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第三章 部員の勧誘は身近で

 第三章 部員の勧誘は身近で

 「いってきまーす」

 次の日、準はいつも通り七時半に起きて八時に家を出た。

 門の前には見慣れた二人の姿を見かけた。少し小柄な女の子と、準と同じくらいの身長の男子。

 美月とハヤトだ。

「お、おはよ……準」

「ああ、おはよ。なんだよ、待ってたんならチャイム鳴らせばよかったのに」

 美月への挨拶もそこそこに、準は二人に向かって言った。

 するとハヤトが、

「いや、昨日のことが気になってて、なかなかチャイム押せなかったんだよ……なあ、桐野?」

 と美月に同意を求める。

「う、うん……」

 美月はうつむいたまま答えた。

 なるほど、準は昨日二人に連絡しないまま帰ったことを思い出した。

「ああ、そっか。連絡してなかったね、ごめん。でも、大丈夫だった。とりあえずその辺は、歩きながら話すよ。ほらっ行こう」

 準は二人を促す。


「結論から言うと、野球部は、あったんだ」

 三人並んで歩きながら言った。

「え、でも載ってなかったんだろ? 野球部」

 ハヤトが聞き返す。

「野球部は、ね。ウチにあったのは草野球部」

「草野球部?」

 ハヤトと美月の声が重なる。


 準は理事長との会話で入部したこと、メンバーのレベルが非常に高かったこと、あと二人集める必要があること、これらの昨日起こったことを順に説明した。

「そっか、草野球部かぁ。まあ、おまえが納得してるんならそれでいいじゃねえの?」

 ハヤトがよかったよかったというように準の肩を叩いてくる。 


 一方、美月は黙り込んでじっと一点を見つめている、何かを考えている様子だった。

 準は、今のうちにハヤトを誘っておこう、と思った。

「で、さっき話したけど、メンバーが七人しかいないんだ。ハヤト、ぜひ入部してくれない?」

 すると、ハヤトはあっさりと返事した。

「いいぜ。まあ、そこそこ練習出て、試合のときにちゃんと行けばいいんだろ」

 あまりやる気に満ちた返事ではなかったが、準は入ってくれるのならなんでもよかった。

 その時、美月がおもむろに口を開いた。

「ねぇ、準以外の六人って、その……もしかしてみんな女の子なの?」

「うん、そう。でもみんなその辺の男子より数段上の実りょ……」

「ナ、ナンデストッ?」

 急に、会話に関係なかったハヤトが大声で叫んだ。

「おい! その話本当か? みんな女の子なのか? 麗しのレディなのか? ハーレムなのか?」

 ハヤトが準をガクガクゆさぶる。


「お、落ちつけよ……そうだよ、みんな女の子だよ。でも、みんなおれより実力は上。ハーレムとかアホな考えは捨てなよ」

 準はうんざり答えた。

「やるぜっ! おれは! 実はおれの夢は草野球界をしょって立つ男になることだったんだ!」

 ハヤトは春の朝の青空に向かって高らかにバカらかに笑う。

「やれやれ……まあ、お前がやる気になってくれたんならそれでいいや。んで、美月はなんでそんなこと聞いてきたの?」

 ハヤトのことはほったらかしにしておき、美月を見た。

「……」

 美月はただ黙りこんでいる。準が質問したことにすら気付いてないようだった。真剣な目をして何かを考えている。

「おーい、美月!」

 準が声をかけて三秒後。美月の口が開いた。

「決めたっ! わたしも野球部入る!」

 美月は一気に勢いよく言い切った。髪がふわっと動いて犬の耳のようだった。

 準はポカンとして、間抜けな表情のまま、

「へ……美月が、野球部?」

 と美月に発言を確認した。

「うん。そうだよぉ。だってあと一人足りないんでしょ? だったらわたしもやる!」

 美月がうれしそうに言った。

(確かに九人そろうのは助かる……でも)


 でも、美月はそれでいいのだろうかと、心配になった。美月の野球経験と言えば、幼い頃に準が無理やり付き合わせたキャッチボールくらいだ。中学では美月はバドミントン部に入って、そこそこの好成績を収めたことを準は知っている。

「確かに、美月が入ってくれると助かるけど、美月はそれでいいの? バドミントンやんなくていいの?」

 そのあたりのことを美月に問いかける。

 すると美月は、

「うん。いいのいいの。バドは運動不足にならないように入ってただけだったし、もともと何か新しいスポーツやるつもりだったんだもん。それに」

 ここまで言って、美月は口ごもった。少し顔が赤く見える。

「それに?」

 準は先を促した。

「それに……準が心配だから。女の子六人に準ひとりだけなんて……」

 美月はぎりぎり聞こえるくらいの声で言った。

「心配ってそんな、おれそんなに信用ないのか?」

 美月の言葉は若干ショックだった。

 すると、美月は慌てて、

「違うのっ、そういう意味じゃなくて! いや、でもそういう意味でもあって……えーっと、そのぅ……」

 そう言ってもじもじし始めた。


(?)


 準が不思議そうな顔をしている横でハヤトはニヤニヤしていた。

「ま、いいからっ早く行こっ」

 美月は無理やり笑顔をつくって走りだした。

 


 あっという間に初日の授業が終わった。

「あっという間だったなぁ?」

 と、ハヤト。

「あっという間だったねぇ」

 美月も同意する。

「……。で、どうする? おれは着替えてグラウンドいくけど。おまえらはこのまま行く?」

 準は二人に聞いた。

「いや、おれたちが先についてもあれだし、適当に時間つぶしてから行くさ。なあ、桐野?」

 今度はハヤトが美月に聞いた。

「うん。だから準は先にグラウンドに行ってていいよ」

 美月はそう言って手を振った。

「了解。また後で」

 準はそう言って教室を飛び出し、男子トイレに向かった。


 昨日の帰り、佳奈と準は部室についても話した。当然、部室は一つだけ。さすがに、男女が同じ部屋で着替えるわけにもいかない。なので、準は適当な場所で着替え、部室は荷物を保管する場所として使用する、そういう結論に至った。最初は教室で着替えるつもりだったが、なにせ、女子ばかりなので、準はトイレで着替えることに決めた。 


 急いで着替え、早速、部室に向かった。とりあえず準はドアノブを確認した。佳奈は、準が女子の着替え中に入ってしまわないように、部員に、着替える時はドアに“使用中”の札をかけるよう徹底させると言っていた。

 札は無い。

 準がおそるおそるドアを開けると、中には誰もいなかった。

 適当な位置に荷物を置き、準はダッシュでグラウンドへ向かった。

 

 グラウンドに入ってすぐの位置に佳奈がいた。早速帽子をとって挨拶。

「佳奈先輩。ちわっす」

 すると佳奈は、準に気づき、

「あ、準くん~、こんちわっす!」

 笑顔で元気に挨拶を返した。

「準くんの親友は?」

 佳奈がきょろきょろしながら、続けざまに質問してきた。

「あ、もう少しで来ますよ。それよりも先輩! もう一人入りますよ! おれの幼なじみなんですけどね、野球経験はないんですけど、入ってくれるって」

 準の発言は予想外だっただろう。佳奈の優しそうな目が驚きで見開かれた。そして一拍置いてぱっと音がしそうなくらい輝きだす。

「ほんと? ほんとにほんと! 九人そろったの? そろったのね! いっっっっよっっしゃぁっ!」

 佳奈は文字通り跳ねて喜んだ。

「よ、よっしゃあ……ですか?」

 準は佳奈のあまりの勢いにたじたじだった。

「い、いや、だって、うれしすぎて……くぅ~! 生きててよかった~!」

 佳奈が体全体をフルに使ってバンザイをしてはしゃいだ。が、準が若干引き気味なのに気づくと、少し落ち着いた。

「ごめんごめん準くん。もう落ち着いたからね。でもすこし話がうますぎやしないかな~? 昨日の今日で二人なんて……」

「それはおれも思いました」


 そう、これは準もずっと考えていた事だった。しかし、一方で、準は昨日の理事長の話を思い出していた。

 “わたしの見込みではあと二人、すんなり入部してくれる子がいるはずよ。それも君のすぐ近くにね”

 これが理事長の言った言葉だった。

 そしてこの言葉の通りになった。


「でも、理事長はこうなる事が分かっていたんじゃないですかね?」

「理事長が?」

 準は理事長の言葉を佳奈に伝えた。佳奈はしきりに関心した様子で言った。

「なるほどね~、ぜんぶ理事長の計画通りってことか。理事長なら準くんの交友関係とかも調べてるだろうしね~、そこから推測したってわけか」

「はい、そんなところだと思います。まあ、何にしても九人そろったんで、これで練習に集中できますね」

 そう言って準がグラウンドの方を見ると、キャッチャーマスクをかぶった人がいた。

 後ろから長いポニーテールが伸びている。おそらくあすかだろう。


「あすか先輩がキャッチャー? これはいったい?」

 準は佳奈のほうを見た。

 佳奈ははっとして、

「あ、そうだった! 忘れてた! 真っ先に言おうと思ってたのに。ほら、マウンドを見てごらん」

 とマウンドの方へと手を伸ばした。佳奈に促されて準はマウンドを見た。


 そこには一人の少女が立っていた。


 身長は女子にしてはかなり高いほうだろう。一七〇センチはありそうだった。

 身体は細身で、すらりとした手足が彼女の線の細さをよりいっそう強調していた。

 帽子に収まっていない流れるような黒髪が光に反射して、キラキラ輝いていた。

 右手にグラブをはめ、左手にボール。

 キャッチャーに体の正面を向け、両足をプレートにのせている。

 そこから右足を後ろに引くと同時に、両手を額の前まで軽くあげ、モーションが始まる。


 彼女の投球が始まった時、準の周りからは音が消えた‐‐


 両手を上げたのち、右足をあげつつ体を一塁側に向ける。そこから左腕を引き、右腕を前につきだす、右足で踏み込む。その勢いそのままに真上からではなく、やや斜め上から左腕を振りぬく。一般的に言うスリークウォータースローだった。ゆったりとしたモーションとは対照的に、腕の振りが非常に速く、準は一瞬の残像からなんとかスリークォーターだと判断するのが精一杯だった。


 すべての動作がなめらかで、腕の振り以外はスローモーションを見ているような錯覚に陥った。


 彼女が、周りの時間、音、空気、そういったものから切り離された神聖な存在、そんな錯覚にすら陥るほど美しい投球フォームだった。


 彼女の指先から放たれたボールは重力の支配の外に置かれているようで、地面と平行に進むそれは、一瞬のうちに、構えられたミットに寸分も違わず吸い込まれた。


 よく、漫画などで唸る剛速球などという表現がある。しかし、彼女のそれは、まったく違っていた。


 彼女のボールは“静寂”これが一番正しい表現に思えた。


 構えられたミットに向かって、どんな音も感じさせずに到達する。ミットまで糸を引くような、闇の中を一筋の光が通過するような、そんなボールだった。


 準は、ただただ、惹きつけられるだけだった。

 ここまで釘づけにされるフォームやボールに出会ったことがなかった。


 ただ、一言で表すなら、

「……キレイだ」

 準は知らず知らずのうちに声に出していた。


 隣の佳奈にも聞こえていたようで、佳奈が話し始めた。

「キレイ……か。うん。その言葉が一番ピッタリかもね」

 佳奈は慈しむような目でマウンドの少女と準を見比べていた。

「佳奈先輩……あの子は?」

 マウンドから目を離せないまま佳奈に聞いた。

人によってはかなり無礼な行為ととられるかもしれない聞き方だったが、佳奈は愛想よく答えてくれる。

「あの子が、昨日いなかったウチのエースになる子だよ。さよちゃん。一條小夜ちゃん。準くんや綾と同じ一年生だよ」

「まだ、一年……ですか? それも女の子……」

「すごいでしょ? だいたい平均で、球速一三〇キロ近く出せるんだって。ちなみにMAXは一三三キロらしいよ」

 佳奈が丁寧に説明してくれる。

(MAX一三三キロで、平均一三〇キロ……か)

「完全に怪物ですね」

 準の言葉に佳奈は苦笑した。

「こらこら~、準くん。小夜ちゃんは確かにすごいけど、かわいい女の子なんだから。怪物なんて言っちゃダメだよ」

(でも、まだ一年の四月なのに一三〇キロなんて、しかも左利き……)

 準は佳奈の言葉に心の中で少し反論した。


 一三〇キロと聞くと遅いと思うかもしれない。しかし、球速が一三〇キロのピッチャーは、県大会上位校のエースの中にいても全くおかしくないレベルである。

 しかも彼女の場合は一年生。それもまだ四月。中学三年の時に球速一三〇キロをマークすれば、強豪校のスカウトの目にかなうこともある。

 さらに彼女は左投げである。右利きにくらべると左投げの人口は圧倒的に少ない。よって左利きのピッチャーの場合、右投げのピッチャーの球速より五キロ程遅くても重宝される。

 そして、彼女は女の子だ。

 これだけの条件がそろうのは、高校生で一六〇キロを投げるピッチャーと同じくらい、いやそれ以上に少ない確率だろう。まさに、怪物と呼んでも差し支えないように思える。


 考え込む準をよそに、佳奈が楽しそうに話しかけてきた。

「どうする、準くん。彼女こっちに呼ぼっか? バッテリーを早く引き合わせなきゃね」

「いや、あの、ハヤトが来るまでここで待ってます。もう少し、あの子の球を見ていたいんで」

 準は相変わらずマウンドに釘づけのまま答えた。

 佳奈はふっと笑って、優しげな声で、

「いいよ~、じゃあ私も一緒にここで待ってることにするね。私も小夜ちゃんの球見てたいから」

 と言った。

 二人は並んで彼女の投球練習を見学した。

 彼女はまるで、リプレイのように、全く同じフォームで、何度も何度も投球していた。

 

 準が夢中でマウンドを見守ること二十分。

 グラウンドの入り口から声が聞こえてきた。

「おーい、準~」

 ハヤトと美月だった。

 準は声の方を振り返った。

「佳奈先輩、来ましたよ」

「うん、そうみたいだね~」

 佳奈も笑顔で振り返る。


 二人が佳奈と準のそばまで到着した。準は佳奈に二人を紹介する。

「こっちが親友の佐野ハヤトです。少年野球の経験者で実力は問題ないと思いますよ」

 まずはハヤトの方に手を伸ばした。

「よろしくね~、部長の遊上佳奈で~す。佳奈って呼んでね? ハヤトくん」

 佳奈が、昨日準に向けたような笑顔をハヤトに向けた。

 ハヤトも一瞬ドキッとしたようだった。準の目には少し顔が赤くなったように見えた。

 しかしハヤトは、すぐにいつもの調子に戻ると、

「よろしくお願いします佳奈さん。いや、お姉さまとお呼びしてもよろしいでしょうか? お姉さま」

 と、ふざけた調子でどこかの貴族でもあるかのように恭しく礼をした。

 佳奈はポカンとしたのち、ぷっと吹き出すと、

「あはは、おかしな子だね~、でも、残念。あたしの事、お姉さんって言っていいのは準くんだけだって、昨日、決めちゃったから」

 そういたずらっぽく言った。

「え……えぇっ?」

 これに反応したのはハヤトではなく美月。慌てて準は取り繕う。

「ちょっ、佳奈先輩、何を言い出すんですかっ! そんなこと一言も言ってないじゃないですか」

 固まっている美月を見て、楽しそうに佳奈は、

「ごめんごめん。冗談だよ~、冗談。それで、そっちのかわいい子も紹介してよ、準くん」

 と言った。

「あ、はい。こっちは桐野美月です。おれとは家が近所で、その、昔なじみってやつです。野球はキャッチボールくらいしかしたことないと思いますけど、そんなに運動神経は悪い方ではないですよ」

 準が紹介すると、美月はあわてて頭を下げて挨拶をした。

「きっ、桐野美月です。野球の経験はないですけど、その、精一杯頑張ります。よ、よろしくお願いします」

 美月の挨拶を聞く途中で、佳奈は何かを感じ取ったようだった。

「昔なじみねぇ~? ふ~ん?」

 ニヤニヤとしながら準を見た。

「な、何でしょう?」

「いや、な~んでもないよ~? そっか~、野球経験はないけど精一杯がんばってくれるんだね~、ふ~ん?」

 佳奈は怪しげな笑みをうかべたままま、準と美月を見比べる。美月は赤い顔でうつむいている。

「これは、そういうことでいいんですかね~? 解説のハヤトさん?」

 佳奈が、今度はハヤトの方を向いて、ニヤニヤした。ハヤトも佳奈と同じような表情をしている。

「そうですねぇ。そういうことでいいと思いますよぉ? さすがはお姉さま」

 そして、二人そろってクックックと小さく笑いだした。

「よく、分かんないですけど、それより、みんなにも紹介した方がいいんじゃないですか?」

 ため息交じりに二人の怪しげな会話は無視して、準は佳奈に促した。

 佳奈もハッとしたようで、すぐにキャプテンの表情に戻りグラウンドの方に向き合う。

「あっ、そうだった! お~い、しゅ~~ご~~!」

 グラウンドに散らばっていた五人がすぐに集合してくる。


 全員が集まると佳奈は元気に話始めた。

「昨日に引き続き、新入部員の紹介だよ~、いえいっ!」

 まずは美月が先ほどと同じように自己紹介した。

 パチパチパチパチ。準の時よりも大きな拍手だった。葵もおどおどした様子もなく、昨日は準を睨みつけていたように見えた綾はうれしそうに笑顔で拍手していた。


(おれの時とは大違い……ハ、ハハ)


 しかし、次のハヤトの時は準の時と同じようなまばらな拍手だった。葵は先ほどとは違い、もじもじするだけで、綾にいたっては、準の時よりもさらにキツイ表情でハヤトをにらみつけていたように思えた。


 その後、昨日と同様に佳奈が順番にメンバーを紹介し、それぞれが一言述べた。

 最後に、ピッチャーの子の番になった。

「一條小夜です。C組、ピッチャー、左利き……です。よろしく」

 簡潔な、挨拶だった。小夜は、全く表情を変えずに言った。

 ボールと同じだな、と準は思った。彼女の持つ凛とした雰囲気は、静寂という言葉がぴったりな気がした。

「よ~し、じゃあ今日は今から守備練習をやろう! ハヤトくんと美月ちゃんは今日のところは見学ね。練習終わったら練習用ユニフォームとか渡すからね。準くんと小夜ちゃんはブルペンで投球練習しておいで~。じゃあ練習開始っ! ふぁいと~、おぉっ!」

 最後に、佳奈がこれまでで一番元気な声で締めくくった。

 珠風学園草野球部の正式なスタートだった。

 

 (さて、どうしたものか……)

 準は小夜と共に、三塁側ベンチの隣にあるブルペンへと向かう。少し落ち着かない気分だった。

 先の自己紹介で、準は彼女が口数の多いタイプではないと確信した。

 そのため、小夜に声をかけていいものか躊躇する。

 しかし、これからバッテリーを組んでいく身。いつまでも話をしないわけにはいかない。


 準は意を決し、とりあえず自己紹介でもしなおすことにした。

「えっと、小夜……ちゃん、おれは準です、才木準。よろしく」

 少しぎこちない笑顔を浮かべて準は言う。

 小夜の眉がほんの少し動いた気がした。

「よろしく。でも、ちゃんはいらない。同い年でしょ? 小夜でいい。私も準って呼ぶから」

 小夜はそう言って、少し、ほんの少しだが、ほほ笑んだ。

 準にはこのわずかなほほえみが少し意外に思えた。

(あれ? 別に無愛想ってわけではないんだ)

 小夜は表情こそあまり変わらないものの、他人とのコミュニケーションを拒否しているわけではないようだった。

 少し気が楽になった準はそのまま話始めた。

「あ、うん、じゃあ、小夜。先に言っておくけど、おれ、キャッチャーの経験はほとんどないから。足引っ張ることも多いと思う。先に謝っとく、ごめんね」

 準のこの言葉に小夜は再び笑みをこぼした。

「どうしてまだ何もしていないのに謝るの?」

「いや、だって、小夜はほんとにすごいピッチャーだと思うから。あんなに綺麗なフォームも、あんなに綺麗な球も、おれは見たことない。だから、おれなんかが、ほんとに受けていいのかなって……」

 準の言葉に、小夜はふふっと小さく声を出して笑った。準としては正直な感想を述べただけだったが、それが小夜にしてみればかなりおかしかったらしい。

「準。あなた、ちょっと変わってる」

「え? どうして? おれは当然なことしか言ってないけど」

 小夜が言った言葉の真意が準には分からなかった。

 小夜は笑みを浮かべたまま言う。

「そこが、変わってる。だって、今までのキャッチャーは誰もそんなこと言わなかったもん。男は女に負けたくないものなんでしょ? だから、私がどんな球を投げても、素直に褒めるキャッチャーなんていなかった」


(……なるほど、ね)


 準はようやく理解した。たしかに多くの男は、特に、幼い男子ならなおさら、野球というスポーツにおいて簡単には女子を認めようとしないだろう。

「そういえば、顔もちょっと女の子っぽいかも」

 小夜はクスッとほほ笑んだ。

「うぅ、おれはれっきとした男だよ!」

 小夜にからかわれて、準は肩の力が抜けた。

(でも……)

「でも、小夜のピッチングは、そんなくだらない男の意地とか関係なく、すごいと思えたから。そんなに変かな?」

 準の質問によって、小夜の表情はもっと柔らかなものになった。

「うん。変わってる。でも、もしかしたら準みたいな反応が一番普通なのかも。すごいと思ったものをすごいって言う。ただ、それだけ」

 そう言う小夜の笑みは、普通の女の子の笑顔だった。

 マウンドで見せる表情からは想像できない表情。


 なんだ、と、準は拍子抜けした気分になった。

 小夜は、少し表情が分かりにくいだけで、至って普通の女の子のようだ。質問すれば答えてくれるし、うれしかったら笑う。

 特に構えて接する必要はないように思えた。とりあえず一安心した準は、そろそろ練習に取り掛かろうと決めた。

「さてと、じゃあぼちぼち投げ込み始めようか。いきなり座っても大丈夫?」

 準が小夜に尋ねると、

「うん、大丈夫。さっきも投げてた。じゃあ始めましょ。しっかり捕ってね」

 そういって小夜はマウンドに立った。


 その瞬間、小夜から先程までの緩みきった表情が完全に消えた。


 ただ、投げることだけを考えて、そのほかの感情をすべて切り捨てている。

 マウンドに立つだけでここまで変わるものかと感心した。それを見て準も、しっかりと気を引き締めて構えた。


 小夜が両手を軽くあげて投球を開始する。

 どんなに短い間隔でも切り出せないような、そんな、なめらかなフォームでボールが放たれる。


 準は、小夜が投げた瞬間に、構えた位置より少し低い位置にくる、と感じた。

 しかし、そのボールは準が最初に構えた位置に寸分違わずミットにすっと吸い寄せられる。

 綺麗で、まっすぐで、静かなボール。


 そもそも、ストレートは、進行方向に向かってバックスピンがかかるように回転させて投げるボールだ。そのバックスピンと、縫い目が生み出す空気抵抗の流れにより、ボールに上向きの力が生じる。そのためストレートは、重力に抵抗するように地面に平行に動く。


 プロの一流ピッチャーのストレートは、よく、球が浮き上がって見える、などと言われることがある。しかし、いくら上向きの力がかかろうとも、実際には、ボールが浮き上がるほどの力を生み出すことは人間には不可能だ。

 浮き上がって見えるというのは、肉眼で捉えづらいスピードで投げつつ、回転数を極限まで高めて上向きの力を大きくし、普通のボールよりも落ちないようにする、そのことによって起こる錯覚である。

 小夜のストレートもそれと同様だった。いや、一三〇キロという球速を考えると、それは異常な回転数なのかもしれない。


 その後、小夜は続けて二十球ほどストレートを投げた。

 そのすべてがリプレイのようなフォームで、準の構えたミットに集まる。

 本当にまっすぐにのびるストレートを投げることは実は難しい。プロの投手ですら、ボールの回転軸がずれシュート回転し、意図せず変化してしまうことが多々ある。

 しかし準は、小夜ならどれほど投げてもまっすぐにしかならない、そんな錯覚に陥った。

 それほどまでに、きれいな回転で、純粋なストレートだった。

 どうやったらこんな球が投げられるのか、たまらず準は小夜のもとへと向かった。


「どうしたの?」

 小夜は怪訝そうな顔で聞いてくる。

「いや、ちょっと、どうやったらこんなに綺麗なボールになるのかなって、気になってさ」

 準の質問に小夜は困った様子だった。

「私は普通のストレートを、普通のフォームで投げてるだけよ。ほら、握りも普通」

 そういって小夜は準に握りを見せた。

 縫い目のコの字のようになった部分に、人差し指と中指をかけてある。普通のストレートの握り。普通と違うのは、その指が、武骨な男の手ではなく、細くて長い綺麗な指という点だけだった。

「うーん、確かに普通だなぁ……」

 準は首を捻って言った。

 小夜も、

「でしょ?」

 と言いながらボールを持ったまま左手をプラプラさせた。

 その時、準は自分の目を疑った。

 小夜の手首が普通の人間では考えられないほど曲がっていた。手の甲が腕にくっつきそうなほどだった。

「ちょ、ちょっとまった! 手首っ手首っ!」

 準はあわてて叫んだ。

 すると小夜は少しうれしそうに、

「ああ、これ? 私、体柔らかいから。右手を使えば甲が腕に完全にくっつくわよ。ほら」

 そう言って右手で左手を抑えると左手の甲がくにゃっと左手首にくっついた。

「う、うおぉ……」

 正直言うと気持ち悪かった。

 でも、これだけ手首が柔らかかったら、ボールに異常な回転数をもたらすことも不可能ではないのかもしれない。体の柔らかい女性ならではの武器なのだろう。

 準は、得意げに左手をプラプラさせる小夜を、ぼーっと眺めていた。


「じゃあ、そろそろ変化球も投げるね」

 唐突に小夜が言った。

「え?」

「へ、ん、か、きゅ、う」

 ぼけっとしている準に対し、小夜が一文字づつ強調して言った。

「あ、ああ、変化球ね。あい、了解」

 ようやく我に帰った準はあわてて返事をした。

「それで、持ち球は?」

「スライダーとカーブ」

 準の質問に小夜がよどみなく答える。

「オッケイ! じゃあ見せて」

 準はわくわくしながら捕球位置に戻った。

 小夜ほどのピッチャーならば、どんなすごい変化球を投げるのか、楽しみでしょうがなかった。


「じゃあ行くね。まずはスライダー」

 そういって小夜が軽く振りかぶる。

 ゆったりと流れるようなフォームから腕を振る。

 腕の振りの速さはストレートの時とほとんど変わらない。

 直線的な軌道でボールが向かってくるが、スピードはストレートよりもやや遅い。

 そのボールがホームベースより少し手前で、準から見て左にボール一個分ほど左に曲がる。

 そしてその後、ボールは重力に従って高度を下げながらミットに入る。

(あれ? こんなもんか?)

 これが球を受けた準の正直な感想だった。

 もちろん、小夜の投げたボールは十分スライダーと呼ぶべきボールだった。

 しかし、小夜のストレートを見た時のインパクトからするとちょっと物足りない気がした。

 球速は一一〇キロ台。変化はあまり大きくない。が、小さいわけでもない。

 ごく普通のスライダーだった。

(これだと左打者にはつかえても、右打者にはちょっと厳しいかな……)

 これが小夜のスライダーを見ての準の感想だった。


 基本的に、変化球はストライクからボールに。これが配球の鉄則だ。もちろん、ボールからストライクに変化させて、打者に見逃させることが全くないわけではない。しかし、こういったボールは、基本的な配球があるからこそ、意表をつくことで打者が見逃すことになる。


 スライダーは斜めに沈む変化である。左ピッチャーが投げるスライダーは、左打者からは逃げていくように変化する。ストレートと同じ振りでくるボールが外角からさらに遠くへ逃げていくと、左打者のバットはなかなか届かない。

 しかし、右打者の場合、左ピッチャーが投げるスライダーは、自分に近づくように変化するため、比較的見きわめやすい。通常、左ピッチャーが右打者をスライダーで空振りにとるには、よほど大きな横への変化か、落差の大きさが必要になってくる。

 小夜のスライダーは、そのどちらも持ち合わせていなかった。

 おそらく、ある程度のレベルの右打者なら簡単に打ち返せるだろう。


「じゃあ次はカーブ」

 あれこれ考えている準とは対照的に、小夜は次のボールへの投球準備に入る。


 軽く振りかぶって、左腕を振る。

 小夜の左腕からボールが離れた瞬間。


 時間が完全に止まった気がした。


 左腕の延長線上へとボールがゆっくりと離れる。

 左腕から離れながら、準から見て右上にボールが弧を描く。

 一瞬、暴投か、と思うほど大きく右上にボールがあがる。


 しかし、


 ボールはそこから大きく左へと曲がりながら沈み込む。


 それから右打者の内角低めギリギリの位置に構えられたミットに入った。

 ボールの動きが、すべてコマ送りで見ているかのようだった。

 球速は八〇キロくらいかもしれない。

 ストレートを待っていたらまず打てないだろう。

 いや、カーブを待っていたとしても打つのは難しいかも、と準は思った。

 何せ変化が大きい。

 右打者から見た場合、最初は、外角高めギリギリへのスローボールのような軌道を描く。それが最終的に内角低めいっぱいの位置に収まる。

 横、縦ともに尋常じゃない変化だ。とくに縦は高低差一メートル近くありそうな変化だった。


(すごい……)


 これならば、左打者はおろか、右打者にも十分通用する。

 右打者の膝元に決まれば、バットに当てるのは至難のわざだ。そのコースへのカーブは少しでも高くなるとホームランボールになる危険性はある。しかし小夜ほどのコントロールがあれば心配ないだろう。


「……どう? このカーブ、ちょっと自信あるんだけど」

 小夜がおずおずと聞いてきた。少し照れたような表情だった。

「すごい! すごいよ! これなら右バッターの決め球にも使えるし、ってかほとんど魔球だよ!」

「ほんと? あ、ありがと」

 準の言葉に小夜は顔を綻ばせた。これまでで一番感情を表に出している。カーブを褒められたことがよっぽど嬉しいのだろう。

 こうして見てるとほんとに普通の女の子だよなぁ、と、準は喜ぶ小夜を見ながら思った。

「このままどんどん投げるね」

 小夜は元気に言った。最初の印象からは想像もつかないほどはしゃいでいる。


 それから小夜はマウンドに戻った。


 マウンドに立った瞬間に、また小夜の顔から表情が消える。

 マウンドに立つとここまで変わるものなのか。小夜の切り替えはまさしく職人意識の高さの発現だった。


 その後、小夜は、淡々と、すべての球種を織り交ぜながら、繰り返し投げ込んだ。小夜の投げるボールはおもしろいように準の構えたところに飛んできた。

 そして、約百球ほど投げ込んだところで、小夜はマウンドから降りた。

「今日はこれくらいであがるね。ちょっと軽めに」

「いや、十分多いんじゃ……」

「そう? たいした球数じゃないけど……そんなことより、クールダウン手伝ってくれる?」

 準の指摘も、小夜は全く意に介しない様子だった。

 二人は少し短めの距離で軽くキャッチボールを始める。


「そういえばさ」

 準はボールを投げながらつぶやいた。

「そういえば、何?」

 小夜もキャッチボールを続けながら聞き返す。

「ウチの部の練習ってどんな感じ? 今日は入学式の次の日で練習時間も短くて、投球練習だけで終わりそうだし。小夜は春休みから来てたんだろ?」

 事実、あと三十分もすれば下校時刻だった。

「ウチの練習? そうね、ちょっと、変わってる? かも」

 小夜が言葉を選びながら静かに言った。

「変わってる? どんなふうに?」

「そうね、ウチの練習はまず、前半と後半に分かれてるんだけど」

 丁寧にボールを投げつつ、準の質問に丁寧に説明を続ける。

「まず、前半は個人練習なの。そして後半に、連携とかシートとか全員でやるメニューをするのね。まあ、そこは普通なんだけど、ただ、前半は、各自でランニングとか、素振りとか。一人でできるメニューだから基本的に基礎体力作り中心かな。自分自身でそれぞれメニューを考えてやるの」

「え、自分で? 好きな練習を?」

「そうよ。各自で。自分でしっかりと考えてやらないといけないんだから」

 キャッチボールを中断し、あっけにとられている準に対し、小夜は少し得意げに言った。

「え、でも、そんなんじゃ、好きなメニューばっかりになるんじゃ……ランニングとかやらない人も出るんじゃない?」

「そんなことないわよ」

 準の質問はきっぱりと否定された。

「え、でも……」

「ここには強くなりたい、上手くなりたい人しかいない。そんな人は自分を甘やかしたりしない」

 小夜が珍しく強い口調で言った。

 おそらく、小夜自身が、自分に誰よりも厳しくしてきたのだろう。才能だけでは絶対に小夜ほどの投球はできないはずなのだから。生半可な努力じゃないはずだ。しかし、小夜は、そんなのはやって当然の努力だ、と思っているのだろう。

「それにね」

 小夜が続けた。

「それに、実際やってみて分かったんだけど、自分でメニューを考えてやるほうが大変なんだから。いざ後半、全員で練習ってなったときに、しっかりと各自で練習しておかないとついていけないの」

 なるほど。これは大変だ。

 小夜の言葉に準はあらためて身が引き締まる思いだった。

 珠風高校野球部でやっていくことへの覚悟。

 そして、小夜とバッテリーを組む、つまり、小夜にふさわしいキャッチャーになるための覚悟。

 簡単な道ではないだろう。

 でも、今日からその道を歩き出そう。

 そんな決意をボールにこめて、準は小夜へとボールを投げた。

 

 その後、五分ほどでキャッチボールを切り上げた時、グラウンド中に響く声が聞こえた。

「小夜ちゃ~ん、準く~ん、しゅ~ご~」

 佳奈だった。両手を頭上で大きく振っている。

「ちょうどか。じゃあ、行こうか」

 準の言葉に小夜も軽く頷き、二人は走り出した。


「は~い、そろったね。じゃあ今日のミーティングを始めま~す!」

 二人がバックネット付近にたどり着いたのを確認して、佳奈が元気に話し始める。

「連絡事項っ! 珠風商店街祭りで商店街チームと試合することになりました~」

「えぇっ!?」

(あっ、言ってなかったっけ)

 準と同じく商店街チームのことを噂程度に知っているハヤトが思わず声を上げた。準はジェスチャーでハヤトに謝った。

 しかし残りのメンバーはまったく動じていないようだった。

「試合はゴールデンウィーク初日だから、それに向けてガンバロウッ! 珠風学園草野球部が九人でやる最初の試合だよ! 絶対勝とうねっ!」

 ハヤトの声など聞こえなかったかのように、佳奈は明るく言った。

「ま、まじかよ……」

 ハヤトは一人でつぶやいていた。

 そんなハヤトをものすごい視線で睨みつけているメンバーがいる。

 外野手の綾だった。

 ショートカットのせいか、キッとするどい目つきでハヤトを見ているのがまるわかりだった。

 そんな綾を見ていた準だったが、不意に綾が準の視線に気づいた。

 一瞬、二人の視線が交錯する。

 しかし、綾はすぐにぷいっと目をそらした。

 準は綾の態度が不思議でならなかった。

「じゃあ、今日はこれで解散っ! あ、ハヤトくんと美月ちゃんはユニフォームとかのことで話があるから部室前でちょっと待ってて」

 佳奈がそう締めくくり、それぞれが思い思いの方向へと動き出した。

 準は一足先に部室へと急ぎ、荷物をまとめて校内へと移動した。

 すぐに空き教室を見つけて着替えを終えると、ハヤト達と一緒に帰ろうと部室前へと急いだ。


 部室にたどり着くと、ハヤトと美月の他に佳奈と葵の姿も見えた。

「あ、来た来た。準~」

 美月が小さな体をめいっぱい使って準を呼んだ。

「お待たせ、じゃあ帰ろうか」

 準は四人の中に入って歩き出す。

 そして佳奈の隣を歩く葵を見た。

「葵先輩も同じ方向なんですか?」

「ひゃあっ!」

 急に話かけられたことに驚いたようだ。葵はとんでもない声を出した。

「ほ~ら、葵。ちゃんと答えなきゃダメだよ」

 すかさず佳奈が咎める。姉、もしくは母親のような口調だった。

「あ……はい。か、佳奈の家のっ、おとなりさんなんですっ」

 葵がつっかえながら答えた。

「そうなの。幼なじみってやつかな。準くんや美月ちゃんと一緒かな? いや、ちょっと違う?」

 佳奈が美月と準を交互に見ながら含みをもたせて言った。

 そんな佳奈のうしろに隠れるようにしている葵。

「なんかどっちかっていうと……」

 準はそう言いながら美月に目配せした。美月は小さく頷いて、

「姉妹みたいですね」

 と、準の言葉を引き継いだ。

「あら、そう見えちゃう?」

 準と美月の言葉に、佳奈は少し照れていた。

「まあ、昔から葵のこと、ひっぱりまわしちゃってたからねぇ。だって昔の葵ってばね……」

 佳奈は懐かしそうに話始めた。


 葵がよく近所の男の子にいじわるされていたこと。佳奈が野球に誘ったこと。すぐに上達していったこと。それから葵に対しての、男の子の態度が変わったこと。それでも葵は男の子が苦手なままだったこと。などなど。

 佳奈の話に、葵も、そんなことないよ、などと口を尖らせながらも楽しそうな様子だった。

 準はそんな二人の様子を微笑ましく見ていた。美月も同じような視線を向けていた。

 そうこうするうちに五人は橋を渡り終える。

「じゃあ、あたしたちはこっちだから。バイバ~イ」

 佳奈は元気に手を振った。葵も、わずかではあるが、小さく手を振っていた。

 二人が帰って行くのを見届けて、準と美月は二人と反対方向に歩き始めた。

 しかし、ハヤトだけは立ち止って、去って行く二人をぼーっと見ていた。

「どうしたんだ? ハヤト?」

「……どうしたって?」

 準の言葉にハヤトはぽつりとつぶやいた。

「ああ、いったいどうしたんだよ?」

 もう一度準は言う。

 すると、ハヤトは今度はハッキリと答えた。

「恋したんだ!」

「は?」

 突然のハヤトの言葉に、準と美月は声を合わせた。

「今日からおれは、葵さんをお守りする騎士となる! ふっ。止めてくれるなよ、準。うおおおぉ!」

 ハヤトは雄叫びをあげながら、あっけにとられる二人を残して全速力で走り去って行った。

「何だ、あいつ」

 と、準。

「さぁ、なんだろうね」

 と、美月。

 二人は顔を合わせてため息をついた。

 そして力ない笑い声をあげつつ帰った。

 

 次の日の授業はまたたく間に終わった。

 今日から、授業も部活の時間も通常のものに戻り、四時過ぎに授業が終わり、七時半に部活は終了となる。

 ハヤトと美月も今日から練習に参加する。そういう意味では、今日からが野球部の本当のスタートとも呼べる日だった。まあ、入学式が水曜日だったため、今日は金曜日、よって、明日は土曜日ですぐに休みとなるわけだが。

 ハヤトは着替えをすませて部室へと急いだ。

 準は日直だったため、ハヤトと美月には先に練習へ行ってもらった。

 部室に札が掛かってないことを確認して、準は勢いよくドアを開けた。

 そこには葵がいた。

「あっ葵先輩! ちわーっす」

 着替え中の葵に頭を下げた。

「あ……わわ……え、えっと……あ、うぅ」

 葵は声にならない叫びをあげて、下着姿の上半身を隠した。

 そんな葵の声に、準は苦笑した。

(慣れてもらうにはまだまだ時間がかかりそうだなぁ。それにしても、もう少し落ち着いて……あれ? そういえば葵先輩は着替え中? え?)

 そこまで考えて、準はようやく違和感に気づいた。

 そして思わず叫んだ。

「え、えぇえぇっ! あ、葵……先輩? もしかして、き、着替え中であらせられますのでしょうか?」

「……は、はぃ」

 葵が、か細い声で、答えた。顔は真っ赤で、目の端には涙を浮かべている。

「わー! すいません、すいませんっ! 今すぐっ! 今すぐここから消えます! 出ていきます!」

 そう言って去ろうする準。

 しかし、そんな準の手を葵がつかんだ。しっかりとした力だった。

「だ、ダメですよっ! 今、準さんが慌てて出て行くところを他の人に見られたら……その、もしかしたら、準さんが覗いてしまったと思われるかもしれません」

 葵は赤い顔のままで、声はずっと震え続けている。それでも握った手は力強いままだった。

「それに、その……札を掛けてなかった葵が悪いんです。葵のせいで、準さんにまで迷惑かけたら……申し訳なくて。だから、葵が着替えるまで、その、向こうを向いててもらえますか? 二人で一緒に出て行ったら、他の人が見ても何も思わないはずですし……」

 よく見ると葵の肩は震えていた。苦手な男子に着替えを見られたのだ。無理もないだろう。しかし、それでも葵は準に気遣ってくれている。

 正直に言うと、二人で一緒に出て行ったほうが不自然じゃないか、と準は思ったが、葵の気遣いを無駄にはしたくなかった。

「……分かりました。じゃああっちを向いてますんで、その、すいませんでした」

 そう言いながら準は葵に背を向けた。

 背中からシュルシュルと衣擦れの音が聞こえる。

 女の子と密室で二人。背中越しに着替える葵。

 準の心臓は破裂しそうなほど強く脈を打っていた。

 このままだと変な気分になりそうだった。

 思い切って準は話しかけてみることにした。

「あ、あのっ、葵先輩」

「は、はいっ! な、何でしょう?」

 背中越しでも、葵の緊張した様子が伝わってくる。

「佳奈先輩から、葵先輩は男子が入るかもしれないって、わかってた上で入部したって聞きました。でも、やっぱり、おれとハヤトが入るのは嫌だったんじゃないですか?」

 背中の後ろで、葵が、はっと息をのむのが分かった。

 そして、葵は準の前に回り込んできた。もう着替えはすんでいた。

「ち、違うんですっ! 男の子が嫌いなわけじゃないし、嫌なわけでもないんです! た、ただ、どうしても、その、男の子の前だと……体が、すくんじゃって……でも、ほんとに準さんたちが入ってくれてうれしいんですよ! これは本当なんです!」

 葵はここまでを一気にまくしたてた。あまりの葵の勢いに、準は唖然としていた。

 そんな準の様子に気づいた葵は、みるみる顔を赤くした。

「あの、す、すいません。ただ……どうしても、準さんたちが嫌なわけじゃないって、わかって……欲しくて」

 葵は急に歯切れが悪くなった。赤い顔のまま俯いている。

 そんな葵を見て準はふっと肩の力が抜けた。

「先輩の気持ちは伝わりましたよ。これからよろしくお願いしますね。先輩」

 そう言って笑顔で手を差し出した。

 葵はきょとんとした様子だったが、準の笑顔を見て少し緊張が抜けたようだ。

「は……はい! よ、よろしくお願いしますね」

 おそるおそる手を握り、多少のぎこちなさはあるものの、笑顔で答えた。

「それに……」

 握手を続けたまま、葵がポツリとこぼした。

「それに?」

「準さん、少し、その、お、女の子みたいに見えるから、苦手克服の練習になるかなって……」

「……また言われた」

「わわっ、ご、ごめんなさい。失礼でしたねっ」

 若干ショックを受けている準に気付き、葵が慌てた。葵の慌てるようすを見て、準は何とか立ち直った。

「まあ、いいですよ。じゃあ、行きましょうか!」

「は、はい」

 二人はグラウンドへ向かって歩きだした。

 少し、ほんの少しだが、葵からおどおどした感じが減ったような気がした。

 

 準と葵、二人がグラウンドに着いた時、騒がしい声が聞こえた。

「前だぁ! そこから右! いや、嘘、左だぁ!」

 あすかの声だった。

「は、はいぃ!」

 返事をしたのは美月。一人フェアグラウンドにいる。

 どうやらノックのようだった。ノックをしているのはアリスで、綾、佳奈の二人はアリスの近くで美月の練習を見ていた。

 アリスが高くフライを打ち上げる。

 あすかが美月のそばで指示を出している。あすかの隣にはハヤトがいた。

「前! 右! もっと右!」

 指示通りに美月が前へ、右へと動く。

「そこから三歩進んで、二歩下がる!」

 美月は忠実に三歩進んで二歩下がった。

「ようし! 最後にとどめのトリプルアクセル!」

「はい! ようし、トリプルアクセル! って無理ですよ~」

 美月は、一応、律儀にその場で一回転半ほどジャンプして着地する。ボールは美月から十メートル以上離れた地点に落ちた。

「うむ、今のシングルアクセルは高さ、芸術性、ともに優れていた。加点をあげよう」

「さすがです。アネゴ!」

「うむ、我が子分ハヤトよ。くるしゅうない」

 あすかとハヤトが美月を無視して話す。そして二人そろって、わっはっはと高笑い。

「な、何をやってるんですかっ!」

 思わず準は、叫んでいた。

「あ、準く~ん! こんちわっす!」

 準の叫びが聞こえたようで、佳奈はいつもどおり元気よく言った。

「あの、これはいったい何をやってるんですか?」

 準はあきれて聞いた。

「いや~、やっぱり、ファーストは大きいほうがいいからさ。ハヤトくんにファーストをやってもらって、美月ちゃんには外野をやってもらおうと思ったんだけど……美月ちゃん、初心者だから仕方ないんだけど、フライの落下点がうまくつかめないみたいで、それで、あすかが指示を出すって言い出したんだけど、この通りでね。あすかのふざけた指示に忠実に従う美月ちゃんが、おもしろくって、かわいくって~、つい」

 佳奈はテヘヘと、舌を出して笑った。

 準は脱力感に襲われて葵の方を向いた。

「あすかちゃんは、もともとあんな感じですから」

 葵は苦笑した。

 そんな二人の様子を、佳奈が探るような目つきで見ている。

「あれあれあれ~? お二人さん? 何やら急に仲良くなっちゃって~、何かあったのかな~?」

 おもしろそうに佳奈は言った。慌てて準は否定する。

「いっ、いや、別に何もないっすよ? ねぇ? 葵先輩?」

 しかし、葵は隣で真っ赤な顔で俯いていた。

(いやいやいや、そんな態度じゃ、何かあったって言ってるようなもんじゃ……)

「あっやしっいな~」

 準の焦りを見て、佳奈がニヤリとした。

(何か話をそらさないと……そうだ!)

「あ、あのっ! 佳奈先輩!」

 焦りから少し上ずった声で準は言う。

「美月はファーストのほうがいいと思いますよ」

「え? ファースト? なんで?」

「一回、美月をファーストの守備につかせて、強いライナーでもゴロでも捕らせてみてくださいよ。たぶん上手く行くはずですから」

「うぅん……よく、分からないけど。じゃあ、やってみる。ハヤトく~ん? 美月ちゃんにファーストミット渡して、一塁のところに行くように伝えてくれる?」

「了解です! おねえさま!」

 ハヤトはダッシュで美月のところへと行き、彼女を一塁ベース付近に立たせる。それを確認して、準はアリスの方を向いて言った。

「アリス先輩! ライナーでもゴロでもいいんで、全力で打ってください!」

 準の言葉にアリスは少し戸惑っているようだ。

「全力? ほんとにええのんか?」

 アリスは準に聞いた。

「ええ。もう、親の敵かってくらい本気で。全力で、いっそもう、殺す気でお願いします」

「え、えぇっ!?」

 準の言葉が聞こえたようで、美月がおびえた声をあげた。

「オッケイ。どうなっても知らんのん。ふおぉぉ!」

 何やらそれっぽい声を出しながらアリスが力を溜め始める。

 そして、

「はぁっ!」

 という、声とともにボールを打ち出した。

 もの凄い速さの打球が美月に襲いかかる。

「ひゃあっ!」

 と言いつつ、美月は、体は逃げつつ、両腕だけを差し出した。そのミットにボールが入り込んだ。

 これには、ノックをしたアリスだけでなく、佳奈、葵も驚いているようだった。

「ビ、ビックリしたよ~」

 美月は右手で胸を抑えつつ立ち上がるとボールを取り出した。

 それを見てすかさずアリスがノックを続ける。

「わ、わぁっ!」

 美月は情けない声をあげつつも捕球する。

 腰は完全にボールから逃げつつも、しっかりとボールはミットに収まる。


「な、なんで~?」

 佳奈がようやく声を出した。

「美月はバドミントンやってたんですよ。それも、結構いいとこまで勝ちあがりまして」

 準は説明する。

「バドミントンのシャトルのスピードは、野球のボールなんか目じゃないくらい速いですから。もしかしたら体が反応できるんじゃないかって、思ったんですけど。うまく行きましたね」

「なるほどね~、うん。ファースト、美月ちゃん。悪くないかもね。ファーストにしてはかなりちっこいけど、あたしたち内野がしっかり送球すればいっか」

「えぇ。それは先輩たちなら問題ないと思いますよ」

 準は佳奈と葵を見て言った。

「あらら~、そんなに信用されると責任重大だな~? まあ、いっか。うん。じゃあファースト美月ちゃん。綾がレフト、あすかはセンターだから、ハヤトくんはライト。これで決まり!」

 佳奈が元気に手を叩いた。

 ハヤトはそれを聞いて、何か考え込んでいた。そして、何かに気づいたようで、急に声を出した。

「おれは、ライトをやるために生まれてきたのかもしれない! 葵先輩! 今日の前半の予定はなんですか?」

 ハヤトが葵ににじり寄った。

「は、はい……? えっと、その、ロードワークして、柔軟、それから……」

 葵があとずさりする。

「先輩! 中継の練習を組み込みましょう! お願いします! ライトから、セカンド、そしてホームへの中継プレーの練習です! おれたち二人の絆を深めることは急務であります!」

 ハヤトが強く主張する。あまりの勢いに、葵は押し切られた。

「は、はぁ? メ、メニューこなした後でなら、いいですけど……」

「よし! 決まり! 絶対ですよ? うおおお! 燃えてきたー!」

 ハヤトは騒がしく走りだした。

「……どうしちゃったの、ハヤトくん? あんまり率先して練習するようなタイプには見えなかったけど?」

 佳奈がポソリと準に聞く。

「さぁ?」

 そう言いつつも、準は昨日のハヤトの言葉を思い出していた。

「バカみたい」

 今まで何も言わずに見ていた綾が、元気に走り去るハヤトを睨みつけて呟くと、ハヤトとは違う方向に走り出した。

 佳奈はこれには気付いていない様子で、準に話しかける。

「それじゃあ、そろそろあたしも練習始めよっかな~、準くんはもう練習メニュー決まってる?」

「いや、おれは小夜が来るまで待ってますよ。もしかしたら、いきなり投げたいかもしれませんから」

 この言葉に佳奈は優しげに微笑んだ。そして準のうしろに向かって言った。

「だってよ~、小夜ちゃん、どうするの?」

「え?」

 佳奈の言葉に慌てて後ろを向く準。そこには小夜の姿があった。

「あ、その、私は、毎日、最初はロードワークと柔軟だから。だ、だから、それまでは好きな練習してていいの、よ」

 小夜は横を向いて答えた。小夜らしくない少し戸惑いを含んだ口調だった。

「あ、そっか。うん。あ、おれも、最初は、ロードワーク……かな」

 準も少し照れて答えた。

 そんな二人を、佳奈と葵の優しい視線が包み込む。

「じゃあみんなで行こっか」

 佳奈が元気に走り出し、準たちも慌てて走り出す。


 四人は校門を出る所までは一緒だった。しかし、そこから小夜は右に、葵と佳奈は左に曲がった。

 準は葵や佳奈たちと同じく左に行くことにした。どうせ走るなら玉野川の河原沿いのほうがいいと思った。


 春の穏やかな光が降り注ぐ中、川からの心地よい風を受け、準は少しペースを上げた。

 佳奈と葵はそれぞれ自分のペースで走っており、準について行こうとはしない。

 河原を走り始めて二十分ほど経過したところで準は折り返した。

 今から折り返せば、ちょうど往復で八キロほどになるはずだった。

 折り返して、また河原沿いを走る。

 来た道を引き返しても佳奈と葵の姿は見えない。別の道へ行ったか、先に切り上げたのだろう。こういうことがあると、改めて、各自でメニューをこなす、ということを実感する。

 

 準がグラウンドに戻った時、すでに小夜以外のメンバーは全員戻ってきていた。

 準はストレッチを開始しながら周りを見渡した。


 佳奈は美月とキャッチボールをしていた。何か気付くたびに丁寧に美月に指導しているようだった。

 ハヤトと葵は少し長めの距離で、同じくキャッチボールをしていた。距離が長いおかげで、葵もそこまでおびえている様子はなかった。

 あすかと綾の外野手二人はベースランニング。アリスはゴムチューブを使い、肩を鍛えていた。


 準がストレッチを始めてしばらくして小夜が帰ってきた。あまり息は上がっておらず、涼しい顔で準のそばにやってくる。


 小夜が声の届く位置まで来たのを確認して、準は口を開いた。

「昨日は百球ぐらい投げてたけど、今日はどうする?」

「あの、今日も投げたいんだけど、その、受けてくれる?」

「うん、もちろん。っていうかキャッチングの練習、山ほどしたいから、むしろお願いしたいくらいだよ」

 少し遠慮がちに言う小夜に配慮して、準は出来る限りの笑顔を作った。キャッチングの練習がしたい、というのは本心だった。一方で準は小夜の肩が気がかりでもあった。

「でも、二日連続で投げても大丈夫? 中学のとき、うちの投手陣は二日に一回のペースでしか投げてなかったけど?」

「えぇ、大丈夫。私はずっと、二日投げて、一日休むペースでやってるから。でもよかったぁ。明日と明後日は練習休みって、佳奈先輩が言ってたから。今日はたっぷり投げたかったの」

 小夜が少し嬉しそうに言う。そんな小夜の様子に、準も自然とうれしい気持ちになった。

「よしっ、じゃあやりますか!」

 二人は一緒にブルペンに向かって走り出した。

 

 二人が投球練習を始めて三十分が過ぎた頃、佳奈がやってきた。

「小夜ちゃ~ん、準く~ん。どうする? 今日は打撃の日。マシンと打撃投手相手のフリーバッティングのオンパレードだよ~、二人も参加しない?」

 佳奈は楽しそうだった。しかし、

「いえ、私は別に……でも、準は……」

 佳奈とは対照的に、小夜は感情を押し殺した声で言った。なぜか準には、小夜が落胆しているように見えた。

「ありゃ、やっぱり小夜ちゃんは打たないか。それじゃ、準くんは?」

「あ、おれも遠慮しときます。今は小夜の球を一球でも多く受けたいですから」

「え?」

 準の言葉に、小夜が思わず声をあげた。

「どうした?」

「いや、だって、その、バッティング……したくないの?」

 おずおずと小夜が切り出した。

「ああ、そういうことか。さっきも言ったけど、おれ、キャッチングの練習したいんだ。今のままじゃ全然ダメだから」

 本心だった。確かにバッティング練習は、野球をやっているものなら誰にとっても魅力的なメニューだ。しかし準はそれ以上に小夜の球を受けていたかった。

 キャッチングが上手くなれば、きわどいボール球を審判にストライクと判定させることもできる。もちろん、そんなのは急造捕手の準にはまだまぁ到底不可能だ。

 準が心配しているのは逆のケースだった。キャッチングがあまりに下手だと、ストライクのはずがボールだと審判に思われることもある。小夜の足を引っ張ることになる。それだけは避けたかった。

 それに、小夜の球を受ける、ただそのことが何よりも重要なことに思えた。

「そっかぁ。準くんも打たないんだねぇ。ふふっ。さすがは女房役だねぇ? あ、この場合は逆かな?」

 佳奈がからかう。

「なっ、何を言ってるんですかっ!」

「冗談だよ~、じゃあ二人はこのまま好きに練習してていいからね。くれぐれも打球には気をつけるように~」

 慌てる準を見てニヤッとしたのち、佳奈そう言い残して走り去った。

「はーい、了解でーす、と。さて、じゃあおれたちも再開しちゃいますか」

 佳奈を見送ってから、準は小夜の方に向かい直して言った。

 小夜は準をじっと見つめていた。そのまま、まばたきひとつしない。

「……小夜? おーい?」

「えっ! あっ? な、何?」

 準の声に、ようやく我に帰ったようだった。


 それからは投球練習を再開し、小夜は黙々と投げ込みを続けた。合計で百五十球ほど投げ込んで小夜は投球を止め、クールダウンを開始した。

「それにしても、今日もよく投げて……肩、大丈夫?」

 軽くキャッチボールしながら準は聞いた。

「ええ。これくらい普通だわ。肩のスタミナは投げ込まないとつかないから」

 小夜は左腕を上にあげてプラプラさせた。そして、グラウンドの方をちらっと見て言う。

「あっちはまだ打撃練習みたいね」

 小夜の言葉に、準も顔をグラウンドに向けた。

 マウンド上にはあすかが立っていた。どうやら打撃投手をやっているようだ。

「へぇ。あすか先輩が打撃投手やってんだ」

「ええ、あとは、佳奈先輩と葵先輩も投げるみたい。人数少ないから、みんな色々やってるわよ」

「なるほどねぇ」

 小夜の言葉を受けて、準はそのまましばらく練習の様子を見ていた。

 そんな準の様子を小夜は無言で見つめる。

「……ねぇ、準」

「ん?」

 おもむろに小夜が口を開く。

「準はこの辺に住んでるのよね?」

「え、あ、うん。そうだけど? あれ、小夜はこの辺じゃないの?」

「ええ。わたしは電車で通ってるから」

「へぇ、そっかー、おれはみんなこの辺に住んでるのかと思ってた」


 珠風学園の生徒は、準と同じように川を越えた住宅街、もしくは駅周辺の商店街付近、この二か所に住む生徒がほとんどだった。そのため、小夜も当然、学校の近所に住んでいるものだと思っていた。


「でも、それがどうかした?」

「あ、うん、それでね……バッティングセンターとかって近くにある?」

「バッティングセンター? それなら、川の向こうに一つあるけど?」

 小夜から聞かれ、準はすぐに、昨日佳奈との話にも出てきたバッティングセンターを思い浮かべた。

「あの、それでね……」

 小夜は何か言うのをためらっているようだった。

「ん?」

「もし、よかったら、その、明日、連れてって欲しいんだけど……だめ?」

「え、うん。それくらい全然問題ないけど? どうせ明日は暇だし」

 準は、特に深く考えずに返事する。

「でも、少し意外だな。小夜はバッティングに興味ないかと思ってた。ひょっとして練習見てたら自分もやりたくなった? もう今日は終わりみたいだしね」

 準は先ほどの佳奈と小夜のやりとりを思い出していた。

「え、えぇ……まあ、そんなところかしら……」

 小夜は少し歯切れ悪く答えた。

「あ、もう練習終わるみたい。じゃあ、行きましょ。時間とかはあとで連絡するから」

 不思議そうに見ている準の視線に気づき、小夜は、慌てて付け加えて走り出した。

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