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第六章 土曜のお昼はグラウンドで

第六章 土曜のお昼はグラウンドで

 五月第一週土曜日。世間的には大型連休の初日。準たち珠風高校野球部は、珠風商店街の近くにある総合運動公園の野球場に来ていた。

 この公園は数年前に完成したばかりの施設で、野球場の他にもサッカー場、陸上競技のトラック、テニスコートといった、多くの新しいスポーツ施設が集まっている。

 野球場は両翼九十五メートル、センター百十五メートルと十分な広さで、外野フェンス、観客席、電光掲示板も完備してあり、球速表示もできるという、一般の人にとってはかなり贅沢な設備が整っていた。

「うわあ結構入ってるねぇ~」

 佳奈が観客席を見上げて言った。佳奈の言葉通り、バックネット裏の観客席は八割方埋まっていた。

「うちの学校の生徒も結構いるわね。まあ、残りはほとんど商店街チームの家族とかよ。商品が取られるとけっこう損失だからね。まあ、今日はかなりアウェイってわけ」

 引率の理事長がメンバーを見渡してニカッと笑った。

「え、ええぇ……ミスして野次られたらどうしよぅ」

 美月は傍目に見てもわかるくらいビクビクしていた。

「まあ、美月はこれが初めての試合だからしょうがないか。でも大丈夫だって。商店街の人なら美月だって知ってるだろ? 応援してくれることはあっても、野次られることはないさ」

「あうぅ……準~」

 準が慰めたものの、美月は涙目のままだった。

 準は佳奈と目を合わすと、苦笑して肩をすくめた。

「大丈夫よ! そんなこともあろうかと、色々準備してたんだから!」

 理事長は美月の肩に両手を置いた。

「まずは、これ、ユニフォ~ム~」

 理事長はどこぞのネコ型ロボットのように箱からユニフォームを取り出して広げた。

 そのユニフォームは全体が白、肩口とサイドにピンクのラインが入っており胸付近にロゴが入っていた。

「わぁピンクだ。シンプルだけど……かわいい」

 涙目になっていたはずの美月が目を輝かせていた。

(かわいい……のか? ってかピンクはちょっと抵抗あるなぁ。それよりもあのロゴ……)

 準は理事長が持つユニフォームを凝視した。

 “TAMAKAZE MARINERS”

「た、ま、か、ぜ、マリナーズ? 佳奈先輩。おれらってそんなチーム名なんですか?」

「いや、あたしも今知ったところ」

「はあ。何でマリナーズなんでしょう?」

 準はしきりに首をひねった。

「もしかしたら……」

「ん? 佳奈先輩、何かわかりました?」

「うん。理事長の下の名前ってまりななの」

「へ?」

「だから……その、マリナーズじゃなくて」

「もしかして……まりなーズ?」

「うん……たぶん」

「は、はぁ……まあ、チーム名とかは別にいいんですけど。いや、よくはないですけどね。そんなことより、理事長は、まずは、って言ってましたよね? 他の秘策って何ですかね?」

「さぁ?」

 佳奈と準が目を合わせていると、計ったようなタイミングで場内アナウンスが響いた。

「レディース、アーンド、ジェントルメーン! さあ! いよいよ始まります。商店街チーム対、珠風高校草野球部まりなーずの対戦。実況を務めさせていただくのは、珠風高校放送部、部長、一年A組、田中達也です。そして解説は、自称、虎の遺伝子を引き継ぐ女こと、お笑い研究会所属、一年C組、細貝萌さんです」

「よろしくおねがいしまーす!」

「なんだなんだ?」

 慌てて周りを見渡す準を尻目に、理事長は落ち着きはらっていた。

「ふふ、これが秘策第二弾! わが校が誇る放送部(メガネ男子一人)の実況プラス、お笑い研究会(これまた一人)による解説よ!」

 理事長が指した先の実況席には、メガネを掛けた少年と利発そうな顔のショートカットでカチューシャをつけた女の子が座っていた。

「どうでもいいけど、そんな部あったんですね……」

「この試合の実況と解説をさせることで部の成立を認めたのよ」

 佳奈の冷ややかな言葉に対し理事長は何食わぬ顔で答えた。

「さて、この試合のルール確認ですが、試合は七回まで行われます。延長戦になった場合は決着が着くまで行います。今日の試合は草野球ですが、両チームの要望により、硬球で行われるんですねぇ」

「商店街の連中、元高校球児とかばっかなんやろ? そら、硬球でやりたがるやろな」

「そして、今日の試合に球風高校が敗北した場合、商店街祭り中ずっとただ働きです。しかし、球風高校が勝った場合、大型の野球道具各種と、さらに、部全員に、熱海旅行が商品として与えられます!」

(熱海? どっかで聞いたな……)

 実況の田中の言葉に、準は少しひっかかった。

 準の隣で理事長が鼻歌を歌っていた。

 

 「まずは、一回の表、先攻、珠風高校の攻撃は、一番センター、仲上あすか。ポニーテールとはいいものですねぇ。解説の萌さん?」

「あほか! そんなこと言うとったら、あっちゅうまに廃部させられんぞ! ……ふむふむ、理事長からの資料によれば、この人のところにはたった二文字、天才、とだけ書いてあんでぇ。これはしょっぱなから見逃せんなぁ」

「なお、この試合は、理事長より渡された選手データをもとに解説をお送りします」

 実況の男子と解説の女子、二人の言葉が終わった後、主審が大きく手を真上に上げて、グラウンド中に響く声で叫んだ。

「プレイボール!」

 こちらのオーダーは佳奈が決めたものだった。準も事前に見せてもらったが、少し気になる部分はあったものの、無難にまとめてあるオーダーだった。

 一方、商店街チームのオーダーは意外だった。

 三番、センター、金沢球姫。

 オーダーを見た時に、思わず準は二度確認した。

 ピッチャーは四番、金沢熊男と書いてあった。

「金沢ってことはもしかして?」

「ええ。マキの父親」

 即座に小夜が答えた。

「へぇ。マキよりもすごいのかな?」

「たぶん、それはないと思う……昔、センバツで準々決勝まで行ったピッチャーらしいけど、今じゃかなり衰えたみたいだし。それに、マキは高校の部活やってるから、商店街チームの練習にはほとんど出てないだろうし……」

 小夜は申し訳なさそうにマウンドの方を見た。

 マウンドには、ここ数年運動とは無縁と主張するようにお腹が膨れたおじさんが立っていた。

「あのお腹なら大丈夫かな……」

「ええ、多分……」

 準と小夜は冷ややかな視線をマウンド上に送った。センターの守備位置にふてくされた顔でマキが構えているのを見て少し不憫に思った。

 こちらの打者はあすか。準は相手ピッチャーとあすかを比べたとき、無条件で無死一塁は堅いと思っていた。

「おっと? 仲上選手、バッターボックスに入ったもののなかなか構えませんねぇ。もう、プレイボールはかかってます。大丈夫でしょうか」

 実況の田中の声で準は慌ててバッターボックスを見た。そこでは、あすかがピッチャーにバットを突きつけて悠然としていた。

「ひと~つ。一振りすべてを切り裂き!」

 あすかは不敵にピッチャーを見据えている。しかし、マウンド上のおじさんは全く気にせずに投球動作に入る。

「ふた~つ、深い闇夜に煌めく!」

「ストライーク!」

 相手はあすかを無視して投球。

「人が前口上を述べる間に……なんと卑怯な! 貴様それでも野球人か!」

「ストライークッ、ツー!」

 あすかが逆上する間に、投手は二球目もストライクをとった。

 これに対し準、美月、小夜、ハヤトの四人は空いた口が塞がらなかった。一方、残りのメンバーは肩をすくめはしたものの、そこまで驚いてはいなかった。

「まったく。何という世の中だ……だが、負けん! みっつ、みんなの人気者! 仲上あすか、ここに舞い降りる!」

「ストライーク! バッターアウトー!」

 あすかが大きくバットを真上に掲げた瞬間、三球目のボールがキャッチャーミットに収まった。

「おおーっと。先頭の仲上選手、一回も振ることなく三振してしまいました! 解説の細貝さん、これはどうでしょう」

「アホ、やな」

「アホ、ですか?」

「ああ、ただのアホ、もしくはヘタレでええわ」

「わかりました、天才と書いてありましたが、今後はヘタレと呼ぶ、それでよろしいでしょうか?」

「そやな、それでええわ」

「はい。えー、一番、ヘタレ、仲上選手。三球三振に倒れました」

 解説と実況のやりとりに、準はどっと疲れが押し寄せてきた気分だった。

「葵先輩、もしかして……あすか先輩は、いつもあんな感じなんですか?」

 佳奈が二番バッターなので、準は近くにいた葵に質問した。

「わわっ、えっと……その、なんというか……はい。あすかちゃんは、その……バカですから!」

(言い切った!)

「で、でもっ、大丈夫ですっ。あすかちゃんがあれをするのは最初の打席だけですから」

 準の驚いた表情を見て、葵は慌ててフォローした。

「さあ、気を取り直して行きましょう。二番、ショート、遊上佳奈さん。この人は部長さんですね。優しいお姉さん、といった雰囲気が漂っております。僕の姉さんになってください!」

「あほか! ……あんたぁ、まじめに実況する気あるんかい!」

「ま、漫才になってる……」

 実況、解説、美月の言葉が準の精神的疲労を加速させる。

(いかんいかん、試合に集中だ)

 準は集中してピッチャーを観察した。

 あすかへの球はいずれもストレート。それも百十キロ前後だった。

 センバツ出場ピッチャーの見る影はなく、どう考えても衰えていた。これなら打ち崩すのは時間の問題だった。

 ピッチャーが窮屈そうなフォームでボールを放った。ボールは小さな弧を描く。

(カーブか)

 球速は九十キロ前後。もとの球速が遅いため、それほど怖い球とは思えなかった。

 準の予想通り、佳奈は少しもフォームを崩されずにバットを振りぬいた。

 内角に投げられたその球は、次の瞬間にはレフトの前に転がっていた。

 相変わらず、お手本のようなバッティングだった。

「ナイスバッティーング! 佳奈選手、きれいにレフト前に運びました。さすが部長。さすが頼れる姉さんです!」

「あんたぁ、やけにテンション高いなぁ……まあ、今のはきれいなバッティングやったけどな。それよりちょっと気になるなぁ……」

「気になる? それはどういうことでしょう?」

「いやな、商店街チームはむちゃ強いとかいう話やろ? それにしては、あのピッチャー、ちょっと物足りんのとちゃう?」

「あー、はい、そのことについてですが、理事長より情報が入っております。なんでも、ピッチャーの金沢熊男選手は、不摂生とトレーニング不足がたたって、体重が増えるたびに球速が落ち、年々衰えており、今年は、去年より十キロ以上遅い球しか投げられないそうです」

「なるほどなぁ……それやったら、この試合、勝負にならんかもなぁ。あのピッチャーじゃ野球やっとるもんなら誰でも打てるで」

「なるほど、まあ、その辺は試合を見守るとしましょう。さあ、一死一塁で三番、セカンド、二神葵選手。この選手は先ほどの佳奈選手とは対照的に、守ってあげたいような雰囲気ですね」

「女子のタイプ分けはいらんねん! さて、この選手は……堅実なセカンドで意外な長打力て、ほんまかぁ?」

 実況の萌が疑いたくなるのも無理はなかった。

 左バッターボックスに入った葵の小柄な姿を見て、いったい誰が、長打力がある、と考えるだろうか。

 しかし、準はこの一か月で考えを改めさせられていた。

 葵は確かに力こそないが、長く持ったバットと遠心力で、外角のボールを遠くに飛ばすのはお手の物だった。

 長打力だけならアリスに次いで、チームで二番目だった。

「おもしれぇ! 真っ向勝負だ!」

 解説の声を聞いた相手ピッチャーは腕をまくって気合いを入れた。

 そして、ランナーがいるのに振りかぶって投球した。

 渾身のストレートが葵の胸元付近にのびる。

「危ないっ!」

 準が思わず叫んだが、葵は右足を少し一塁側に踏み込んだだけで、簡単にそのボールを打ち返した。

 痛烈な打球がライトにワンバウンドで届く。ピッチャーが振りかぶった分、佳奈は三塁まで到達した。内角のボールだったため、長打にはならなかった。

「これまたクリーンヒット! ピッチャーの金沢熊男選手、完璧に打たれました。これは解説の萌さんが言う通り、ワンサイドゲームになってしまうのか?」

「言わんこっちゃない。さっさとピッチャー変えるべきや」

 一死一、三塁。バッターは四番、チームで一番長打力があるアリス。願ってもない場面だった。

「さあ、ここでバッターは四番、三浦アリス。金髪! ブロンド! ボンッキュッボンッ!」

「……もうええわ。なんも言わんとく。左の大砲。チームで一番の力の持ち主……野球部の男連中は何してんねん」

 萌の言葉に準はかなり肩身が狭い思いだった。しかし、アリスは間違いなく、チーム一、力が強かった。

 その、アリスへの、初球。

 ボールは弧を描く。

 アリスは目一杯大きくスイングしたが、ボールはミットに収まった。

 一カ月見ての感想は、アリスは一発こそあるものの、かなり荒いバッターということだった。

 その次の二球はともに内角高めストレートのボール球だった。

 そして、四球目。

 相手ピッチャーの投げたボールはアリスの外角低めギリギリに進んだ。

 アリスは思い切り振りぬいた。

 金属バットの小気味よい音が響いて、バットから光線のような打球がセンター前に飛んだ。

 ボールが低目ギリギリだったため、打球は上がらなかったものの、誰もがヒットだと確信していた。

 地面スレスレを進むボールがいよいよ着地しようとした瞬間、影がボールの行く手を遮った。

 その影はボールを包み込むと、すぐに立ち上がって、マキの姿になった。

 三塁ランナーだった佳奈は、マキがキャッチした位置が浅すぎたため、タッチアップできない。

「こ、これは、超、超超超ファインプレイだ~!」

 実況の田中の声と多くの歓声がグラウンドにこだました。

「わちゃー、運がねーなー」

 隣で、ハヤトが天を仰いだ。

「まあ、今のは相手が上手いよ。ほら、ネクストだろ」

「おお、サンキュ」

 ハヤトは準からヘルメットを受け取りネクストサークルへ入る。準はバッターボックスを見た。

「さあ、このままチャンスを逃すのか、それとも先制か。五番はレフト、七山綾選手です! ショートカットはやはり一人は必要ですね」

「……」

 ここは、準が唯一、懸念していたところだった。

 綾は決してバッティングが下手なわけではなかったが、とにかく転がして足でヒットを稼ぐタイプで、どう考えてもランナーを返す側でなく、塁に出てかき回す側だった。

「アリス先輩」

「ん? どしたのよさ?」

「綾の五番ってどう思います?」

 準は思い切って、ベンチに戻ってきたアリスに聞いてみた。

「アァハァン? 準は佳奈のオーダーが不満なのよね?」

 アリスはいたずらっぽい笑みを浮かべた。

「いや、そうじゃないですけど……でも、綾はどう考えても、一、二、九番タイプじゃないすか? まぁ、一、二番は先輩たちがいますからアレですけど、ハヤトが五番で、綾が六番のがよくないですか?」

 準は素直に感じたことを述べた。

「ンン。まあ、それも一理あるのね。でも、準は、綾とハヤトの仲をどう思ってるのよさ?」

「二人の仲って……いいとは言えませんね。綾がハヤトを敵視してるのは一目瞭然ですし」

「だしょ? だから、綾がハヤトの直後だと、綾のモチベーションに響くのよ?」

「そんなもんですかね? でも、それなら、綾を九番にすればあすか先輩につながりますよ」

 あまり納得できてない準を見てアリスは笑った。

「フフッ。佳奈は準を信頼してるのよん。美月と小夜にバッティングは厳しいのよ。綾、ハヤトが出塁して、準で全部返しちまうぜいってことなのね」

「信頼……」

 準はベンチに座ったままバットを強く握った。

「さあ、五番、七山選手に対して、ピッチャー第一球、投げました。おっとこれは! セーフティーバントか!」

 ピッチャーが投げる瞬間に、綾はバットを水平に構えた。綾はバットにボールが衝突する前に一塁側へと移動する動作へ入っていた。ボールはピッチャー前へ転がる。

 三塁ランナー佳奈は、打球を見てホームへ突っ込む。ピッチャーが慌てて前に出る、が、慌てるあまりピッチャーは転倒してしまった。

「オールセーフだ! 七山選手、速い速い! 珠風高校、内野安打で一点先制!」

「単独のセーフティーバントやったな」

「さあ、なお、二死一、二塁で攻撃は続きます。……おや? どうやらピッチャーが転倒したままですね。大丈夫でしょうか」

 グラウンドでは、ピッチャーが転倒した位置に相手チームと審判が集まっていた。

 相手ピッチャーは三人に抱えられてベンチに戻って行った。

 そして場内アナウンスが響く。

「どうやら、選手交代のようです。えぇと、ピッチャーの金沢熊男選手に代わりまして、四番センター……ディエゴ? ディエゴ選手! なんと外国人です! そして、先程超ファインプレイを見せた、センターの金沢球姫選手がピッチャーです! 三番ピッチャー金沢選手」

 マウンドに登ったマキの姿を見て観客からざわめきと拍手が巻き起こった。

「小夜」

 準は小夜に目配せした。

「ええ」

 小夜はマウンドを見つめ、深く頷いた。

「ここからが本番ね」

 

 まだざわめきが残る中、マキは投球練習に入った。

 セットポジションから左足を体に巻きつかせるようにして振り上げた。

「おおっとこれは!」

 実況の田中の声とともにざわめきがいっそう大きくなった。

 マキは、振り上げた左足が二塁ベース方向を軽く越え、一塁ベース方向すら向くほどに体をひねっていた。

 通常の倍ひねられた体には、通常の倍の、ひねりを戻す力が加わる。

 凄まじい速度で回転するマキの体から、地面と水平に腕がのびる。そこから、回転の勢いそのままにボールが放たれ、一瞬でキャッチャーミットに到達した。

「右の、トルネードの、サイドスロー?」

 準は慌てて球速表示を確認した。

 百三十三キロ。

 この表示が出た瞬間、場内にどよめきにも似た歓声が広がった。

「なんと、百三十三キロです! 速い速い! サイドトルネード旋風! ハリケーン少女現る!」

「こら速いなぁ……おもろなってきたでぇ」

 解説席から田中、萌の興奮した声が響き渡る。

「小夜、マキの変化球は?」

「スライダーとシュートね。あと、シンカー。でも基本は、遠心力を思いっきり使ったストレートと、横の変化で抑えるの」

「遠心力、か」

 小夜が手首の柔軟性を利用して投げる、回転の多いストレートを武器にしているように、彼女は、腰の柔軟性と長い手足を生かして、より大きな遠心力を利用したストレートが武器のようだ。

「さあ、投球練習が終了して、プレイ再開です。六番ライト、佐野ハヤト選手。右打席に入ります」

「あんたぁ、男やったらあっさりやなぁ……」

 初球。長い体の回転からボールが飛び出てくる。

 ハヤトはフルスイング。

 しかしバットは空を切った。

「初球は空振り。そして今の球が百三十キロ」

 二球目。マキは再び回転の勢いからボールをリリースした。

「危ないっ」

 実況の田中の声が響いた。

 マキが投げたボールはハヤトの肩へと向かっていた。

 ハヤトは慌ててホームベースから離れた。

 しかし、ハヤトの肩へまっすぐ向かっていたはずのボールは、気づけば内角高めに構えられたミットに収まっていた。

「ストライーク、ツー」

「今のがスライダー、そして次は……」

 準の横で小夜がつぶやく。

 三球目。キャッチャーは外角に構えていた。

 マキが放ったボールはキャッチャーが構えた位置よりももっと外に向かうように見えた。

 ハヤトは全く動じず見送った。

 しかし、

「ストライーク、バッターアウト! チェンジ!」

 主審の声が響いた。

「三球三振だ! 変わった金沢球姫選手。あっさりとピンチを切りぬけました!」

 ハヤトは悔しそうにベンチへと戻ってきた。

「最後の球、ボールに見えた?」

 準の質問にハヤトは首を振った。

「途中までボールだったんだけど、最後ククッッと入ってきた。ありゃストライクだ。……すげぇピッチャーはたくさんいるな。おもしれえ」

 ハヤトは白い歯を見せると、グラブを掴んでベンチを飛び出した。

「小夜、最後はシュート?」

「ええ。相変わらずね……でも、次は私の番」

「ああ」

準はバックネット裏の一人の男の姿を視界に捉えた。

(父さん、しっかりと目に焼き付けてください。うちのエースを)

 

「さあ、一回の裏、商店街チームの攻撃、一番はレフトを守る選手。この選手は、なんでも、十五年前に甲子園に出場し、ヒットも打った選手だそうです」

 実況の声とともに、三十代前半の優しそうな人が左打席に入った。

「よろしくね」

「あ、どうも」

 礼儀正しく挨拶されたので、準も頭を下げつつ、バッターを観察した。

 マキの父親と違い、まだまだ現役バリバリといった体つきだ。

(気をつけて入らないとな。でもその前に……)

 準は小夜にサインを送った。小夜は一瞬止まったのち、口元に笑みを浮かべた。

「プレイ!」

(まずはみんなに小夜のことを教えてやらないと)

 準はど真ん中にミットを構えた。

 小夜がグラブを抱え、モーションに入る。

 相変わらずの流れるようなゆっくりとしたフォームで、マウンド以外は時が凍りついているように感じた。

 そして、小夜の左腕から無音でスッとボールが繰り出される。

 何の音も発さずに、暗闇にのびる一筋の光のように、小夜のボールは静かに準のミットに届き、そこで初めて音を発する。

「ストライーク!」

 主審のコールが終わっても、しばらく場内は静寂に包まれた。

 しかし、一呼吸おいて、あちこちから感嘆のため息がこぼれだし、それがそのまま歓声へと変わった。

「サイレント! ビューティフォー! まさに紫電一閃! こんなに綺麗なストレートは見たことありません! ただただ、美しい! そして投げた本人も美しい! 黒髪ストレートロングは不変の真理です!」

「ええかげんにせぇ! それにしても綺麗な球やったなぁ~、思わずため息こぼれたわ」

「そして、今の球が百三十一キロです!」

 実況の声により、歓声が再度巻き起こった。

「ふむ」

 バッターは何かを考えていた。

(やっぱり小夜はすごい! このままいける)

 準は再びストレートのサインを、今度は外角高めのボール球になるように、出した。

 小夜は頷いたのち動作を開始する。

 しかし、小夜が左腕を振る直前に、バッターが動いた。準の視界を遮るようにバットが水平に構えられた。

(セーフティーだ!)

 バッターは走りながらボールを三塁側に転がそうとした。しかし、勢いを殺しきれず、ボールはショート前に転がった。

 バッターは全力で一塁に向かっていた。足はかなり速い。

 相手の足が速いことを確認した佳奈は、素手でボールをつかむと、体を起こさずにそのまま一塁に送球した。

 ボールが一塁に到着するのとほぼ同時に、ランナーも一塁ベースに到達した。

「アウトー!」

 一塁塁審の気合いの入った声が響いた。

「間一髪! アウトです。ショートの佳奈選手、ナイスプレー! さすが、頼れる姉さんです。ぼくの姉さんに」

「もうその話はええねん! 素手で捕った分、アウトにできたな。相手も、簡単に打てんと分かると、すぐセーフティーに切り替えてきた。優しそうな顔して食えんやっちゃで」

 ほんとだよ、と、準は苦笑いしつつ、ベンチへ戻るバッターの背中を見た。

(まあ、何にしてもワンナウトだ)

「さあ、二番はセカンドを守ります。こちらの選手は三年前まで社会人野球の強豪でプレーをしていたそうです。引退後、このチームに入団と書いてありますね」

 今度は一番の人より少し年をとっていそうな人だった。バットをかなり短く持って左バッターボックスに立っている。

(少し様子を見るか)

 準はスライダーを真ん中から外角へ逃げるように求めた。

 小夜は頷いて、投球。

 ストレートより若干遅い球が、真ん中から逃げるように変化する。

 相手はギリギリまで引きつけてスイングしたが、少し変化するとは読み切れなかったようだ。

 ボテボテのゴロが三遊間に転がる。

 勝負としては小夜の勝ちだった、が、飛んだコースがいい。

 佳奈が逆シングルで上手く止めたが、一塁が遠く佳奈の肩では間に合いそうになかった。

(内野安打か……)

 準が諦めようとした瞬間、佳奈はグラブをサードのアリスへと振った。

「オーケーイ!」

 アリスは素手でボールを掴むと力一杯ファーストへ投げた。

「ひゃああぁ」

 ファーストへ、美月が怯えるほどのボールが届いた。

「アウトー!」

 またも審判の力強いコールが響いた。

「うおおお! またもやショート、佳奈選手のファインプレーだ! ぼくの姉さんに」

「そやからもうそのネタはええ! でもかっこええプレーやったなぁ~」

 スタンドから佳奈に拍手がおくられる。

「さあ、二死ランナーなしで、バッターは好リリーフをした三番、金沢球姫選手です。ぼく、気づいたんですけどね、細貝さん」

「おお、なんや?」

「金沢さんのフルネーム、金沢球姫って、沢を抜けると金球姫になっちゃいますねー、はは」

「全大宇宙に謝れ」

 実況席から鈍器で何かを殴るような音が聞こえた。

 準はそろーっとマキを見た。彼女は目を閉じて怒りに両肩を震わせている。

 準は、マキがタマキと呼ばれるのを嫌がった理由がようやくわかった。

(何となくかわいそうだけど、怒っている今がチャンスかも)

 準は小夜に初球カーブのサインを出した。力が入っている今なら打たれない気がした。

 マキを右打席に迎え、初球。

 小夜の左腕から大きなアーチが描かれる。カーブを予想してないバッターの時を止めるボールだ。

 しかし、マキの時は止められなかった。

 しっかりとボールを引きつけて一閃。

 痛烈な打球がレフトの綾の前に落ちた。

「レフト前ヒーット! 金沢選手、何か鬼気迫るものがあるバッティングでしたね」

「あんたのせいや……」

(ほんとだよ)

 準は萌に同調しつつ、一塁ベース上を見ると、ちょうどマキと目が合った。

 マキは準を見据えて得意げに笑みを浮かべた。

(そっか、配球読まれてたのか……野球に関しては冷静だったてわけか)

「ごめん、配球ミスだ」

 準は小夜にボールを返しながら謝った。

「いいわよ、シングルヒットだし」

 小夜は特に落胆した様子もなかった。

「さあ、二死からランナーが出て、四番。新外国人のディエゴ選手、右打ちです。この選手は今年日本にやってきたそうです。今はこちらでアルゼンチン料理店を開いています。アメリカではマイナーリーガーだった時期もあるそうです」

(まじで?)

 田中の実況に、準はこわごわとバッターの両腕を見た。準の腰の太さを軽く超える太さだった。

(とにかく低めしかない)

 準は外角低めぎりぎりにミットを構えた。

 寸分違わぬコントロールで小夜のストレートが飛んでくる。

 しかし、突然、準の視界からボールが消えた。

 次の瞬間、ボールはレフトポールの左を越えて場外に消えていた。

「ファ、ファール」

 スタンド中がどよめいた。

「す、すさまじいパワーだ。ディエゴ選手。あの両腕は伊達じゃないのか」

「それよりも、新外国人がおる草野球チームてなんやねん……」

 その一球は、準に怖さを植え付けるには十分だった。

(こうなったらスライダーでボールになるように……)

 準は内角のボールからさらにボールになるように要求した。

 二球目。少し変化した瞬間、ディエゴが大きくバランスを崩し、スイングした。

「ストライーク」

(へ?)

 準は目を丸くした。素人のようなめちゃくちゃなスイングだった。

(もしかして……)

 準は、今度はカーブのサインを出し、ど真ん中に構えた。

 小夜の精神的な問題となった場面に近いが、初回で、しかも、ど真ん中なら、楽なはずだと思った。

 小夜も少し動作を止めたがしっかり頷いた。

 小夜が投げたボールは大きなアーチを描いた。

 バッターのディエゴは、ボールがミットに届くよりもかなり早くバットを振り回した。

 これまた到底当たりそうもないスイングだった。

「ストライック! バッターアウト! チェンジ!」

「ナイスピッチ!」

 小夜とハイタッチした。

「出だしとしてはまあまあね」

 準はベンチに戻りながら確信した。

(ディエゴは変化球が打てない)

 準は一気に気が抜けた。


「二回表、珠風高校の攻撃は七番、キャッチャー、才木準選手」

 準はバットを短く持って右打席に入ってマキを見据えた。

 マキは、今度はワインドアップから投球を開始した。

 準の視界の背中側から、突如ボールが出現した。

「ストライーク」

(速い……)

 準は急いで球速表示を見る。百三十四キロ。

「速い速い! 百三十四キロです! これは手も足も出ないか」

 マキは表情を変えずに、二球目を投じた。

 準は、視界に突如現れるボールに対して、タイミングの予測だけでスイングした。

(捉えた!)

 しかし、ボールは準のバットから逃げるように変化した。

 準はバランスを崩して手をのばしたが、かするだけで精一杯だった。

(スライダー? こりゃ、ストレートと見分けつかないや)

 マキはかすられたのが面白くないのか、フンと鼻をならして、三球目を投げた。外角よりもさらに外にボールが来た。

(遠い! でも、ハヤトの時と同じ配球なら……)

 準は腕を伸ばせるだけ伸ばしてバットを振りぬいた。芯を打つ慣れた感触とともに、打球がライトに飛んだ。

「これは、いい当たりだ! 伸びる伸びる! あーっとしかし……」

 ボールはほぼ定位置にいたライトのグラブに収まった。

「いい打球でしたが、ライトライナーでした。運がありませんでしたねぇ」

「バット短く持ちすぎやねん」

 萌の言葉が突き刺さる。

「準、気にしないで」

 小夜がすれ違いざまに励ます。

 結局、小夜がセカンドゴロ、美月は三振に倒れてこの回の攻撃は三人で終了した。

「準~、打てないよぉ」

「まあ、あのピッチャーじゃあしょうがないよ。美月ちゃんは今できることをしっかりね」

 美月が準に泣きつくのを見て佳奈が励ました。そして、準に耳打ちした。

「投手戦になりそうだね」

「ええ。しっかりリードしますよ」


 「二回の裏、商店街チームの攻撃。五番はキャッチャーの佐藤選手。この選手は若いですねぇ」

 田中の言う通り、バッターはどう見ても二十代の人だった。

「よろしく。まさか大学のチーム抜けてから、こんなところで、こんなピッチャーに出会えるとはね」

 右打席に立った佐藤は、獲物を見つけたネコのようにニヤリとした。

(大学? じゃあ現役バリバリか。要注意だ)

 サイン交換を終えて小夜がボールを投げる。

「ストライーク」

 インハイへのストレートが決まった、が、佐藤はピクリとも動かなかった。

 二球目。今度はアウトローぎりぎりに、ボールからストライクになるカーブ。これにも佐藤は全く反応しなかった。不気味に感じた準は、念のため、続く二球はストレートをボール球にした。

「違うなぁ」

「え?」

 不意に、佐藤が声を出した。

「君たち、まだ何か隠してるでしょ?」

(新球のことに気付いてる?)

 準と小夜は勝負どころで使うために、試合の中盤までは新球(小夜いわくスケボール)は使わないことにしていた。

「全部見せてよ」

(どうする……)

 準は多少迷ったが、作戦通りにいくことに決めた。

 五球目。インローへのストレート。ここしかない、という位置にボールがのびる。

「くっ」

 佐藤は窮屈そうにスイングをした。

 フラフラッと、完全に打ちとった当たりがライトのハヤトの前に落ちた。

「先頭バッター佐藤選手。ポテンヒットで出塁です」

「せこいヒットやなぁ、男なら三振かホームランやろが」

 一塁ベース上で佐藤は苦笑いをしていた。

 不運なかたちで先頭バッターを出した小夜だったが、次のバッターをセカンドゴロゲッツーに打ちとると、さらに次のバッターからは三振を奪い、結局この回は三人で終わらせた。

 

「三回の表、珠風高校の攻撃は、一番、ヘタレ、仲上あすか選手です」

「あぁ、あのヘタレか」

「ひ、ひどい言われようですね……」

 実況席からの声に、葵は力なく笑った。

「まあ、一打席目は俺もあきれましたよ。さて、本人は」

 肝心の張本人は、我関せずといった感じで、悠然と右打席に入った。

「右? 佳奈先輩、あすか先輩ってスイッチヒッターでしたよね?」

「う、うん、そうだよ~、ははは……」

「何で右打席に?」

 準の質問に、佳奈は目を泳がせる。

「それは、その、右ピッチャー相手だと、基本的に、右打席のほうが打ちにくいわけで……あすかは、難しい方で打つことに生きがいを感じるというか、その……」

「つまり、わざと打ちにくい方で打ってる、と?」

「はい、すいません……大目に見てあげてね。ほら、あの子……バカだから!」

(言い切った!)

 あすかはベンチの会話など聞こえているはずもなく、微動だにせず構えていた。

 逆にマキの方が投げにくそうにしていた。

「ボール」

 気づけばカウントはワンスリーになっていた。マキは何度もキャッチャーのサインに首を振る。そして、ようやくサインが決まり、投げた第五球。

 外角低めにのびたボールがさらに逃げるように変化した。

 あすかはその球に対して、最後はほとんど左手一本でバットを振りぬいた。

「なっ!」

 打たれた瞬間、マキが今日マウンド上で初めて驚いた表情を見せた。

 打球はセカンドの頭上を越えて行った。

「一太刀で切り捨てた! 仲上選手、今度は一転してすばらしいバッティングです!」

 あすかは俊足にものを言わせて二塁まで進んだ。

「仲上選手、ツーベースヒット。これはもうヘタレじゃないんじゃないですか」

「そやな。ナイバッティン。脱ヘタレや」

「脱ヘタレ、仲上選手。すばらしいバッティングでした」

 マキに代わってから、初めて出たランナー。

 佳奈は初球から迷わずバントを決めた。

 一死三塁でバッターは三番、葵。願ってもないチャンスができあがった。

 当然、珠風高校ベンチは盛りあがる。

 しかし、このピンチでマキは、三番の葵、四番のアリスを、あすかにヒットを打たれたスライダーで連続三振に仕留めた。

「金沢投手、このピンチをあっさり終わらせました! 珠風高校、この攻撃は痛い!」

 準は引き上げるマキを目で追った。

「ヒット打たれてエンジンがかかったかな」

「ええ。でも、こっちもそう簡単に点はやらないんだから」

 

 三回の表が終わると、ゲームは落ち着きを見せ始めた。

 三回の裏は小夜があっさりと三者凡退に抑えた。二回の裏とあわせて考えると、商店街チームの六番から九番打者は、さほど苦労せずに抑えられそうだった。

 一方、エンジンがかかったマキの前に、四回の表は、綾、ハヤト、準の三人であっさりと抑えられてしまった。

 ゲームは中盤、四回の裏に突入する。

 

「細貝さん」

「ん?」

「五月なのに今日は暑いですよねぇ」

「そやな~」

「こう暑いと、かき氷とか食べたいですよねぇ」

「かき氷か、ええな~」

「ちなみに、かき氷だと何味がお好きですか?」

「ん~、ウチはブルーハワイとかがええなぁ……って、なごんどる場合かっ!」

「失礼しました。四回の裏、商店街チームの攻撃は二番バッターからです。第一打席はショートへのぼてぼてのゴロでした」

 実況と解説の漫才もそこそこに、四回裏が始まった。

(この人はさっき、ストレートを待ってて、来たスライダーを打ち損じた。じゃあ、今度もストレート待ち? それとも……)

 準は五秒ほど悩んで、カーブを選択した。

 小夜からスローモーションそのもののボールが飛んでくる。

 バッターは打席の一番前で、カーブが完全に落ちるよりも前に思い切り叩きつけた。

 高く打球がセカンドの葵の頭上に跳ね上がる。なかなかボールは落ちてこない。

 準たちがもどかしい思いで打球を見つめる間に、バッターは一塁へ着実に近づいていた。

 ようやく落ちてきた打球を葵は掴むが、同時に送球は諦めた。

「あーっと打球が高すぎて、これではさすがに投げられない」

「大根切りっちゅうやつやな」

 小夜が今日許した三本目のヒットだった。

 そして次のバッターは、唯一、完璧なヒットを放っているマキ。

 第一打席はマキが怒った隙をついたつもりが、逆に読み負けていた。

(小夜が気持ち良く投げるためにも、ここは真っ向勝負!)

 準はマキの胸元のストライクゾーンギリギリに構えた。

 マウンドで小夜が小さく息を吐いた。

 セットポジションンから、小夜の左腕、右腕、右足、左足、すべての体の部位が、ボールを投げる、ただそのためだけに最善の動きをとる。それらすべての、個々の動作が完璧に組み合わさった時、個、の動作が一連の形になる。その、一連の形が、最高のボールへと姿を変え、一連の終着点を準のミットに求めようとする。

 準が受けたどんな球よりも速いその球は、スイングされたマキのバットをまったく寄せ付けず、準のミットに突き刺さった。

「ストライーク」

「速い速い! そして今の球は百三十四キロ! 今日、最速です」

 観声が大いに沸いた。

 しかし、準の耳には歓声が遠くに聞こえた。それどころか、何の音も聞こえず、小夜の姿しか見えなかった。バッターのマキの姿すら準の世界から姿を消した。

 準はただ、早く小夜の次の球を受けたい気持ちでいっぱいだった。

 何も考えず、ど真ん中に構えてストレートのサインを出した。

 小夜はさっきと同じく、完璧なフォームで現時点での最高のボールを投じた。

 そのボールは遮られるはずもなく、準のミットに届く。

「これも速い! またしても百三十四キロ! 金沢選手、二回続けて空振りです」

 遠い世界で実況の声が響いた。しかし準にとってはどうでもよく、ただ次のサインを出すことしか頭になかった。

 小夜が投げた今日、三度目の最高のボールが、準のミットへ‐‐

「なめないで!」

 マキの叫び声で、準は我に帰る。準の世界に音と小夜以外の景色が戻ってきた。

 マキがジャストミートしたボールは、気づけば、レフトの綾とセンターのあすかの間を抜けていた。

 あすかが最低限の時間でボールに追いついた。しかし一塁ランナーはすでに三塁をまわっていた。打ったマキも二塁を蹴る。

「させるかあ! なーかーがーみー波ぁっ!」

 あすかは大声で叫びながら、三塁へと送球した。ボールはレーザーのように一筋の線となってサードのアリスのミットに収まった。

 マキは慌てて二塁へと戻った。

「レーザービームだ! センター、脱ヘタレ、仲上選手から矢のような返球! これにたまらず、打った金沢選手は二塁でストップ。しかし、この間に一塁ランナーがホームイン! 試合は一対一、振り出しに戻りました! なおもノーアウト二塁です」

「バッテリーは何をやっとるんや? 三球続けてど真ん中て」

「あ……小夜」

 準は、ぼーっとした頭のまま小夜のもとに行った。

 驚くべきことに小夜は笑みを浮かべていた。

「え?」

「何だか、世界に私と準しかいないみたいに感じた。試合中なのに」

「あ……俺も」

「やっぱり。ありえない配球だったわよね」

 表情をほとんど出さない小夜だったが、おかしくておかしくて仕方がないといった感じだった。準も思わず笑いだしてしまった。

「ちょっと~、楽しそうなとこ悪いんだけどねぇ、お二人さん」

「え?」

 いつの間にか、佳奈がジトっとした視線で二人を見ていた。

「あ……佳奈先輩」

「こっちもいるわよ~」

 気づけばアリスと葵、美月も集まっていた。

「まったく、まぁた、二人で周りが見えなくなってたでしょ~」

 佳奈が頬を膨らませた。

「え……あ、すいません」

「ほら、佳奈、あんまり言っちゃダメネ、二人だけの世界を邪魔しちゃダメなんよ」

「ええっ、ふ、二人だけの世界なんてっ、そんなっ、いけませんよっ! 試合中に」

「わ、わわわぁ、やっぱりそうなの? 準?」

 アリスの茶化しに対して、葵と美月が過敏に反応した。

「んなわけないだろ! でも、すいません。もう大丈夫です! ぜーったいに!」

 準は元気に頭を下げた。

「やれやれ……まあ、そういうトコも初々しくていっか。うん! 背中はお姉さん達に任せて思う存分やりなさい! ねっ?」

 佳奈の言葉に、アリス、葵ともども頷く。そして小夜以外のメンバーは守備へ戻って行った。

「迷惑かけた分キッチリ締めないとね」

「ええ」

 準も小夜も真剣な表情に切り替える。

「今までカーブ主体で」

「準。カーブじゃなくてカクボール」

「あ、ああ、か、かか、カクボール主体で投げてきたけど、そろそろスロースクリュ……じゃなくてスケボールを混ぜて行こうと思うんだ」

「ようやくね。投げたくてうずうずしてたの」

 小夜は左手をプラプラさせた。

「まあ、次のディエゴにはいらないと思うけどね」

 準がキャッチャーの位置に戻り、プレイが再開された。

 準の予想通り、ディエゴはスライダー、カーブ、スライダーであっさり三球三振に終わった。

 そして五番、キャッチャーの佐藤。

 この打席も、佐藤はまったく振る気配を見せないまま、カウントはツーストライクワンボールになった。

(お望み通り見せてやりますよ)

 準はこの試合で初めて、スクリューのゆっくりバージョンっぽい新球(小夜命名スケボール)のサインを出した。

 小夜はセットポジションから投球。

 左腕が振りぬかれた後、ワンテンポ遅く出現したボールがホームまできれいな放物線を描く。

 バッターの佐藤はなんとか踏みとどまり、タイミングを遅らせてスイングを開始した。

 しかし、突如、きれいな放物線を描いていたボールの軌道にずれが生じ、ずれがねじれとなって、描いていたはずの軌道とは正反対の方向へと沈み込んだ。

 佐藤のバットは端から見ると見当違いと思えるほど、ボールから離れた位置を通過していた。

「ストライーク! バッター、アウト!」

 主審の腕が上がった。

「一條小夜投手、このピンチで三振を奪った! 解説の細貝さん、最後の球不思議な変化でしたよね」

「途中までスローカーブやってんけど……そこから、ボールがなんや気持ち悪う変化したな」

 打席では佐藤が、未だに信じられないといった様子で立ち尽くしていた。

 しかし、苦笑いを浮かべると準の方へ視線を動かした。

「こんな球をここまで隠しとくなんて、信じられん奴らだ」

 佐藤は少年のような笑顔を準に見せて戻って行った。

 準は、新球への驚きの声の中、誇らしい気持ちだった。

(でも、この球の名前だけは……よし、おれの中では小夜ボールとしよう)

 次のバッターは小夜の新球を意識しすぎて、初球を打ち損じてピッチャーゴロに終わった。

 結局この回、商店街チームの攻撃は一点で終わった。

 

 「五回の表、珠風高校の攻撃、先頭の八番、ピッチャー一條選手。ツーストライクワンボールから粘っています」

 実況の田中の言葉通り、小夜は追い込まれてからすでに六球ファウルで粘っていた。

 マウンド上のマキは心中穏やかではなかった。

 (あんたバッティングに興味ないでしょうが。さっさと三振しなさいよ)

 マキの脳内でつい先程小夜が投じたボールがちらついていた。完全にスローカーブかと思いこんだボールが、カーブとは真逆に変化したあのボール。

 (だいたい、何なのよあのボールは)

 小夜が投じたボールは敵としては苦々しくも、ライバルとしては意気に感じるボールのはずだった。しかし、それ以上に、何か、マキの胸につっかえるものがあった。

 (あのボールが、小夜。あんたの出した答えなの?)

 思うようにカーブが投げられなくなった小夜が、カーブではない球を勝負球に使った。その事実をマキはどうしても認めたくなかった。

 (また、逃げたってことなの? そうなの?)

 マキは打席に立つ小夜を睨んだ。

 しかし、マキは小夜の顔を見てハッとした。

 小夜の瞳はまっすぐにマキを見据えている。その瞳はまっすぐで、逃げる、などという負の感情はいっさい感じられなかった。

 マキの胸のつっかえが少しとれた気がした。

 (そうじゃない? ……何か考えがあるのかしら?)

 マキは小夜の視線に一切の逃げがないことをうれしく思った。口元に笑みを浮かべる。

 (どっちにしろ負けないんだから! あんたの力見せてみなさい)

 マキはキャッチャーのサインに首を振り続ける。そして、ようやく出されたその日初めてのサインに首を縦に振り、ボールを投じた。

 ど真ん中の甘い球。

 小夜は左足を踏み込んでスイングを開始した。

 しかし、絶好球と思われたボールは、小夜の踏み込んだ足に近づくように、潜り込むように変化した。小夜はスイングを止めることが出来なかった。

「三振! 金沢投手も変化球を隠し持ってました!」

 マキは小夜に向かって不敵に笑った。

(最高の投げ合いにしましょう)

 小夜もマキの無言のメッセージを感じとったようだった。一度だけマキに視線を向けベンチへ戻って行った。

「今のはシンカーやな。二人とも可愛い顔してエゲツない性格やなぁ~、これは両チームなかなか打てんやろなぁ」

 

 萌の言葉通り、続く美月は三振、一番のあすかはシュートをレフト前に運んだものの、次の佳奈はマキのシンカーの前に三振を喫した。この回のアウトはすべて三振でとられた。

 一方、小夜の新球の前に、商店街チームの下位打線もなすすべなく三者連続三振に終わった。

 試合は終盤、六回の表に突入する。


「佳奈先輩」

「ん? どうしたの~、準くん?」

 佳奈が試合から目を離して答えた。

「シンカーどんな感じでした?」

「う~ん、縦の変化より横の変化の方が大きかったかな。外角打ちがうまい葵なら……」

 答えながら佳奈は打席に目を向けた。

 葵への初球、二球目はともにインハイのストレートだった。

 そして三球目。

 ど真ん中へ甘い球が入ってきた。

 その甘い球が左打者の葵から遠くへ逃げてゆく。

 葵は腕を限界まで伸ばしてスイングした。

 甲高い音とともに打球が低い弾道で弾かれた。

「よし!」

 準は思わず声を出していた。

 しかし、ボールはサードのミットに入り込んだ。

「三番、二神選手。痛烈な打球はサードライナーでした」

 準と佳奈は目を合わせてため息をついた。

「う~ん、葵がアウトになっちゃったら、攻略はもう少しかかるかなぁ」

「ですね。まあ、次の点をやらない限り負けはな……」

 キィィン!

「あーっと、大きい大きい! これは行ったか? これは行きそうだ!」

「え?」

 準と佳奈が慌ててグラウンドに視線を戻す。しかし、グラウンドのどこにもボールは見当たらなかった。準たちがボールを発見したのはライトのフェンスを越える直前だった。

「入った! 入りました! 四番、アリス選手のホームラン! 四番の一振りで一点のリードを奪いました。金沢選手、痛恨の一球。ストレートが甘く入りました」

 アリスが内野を一周まわって帰ってくる。ベンチ内総出で、ハイタッチで迎えた。

「ヤー! どうもどうもー」

「甘い球だったんですか?」

 準もアリスとハイタッチを交わす。

「ええ、でもこの子のおかげで生まれた甘い球かな。いい子いい子」

 アリスは葵を無理やり抱き寄せた。

「きゃあっ、ちょ、ちょっと……」

「あのピッチャーの子、葵にうまいこと打たれたもんだから、スッゴイいらついてたのねん」

 アリスは、抵抗を諦めた葵の髪をクシャクシャッとなでた。

 マウンド上のマキは鬼気迫る表情だった。

 綾をピッチャーゴロに打ち取ると、ハヤトは三球で三振にとった。

 しかし、どんな形であれ、準たちは一点のリードをもらった。

 残るは六回の裏と七回。

 

 カン‐‐

 軽い音とともにレフト前に打球が飛んだ。

「さあ、六回の裏、商店街チーム。先頭の一番バッターがヒットで出塁」

(くそっ)

 初球に要求した高めのボール球にムリヤリ手を出された。

 そして、続く二番打者は初球できっちりバントを決めた。相手は小夜の新球を嫌がって、早めに手を出してきているようだ。一死二塁でマキを迎える。

「あんたたちが出した答えは、新しい変化球を覚えることなの?」

 マキは打席に入りながら準に吐き捨てた。

「いや、あくまで新球は、カーブを投げられるようになるための過程にすぎないよ」

「あら、じゃあそろそろ結果を示してもらえるかしらね?」

 マキは視線をマウンドに向けて力みなく構えた。

「そのうち、ね。この打席かどうかはわからないけど」

「あら、残念。挑発に乗ってくれれば、配球を読む必要がなくなると思ったのに」

(この……)

 準は決して挑発に乗ったわけではないが、このやりとりを踏まえて初球にカーブを要求した。

 小夜が投げたカーブは内角低めギリギリに構えたミットに収まった。

「ストライック」

(要はこの球を、追い込んでからも投げられたら、トラウマを克服できたってことでいいんだよな……でもこの打席はその前に、マキに見せなきゃならないことがある!)

 二球目もカーブを、今度は外角にはずれた位置に要求した。

 これでカウントはワンストライクワンボール。

(ここだ)

 準は迷わず内角低めギリギリにストレートを要求した。俗に言うクロスファイヤー。マキとの勝負の後、マキに指摘された課題に答えを示すときだった。

 小夜はセットポジションから力みなくストレートを放った。

 マキはバットをピクリとだけ動かすことしかできない。

 準のミットにボールが突き刺さる。音を感じさせないそのボールは、その、音になる分のエネルギーまで持っているかのように準のミットの中で暴れようとする。それを上から抑え込むようにして準はボールの動きをムリヤリ鎮めた。

「ストライーク」

(よし)

 マキは準に視線だけずらして再び小夜と向き合った。マキの口元には笑みが浮かんでいた。

(最後はこれ)

 四球目。小夜とマキの間にアーチが掛かる。

 マキがタイミングを遅らせてスイングを始めようとした。

 その瞬間、ボールに違和感が生じ、アーチが掛かる向きが逆になる。

「なっ!」

 マキはなんとか食らいつこうと体をホームベースの方へ傾けた。

 ボテボテのゴロが準の目の前に転がった。

 準はボールを掴み、二塁ランナーが進まないのを確認して一塁へ投げた。

「一條投手。ここまで完璧に打たれていた金沢選手を始めて打ちとりました」

「これでツーアウトか。次はあの外国人やし大丈夫そうやな」

 しかし、萌の言葉とは裏腹に、四番のディエゴは変化球に食らいつき始めた。相変わらずフォームはメチャクチャだったが、必死に変化球にバットを当ててきた。

 ツーワンからスライダーを三球連続でファールにされた。

(じゃあ、一球ストレートを見せるか)

 準の要求通り小夜は外角に大きくストレートを外した。

(スライダーには当たるようになってる。ここはカーブだ。追い込んでからの右の強打者相手にカーブ……小夜の過去を克服するならこの場面だ!)

 準は小夜の目をしっかり見つめて、問題のカーブを要求した。

 小夜も、かみしめるようにゆっくりと頷いた。

 小夜の左腕から放たれたボールは準から見て大きく右上へと飛び、そこから左下へと落ち始める。

 準のミットに収まる軌道の完璧なボールだった。

(よし、これで小夜はもう大丈夫だ……!)

 準がそう確信したその瞬間、変化球でフォームを崩したディエゴの体が、さらにバランスを崩した。どうやら足を滑らせたようだ。スイングをしながらディエゴの大きな体が倒れた。

 気づけば準の目の前からボールが消えていた。

「え?」

 準が、いや、グラウンドにいた誰もが、ボールの行方を捜した時、バックスクリーンに何かが衝突する音が聞こえた。

「嘘だろ……」

「嘘……」

 準と小夜は二人して立ちすくんだ。

「なんと、なんとなんと! 入った! 入りました! ディエゴ選手、逆転のツーランホームラーン! シンジラレナーイ! ただただ、バッテリーは立ちつくすのみです!」

 準の耳には実況の声は届かなかった。

 茫然としたまま、目の前の状況が信じられなかった。しかし、何度確認しても、スコアボードは二対三となっていた。

 準が我を失っている間に、小夜は五番の佐藤を、この試合はじめてのフォアボールで歩かせると、続く六番バッターにもヒットを打たれた。

 佳奈がタイムをとって、内野陣が集まった。

 準も小夜も、メンバーの誰とも目を合わせることができなかった。

「こーら、二人とも。そんな顔しちゃ、めっ、だよ?」

 佳奈が準と小夜の頭を軽く叩いた。

「でもっ」

「ええ……私、リードを守れませんでした」

 準と小夜は再び俯いた。

 佳奈は二人のあごを持ち上げた。

「スマ~イル、だよ?」

 準と小夜の目の前には、少しも陰りのない晴れやかな表情の佳奈の顔があった。

「二人とも、顔が怖いよ? ちゃんと野球を楽しまなきゃ! こんな立派なグラウンドで、こんなにたくさんの人の前で、こんなにスゴイ人たちを相手に、初めて九人揃ったチームのみんなで野球ができてるんだよ!」

 佳奈は本当に心の底から笑っていた。気づけば、佳奈の隣にはアリスも、葵も、美月もいた。外野からあすか、ハヤト、綾の三人も集まっていた。

「野球を……楽しむ」

 準も小夜も同時につぶやいた。

「そうだよ~、審判のおじさんも、最初に言ったでしょ。プレイ、ボール、ボールで遊ぼうってね? ようやく九人そろって試合ができるようになったんだから、楽しまなきゃ!」

 佳奈の笑顔を眺めながら、準は、九人揃ったことを知った時の佳奈のはしゃぎっぷりを思い出した。

 そして、視線を小夜と交わす。

 一緒に頷いて、無理やり笑顔を浮かべてみた。お互いに気恥ずかしさとおかしさとが押し寄せてきた。ぎこちない笑顔は自然になった。

「そうそう、そんな顔だよ! さあ、みんなでレッツ、プレイ!」

 佳奈の元気な掛け声とともにメンバーは元の位置へと戻って行った。

 試合が再開される。

「ストライーク! バッターアウト! チェンジ!」

 小夜は続くバッターをストレート三球で片付けるまったく寄せ付けない投球を見せた。

「チェンジです。一條投手、踏みとどまりました。しかしこの回、珠風高校、逆転を許してしまいました。さて、ゲームはいよいよ最終回に入ります!」

 

 七回。打席に向かう準は自分の手元を見つめていた。

 バットをギリギリまで長く持ってみる。

 すると、自然と手が震えだし、準の意志と関係なく、いつもの短く握る位置に手が移動する。

(ここまできて情けなさすぎだろっ!)

 準は自分に喝を入れてもう一度握り直した。

 手の震えは止まらない。

 準はネクストサークルで待つ小夜の姿を見る。

 ディエゴには奇跡的な確率で打たれたものの、自分の過去を振りきって見せた小夜。小夜の頑張りに比べた時の、自分の情けなさに怒りすら覚えた。そして、なにより、

(小夜を負け投手なんかにさせるもんかっ)

 準は震える両手にありったけの力を込め、バットを強く握ることで震えをごまかした。観客席でみつめる剛の眼が、『お前の力を示してみろ』と言っているような気がして、一層力を込めた。

 右打席に入ってマキを見据えた。マキは準を見下ろしている。表情からは余裕さえうかがえた。

 マキが大きく回転して一球目が放たれた。

 地面と水平に進むボールに対して、準は思い切り振りきった。

「ストライーク」

 準のバットは空を切った。ボールはかなり高い位置のミットに入っていた。

「最終回。先頭の才木選手、かなり力が入っていますね。高めのボール球を空振りです」

 二球目。準から一番離れた位置に進んだボールが、更に逃げるように横に変化した。

(スライダー!)

 準は左足をギリギリまで内側に踏み込んで振りぬく。

 バットはボールの中心に水平に切り込む。完璧にボールを捉えた。

 ボールは向かってきた時以上の速度で一塁側へはじき返された。

「おっと、これはどうだ? 大きいぞ!」

 しかし、ボールは右に逸れて一塁側のフェンスに直撃した。

「才木選手、大きな当たりでしたがこれはファールです。追い込まれてしまいました」

 一球外側へのボール球のあと、四球目は内側ギリギリに投げ込まれた。

 準がスイングを開始しようとしたその刹那、ボールはさらに準の体に近づいた。

(シュート!)

 準はスイングの途中で左ひじを引く速度を上げた。回転半径が小さくなった分、バットは内側を通過する。

 準の内側に抉り込んできたボールとバットが衝突した。

 ボールは、今度は三塁側のフェンスに直撃した。

 五球目。少し長いサイン交換の後、内角低めいっぱいにボールが進む。

(少し遅い?)

 準が疑念を抱いた瞬間、ボールはさらに準の膝元をえぐるように斜め下へと沈み込んだ。

(やっぱり!)

 準は思い切りボールをひっぱりこんだ。

 打球は鋭いライナーとなって、三塁側のスタンドへと飛び込んだ。

「ファール。才木選手、粘ります。それにしてもいい当たりが続きます」

(さあ、これで、変化球は全球種を真芯で捉えたぞ)

 準はマキを観察した。

 マキは何度も首を振っていた。サインが合わないようだ。

 ようやくサインが決まってからの、第六球。

 マキがいつもよりもっと大きく体を捻りこんだ。

 マキは、今日投げた中でもかなり大きく体をひねり、今日のマキが投げた中で一番速い球がど真ん中に飛んできた。

(速い!)

 準は、全神経を研ぎ澄ましてフルスイングした。

 準の思い描く中で最高のスイングができた、が、バットにボールが当たる感触はなかった。

「ストライック、バッターアウト!」

 ボールはど真ん中に構えられたミットに収まっていた。

「ああーっと、才木選手、粘りましたが結局三振。さぁ、あと二人で終わってしまうのか?」

「くそっ!」

 準は真上にバットを振り上げて、バットを叩きつけようとした。しかし、誰かに肩を叩かれて振り上げたまま止まった。

「小夜?」

「いいスイングだった……と思う」

 小夜は、お互いの瞳が合わせ鏡になりそうなほどまっすぐな視線で、準を見つめた。

「ごめん……でも、結局おれは最後まで役立たずだ」

 準は小夜の瞳を直視出来ずに俯いた。

「違う。準の覚悟は伝わった。それに……まだ終わらせないよ」

 小夜は準のヘルメットに掌を乗せ、軽く叩いた。

「え?」

 準が顔を上げた時には、小夜は打席へと足を進めていた。

「さあ、一死となって、八番、一條選手。珠風高校このまま終わってしまうのか」

 マキは再び、六回までよりも少し大きく体を捻ってボールを投げた。

 先程のボールに勝るとも劣らない速さのボールが放たれた。このままミットに収まるかと誰もが思ったその時、この試合初めて、小夜がバットを最後まで振りぬいた。

「な!」

 マキは驚愕に目を見開いた。小夜の打球は左中間を真っ二つに切り裂く。

 小夜は、外野から返球されるまでに二塁に到達していた。

 二塁で大きく肩を上下させる小夜を見て、準は、投球に響かせないためにフルスイングはしない、と言っていた時の彼女を思い返していた。

「ピッチャーの一條小夜選手、ツーベース! さあ、このチャンスで追いつけるか? バッターは九番、桐野美月選手」

「うぅ、準。無理だよぉ」

 実況の声の直後、美月が、泣きそうな顔で準のもとに戻ってきた。

「まあ、美月はまだバッティングは出来なくても仕方ないって。次はあすか先輩だし、ゲッツーもない場面だから気楽に行ってきな」

 準は、気付けばさっきまでの落胆を忘れ、美月を励ましていた。

「でも、わたしも何か役に立ちたいよぉ」

 今回の美月は簡単には引き下がらなかった。

「うーん、じゃあ正しい振り方なんか気にせずに、この打席だけバドミントンの時みたいな感覚でやってみたら? とにかく当てるだけのつもりで」

「バドの感覚? うーんと……」

 美月は考え込みながら右打席へと向かった。しかし、打席に入る直前に立ち止まると、左打席に移動しだした。

「おや、桐野選手。右ではなく左打席に入りました。これは何か秘策があるんでしょうか?」

「さあ、案外やぶれかぶれかもなぁ」

 美月は左打席に入ると、握りは普通のまま、バントの構えの時のように、バットを水平より少し斜めにして、上半身をベース上にかぶさるようにかがめた。

「これは、不思議な構えですねぇ」

 これにはバッテリーも混乱したようだ。投球開始までにかなりの間があった。

 マキがセットポジションから体を捻ったその時、二塁ランナーの小夜が走りだした。

「おおっ? 二塁ランナーの一條選手、三塁を狙う!」

 バッテリーが初球に選んだ球はシンカーだった。足元付近でキャッチャーが捕球して立ち上がった時には、小夜はすでに三塁へとスライディングを開始していた。

「あぁっと! キャッチャー投げることができない!」

「よう賭けに出るなぁ……この場面で。万に一つも失敗したらあかん場面やったで」

 萌はしきりに感心する。これで一死三塁。

 マキは、今度はランナーの小夜を十分に警戒して、二球目を投じた。

 直球が美月の外角へと伸びた。

 ここで、美月はほぼ右手一本、手首だけでバットを振った、というよりは、動かした。

 かすかに動いたバットにボールが衝突した。ボテボテの打球がピッチャー前に転がる。

 小夜はすでにスタートを切っていた。

「あ、当たった……」

「美月っ、走れぇっ!」

 ボールが前に飛んだことに自分で驚いていた美月は、準の叫びを聞いて慌てて一塁へと向かった。

 マキがボールをグラブに収めた時、すでに小夜はホームにすべりこんでいた。マキは舌うちをして一塁へと送球。打った美月はアウトになった。

 しかし、小夜の好走塁によって、試合は三対三、ふりだしに戻った。

「同点! 同点! 内野ゴロの間にホームイン! 最終回、土壇場で試合はふりだしに戻りました!」

 田中は興奮した声で叫ぶ。場内はおおいに沸いた。

 小夜が息を切らせながらベンチに戻ってきた。

「はぁ、はぁ。ね、終わらせないって、はぁ、言ったでしょ」

 息切れしながら、準にほほ笑みかけた。

「あ、ああ」

 準は、同点になったことよりも、小夜の疲労具合の方が気になった。

「ごめーん、びっくりして走り出すの遅れちゃったよぉ」

 美月は気まずそうにベンチへと戻ってきた。そんな美月に小夜が無言で抱きつく。

「きゃあっ、さ、小夜ちゃん? びっくりしたぁ」

 美月は耳まで真っ赤になった。

「はぁ、ありがとう、美月」

 小夜は抱きついたままそう言って、美月から離れた。

 佳奈が小夜を一瞥し、無言でネクストサークルへと向かった。

「佳奈先輩」

「わかってる、時間を稼ぐんだよね、でも……」

 準が一言声を掛けただけで佳奈はすべてを理解してくれたものの、不安げに打席に視線を向けた。

 その直後、打球音が響いた。

「痛烈! 一番仲上選手、初球をセンター前に運びました。今日三本目のヒットです!」

 一塁上ではあすかが得意げにしていた。

「やっぱりね。あの子はまったく……まあ、あたしが粘ってみるよ」

 佳奈は苦笑しつつ打席に向かった。

 しかし、ボールが佳奈に投げられることはなかった。

 佳奈を打席に迎えての初球。マキは軽く息を吐く。

 次の瞬間、素早くプレートをはずすと一塁へけん制球を投げた。

「あ」

 あすかはリードしたまま硬直していた。

「アウッ! チェンジ」

 主審の声が響く。小夜の呼吸はまったく整っていなかった。

 

「ボール、フォアッ」

「あーっと、一條投手、二死から二者連続フォアボールを出してしまいました」

 マウンド上で小夜が腹立たしげに汗をぬぐった。

 七回裏。小夜のボールは球速が落ちた上にかなりばらついていた。

 八番、九番バッターこそ、ボール球に手を出してくれて簡単に抑えることが出来たが、続く一番、二番バッターにはきっちりと球を見極められた。

「二死一、二塁。ここで三番、怖いバッター、金沢選手を迎えます。一條投手、サヨナラのピンチを迎えています」

「二死やけどこれはかなーり、ピンチやな」

 大丈夫だ、準は実況席からの声とは裏腹に、マウンドの小夜に視線で訴えた。

 コントロールは徐々に戻りつつあった。

(初球は慎重にっと)

 準はストレートで内角高めのボール球を要求した。

「ボール」

 マキは少しもボールを避けるそぶりは見せなかった。

(もう一度)

 準は一球目と同じボールを要求した。今度もマキはピクリとも動かない。

(新球を意識して外角しかないと思ってるのか? だったら好都合だ)

 準はもう一球直球を内角高め、ただし今度はストライクになるように要求した。

「ストライーク」

 今度はかすかにバットが動いた。

 準はマキの第二打席のことを思い返していた。

 あの時、小夜も準も試合中だということを忘れ、ど真ん中のストレートを三球続けた。その結果ツーベースを打たれてしまった。

 この打席も、ど真ん中ではないものの三球続けてストレート。マキはこの打席はもうストレートは来ないと思っているだろう。いや、例えストレートを捨てていないとしても、ほんの少しの疑念がスイングの乱れに繋がるはずだ。ストレートはきっと打たれない。準は迷わずストレートを要求した。

 小夜はサインを確認するとすぐにモーションに入った。

 小夜の左腕から放たれた弾丸が、準の構えたミットに、勢いよく飛び込んだ。

「ストライック、ツー」

 マキは、ボールが飛び込んだ準のミットを、信じられないといった様子で凝視していた。

(ここまで続ければ、もう無いって思ってしまうよな)

 準はさらにもう一球、ストレートのサインを出した。

 しかし、この試合で初めて、小夜が首を横に振った。

(さすがに五球連続は投げたくないか。じゃあ、これだろ?)

 準は苦笑しながら、新球(準の見解では小夜ボール)を要求した。

 しかし、またも小夜は首を横に動かした。

(え。まさか、これ?)

 小夜は深くうなずいた。マキはその様子を見て笑う。

(だめだ、多分読まれてる。でも、小夜が投げたいんなら……)

 準は、小夜へのサインはそのままで、外野三人に投球直後に前進するようにサインを出した。

 小夜は、セットポジションから左腕を目に見えない速さで振りぬいた。

 左腕とは対照的に、放たれたボールは、コマ送りで見える、と錯覚するようななめらかな軌道で孤を描いた。

 長打が打たれると負けが決まるこの場面で、右の強打者のマキ相手に、小夜が選んだ球種はカーブだった。この一カ月、いや、小夜からしてみればこの数年、課題にしてきたボールだった。

 孤を描き始めたボールは、外角高めに完全に外れるボール球の軌道から、ブーメランのようにストライクゾーンをかすめ、内角低めに向かってきた。

(この、軌道だ! でも)

 小夜の課題と言った点では、克服出来ていた。しかし、マキはこの球種が来ることを完全に予測していた。

(駄目だ。決まったけど、打たれる……!)

 マキはしっかりとタメをつくって振りぬいた。

「なっ」

 しかし、マキのスイングは、完ぺきにはボールを捉えることが出来なかった。

 一塁ライン上にボテボテの打球が転がった。

「わわわ」

 美月は急いで前進してきた。一方マキは急いでバットを放り出して全力疾走を始める。

 美月がボールを捕球したとき、マキは美月より一塁に近い位置にいた。

 美月が、一塁ベースカバーに入った葵に送球しようとした、その時、二塁ランナーが三塁を回ろうとした。

「美月! 投げなくていい!」

 準の声に、美月は一塁に送球する寸前で投げるのを止めた。

 三塁ランナーは慌てて、三塁へ戻る。

「満塁です! 打ち取った当たりでしたが、飛んだところが悪かった。残念、一條投手!」

 一塁上でマキは苦々しい表情をしていた。

「準」

「心配してないよ」

 準のもとに歩き出そうとした小夜の言葉を遮った。

「完全に克服出来たんだな……しかもマキの予想を超える球で」

 小夜は無言で笑顔を見せていた。

(意外と小夜は……よく、笑うよな)

 この笑顔が報われる笑顔になって欲しいと思った。

「準」

「ん?」

「わかってる? もう一度準に打席回すんだから。まだ終わらせないって言ったでしょ」

 小夜は、もの思いに耽っていた準の顔を覗き込んだ。

(そうだ。欲しい、じゃなくて、してあげるんだ。小夜の笑顔を報われるものに)

 準はマスクをしっかりと被り直した。

 それからの小夜は圧巻だった。

 ストレートに強いディエゴから、直球で二球連続、空振りを奪うと、最後は新球で三球三振に仕留めた。

 今日、小夜が奪った十個目の三振だった。

「チェンジです! 一條投手、踏みとどまった。七回を終わって三対三の同点。試合はこれから延長戦に突入します!」

 球場のボルテージは最高潮に達した。

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