―91― 出会い
あまりに突飛な提案に、言葉の意味が脳に浸透してこない。
壊す? この至高の聖遺物を? いや、そもそも壊してどうなるというんだ。
「貴様、本当に頭が回らんな。そもそも我々偽神は、イデア界の住人だ。この物質界に顕現し、呪いを行使し続けられるのは、イデア界からの力の供給があるからに他ならん」
アントローポスは、蛇口を閉めるようなジェスチャーをして見せた。
「ゾーエーの呪いもまた、イデア界と繋がっているからこそ維持されている。だったら、その供給源であるパス――この剣を破壊して閉じればいいだけのこと。供給を絶たれれば、この世界に定着している呪いなぞ、乾いた水たまりのように消え失せるわ」
「な……」
こんな簡単な理屈もわからないのか、とアントローポスは呆れたように肩をすくめる。 俺はハンマーで頭を殴られたような衝撃を受けた。
パスを閉じる。
供給を断つ。
言われてみれば、あまりに単純明快な解決策だ。
「だ、だが、お前……以前、俺がゾーエーの呪いについて聞いたとき、知らないと言っていただろ!」
俺は食って掛かった。
もしこの方法が真実なら、もっと早くに教えてくれればよかったはずだ。
「んー? そんなこと言ったか? まあ、我にとってはどうでもいいことだからな。忘れておったわ」
悪びれもせず、けろりと言い放つ。
こ、こいつ……! 怒りが湧くよりも先に、俺の胸中は激しい動揺に支配されていた。
本当に、それだけでいいのか? 長年、俺を苦しめ、妹を蝕んできたあの呪いが。
賢者の石の生成という、途方もない夢物語を追いかけるきっかけとなったあの絶望が。ただ、この剣を壊すだけで終わるというのか?
そんな、あまりにあっけない解決策があるなんて。
喜びがこみ上げる。
だが同時に、困惑と疑念がブレーキをかける。
本当にこいつの言っていることは正しいのか? もし剣を壊して、呪いが解けなかったら? 二度と手に入らない聖遺物を失うだけで終わるならまだしも、パスを閉じることでの弊害とかあるのではないか。
思考がぐるぐると渦巻く。
判断がつかない。
だが、俺のそんな葛藤など、この元・偽神には関係なかったようだ。
「まあ、論より証拠というやつだ」
パリンッ。
硬質な、しかしどこか儚い音が、静寂な保管室に響き渡った。
「――え?」
俺の目の前で。アントローポスの小さな手が、アゾット剣の刀身を握りつぶしていた。
まるで砂糖菓子か何かのように、至高の聖遺物が、粉々に砕け散っていく。
「お、おい! なにやってるんだ!」
粉々になったアゾット剣の破片を見つめ、俺は悲鳴に近い声を上げた。
この剣は、妹を救う唯一の希望だったはずだ。それが、こんなあっけなく、幼女の手によって握りつぶされるなんて。
国宝を、いや、人類の至宝を破壊したという罪悪感と恐怖が、遅れて心臓を締め付ける。
「落ち着け、アベル。慌てるでない」
対照的に、アントローポスは平然としていた。
まるで、割れたのが安物の皿ででもあるかのように、肩をすくめて見せる。
「こんな貴重なものが、この程度で簡単に壊れるわけがないだろ」
彼女が言い終わるか終わらないかのうちに、奇妙な現象が起きた。
床に散らばっていた剣の破片が、まるで時間を巻き戻すかのように浮き上がり、互いに引き寄せ合い始めたのだ。
キラキラと輝く光の粒子を伴いながら、瞬く間に元の形――至高の聖遺物、アゾット剣へと修復されていく。
「な……」
自己修復。
どんな魔導書にも、もちろんパラケルスス本人が書き記した『原初シリーズ』にもこんなことは一言も書かれていなかった。
だが、驚愕はそれだけでは終わらなかった。
修復された剣から溢れ出す光が収束し、そこから一人の人影が実体化し始めたのだ。
「まあ、対抗策の一つや二つ、講じているはずだと思っておったがな」
アントローポスは、愉快そうに口元を歪めた。
光の中から現れたのは、一人の老人だった。
真っ白な髪と長い髭を蓄え、古代の法衣を身にまとっている。
深く刻まれた皺の一つ一つに、悠久の時を生きた歴史と、底知れない知恵が刻まれているような、そんな威厳を漂わせていた。
その瞳は鋭く、射抜くように俺たちを見下ろしている。
「神聖な聖遺物を壊そうとは……なんという不届き者だ」
低く、腹の底に響くような声だった。
ただそれだけで、場の空気が凍りついたかのような重圧を感じる。
ただの幻影ではない。圧倒的な存在感を持った『何か』が、そこにいた。
「き、貴様らは、何者だ?」
俺は混乱の極みにあった。
剣が治ったことへの安堵よりも、目の前に現れた謎の老人が放つ、常軌を逸したプレッシャーに喉が詰まる。
こいつは一体、誰なんだ?
アゾット剣の守護者か? それとも――。
「くっははははははははッ!」
張り詰めた空気を切り裂いたのは、アントローポスの嘲笑だった。
彼女は腹を抱えて笑い転げ、涙を拭う仕草をしながら、呆気にとられる俺の背中をバシバシと叩いた。
「おい、喜べアベル! よかったじゃないか、会うことができて!」
「……は?」
アントローポスはニヤリと笑い、顎で老人を指し示した。
「こいつこそが、お前の憧れ。魔術の祖にして、至高の魔術師」
そして、彼女は歌うようにその名を告げた。
「賢者パラケルススだよ!」




