなどという、ちゃちなものではないわ」
状況を楽しんでいるのか、アントローポスがニヤニヤしながら補足した。
「資格のない雑魚なら、ただ生命力を吸い取られて死んで終わりだ。だが、資格がある強大な器なら話は別だ。その身を依代として、ゾーエー自身がこの世界に降り立つ」
「そ、そんな……!」
ミレイアが悲鳴のような声を上げる。
「こやつは若いが、魔術師としての実力はすでに超一流だ。器としての適性は十分すぎるほどにな」
アントローポスの言葉が、冷水を浴びせられたように俺の理解を促した。
プロセルの才能。それが仇になったというのか。
妹が優秀であればあるほど、偽神に乗っ取られるリスクが高まっていたなんて。
「……して……」
プロセルの口が、かすかに動いた。
「……ころ……して……」
「プロセル……?」
「このまま……あいつに乗っ取られて……みんなを殺すくらいなら……私を、殺して……!」
気丈な妹が、涙を流して懇願していた。
自分の命よりも、俺や、周りの友人たちが傷つくことを恐れて。
その言葉が、俺の理性を焼き切った。
俺は振り返り、パラケルススの胸ぐら――霊体だから掴めないが、その襟元あたりに手を伸ばして叫んだ。
「なんとかしてくれ! あんた賢者だろ!? 魔術の祖だろ! 妹を助けてくれよ!」
「落ち着け、アベル」
パラケルススは動じることなく、俺を見下ろした。
「恐れることはない。あの巨大な偽神ヌースを、科学の力で屠った貴様だ。顕現したゾーエーを倒すことも可能だろう」
「ふざけるな! ゾーエーを倒すってことは、乗っ取られた妹ごと殺すってことじゃないか!」
器ごと破壊しなければ、偽神は止まらない。
それでは意味がないんだ。俺は妹を救うためにここまで来たんだ。
「貴様、妹を信じられぬのか?」
パラケルススの静かな一言が、俺の怒号を遮った。
「見ろ。死の淵にあってなお、迷わず自分の命を差し出そうとする覚悟を。それほどの精神力を持つ娘だ。たかが偽神に乗っ取られたごときで、その魂の灯火まで絶やすほどやわではないわ」
俺はハッとして、プロセルを見た。
苦痛に歪む顔。だが、その瞳の奥には、まだ強い光が残っている。
「……それしか、ないのか?」
「ああ。憑依したゾーエーを無力化し、叩きのめして、妹に体を返してもらう。荒療治だが、それが一番だ」
俺は拳を握りしめ、深呼吸をした。
やるしかない。
俺の科学をベースした魔術で、偽神を引き剥がす。
「プロセル」
俺は妹の手を握りしめた。
「俺を信じてくれ。絶対に、お前を取り戻す」
「アベル……兄……」
「それまで、踏ん張ってくれ。頼む……!!」
プロセルは、小さく、けれど確かに頷いた。
「……うん」
その直後。
プロセルの体から、爆発的な光と闇が噴き出した。
俺たちはその衝撃で後方へと弾き飛ばされる。
光が収まったとき、そこに立っていたのは、もう俺の知る妹ではなかった。
肌は透き通るように白く、髪は重力に逆らって揺らめき、その瞳は人間にはありえない金色に輝いている。
圧倒的な生命の圧力を撒き散らす存在。
偽神ゾーエーの誕生だった。




