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第四章 宿命のライバル対決は河原で

第四章 宿命のライバル対決は河原で

 次の日。準が入学してから最初の休みは携帯の呼び出し音から始まった。

 寝起きでぼやけた意識のまま受話ボタンを押す。

「ふぁ、ふぁい?」

「あっ、準? おっはよぉ! 美月だよぉ、起きてたぁ?」

 電話越しに、美月のやや間延びした、やわらかな声が聞こえてくる。

「何だ美月か。どうしたんだよ、こんな朝っぱらから?」

 睡眠を妨げられた準はわざと不機嫌に聞こえるように言った。

「あ、朝っぱらって……もう、十一時過ぎてるよぉ?」

 美月のあきれた声に、準は時計を見る。

 時刻は十一時十分。

「あ、ほんとだ。少し寝すぎたかな……」

 準はベッドから起き上がると大きく伸びをした。


 昨日の夜届いたメッセージによると、小夜とは二時に駅で待ち合わせ。寝坊したとはいえ、まだまだ時間はたっぷりあった。

「それで、美月は、何か用事?」

「あ、うん。あのさ、今日の午後って、ヒマかな?」

「今日か。いや、ごめん。今日はもう予定入っちゃってる」

「えぇ、そ、そっかぁ……もう用事あるんだぁ」

 準の言葉に美月は心底落胆したようだった。携帯越しでも落ち込んだ雰囲気が伝わってきた。

「ほんと、悪い。ごめんね」

「い、いやぁ、準のせいじゃないよぉ。いきなり言ったわたしが悪いんだし……ただ、自分用のファーストミット買おうかなって思ったの、準に選ぶの手伝ってもらいたかったんだぁ……」

 美月の言葉は準にとってうれしいものだった。準にはどうしても、美月が、困っている準を見て入部した、としか思えなかった。なので美月がほんとうに野球をやりたいのか、いまいち自信がなかったのだ。そのため美月が自分から道具を揃えようとしていることがうれしかった。


「そっかぁ、それはぜひともいいやつを選んでやりたかったなぁ……でも、今日は小夜と約束があるから、ごめんな?」

「なるほどねぇ、小夜ちゃんと約束かぁ……って、え、えぇっ! さっ、さささっ、さよちゃんっ!?」

「うおっ!」

 美月の大きな声が携帯越しに伝わってきて、準は思わず携帯を落としそうになった。

「……びっくりした、どうしたんだよ? そんな大声だして」

「えぇえぇぇ! だ、だって、準? そ、それって……デ、デデ、デ、デートなんじゃ?」

 美月がパニックに陥っているのが電話越しでもわかる。

「ばーか。何言ってんの。小夜がこの辺のバッティングセンターの場所が知りたいって言うから連れてくだけだって」

 準は美月を落ち着けた。

「そ、そっか、準がそう言い張るなら……でも小夜ちゃんは……」

「え? 小夜がどうかしたのか?」

 美月はまだ何かぶつぶつ言っている。

「ふわぁ! いっいや、なんでもない、なんでもないの」

「?」

「と、とにかく、わたしの用事は、また、今度でいいから。うん。気にしないで。じゃっ、じゃあまたね」

 美月は一息でそこまで言うと、準の返事を待たずに電話を切った。

(なんなんだ? 美月のやつ)

 準は携帯を見て、首をひねった。

 

 美月との電話を終えたあとはだらだらと過ごし、一時半を過ぎた頃、準はトレーニングウェアに着替えて出発しようとした。

 ちょうどランニングシューズを履き終えた時、物音を聞きつけたのか、準の母がリビングから出てきた。

「あら? 準、出かけるの?」

「うん。ちょっと、野球部の友達とバッティングセンターにね」

 準の母、羽衣は、今どき珍しい完全な専業主婦だった。

 文句一つ言わず、家事をこなす、とても穏やかな人だった。

「まあ、野球部の方と? それにしてもまた野球ができてよかったわよねぇ」

「う、うん。まあ……」

 羽衣は嬉しそうに目を細めている。

 対照的に準は落ち着かない気持ちだった。


 すぐに美月の母親から羽衣にも伝わることではあるが、準は母に対して、野球部の事は大まかにしか話していなかった。当然、待ち合わせ相手が小夜という女の子であることなど知る由もない。

「きっとお父さんも喜ぶわよ? 準がいよいよ高校野球に参加するんだから!」

 羽衣の口から父の話題が出て準の鼓動が大きくなった。

「父さんには言わないで! その……今度帰ってきた時に直接言うから! じゃあもう行く……行ってきます」

「あら? そう? いってらっしゃーい」

 羽衣は少しだけ首を傾げて、慌てて出て行く準を見送った。


 一時五十分。準は駅前に着いた。ちょうど電車が到着するところだった。小夜がその電車に乗っている可能性は高そうだった。

 二十人ほどの人が一気に改札から出てきた。

 準はその集団の中のある女の子に目を奪われた。

 黒のカットソーと、ひざ下までのデニムから、ほっそりとした綺麗な手足が伸びていた。くっきりとした目と、流れるような黒髪をもつ綺麗な女の子だった。身長、髪型といい、どことなく小夜に似た女の子だった。

 この子はモデルだ、と言われれば疑う人はそうはいない。そんな女の子だった。

(へぇ。小夜が普通に女の子やってたらこんな感じかなぁ)

 準がそんなことを思いつつその子を見ていると、ふと目が合った。

 スポーツバッグを抱えたその女の子は、準を認識すると小走りになって準の方へと向かってきた。

「へ?」

 間抜けな声を上げる準のもとへたどり着くと、その子は少しだけ照れくさそうに言った。

「おまたせ」

 目の前にいるのは、紛れもなく小夜だった。


 あの女の子は小夜だった。


 そして、小夜は、一片の疑いもなく、間違いなく、女の子だった。


「どうしたの? 準?」

 準は、何も言えずにいた。

 もちろん、小夜が女の子だということは知っていた。いや、知っていたつもりだった。

 でも、実際にわかっては、いなかった。

 こうしてグラウンドを離れるとよく分かる。

 小夜は、間違いなく女の子だった。


「ねぇ、準、聞いてる?」

 小夜からの二回目の呼びかけによって、ようやく準は我に帰った。

「え、あ、ああ。じゃあ行こうか? 歩くと二十分以上かかるから自転車で行くけど、その……」

「じゃあ、二人乗りね。安全運転でよろしくね。運転手さん」

 二人乗り。準は、自分が躊躇した単語が小夜の口から簡単に出てきたことに、複雑な気持ちを覚えた。

 

 駅からバッティングセンターまでの道のりは穏やかだった。一方、準は後ろに小夜を乗せて動揺していた。でも、小夜の態度は部活の時と何ら変わらなかったのだ。


 小夜は到着するとすぐに更衣室に着替えに行った。

「ただいま」

 戻ってきた小夜はトレーニングウェアになっていた。

 それを見てようやく準は落ち着いた気分になった。

「よし、じゃあぼちぼち始めますか。小夜は左利きだから左打席? 左打ちはあそこの二か所だけだけど?」

「ううん、私は右打ち。そうねぇ……なら、あれにするわ」

 小夜が指さした場所は、百三十キロのストレートと百キロのカーブの混合の競技者向けのマシーンだった。

「へぇ。じゃあお手並み拝見といきますか」

 茶化すように言う準。小夜が服を着替えたことである程度の余裕ができていた。

「もう、プレッシャーかけないでよ。よし、あとで準にもかけてやる」

 小夜は苦笑しつつ打席に入った。


 機械から第一球が放たれる。

 準の目には、小夜はスッと手首を下げただけのように見えた。バットは球にコツンと衝突した。

 バットはボールと衝突した後、小夜の体の正面を六十度ほどすぎたあたりで止まった。スイングにはまったくといっていいほど力を使ってないようだった。

 しかし、ボールは意外と飛んだ。ギリギリ内野を越えるくらいには飛んだはずだ、と準は思った。あれだけ力のないスイングで内野を越すためにはボールを芯で捉えることと、バットに当たった瞬間の手首での押し込みが必要になる。どちらもそう簡単にはできることじゃない。

 その後も小夜はボールを面白いようにはじき返し続けた。まるで飛んできた速さそのままで反射させているようだった。


 最初の一回が終わって小夜が出てきた。

「おつかれ。すごいじゃん! 正直バッティングは駄目なのかと思ってた」

「ありがと」

 準の言葉に小夜はほんの少し笑みをうかべる。

「でも、あれだけ芯で捉えられるなら、もっと強くスイングすればいいのに。そしたら長打だって狙えるんじゃない」

 準は不思議でならなかった。

 小夜は少しだけ、ほんの少しだけ、困ったような表情を浮かべた。そして、少しためらったあと、はっきりと言った。

「……ピッチングのためだから。フルスイングして体を痛めちゃいけないし。右打ちにしたのだって、左投げのせいで重心のバランスが偏らないようにするためなの」

 そう言い放つ小夜の目には強い光が宿っていた。

「あ……」

 準は何も言えなかった。

 この子は、小夜は、投げることだけが全てなのだ。

 でも、だったら何でわざわざバッティングセンターに来たがったのだろう? 準の中にそんな疑問が浮かんだ。

「そんなことより、準、次は準の番。お手並み拝見」

 小夜は微かにニヤっとして言った。

「よ、よーし。み、見てろよ~、あ、いや、でも期待はしちゃ駄目というかなんというか……」

「さっさと行く」

「は、はい」

 小夜の、全く怒りのこもっていないお叱りを受け、準は打席に入った。


 自分のバットを見る。平均より長いバット。

 手元を見た。

 いつもどおり、無意識のうちに一握りどころか三握り以上短く持ったバット。

 それを見て自然と笑みがこぼれる。

 それは決して、これから打席で打つことに対する、喜びから来る笑みではなかった。

 先ほど思い知らされた小夜の投球にかけるプロ意識と、自分の情けなさを比較した結果生まれる自虐的な笑みだった。


 一球目。

 ボールが腰付近に来たのを確認し、ボールを芯で捉える慣れた感触とともに振り切った。

 高くのびた打球はネットに突き刺さった。


 会心の当たりだった。

 それゆえ準は分かっていた。その打球はかなりの確率で報われないという事を。

 特別力が強いわけではない準が、いくらフルスイングで、そして、芯で打球を捉えようとも、三握り以上短く持ったバットでは、外野手の頭を越えずにノーバウンドで捕球されるのが定石だった。

 それでも、準にはスイングを弱めることも、バットを長く持つこともできなかった。

 準は、そのあとも出口のないネットに向って、報われない打球を生み続けた。

 

 打席から出た準を待っていたのは、小夜の気が抜けたような表情だった。

 目を丸くする、唖然とした、ポカンと、というような修飾がふさわしい表情だった。

「……準。あなたって実はすごい人? あれだけ強く振って、ほとんど、真芯で打てるなんて」

 小夜の口から自然と言葉が零れる。

「いや、そんなことないさ。あれだけ短く持ってりゃそこそこの経験者なら誰でも打てるよ」

「そのことなんだけど、さっきの準の言葉じゃないけど、あれだけ強く振って捉えられるならもっとバットを長く持っても当たるんじゃないの?」

 小夜の言葉は、先ほど、準が、小夜に、かけた言葉にそっくりだった。準は自分のことを棚に上げて小夜にそんなことを言った先程の自分に腹が立った。


「いや、ほら、おれは長く持つと当たらないから。小夜はおれのこと過大評価しすぎだよ」

 準は適当に取り繕った。

「そうかしら。でも、フルスイングで、面白いように打球が飛ぶのを見るのは気持ちがいいものね。ねぇ、準もっと見たい」

 準の内心とは正反対に、小夜の表情は期待に満ちていた。

「え、う、うん。あんなもんでいいならいいけど、小夜は打たなくていいの?」

「うん。いいの。だって今日ここに来たのだってそもそも準の……あっ」

 そこまで言って小夜は顔を伏せた。

「ん? おれの、何?」

 聞き返す準に対して小夜は俯いたままだった。そして、おずおずと話しだす。

「いや、その、昨日、私の練習に付き合ってもらったから……準はバッティング練習できなかったでしょ……」

「あぁ」

 小夜の言葉でようやく合点が行った。

 その言葉は準の先ほどまでの複雑な感情を吹き飛ばした。

 目の前で恥ずかしそうに俯く小夜を見て自然と笑みが浮かんできた。

 そしてその笑みのまま言った。

「ばかだなぁ。おれ、自分で選んで小夜との投球練習をしたのに。こんな気を遣う必要ないってば」

「だってぇ……」

「でも、ありがとう。正直、うれしい」

 準は小夜の反論を遮って言った。

 小夜もそろそろ落ち着いてきたようだ。

「うん。じゃあ準のバッティング、見たい。そうね……あっ、あそこがいい」

 そういって小夜は別の打席を指さした。それは百四十キロのストレートの打席だった。

 しかし、二人が打席の前に着いた時、そこには先客がいた。打席の先客の背中では、緩やかにウェーブした長い髪がふわふわ揺れていた。

「え? 女の子?」

「そうみたい」

 準の独り言に小夜が律儀に答える。

 打席にいたのは紛れもなく女の子だった。

 彼女は百四十キロの球を、当てるだけでもなく、フルスイングするわけでもなく、淡々とはじき返していた。

 プレイが終わると彼女は、準たちが居る打席の出口の方へと向かってきた。

 ふわふわした髪とは対照的に、彼女は鷹のようにするどい眼をしていた。眉は逆ハの字に吊り上がっており、常に不機嫌そうに見える顔だった。

 彼女の顔がハッキリと見えるようになったとき、準の隣から声がした。

「え、マキ?」

 小夜の声だった。

「さ、小夜?」

 相手の少女、マキと呼ばれた少女も思わず声を出していた。

「え、知りあい?」

「え、ええ……マキ、本当はタマキだけど、金沢球姫。シニアで同じチームだったのよ」

 小夜の説明を受けて準は少女の方を見た。

 その少女、タマキは、唖然としたまま小夜を見ていた。

「あ、どうも。おれは、今、小夜と同じチームのもので、才木って言います。よろしく……タマキ、さん?」

「そっ、その名前は呼ばないでっ!」

 準が名前を呼んだ瞬間、タマキは体をぞわっとさせ叫んだ。

「わ、わたしの事はマキと呼びなさい! いいこと?」

「は、はぁ……」

 あまりのタマキ、いや、マキの剣幕に準はたじたじとなった。

 マキは、興奮を落ち着けるために深呼吸すると、小夜に向き合って軽蔑したような笑みを浮かべた。そして全力で嫌味をこめた口調で、

「あら? 小夜? あなたまだ野球やってたの? バッティングセンターにいる所を見るとようやく自分がピッチャー失格だってことに気づいたのかしら?」

 そう一息で言って笑いだした。

「野球もピッチャーも止めてない。珠風で続けてる。ここに来たのは別の用事」

 小夜はマキの嫌味などまったく意に介していないといった様子だった。

「野球もピッチャーも止めてない、ですって? だったら、どうしてわたしと同じ清心に来なかったのよ」


 清心、準はその単語に反応した。毎年甲子園で勝ち残るような突出した野球強豪校がない準たちの県内で、だいたい毎年上位に入り込んでくる学校の名前だった。

(小夜が、清心に?)

 準はほとんど話について行けなかった。


「私が清心に行かなかったのは、考えるところがあったから」

 小夜は何事もないといった表情を崩さず言った。

「はっ? なにが考えるところがあった、よ? 結局あなたは逃げただけじゃない。ピッチングと一緒よ。そして真剣に野球する気なんてないんでしょ? あなたがピッチャーやってるなんて不愉快なのよ!」

 一気にまくしたてるマキの言葉に、小夜はピクンと少しだけ反応した。

 準はマキの言葉にだんだんといらだちを隠せなくなってきた。そして思わず口が動いていた。

「小夜が真剣に野球やってないって? バカ言うなよ! 元チームメイトなら小夜がどれだけピッチングにかけてるか、わかってるんじゃないのか? いったい小夜のどこが気に食わないんだよ」

「準?」

 いきなりの準の言葉に、小夜、マキ、ともに驚いたようだった。

 しかし、マキはすぐに小馬鹿にした表情に戻ると言い返してきた。

「気に食わないですって? それは、全部よ! だいたい中学の時だって、コントロールも球速も同じくらいだったくせに、左投げってだけでレギュラーになったりして! その挙句あんな逃げ腰のピッチングをして!」

「逃げ腰? 私は一度だって逃げた事はない。それに、もうあの時とは違う!」

 ついに、マキの言葉に、小夜も強く反論した。

「あら? あの時とは違う? じゃあ見せてもらいましょうか? あの時とどう違うのかを」

「ええ、いいわよ。黙らせてあげる」

 こうなったらもう売り言葉に買い言葉だった。

 周りの客も二人に注目し始めていた。準が対処に困っていると、ふと割り込む人影があった。

「いやぁ~、二人とも熱いねぇ。この勝負、僕にあずからせてくれないかい?」

「へ?」

 呆気にとられる三人の前で、バッティングセンターの店長のおじさんがウインクしつつ親指を立てていた。

 

「いいかい? 勝負は一打席。ストライク、ボールならびに、打球の判定は僕が行う。異存はあるかい?」

 おじさんが言う。

「ありません」

 二人は声を揃えた。

 あのあと、三人は突然現れたおじさんに連れられて河原に来ていた。バッターマキ、ピッチャー小夜、で勝負することになった。


「なんで河原なんですか?」

「バカだねぇ。君は。一打席勝負といったら河原じゃないかい」

「は、はぁ……」

 なぜかバカ呼ばわりされた準は首をひねりつつグラブを構えた。


(さて)


 準は一呼吸おいて集中した。小夜とバッテリーを組んで、バッターと勝負するのは初めてだ。

 これは準にとっても大事な勝負だった。そして、先程のマキのバッティングを見た感じでは、一筋縄でいける相手ではないと思った。


 配球の基本は対称に投げさせること。インコースの次はアウトコース、低めの次は高め、速球の次は遅い球、というように。

 これらを念頭に置いて、準は最初のサインを出した。アウトコース高めギリギリ、ストライクになるストレート。

小夜のストレートは、その日最初に見てはじき返せるようなものではない。ならばその一球で素直にストライクをもらっておこうという計算だった。


 小夜が頷いて投球動作に入る。右足がゆっくりとあがり、ゆったりとしたフォームから急に速い球が伸びてくる。まるで小夜の腕から準のミットまでレールが敷かれているかのような軌道で。


(よし)


 その刹那、準の目の前を黒い影が通過したかと思うと、ボールは打球音とともに消えた。消えたボールは次の瞬間には準の右前方三十メートル以上の位置を飛んでいた。

「ファール」

 おじさんの大きな声が聞こえた。

 例えグラウンドでも間違いなくファールではあった。しかし準はぞっとした。一球目でここまで完璧に捉えられるとは思いもしなかった。

 しかし、準とは対照的に、小夜とマキはともに顔色一つ変えていなかった。


 準は二球目のサインを出す。右打者のインコース、ギリギリのストライクからボールになるスライダー。打ってもファールにしかならないコース。

 小夜が二球目を投じる。またも鋭い打球音を出して、ボールは、今度は準のはるか左前方へと飛んだ。

「ファール」


(しめた)


 振ってこない恐れもあったので、準からして見ればストライクを一つ得した気分だった。

(これでカーブを外に大きくはずして、インコース低めのストレートで決まりっと)


 左ピッチャーが投げる右打者への膝元ギリギリに決まるストレート、俗に言うクロスファイヤーは左ピッチャー一番の武器だ。とくに、その前に遅い変化球を見せられた打者相手にコースぴったりに決まれば、わかっていても絶対打てない、そう言えるほどのボールだ。


 準のサイン通り、三球目はアウトコースかなり遠くから、アウトコースギリギリボールになるようにカーブが決まった。

「ボール」

 これでカウントはツーワン。迷わずサインを出した。

 小夜が頷いて、投げる。ストレートがマキの膝元いっぱいに入ってきた。

 これにはさすがのマキもピクリと反応するのが精一杯だった。

(決まった)

 小気味よい音とともにキャッチする。

 しかし、小夜のストレートの勢いに少し準のミットが流される。何とか指先に力を込め、極力小さな振れ幅で踏みとどまろうとした。

 しかし、

「ボール」

 おじさんの判定はボールだった。

 準は思わず目を閉じた。ストライクをとって欲しかったが仕方ない。これでツーツー。

「ふっ」

 マキが小さく鼻で笑ったような気がした。

 こうなれば次はストレートを見せ球にして、決め球はインコース低めのカーブ。これが、準が次に考えた配球だった。

 五球目。小夜はサイン通り、アウトコース高めに、ボール球のストレートを投げた。

 これでツースリー。準はインコース低めに構え、カーブのサインを出した。

 一瞬、小夜がピクリと肩を震わせた。しかし、すぐに首を縦に振ると、投球動作に入った。


 そして小夜が投じた六球目は‐‐

 準が構えた位置よりボール五個以上左にずれた、誰の目から見ても明らかなボール球だった。


「ボール。フォアッ。いやぁ、熱い勝負だったけど最後がしまらなかったねぇ。これが若さか! 若いっていいねぇ。ハッハッハ」

 おじさんはそう言い残して去って行った。でも準にはおじさんの声などまったく耳に入らなかった。


 小夜が、あんなに構えた場所と離れたところに投げたことが、信じられなかった。


 もちろん、小夜だってすべて構えたところに投げられるわけはなかった。そんな人間はいない。しかし、すっぽ抜けたわけでもないのに、あの外れ方は異常だった。


 小夜は唇をかみしめ、何かに耐えるように下を向いていた。

 マキは苛立たしげに小夜を見ていた。準は、マキが小夜を罵倒するかと思い、立ち上がった。

 しかし、マキは意外にも準の方を向き、言った。

「ちょっと、あなた。こっちに来なさい」

「え?」

 マキは準の左腕をつかむと河原の上の小道へと引っ張って行った。佇む小夜を一人残して。

 

「期待したわたしがバカだったみたいね」

 準を小夜から離れた位置まで連れてきたマキは力なく言った。

「え?」

「小夜のことよ。あの子があの時とは違うって言うから、ちょっとは治ったと思ったのに……」

「治ったってどういう……それに、さっき言ってたけど小夜のピッチングが逃げ腰ってどういうこと?」

 準にはまったくわけがわからなかった。

 そんな準を見つめ、マキはゆっくりと大きく息を吐いた。

「そうね、あなたには話してあげる」

 マキの表情は、先ほどの軽蔑などといった表情とはかけ離れていた。むしろ慈愛に満ちたような優しい眼をしていた。そして長々と話し始めた。


 「あの子が中学に入ったばかりの時にね、シニアでいきなりベンチ入りになったの。三年の先輩たちにとって最後の大会で、後一回勝てば全国に行けた。小夜は大会中ずっとリリーフで活躍して、その試合にも当然のように登板したわ。最終回、一点リードの場面でね」

 マキは遠くを眺めながら懐かしむように語り続ける。

 「ノーアウトで、一塁にランナーがいて、マウンドに上がって、簡単にツーアウトまでとったの。で、最後のバッターが、右バッターで、他県の強豪校にスカウトされてたほどの四番でね。ツーストライクまでこぎつけた小夜は、今日みたいにインコース低めのカーブで決めに行った。でも、そのボールが少しだけ高くなったの」

「ってことは」

 準は察した。

 インコース低めのスローカーブが高くなる。それは強打者にとって絶好のホームランボールだ。

「そう。その大会で小夜が投げた唯一の失投は、逆転サヨナラホームランに変わった」


「それで、小夜はインコースにカーブが決まらなくなったってわけ?」

「もちろん、最初は小夜も落ち込んでたわ。インコースのカーブどころかストライクすら入らなくなるほどにね。でも、引退した先輩たちが、引退後も小夜を励ましてくれて、小夜はちゃんと元通りに投球出来るようになったの」

「え? 元通りになった? じゃあ今日のは?」

 マキの言葉は意外だった。元通りになったのならば、今日の事とは関係ないはずだ。


「そう思ってたの。先輩たちも、チームメイトも、わたしも、ね。でも、それから半年くらいして、わたしはあることに気づいた」

「あること?」

「ええ。バッターが右バッターで、長打力があるバッターの場合で、失点が許されない、そんな場面の時だけ、追い込んでからインコース低めのカーブが全部ボール球になるの。それも、ボール一個分とかそんなレベルじゃないわ。他のメンバーは気づいてなかったみたいだけど、わたしには分かったわ。ああ、この子は何にも治ってなかったんだって」

「じゃあ今日のは……」

「ええ。今日の勝負はあの子にとって負けられない戦い、そして私は右バッター。高校に入ったからもしかしたらって思っていたけど……」

 マキは自嘲気味に笑った。そして唐突に話を続けた。

「あの子ね、わたしと一緒に清心に誘われてたの。わたしたちは、実戦形式の練習相手になら、好都合だからね」

「え? あ、ああ」

「それで、当然、あの子も入るもんだと思ってた。あの子と一緒なら、たとえ公式戦に出られなくても頑張れると思ってた。でも、あの子は清心には来なかった。それでわたしは、ああ、あの子は野球からも逃げたんだ、って思った。裏切られたような気がしたわ。でも、あの子は野球を続けてて、正面から向き合ってるんだって……」

 マキはそこまで言って俯いた。


 最初はなんてキツイことを言う子だと思った。でも実際は、小夜の事が心配でしょうがないといった様子だ。まぎれもなく、小夜のことをほっておけないのだろう。

「だいたい、あなたも悪いのよ!」

 準がシミジミと感じ入っていると、マキの雰囲気が急に最初のとげとげしい感じに戻った。

「え? おれ?」

「そうよ! あなたよ! あの四球目のキャッチは何? クロスファイヤーをキャッチする時にミットを流されてどうするのよ?」

「あ……」

 準は何も言い返すことができなかった。

「あれをあなたがしっかり捕っていれば、あのおっさんだってストライクって言ってたわよ」

「あれを捕っていれば? おれの……せい?」

 マキの言葉は氷のような冷たさで準の心臓を刺す。結局、小夜が今、一人で立ち尽くしているのは準のせいだった。


「いいこと? 小夜とバッテリーを組むのなら、小夜にふさわしいキャッチャーになりなさい。小夜と一緒に野球がしたかったわたしが、諦めがつくくらいのキャッチャーに」


 小夜にふさわしいキャッチャーに。

 

まさしく、準が小夜と出会った日に、準が自分自身に誓ったことだった。


「珠風高校って言ってたわよね?」

「え? う、うん」

「商店街との試合のこと、聞いてるわよ。まさか、小夜もいるチームだとは思わなかったけど。わたし、父さんが商店街チームのキャプテンだから、あなたたちとの試合に出る。それまでに、少しはマシになってなさいよ。今日の決着はその時につけましょう。小夜には、悔しかったら本気を見せてみなさいって伝えといて。じゃあね」

 マキは矢継ぎ早に言いたいことだけ言って帰った。

 準は河原の方に目をやった。そこには小夜が河に向かって座り込む姿があった。


 早く小夜のもとへ向かわないと。謝るべきことがある。伝えるべき言葉がある。

 そんな焦燥にかられ、準は小夜のもとへ駈け出した。

 

 準が小夜の傍に着いた時、小夜はぼんやりと河を眺めていた。目に映ってはいるが、彼女の視界には何も入っていない、そんな状態だった。

 準の足音に気付き、緩慢な動作で小夜は準を一瞥した。そしてすぐに視線を河に戻した。


「マキさんに怒られたよ」

 準は努めて明るく言った。

「おれが、ちゃんと四球目を捕ってればよかったんだって。ほんとにそのとおりだね。ごめん」

 準は笑うのを止め、頭を下げた。

 しかし、小夜はまったく動かなかった。

「聞いたよ。小夜の中学のときのこと」

 準の言葉に小夜は肩を震わせた。

「……もう大丈夫だって思ってた」

 小夜がぽつりと言う。


「中学の時だって、たまたまボールになってるだけだって、自分に言い聞かせて……マキだけは認めてくれなかったけど」

 小夜の声は驚くほど弱々しかった。そして語尾は震えていた。

「投げられないならサインに首振ればいいのにね。でも、それは逃げるみたいで癪だったから……それで、逃げたくないって、必死で投げるボールが、結局全部ボール球になるんだもの。バカみたい」

 自嘲気味に笑いながら話す小夜の目は潤み、瞳は揺らいでいた。

「ね? かっこ悪いよね? 情けないよね? こんなのがピッチャーでごめんね」

 もう小夜は笑ってはいなかった。目にたまった涙が一筋溢れる。

「かっこ悪いもんか!」

 準は声を張り上げていた。

「かっこ悪くなんかない。そんなこと言ったらおれなんか……」

「え? 準?」

 準が俯いて強く手を握りしめた。それに気づいた小夜は準を見上げた。

「聞きたい? すっごく情けない男の子の話」

 今度は準が自嘲的な笑みを浮かべる番だった。

 

 「うちの父さん、隣の県の、高校の野球部の監督をやっててさ」

 小夜が少し落ち着いたのを見越して、準は語りだした。

「小学校最後の試合の時に、父さんが知り合いのシニアの監督を連れてきたんだ。おれを紹介するためにさ」

 準にとって苦痛でしかないこの記憶は、その苦痛ゆえに鮮明に脳内に焼き付いていた。

「相手ピッチャーは結果的に、その年の全国大会に行ったチームのエースだったんだけど……最終回までヒット二本だけに抑えられてた。両チーム無得点のまま最終回。相手のエラーと暴投でノーアウト三塁の場面、で、おれの打席が来たんだ。その日のおれは二塁打と三塁打一つずつ打ってて」

「あら? じゃあチームのヒットは準だけってこと? すごいじゃない?」

 小夜が、驚きと賞賛がまじった口調で言った。

「うん。その時のおれもそう勘違いしてた。今日のおれならなんでも打てる、ってね。その時のおれはホームランしか狙ってなかった。できるって確信してた。そして、自分の実力を過信した少年は、大振りも大振りで三球三振。チームはそのまま無得点でサヨナラ負けしましたとさ」

 そこからの出来事は準にとって、もっとも思い出したくない記憶だった。

 最後の準の打席を見た父は激昂した。一点でいい場面で、内野ゴロでも、外野フライでも一点入る場面で、自分勝手なプレーをした息子に。


「そして、その愚かな少年の父親は、シニアの監督に断りを入れ、そして、言いました。お前みたいなやつはうちの高校には必要ないってね。父親のもとで甲子園を目指すと意気込んでいた少年にとって、それはそれは大きなショックでした。そして、少年はそれ以来、空振りを恐れ極端にバットを短く持つようになりましたとさ」

「あ……それでさっきのバッティング」

 小夜は先ほどの準のバッティングを思い出しているようだった。長く握ればもっと強い打球が打てそうな準のバッティングを。

「そゆこと。未だに無意識に短く握ってしまうんだ。ね、情けないでしょ?」

 準は力なく笑って言った。

「うん、情けない」

 小夜は歯に衣着せぬ物言いだった。準は少しだけ虚を突かれた気分だった。

「情けない……でも、それなら私の方が情けないわよ」

「え?」

「準、あなたより、私の方がずっと情けないわよ」

「何言ってんの? どう考えてもおれの方が情けないだろ」

「いいや、私」

「いいや、おれだね」

「私」

「おれ」

「むむむむむ」

 二人は揃ってうなった。そして目を合わせるとどちらともなく笑いあった。

「ははっ、もしかしておれら二人とも情けなかったりするのかな?」

「クスッ。ええ、とっても」

「……じゃあ、二人揃ってかっこよくなってやろうか。誰も文句言えないくらいかっこよく」

「……ええ、望むところ」

 二人は揃ってその場に仰向けになり、暖かい春の夕空を見上げた。

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