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第五章 変化球の名前はオリジナルで

第五章 変化球の名前はオリジナルで


 「たしかこの辺にぃっと」


 日曜日。河原での対決の次の日。

 準は押入れに潜り込んでいた。


「二年、いや三年前か?」

 押入れの中には西暦と月が書かれたダンボール箱が並んでいた。そして、各箱の中には、その期間に発売された多数の野球雑誌、地方球場での高校の試合の動画データがびっしり詰められている。

 準はその中から、ある球種についての特集が載っている雑誌を探していた。

 昨日、帰宅後、準は考えていた。小夜の投球を改善する方法を。


 そして、ひとつの結論にたどり着いた。


 小夜が、ピンチでカーブを投げる際に委縮するのは、打たれた記憶が強すぎるから。その記憶によって、ほんの少しでも甘くなるとホームランを打たれる、と小夜は思い込んでしまっている。

 ならば、多少甘く入ったところでそう簡単には打たれない、そのことを小夜に実感させればいい。


 初めて小夜の球を受けた時本人も自信を持っていたように、本来ならば小夜のカーブは並のバッターに打たれるようなボールではない。

 しかし、小夜の球種はストレートと、スライダー、そして、かなり大きくてゆっくりのカーブ、この三種類のみ。この三種類のみというのが問題だった。


 スライダーはストレートと同じように直線的な軌道で、ストレートよりも十キロ強遅く、速さだけを考えるといわば半速球。

 これに対し、小夜のカーブはストレートよりも四十キロ以上遅く、軌道も山なりで、手から離れた瞬間に直線的な軌道とは区別できる。

 通常、ここまでの球速差があれば、ストレートを見せられたバッターは、カーブには手も足も出ない。しかし、最初からカーブだけを狙っているバッターとなると話は別だ。そういう相手にとっては、山なりの球種がカーブしかない小夜のような投手だと、投げた瞬間にカーブだと判断でき、少しでも甘く入ると打たれてしまう危険性が高くなる。


 本来、小夜ほどの制球力があれば、このことは大きな問題にはならなかったはずだが、その制球力が、過去の苦い記憶によって狂う。


 そこで準は小夜に、山なりの軌道でカーブとは違う方向に変化する球種を習得してもらうつもりだった。

 そうすれば、バッターも投げた瞬間にカーブだと判断できなくなり、カーブが甘く入ったとしてもそう簡単には打たれなくなる。そうやっていく間に、小夜も自信を取り戻し、追い込んでからもカーブを迷わず投げられるようになるはずだと思った。


 準は押入れの中からようやく一冊の雑誌を見つけた。

 手に取りその雑誌の右下にあった活字を読み上げた。


 「現代の魔球、サークルチェンジ特集」

 



 「チェンジアップ、投げたいんだけど!」

 月曜日。部活の時間。

 小夜に雑誌を見せようとブルペンに着いた準の目の前には小夜の顔のアップがあった。

「お、おぉう?」

 準は一歩ずつ下がる。

「あ、ごめんなさい……その、考えたんだけど、追い込んでからのカーブが、いきなり投げられるようにはならない、と思うの」

 準の反応に気づき、小夜は顔を赤らめて俯いた。

「それでね、遅い球種がもうひとつあれば、カーブが甘くなっても打ちとれると思う。そして、甘く入っても大丈夫だってわかれば、追い込んでからでも普通に投げられるように……準? ちょっと聞いてるの?」

 準は完全に虚をつかれて放心状態だった。

 小夜が言ったことは、まさしく昨日準が考えたことそのものだった。


「ねえ、準? ……やっぱり無理だと思う?」

 準の沈黙を否定だと思い込んだ小夜の表情に陰りが見えた。迷える子羊、いや、落ち込んだ子犬のような顔。

「いや、違う違う! ただ、同じこと考えてたんだって、驚いただけ」

 準は慌ててフォローした。

「えっ? 同じこと? じゃあ、準も?」

 目を丸くする小夜に、準はにやりと笑みを浮かべて、雑誌を取り出した。

「チェンジアップはチェンジアップでもちょっと特殊なやつだけどね」

 準は取り出した雑誌を手渡した。


「サークルチェンジ?」


「そう、サークルチェンジ。これが一番いいかなって思ったんだ」


 サークルチェンジ。それはチェンジアップの一種。親指と人差し指で輪っかをつくってボールを包み込むように握る。それゆえ“サークル”チェンジと呼ばれる。


 ストレートと同じ腕の振りで投げることができるこの球は、通常のチェンジアップとは違い、右ピッチャーならピッチャーから見て右に、左ピッチャーならば、左へと変化して沈む。この変化はほんの少しのわずかな変化でしかない。

 しかし、バッターからすると、このほんの少しの変化が空振りにつながる脅威の変化になる。左ピッチャーが投げたサークルチェンジは、右バッターの視点から見た場合、直線というよりは少し山なりで、ど真ん中に入ってくるはずだったボールが逃げていくように見える。錯覚によって予測地点と実際にボールが到着する地点の間には少なくともボール二個分くらいの差が生じる。



「そっか……準も、その、考えてくれたんだ」

 小夜が雑誌を見つめたままこぼした。

「一緒にかっこよくなってやるって言っただろ? 小夜はこの球種でもいい?」

「バカね。いいに決まってるじゃない」

 小夜が準に笑いかけた。破顔一笑。いや、一笑どころか百笑でも足りない、それほどの笑顔だった。

「よ、よし、じゃあ早速やりますか! 明日のために~」

 小夜の笑顔を直視していられなくなった準は慌てて目をそらし、茶化してごまかした。

「この雑誌によれば、ほとんどの人は中指と薬指の間からリリースする感じだってさ」

 準は雑誌のプロの投手のコメントを指さした。

「わかったわ。じゃあやってみるわね」


 小夜が投球動作に入る。

 グラブを突き出す動作まではいつもと同じだった。

 いつもの小夜は、ここまでは非常にゆっくりした動作で、そこから急に左腕が消え、次の瞬間にはすでに腕が振りぬかれている。

 しかし、今回は振り抜く際に消えるはずの左腕が消えない。消えない左腕から放たれたボールは大きな弧を描いて準の構えたミットの三十センチくらい上に届いた。

 九十キロ前後のただの山なりボールだった。


「どう?」

「だめだ。遅い球を投げようとして腕の振りがゆっくりに、小ぢんまりになってる。もう一回」

 準は小夜にボールを返した。

「腕の振りか……よーし」


 小夜がもう一度投球動作に入った。

 今度は、左腕は消えた。消えた左腕から出てきたボールは水平に飛び、重力に従って落ちてゆく。カーブの軌道とはほど遠く、球速もあまり抑えることが出来ていなかった。


「今のは駄目ね」

 今度は小夜も駄目だとわかったようだ。

「うん。とりあえず最初はコントロールとかは気にせず、今の腕の振りで、さっきの軌道とスピードの球を目指そう」

「今の腕の振りでさっきの球……か。難しいわね」

 小夜が握ったボールを見つめ、かすかに唇の端をつりあげた。


 その後も小夜と準の試行錯誤は続いた。しかし、なかなか腕の振りと球速を抑えることを両立させるのは容易ではなかった。

 気づけば練習が終わる時間だった。


「まあ、そう簡単に行けば誰でも投げられるもんね」

「ええ、私もたった一日でうまく行くなんて思ってないわ」

 準も小夜も笑顔だった。



「とりあえず、大まかに、問題は四つかな」

「四つ?」

 小夜が準が立てた4本の指を見つめる。

「うん、まず一つ目は腕の振りをストレートと同じに。二つ、球速をできるだけ抑えてカーブに少しでも近い山なりの軌道に。三つ、コントロール。四つ、サークルチェンジ特有の右バッターから逃げるように沈む独特の変化を」

 準は一つずつ指を折りながら説明した。

「でも、今は、ストレートの腕の振りと、球速を抑えること、この二つだけ出来るようになれば十分だよ。コントロールは一気に身に付くものじゃないし、変化はできれば欲しいけど、カーブと同じ方向には変化しないってだけでも十分だから」

「分かった。腕の振りと球速、ね。試合までにそこだけは完成させてみせるから」

 小夜は準の目をまっすぐに見据えて言った。その瞳はもうほんの少しも揺らいでいなかった。

 



 小夜との特訓を始めて一週間が経過した。しかし思ったほどの成果は上がらない。

 試合の日まではあと二週間も残されていない。

 雑誌で実際に投げているプロのコメントを見て、中指と薬指の間からだけでなく、中指と人差し指の間からのリリースも試したが効果はなかった。


 小夜が言うには、

「ストレートを投げる時は、投げた後左手の甲が体の内側を向くんだけど……サークルチェンジのリリースだとなぜかそうできなくて」

 そのたびに準は、

「腕の振りって言うのは、ストレートと同じくらい速く腕を振ればいいんじゃない? 別に投げた後の形は同じじゃなくても……」

 そう言うと、小夜は決まってこう言った。

「だって、投げた後の形が同じじゃないと、同じくらい速く腕を振れないのよ」

 この一週間で幾度となく繰り返したやりとりだった。小夜が意外と不器用だと思い知らされた。


「しゅ~~ご~」

 グラウンドに佳奈の声が響く。今日も収穫がないまま練習終了の時間だった。

「ごめんね。なかなかうまくいかなくて……」

 小夜がポツリとつぶやいた。自信を失いかけているようだった。

「大丈夫だって。まだ時間あるんだし! こういうのは急にできるようになるかもしれないよ」

 準は努めて明るく振舞った。しかし、内心ではかなり焦っていた。


 試合まで残り時間は限られている。さらに、佳奈にお願いして、全体での練習時間をすべて投球練習に割いてもらった手前、何も得られないまま試合を迎えるわけにはいかなかった。


「じゃあ今日の練習はこれで終了でっす。試合まであと二週間を切りました、このままはりきって行きましょ~!」

 佳奈が元気に締めの挨拶をした。全員部室へと歩き出した。 

 準も歩き出そうとしたが、佳奈がボールの入ったかごを抱えているのを見て足を止めた。


「佳奈先輩。何してるんですか?」

「ん? 準くん? ん~、ボールの選別をちょっとね」

 佳奈は二つのかごにボールを振り分けていた。


 多くの野球部は日頃の練習では、ボールの状態がいいものを投球練習に使用し、古くなると守備練習、さらに古くなるとバッティング練習に使用する。

「手伝いましょうか?」

「ううん大丈夫だよ~。ほらっ、量も少ないから。ありがとう」

 佳奈は笑って準にかごを見せた。たしかにそこには五十球ほどしか入ってなかった。

「あ、ほんとですね。じゃあお先にしつれいしまーす」

(ん?)

 準は去る直前に、二つのかごのうち、傷んだボールが入れられたかごを見て、違和感を覚えて足を止めた。

「どうしたの?」

「い、いえっなんでもっ。じゃあ今度こそ失礼します」

(ようし)

 帰り際、準はあることを思いついていた。

 


 次の日。

 準はいつもより一時間以上早く学校に来ていた。

 準の手には針と糸が入ったケースがあった。

 昨日の帰り際、佳奈が選別したボールを見た際、縫い直せばまだ使えるボールがかなりあることに気づいた。準はそれらを一人で縫うつもりだった。


 グラウンドの入り口にさしかかった時、誰かがいるのに気づいた。その誰かはグラウンドを駆け巡っていた。ベースランニングをしているようだ。準がグラウンドに入ると、その誰かは走るのをいったん止めて準を見据えた。


 ショートカットにするどい目つき。その誰かは綾だった。

 部室の一件で葵と少し打ち解けた準にとって、彼女は唯一、未だにぎくしゃくする部員だった。


 七山綾。

 彼女は初対面の時から変わらず、準に対しては常に無愛想で、ハヤトに対しては敵意すら感じる時もあった。

「お、おはよ……」

 準はこわごわ声をかけた。

「何しに来たの?」

 突き放すような返答だった。


「ちょっと、ボールをね……七山さんは、いつも朝練を?」

「名字で呼ぶのは禁止でしょ。さんづけも止めて。別に綾でいいわよ。それで、ボールって?」

 綾はさもおもしろくなさそうに言い放った。

「いや、ボールを縫おうかと思ってね。まだ使えそうなやつがけっこう……よっと!」

 準は答えながらかごを抱えた。

「綾はかまわずに朝練続けててよ」

 準は針に糸を通してボールを一つ取った。



「……」

 綾はまったく動かずに準を見下ろしていた。

 少し視線を感じながらも、準はボールを縫い始めようとした。しかし準の手から針がかすめ取られた。

「え?」

「……横でそんなことされたら、一人だけ練習なんてできるわけないでしょっ。さっさと終わらせるわよ!」

 綾は準に視線を合わせず、乱暴にボールを一つ手に取った。口調は相変わらずきついままだったが、とげとげしさがほんの少しだけ減っていた。



 そこから二人での作業が始まった。

「綾は毎日朝練してるの?」

 準は作業を進めながらそれとなく聞いた。

「……それくらいしないと、あの人には近づけないから」

「あの人?」

「……あすか先輩よっ」

 なげやりに綾は答えた。

「中学の時から言うことやること、全部むちゃくちゃで……でも、すごくて」

「あーなるほど」

 準は、つい先日、ハヤトと一緒にふざけていたあすかの姿を思い出していた。


「身近な目標が大きすぎると大変なんだから」

 綾はため息をついた。


「……あんたは何でこんなことするの?」


 今度は綾が質問してきた。


「えっ、こんなことって? ボール縫うのは普通じゃないの? 綾はシニア出身でしょ?」

「いや、そうだけど……少なくともわたしの周りに、近くに女がいる中で、自分から進んで雑用をやろうって男はいなかったわ」

 準は綾の言いたいことがよく分からなかった。

「女? 男? なんで? 野球部員なら野球の道具を大切に使うのは普通だよね?」

「え」

 準の返答に綾は唖然としていた。

「あんた……少し変だわ」

「?」

「何でもないわよ……それより、最近、あんたと小夜、何か試してるわよね?」

「え? あ、ああ。うん、サークルチェンジをちょっとね」

 綾の、突然の話題転換に意表を衝かれた。

「サークルチェンジ? 何で? あの子にそんなの必要?」

「……投球の幅は広がった方がいいだろ?」

 なんとなく、小夜の過去のことは、みだりに口外しないほうがいい気がした。



「ふーん。ま、いいけど」

「でも、なかなかうまくいかないんだよなぁ。これがまた」

「うまくいかないんだ? どのへんが?」

「それがねぇ……」

 今度は、準は練習の状況を包み隠さず話した。



「へぇ。でもちょっとおかしいかも、それ」

 準の話を聞いた、綾が首を傾げた。

「おかしい? どこが?」

「中学の時、投げてる先輩いたけど、薬指と小指の間から投げるのがコツだって言ってた気がする」

「ほんとに? でも、雑誌には載ってなかったしなぁ」

「まあ、その先輩のはたいしたボールじゃなかったし」

 綾は鼻で笑った。

「……でも、まあ試してみるよ。やれることはなんでもやらなきゃ。サンキュ」

「いえいえ。じゃあ、さっさと今すべきことを終わらせるわよ」

「その前に、最後に一つ質問していい?」

「何?」

 綾はめんどくさそうに耳を傾ける。

「ハヤトのこと嫌ってる?」

 準は思い切って、ハヤトに対する綾の態度について尋ねてみた。

「ええ。嫌いよ。ああいう、男ってだけで、のうのうと野球やってるやつは大嫌い」

 綾はキッパリと言い切った。もう、この話は終わりだ、と告げられた気がした。


 しかし、準はもっと踏み込むことにした。

「男ってだけなら、おれも男だけど、綾のハヤトに対する態度はもっと、どこか、違う気がする」

「……あいつは、ちゃらちゃらしてるから」

「ちゃらちゃらって、見た目のこと?」

「ええ」

 綾の肯定に、準は吹き出しそうになった。

「何よ?」

 笑いそうになった準を見て、綾が眉を吊り上げた。

「いや、ごめんごめん」

 準は謝りながらも、肩の力が抜けた。ただ、見た目だけの問題なら、綾もしばらくすればハヤトのことを認めるだろうと思った。 



「もういいわ。さっさと続きをやるわよ」

 綾の言葉を最後に二人は黙々と作業に徹した。

 授業開始十五分前に作業は終わった。

「できた!」

 縫い終わったボールを見ていると、準の顔に自然と笑みが浮かんできた。

「うれしそうね……ボール見て笑ってるの、なんか不気味よ」

 綾が冷やかにからかう。

「でも、こうやって、自分が縫ったボール見てると、やってよかった、早く使いたいなってならない?」

 準は綾に笑いかける。

「……やっぱり変な奴」

 綾は準から顔を背けて歩き出した。

「さっさと教室行かないと遅れるわよ」

「あーい」

 二人はそれぞれ教室へと移動しはじめた。

 


 ‐‐放課後。

 グラウンドに向かう途中、準は綾と一緒になった。

「佳奈先輩おどろくかな?」

 無邪気に準が言った。

「気付かないかもね」

 綾の反応は冷めていたが、微妙に口の端が持ち上がっていた。


 が、しかし、二人がグラウンドに着いた時に待ち受けていたのは、大量の新しいボールだった。

「へ?」

 準が、事情が呑み込めないでいると、佳奈が満面の笑みで寄ってきた。

「見て見て~、準くんと綾ちゃん! 新しいボール、理事長が持ってきてくれたの~」

「……うそ? じゃあ今までのボールは?」

 準は何とかして声を絞り出した。

「ああ、あれ? いっぱい新球が来ちゃったから、ボール持ってきてくれた業者さんに処分お願いしちゃった。もったいないけど、倉庫に入りきらないから~」

 佳奈の言葉に準は目の前が真っ暗になった。

「そ、そんな……じゃあ、今日のおれの努力は……」

「……うっ、っく、ふふっ」

 茫然自失の準の隣から息が零れるような音が聞こえてきた。

「くくっ。ふっふふっ。あぁ、もうだめ! あぁはっはっは!」

 綾がついに堪えきれなくなって笑いだした。

「ふふふっ。はぁーはぁー。あぁおかしい。ほら、準、ドンマイ! ちゃんと切り替えて練習するのよ!」

 綾は準の背中を思いっきり叩いて走り出していた。とびきりの笑顔を準の目に残して。綾が初めて準に向けた笑顔だった。

 


 「はぁー」

 準はため息をついた。今日の練習が始まって五度目のため息だった。

「どうしたの? 今日ため息ばっか……まだ一球も投げてないのに」

 小夜が不安そうな表情を見せた。

「いや、何でもないよ……ただ、地球とエコについて考えてたんだ」

 先ほどのボールの件を引きずっている準に、小夜はよくわからない、と言いたげだった。

「よし! じゃあ今日の特訓開始!」

 準は自分の頬を強く叩いて気合いを入れなおした。



「今日、綾から聞いたんだけどさ」

「ん?」

「何か、綾の中学の先輩が、サークルチェンジ投げてたらしいんだけど、その人、薬指と小指の間からリリースしてたんだって」

「薬指と小指?」

 小夜がボールを握って怪訝そうに見ていた。

「まあ、変化球なんて人それぞれだから」

 準は慌ててフォローしたが小夜には聞こえていないようだった。真剣にボールを持って手首を動かしている。そして、それを確認する小夜の目が少しずつ大きくなっていった。

「あ? こっちの方が投げやすそう」

「え? ほんとに?」

 この練習を開始して、初めて小夜が前向きな感想を漏らした。

「じゃ、じゃあ早速試してみよう!」

「そんなに焦んなくても……じゃあ、いくね」


 小夜は苦笑しながらモーションに入った。

 素早く振りきられた左腕からボールが放たれる。準の視点からは左腕が通過した後にボールが飛び出してきたように見えた。ゆっくりと放物線を描いたそのボールは、準から見て二メートル以上左に着地した。


「……」


「……今の、結構よかったかも。コントロールはアレだけど」

 お互いに一拍あって、準が呼びかけた。小夜もまんざらではない様子だった。

「こっちのほうが投げやすいかも……でも、何かもう少しこう……ん? これなら?」

 小夜は自分の手首と握りを確認しつつ、何か閃いた様子だった。

「試してみる。いくよ」

 小夜は再び両手を顔の前まで上げて投球動作に入った。

 ゆっくりと右足を振り上げ、体を捻る。右足と右手を突き出し、左腕を振る。


 準の目が左腕の動きを追い切れなくなった直後、左手が通過したはずの場所からボールが、突如、現れた。

 そのボールは左手の延長線上にゆっくりと伸びる。準から見て、小夜の頭から右上に離れたボールは、そこから虹を傾けたような軌道で準に近づいてきた。

(え? カーブ?)

 とっさに判断し、ミットを少し左に動かした。

 しかし、準の視界の、右上から左下へと綺麗なアーチを描いていたはずのボールが、突然、ねじれるようにして右に動いた。

 準はとっさの変化に対応できずボールをはじいてしまった。


(今のは?)


 今、小夜が投じたボール。それが何なのかつかめずに、準は呆然として小夜を見た。

 小夜は小夜で、自分が投げたあとの態勢のまま唖然としていた。


 二人は、しばらく、お互いに無言のまま見つめあった。


 そして、互いの顔が笑顔に変化していくさまを互いに確認し合った。

「すごい! すごすぎ! 何? 今の球? 魔球?」

 準は小夜のもとに駆け寄った。

「わかんない。ただ、親指と人差し指側ぎりぎりで握って、小指の外側からリリースしたら回転がものすごくかかってたみたい。腕の動きはストレートとまったく同じなんだけど」

 小夜が半信半疑といった様子で腕をプラプラさせた。 


「キャッチャー側から見たらどんな感じだった?」

「うーん……途中までは完全にカーブの軌道だけど、そこからねじれ曲がる、みたいな? 変化の仕方でいうとスクリューみたいな感じ? いや、でも少し違うな」

「スクリュー? でもスクリューはもっとストレートみたいな軌道じゃないの?」

 小夜のいう通り、スクリューボールは直線的な軌道から斜め下へと沈み込むボールだ。

「うん。だから言うなればスロースクリュー? みたいな感じかな? サークルチェンジにしては横の変化が大きすぎたからなぁ、軌道も普通のサークルチェンジの何倍も山なりだったし……そだ、じゃあ思い切って名前つけちゃう?」

「名前?」

 小夜が怪訝な顔をした。

「うん。変化球の名前。自分で決めちゃえば? なーんて」 

 準は笑いながら言った。


 もちろん冗談のつもりだった。こんな話に小夜が頷くとも到底思っていなかった。



「名前……そっか、名前か」

 しかし、意に反して、小夜は思案顔だった。

「え? 小夜?」

「あの……さ、だったらカーブのほうにも名前つけていい?」

 小夜が少し恥ずかしそうに俯いた。

「え……、う、うん。いいんじゃ……ないかなー」

 小夜の予想外の言葉に、準は極力平静を装った。

「じゃ、カクボールとスケボール」

「へ? カク? スケ?」

「うん。カクさんとスケさんなの」

 小夜はきらきらした目でうれしそうに話す。

 準は予想の斜め上をいく展開に混乱していたが、全国を旅するご隠居のイメージだけは、しっかりと、脳内に浮かんだ。


「い、いいんじゃ……なかろうかー、そ、それで、どっちがどっち?」

「えっとね、スクリューっぽいほうが、スがつくからスケボール。それで、カーブのほうが、カがつくからカクボール。わかりやすいでしょ」

 小夜はニッコリ。

 この数分間で、準の中にあった小夜に対するクールなイメージが八割方消えてしまった。

「……じゃあスライダーの名前はハチベエにする?」

 準は小夜に小声で聞いた。しかし、その準の声は、うれしそうに笑う小夜には聞こえていなかった。

 


「じゃあ、今日はスロースクリュ……じゃなくて、ス、ス、スス、スケボール? を重点的に投げていこうか」

 そこには、ボールの名前一つを口に出すのが非常に恥ずかしい状況が完成していた。



 それから五十球ほど投げ込みを行った。

 小夜が会得したボールは、コントロールにばらつきさえあるものの、見れば見るほど惚れぼれするようなボールだった。短時間の間に、準はこのボールさえあれば、打たれることはないと思うようにすらなっていた。



「すごい! やばい! これ、絶対打たれない!」

 休憩時間の合間に小夜に興奮して訴えた。

 小夜も嬉しそうにほほ笑んでいた。



「二人とも、やけに楽しそうだね~」

 はしゃぎすぎて、佳奈が近づいていたことに二人とも気付いていなかった。

「あ、佳奈先輩。聞いてください! ついに完成しましたよ。魔球が。ね、小夜?」

 準は小夜と視線を合わせた。そして二人してニヤリと笑った。

 佳奈は二人のそんな様子を見て、笑顔を浮かべたまま息を吐いた。

「あらら~、二人とも舞い上がっちゃって。これは部長としてほっとけないね~」

「え? 何です?」

 佳奈の言葉は準の耳を通過しても、脳には入ってこなかった。

「ねえ、そのボール、あたし相手に試してみない? 一打席勝負で」

「いいんですか?」

「もっちろん」



 準にとっては願ったり叶ったりだった。

 これまでの練習を見た限り、佳奈は強打者というよりは好打者タイプだったが、右打ちなので、新球を試す相手としては申し分なかった。



「いいよ。おいで~」

 佳奈は肩にバットをのせてリラックスした様子で構えた。

(ようし、ビックリさせてやる)

 準は覚えたばかりの球種のサインを出した。

 小夜が頷いて投球。左腕からアーチが描かれる、が、ふとした瞬間から、そのアーチが逆方向へとねじれる。佳奈は少しも動かなかった。準は外角低めギリギリでキャッチした。

「ストライク……ですよね?」

「うん」

 佳奈は構えを少しも崩さずに答えた。

 二球目。

 準は迷わずに先ほどと同じサインを出した。

 小夜が一球目と同じようなボールを投じた。佳奈は少しも動かない。

「ツーストライクですね?」

「うん」

 佳奈は一向に動く気配を見せない。

(ようし、これで決まりだ)

 三球目も準は同じサインを出した。小夜もすぐに頷いて動作に入る。

 小夜が放ったボールはきれいな弧を描いて準に近づく。

 そして、アーチがねじれ始めた瞬間、佳奈のバットが動いた。目の前を、バットが通過したかと思うと、ボールは準からグングン離れていった。


 ライト前へのクリーンヒット。


 外角低めギリギリに収まる球への、お手本のようなバッティングだった。

「完璧……」

 準は今起きた出来事が信じられなかった。


「二人とも、おいで~」

 佳奈が準と小夜を呼び寄せる。

「二人とも、何で打たれたかわかんないって顔してるね~」

「え、ええ」

 準と小夜は揃って頷いた。

「はぁ~、やれやれ。三球連続で、同じ球を、同じコースに投げたら、そりゃ打たれるよ~」

「あ……」

 二人は顔を見合わせた。二人とも新球を試したい一心で、配球のことなどかけらも考えていなかったのだ。


「まったく……二人が覚えたボールは素晴らしいと思うよ。でもね、ストライクゾーンに入る限り、絶対に打たれないボールなんてないんだよ。自分のボールを信じなきゃダメ。でも自分のボールに頼りすぎてもダメなんだから」

 佳奈が二人を指さす。

「は、はい!……小夜」

「え?」

 準は佳奈に応えた後、小夜の方に向きなおった。

「今日から試合までは、新球を含めた全球種で投球練習しよう。新球のコントロールに気をつけつつ、他の球も、ね?」

「そう、ね」

 小夜は佳奈を横目にみて少し気まずそうに笑った。

 



 試合まであと十日を切ったある日。部活から帰宅した準を待ち構えていたのは、厳格な顔つきの男。準の父親、才木剛だった。

 「座れ」

 有無を言わさない剛の迫力に、準は思わず正座してしまう。剛が準を見限ってから、準は剛を前にすると自然と体がこわばるようになっていた。

 「準、お前が入った高校、野球部がないそうだな?」

 「なっ……」

 準は思わず、心配そうに見守っていた、母、羽衣に視線を送った。羽衣はすまなそうに何度も小刻みに頭を下げている。

 「確かに、野球部はありません。でも、草野球部があって、そこで野球を続けてますよ」

 「黙れ!」

 剛の恫喝に準だけでなく、羽衣までのビクッと体を震わせる。

 「何が草野球部だ! 聞けばその部は、大半が女しかいないチームだそうだな! 何をふざけたことをぬかすか!」

 剛の怒りに満ちた声はだんだんと大きくなっていく。相変わらず体はこわばったままの準だったが、剛の言いぐさにだんだんとこみあげてくる感情があった。

 「女が大半の部活なんぞ、ただの球遊びだ! いいか、女が混じってやる時点で、野球とは全く別のものだ! スポーツと呼べるかどうかすら怪しいわ!」

 ここまで言われて、ようやく準はそのこみあげてきた感情が何なのか分かった。

 それは怒りだった。

 「か、勝手なこと、ばかり、言わないで下さい……いや、勝手なことばかりいうなよ! あんたに何がわかるんだ」

 震える声を絞り出して、準は精一杯叫んだ。生まれてから初めて、父に反抗した瞬間だった。

 「みんなが、小夜たちがどんな思いで野球してるか、どれだけの熱意をもって野球してるか、これっぽっちも知らないくせに!」

 まだ出会って数週間しか経っていないが、間違いなく並の高校球児より数段上の実力を持つあすかとアリス、男嫌いなのに男が入ってくることを覚悟してでも野球を続ける葵、身近にいる高すぎる目標に近づくために人知れず努力を続ける綾、試合に足りないたった四人のチームを一年間引っ張り続け、仲間が九人に増えると知って飛び跳ねてはしゃいだ佳奈、そして並大抵の精神力じゃ越えられないような壁を乗り越えようと、まさに今壁に立ち向かっている小夜、それぞれの努力を、想いを蔑にする剛の言葉が許せなかった。

 「小夜たちだって、れっきとした野球部員で、野球のプレーヤーだ! 一度も見てないあんたにあのチームの良さはわからない!」

 まくしたてるように言い切った、準、あまりに感情のまま叫んだので、顔をあげて剛の顔をみることが出来なかった。それでも、言うべきことは言ったという充足感が胸を満たしていた。

 「ほお、言うようになったな、おもしろい」

 意外なことに剛は笑みを浮かべていた。だが、すぐに表情を引き締めた。

 「なら、そのチームの力とやらを見せてみろ。聞けばお前たちは商店街チームと試合をするらしいな。そんな連中にくらい簡単に勝って見せるんだな」

 準は即座に噛みつく。

 「ええ、見せてやりますよ! うちのチームの実力をしっかり見てて下さい」

 そんな準を剛は不敵にみつめる。

 「いいだろう。だが、もし、負けたその時は、普通の野球部がある高校に無理やりでも転校させるからな」

 剛はそういって、何やら荷物をまとめて家を出て行った。剛は赴任先の高校で寮生活中だから、今日はたまたま着替えでも取りに帰ってきていたのだろう。

 剛が出て行った玄関から準も飛び出した。居ても立っても居られずに、感情に導かれるままに走り出していた。

 (負けてたまるか、負けてたまるか。ぜったいに認めさせてやるんだ)

 気が付けば準は河原まで走っていた。ふと、暗闇の中に人影を見つけた。

 「ふぇえ~、なくしちゃったよ~」

 その人影はしゃがみこんでなにかを探していた。準はその声に聞き覚えがあり、思わず声をかけていた。

 「その声、美月か?」

 「え、準っ? どうしたの、こんな時間に」

 美月は小さな体を屈めてなにやら地面を探っていた。もともとの小動物っぽい雰囲気と合わせて犬のように見えた。肩まであるふんわりとした髪が垂れた耳のように見えた。

 「どうしたのって……こっちのセリフだよ。何してんだ、こんな時間に?」

 準が尋ねると美月は恥ずかしそうに体を縮めた。

 「部活が終わってから、あそこのトンネルの壁を使ってゴロを取る練習をしてたんだけど、ボールがどこか行っちゃって……たはは……」

 美月は照れ臭そうに笑った。準はそんな美月の頭を優しく撫でた。

 「ふぇ? じゅ、準?」

 「美月、試合、絶対勝とうな」

 ここにも、まだ野球を初めてほんの数週間だけど、ここにも蔑にしてはいけない努力がまた一つあった。

 

 試合まであと一週間となった。

 準はいつものバッティングセンターに来ていた。

 小夜の方は新しい変化球にある程度目処がついた。

 次は準の番だった。

 もちろん、ほとんどキャッチャー経験が無い準が、ちょっと特訓したくらいで、劇的な変化を遂げるわけがない。

 でも、マキに指摘を受けた右打者内角低めへのストレート、一般的に言うクロスファイヤーのキャッチを、ある程度ものにしておきたかった。

 基本的にキャッチャーのほとんどは右利きである、よって左手でボールを捕ることになる。

 左ピッチャーの投げるストレートは、左手で捕る場合に一番衝撃を抑えにくい角度でミットに入り込む。準はその衝撃を抑えきれなかった。

 その衝撃を抑えられるようになるために、準はあの河原での対戦の三日後からほぼ毎日、ここへ来ていた。

 準は一四〇キロのコースにバットを持たずに入った。そして、ベースの後ろに立つと、右肩がボールの射出口側に向くように斜めに座り、ミットを構えた。

 小夜に毎日投げてもらうわけにもいかないため、クロスファイヤーを疑似体験できるように、準なりに考えた方法だった。

 ボールが飛び出す。ミットに届く。左手に力を入れ、ねじ伏せるように抑え込む。

「よしっ」

 最初、この練習を始めた時は、かなりの確率でミットが十センチ以上動いていた。

 今では大きい時でも五センチ以内のずれでキャッチ出来るようになっていた。

「コツ……わかってきたかも……シュッときたらバンッてきて、グッだな」

「何をバカなこと言ってるのよ」

 準の左上からため息とともに声が聞こえてきた。

「えっ、誰?」

 顔を上げた先には、腰までのびたウェーブがかった髪を持つ、女の子が立っていた。小夜と勝負をしたあの女の子だった。

「あ……えっと、タ、マキ、さん?」

 自信なさげな準の声を聞いてタマキはビクッとした。

「タマキって言わないで! マキって呼べって言ったでしょう!」

 タマキ、いや、マキはかなり大きな金きり声で訴えた。

「あ、はい。それで、マキはどうしてここに?」

「べつに……ただ、空いてる、と思って入ったら、変な人が奇妙な態勢で不可思議なことを口走っていて、図らずも声を掛けてしまっただけよ。べつに、あなただとわかってて声を掛けたわけじゃないわ」

 マキはため息をついた。少し落ち着きを取り戻したようだった。

「えっ、じゃあ、おれだってわかったから、わざわざ入り込んで声掛けてくれたの」

「あんたは何を聞いてたの! 違うって言ったでしょっ!」

 マキは、準の発言によって、一瞬で落ち着きを失った。

「え? ツンデレじゃなかったの?」

「なっ、~~~ッ、何をわけのわからないことを言ってるの!」

 マキは準が発言するたびにヒートアップしていった。

(なんだツンデレじゃないのか……)

「それで? ツンデレじゃないマキさんが何か用?」

「あなたねぇ……もういいわ、それで、こんな特訓してるってことは、まだ試合に勝つ気なのね」

 一瞬、さらに叫びだしそうだったマキは、一つ大きく息を吐いて、挑発するような目つきに変わった。

「それは……」

「? あら、返事は?」

 準は、すべてを話そうとも思ったが、止めた。試合はもう始まっている、そんな気がした。

「まあ、来週を楽しみにしててよ」

 準は可能な限りニヒルに見えるよう笑った。

「何よ、その変な顔」

「……」

「まあ、いいわ。何か秘策でもあるみたいね」

「と、とにかく、来週を楽しみにしててよ。じゃっ」

 準は、極力自信がある背中に見えるよう、最大限努力して、逃げるように立ち去ろうとした。

「あら、あんたミット忘れてるわよ」

「べっ、べつに忘れてたわけじゃないから!……とっ、とにかくっ、また来週っ」

 準は急いでミットを掴むと、ついになりふりかまわず逃げ出した。泣きそうだった。

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