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3 罰(ばち)

 静かな午後。日差しは温かく、吹く風も穏やか。どこかで小鳥のさえずりが聞こえる。シンガポールでの生活は思いのほか快適で、目を見張る様な大きなベッドもの上で彼女と過ごすのが好きだった。ぱらぱらと服を剥ぎ、床に落とし、滑らかなシーツの上で絡まる。二人とも我慢なんかする必要は無く、本能に身を任せていた。そのはずが・・・・。

「名前、呼んだ。」

不意にそう呟くと、彼女は両の拳で顔を被い小さな嗚咽を漏らし始めた。一瞬何が起こったか分からなかった。

「ご免なさい、ご免なさい。」

その声が震えていた。でもその後に言葉が続けられる事は無く、華奢な肩が咽んでいた。

「どうした?優里。」

そのゴメンナサイは、今のこの行為を涙で中断した事なのかそれとも?

「泣かなくて良いよ。」

俺は彼女の中から抜け出すとその小さな頭を抱え胸元に引き寄せた。優里は線が細い。とてもほっそりしていて、産まれたての小動物のようだ。

「大丈夫だから、俺がついてるだろう、ん?何か辛い事が有った?」

そう言いながら彼女の滑らかな背中を撫でた。その絹の様な肌触りを感じながら、どうして泣き出したのかとても知りたいと思った。

 優里は昔からよく泣いた。でもそれはいつでも俺の腕の中だけの事だった。他の誰にも見せないその姿は、俺だけの特権で。でも、俺は彼女が泣く度に辛くって、身を引き裂かれる想いをしたものだ。俺たちが一緒に暮らす様になってから再び彼女が泣き出すなんて事は一度もなく、とても穏やかに暮らしているかの様に見えたのに。

「話してごらん、ねぇ、優里。お前が泣いている訳を聞かせてくれないかい?」

彼女を悲しめるものを排除したかった。

「ご免、ご免なさい、兄貴。」

優里を守る為に涙の理由を知りたかった。それなのに

「怒られるから・・・・。」

そう聞こえた言葉に

「馬鹿だなぁ。」

そんはずは無いのに。君の事で受け入れられない事なんか無いって言うのに。

「お前は俺の事信用していないの?」

脅迫している、気がついてはいたけれどそれを止める事は出来なかった。

「俺はお前を怒った事なんて無いだろう?」

「一度、有るよ。」

彼女は少し泣き笑いをして、空気の流れを変えた。

「基と一緒の夜に。」

と言いよどみ

「雨が降っていて、私の人生を生きろって、怒ったじゃない。」

握っていた拳を開き、それからゆっくりと俺の躯にその両手を回した。

「覚えているんだから。」

口調がほんの少しすねていた。

「よく覚えていたなぁ。」

言いながら、俺自身あの夜の事は鮮明に覚えていた。あの夜も彼女はこんな風に俺の腕の中で泣いていたんだ。こんな風に俺の心をがっちりとつかんで。優里が俺を信じてくれている事に奇妙な幸せを感じながら、そのくせこの子を少年だと信じながらも彼に恋をしている自分に戸惑い、馬鹿みたいな堂々巡りをして来た。だから

「好きだよ、優里。愛してる。」

あの時言えなかった言葉を口にした。かれこれ10年近くも前になる、大切な思い出だった。

 黙りこくっている彼女をあやしながらしばらく俺は佇んでいた。二度と彼女を手放す気はないし、優里の為に最善を尽くしたいと思う。待つ事には慣れていた。

「あのね、本当に怒らないでね。」

重い口を開いた彼女は、濡れた睫毛をゆっくりとしばたき、

「アレから。」

と話し始めた。

「アレからつき合った人は何人かいたけど、その、深い関係になる前に自然消滅していて・・・。」

瞳を逸らし俺にしがみつく。

「4年後ぐらいかな、その、ブランクが有って、菊池に抱かれながら・・・・。」

言葉が振るえ、また泣き出そうとしているのが分かった。

「名前・・・・。」

一言言うと、再び声を噛む様に優里は泣き出した。

「な、名前、名前。」

と大きくしゃくり上げながら。

「呼んだの。」

絞り出すかの様に

「肇って。肇って呼んでた。嫌だな、私。軽蔑しないで。だって、仕方、無かった。兄貴の事必死で忘れようって。もう絶対、無理だからって。二度と兄貴は私の事、抱いてなんかくれないって・・・・でも抱いて欲しくって。」

嗚咽はやがて大きくなり、彼女は子供の様にわんわんと泣き出した。

「兄貴じゃなきゃ嫌だった。目を閉じていて、頭の中兄貴でいっぱいで、そのつもりなんか無いのに肇って言葉が出ちゃっていて。他の人じゃ駄目だって、分かってるけど、どうしようもなくって、必死で諦めて。仕方ないから、無理にでも他の人に塗り替えてもらわなきゃって。わっ、私だって辛かったんだから・・・・!なんとかして兄貴の事忘れ無きゃって、必死だったんだから・・・・!」

「馬鹿だなぁ、優里は。」

そう言いながら一番馬鹿なのは俺自身だった。彼女の悩みの原因を作ったのは俺じゃないか。こんなにも愛していて、こんなにも大切な人を結局泣かしてしまう。俺は時々自分がとても嫌になる。

「愛してるよ、優里。」

君を泣かしてしまう自分が嫌になる。

「優里は俺の全てだ。お前は昔言ったじゃないか。俺が前を女にするんだって。だから他の男の事は忘れなさい。俺の腕の中に居るお前だけが、本当のお前なんだって。ここに居るお前が、本当の優里なんだからね。」

小さな頷きを何回も繰り返し、やがて泣き疲れた優里は目を腫らしながらゆっくりと眠りについていった。俺はその頬をなで、時々鼻をすする姿を眺めていた。薔薇を届けてもらおう。二人の結婚式のブーケに使った様な、薄いピンクにクリーム色を混ぜて。甘い香りのする、大きな薔薇がいい。彼女によく似合う、優しい色で。


     つづく



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