第十三話 疾れメロス!
一人の男の子がシナクスの街道をかけていた。
年のころは十にかかるか否かといった具合だが、その小さな全身をいっぱいに動かしている様は、まるで周囲に元気を振りまいているようだった。男の子が息を切らして追いかけているのは、大人の走者達。今日は、市で年に一度のマラソン大会の日だった。十年前、長大な距離を走り切った英雄にちなんで始められた催しも、もう十度目の記念大会になっており、その賑わいも年々増している。
シナクスは今、過去の陽気さを取り戻していた。
「メロスおじさんっ。もうすぐ先頭がゴールだよっ」
やがて王城に駆け込んだ少年が声をかけたのは、ある天幕にいた一人の男だった。
男は、名をメロスという。
メロスは、人間ではない。アンドロイドである。超科学文明の終末期に創られ、地割れに巻き込まれて数千年に渡って地中で眠っていた。そして、目覚めてからは、一牧人となって電気羊を世話して過ごしていた。少年は、叔父であるこのアンドロイドのことが大好きだった。今や吟遊詩人にも唄われる彼の英雄譚を、いつだって父母にせがんだものだ。
そんな大好きな叔父が、今日は主役なのだ。
少年の心はいつもの何倍も沸き立っていた。
「そうか。なら、行こう」
「うんっ」
立ち上がったメロスに連れられ、二人は天幕を出る。
あたりは一帯が喝采の音に満ちていた。ここは、王城の高い位置にあるところだ。開けた視界には、マラソン大会の観戦に大勢の人々がにぎわっている様がよく見えた。誰もが、興奮した顔で幸せそうに笑っている。それは、きっと誰かが望んだ景色であった。
現れたメロスの気配に、そこにいたひげ面の大男が振り返る。
大男は、破顔してメロスを迎えた。
「やっと来たかよ。相棒」
「待たせたか。セリヌンティウス」
「十年前ほどじゃねえさ」
革ジャンのポケットの手を入れた姿で、セリヌンティウスはガハハと笑う。
「あの時は、お前を疑っちまった俺を殴れって言ったら、マジで殴るんだからな。死ぬかと思ったもんだ」
「お前の頑丈さは、アンドロイド以上だ。返された拳の威力もな」
「職工をナめるなってんだガハハハ!」
そうやって楽しげに話す二人の元に、もう一人の影が差す。
振り向くまでもなく、そこにはこの国で知らぬ者のいない大人物が立っていた。
かつては暴君と呼ばれた王。ディオニスその人であった。
群衆の視線が一斉に集まり、大地が震えるほどの歓声が挙げられた。
愛する民に手を振りながら、十年の時を経て、かつての慈悲と信心を有した賢君は、少し離れた場に多くの従者を置いて、堂々とした風格と優しげな仕草で二人に話しかけてくる。
「いつも楽しげだな。そなたたちは。わしも仲間に入れてくれるか」
「もちろんですぜ王様」
「おいセリヌンティウス。親しいとはいえ、言葉遣いには……」
「かまわぬ。友にしてくれと頼んだのはわしだ。遠慮はいらぬ」
「ガハハ! 万歳、王様万歳!」
「ふむ。今日は、親族の子とも一緒なのだな」
「はい。妹の子です。今年で十になります。今日の出来事を見せたくて、連れてきました」
「……こんにちは」
恥ずかしそうに、メロスの服の影に隠れる男の子を、王は慈愛の瞳で見つめた。
「可愛いな。記念の年にできた子か。なるほど、例の結婚式の?」
「ええ。例の結婚式の」
そういうと、三人の男たちは大いに笑った。男の子も、わけがわからないままに一緒になって笑った。
そして、笑う彼らが見上げると、そこには今日も天高くそびえる塔があった。
自然と視線がそこにあつまり、会話もやむ。
十年前とほとんど変わらないような外観だが、よく見れば外延部を覆うような増設が成されている。これがシナクスを上げての大事業の結果だった。端的に言えばそれは、輝くレールのような設備だった。
ディオニスがいう。
「天へのカタパルトか。なんとか完成したな。セリヌンティウスを始め、我が国の技術者たちは本当に良い仕事をしてくれた。ただ、資源の不足からテストができないことだけが悔やまれるが」
「かまいません王よ。もとより、無茶は承知の上です。あなたはいつぞやのように、逃がした鳥が帰ってくるのを待っているとよい。プロメテウスの火は必ず、私が討ち壊して見せます」
「信じているぞ」
「はい!」
同じく塔を見上げるメロスの目は燃えていた。
二人の友人も、その瞳の熱に、過去のことを思い出す。
戦い、走り、そして信じることを学んだ日々のことを。
王とアンドロイドは、その日のことを思い出しながら、視線を交わした。
「ならば行け。天を疾れ。友として、お前を信じ、帰りを待っているぞ」
そういって王はメロスの肩を抱く。
そこに王の従者の中から出てきた一人の少女が、緋のマントをメロスに捧げた。その意図が分からず、メロスはまごついた。佳き友は、気をきかせて教えてくれた。
「ガハハ。メロス、そういえば、お前の大気圏突入用装備は、知らねえ奴が見たら銀色の全身タイツみたいに見えるんだ。この可愛い娘さんは、メロスのタイツ姿を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいんだろうよ!」
勇者は、ひどく赤面した。
★
やがて、十年目の記念祭の締めくくりとして、塔より【星】が打ち上げられた。
白い雲をたなびかせて上がっていく星を、市の誰もが見上げた。
十年前のあの日から、王の為政が変わったように、また何かが変わるような気配を、言わずとも皆感じていた。その期待を爆発させるように、星へ向かって歓声を上げた。その中には、いつか泣いていた猫の耳をした少女の姿もあった。
彼女もまた、心の底から叫んでいた。
「疾れ――」
★
シナクスの、塔を見上げられる位置にある施設から、多くの職工が発射場の光を見上げていた。
セリヌンティウスの若き弟子もまた、仲間たちと共に遮光用の透過板の向こうから、手に汗を握りながらその様を眺めていた。
それが自分たちの人生に一度の大仕事であり、また人類にとっても大きな一歩だという事を、誰もが心で知っている。だからこそ、その様を全身で見守っていた。
「疾れ――」
★
市の郊外に、大勢の男たちが集まっていた。
その中心には、学生服の若者を従えた、理知的な風貌の少年が座っている。
王の説得にも応じず、ついに十年の反攻をやり通した彼らだが、それゆえに常に最前線で戦ってきた敵のことは、よく知っている。天へと駆け抜けていく光を見上げながら、だからこそ、誰もが心の底では願っていた。
「疾れ――」
★
遠く彼方の青空に一本の白い飛行機雲が伸びていく。
やがて大気圏さえも尽きぬけていく星。シナクスの町は今やは大地を震わさんばかりの大歓声に満ちている。その声は、十里も離れたこの町にも聞こえてきそうだった。
メロスの妹は夫と共に、遥かな空を見上げていた。
そして、そこにいるはずの大切な人にとどけと、声を合わせて叫んでいた。
「疾れ――――っ!」
★
メロスは疾る。
どこまでも、天高くへと。
カタパルトに打ち上げられ、流れ星となり空を裂いていく。燃料タンクを外し、増設されたアフタバーナーを切り離し、ぐんぐん天へと昇っていく。大気圏を越え、成層圏もつきぬけて。幾多の希望に強く、その背を押されながら、遥か彼方の星空に向かい、メロスは天を疾走する。もはや一抹の迷いもない。全身は力に満ちていた。 信じてくれる人たちのため、信頼のために力をつくす、今はその一事だ。
さあ、疾れメロス!
【疾れメロス・完】
「――……っと」
頬杖の外れた拍子に、男の意識は覚醒した。
時計を見れば昼を過ぎたばかり。どうやら夢を見ていたらしい。
机を見れば、そこには真っ白のままの綺麗な原稿用紙があった。構想を練っているうちに眠ってしまったのか。だから、あんなおかしな夢を見たのだと思うと、男も自然と微笑んでしまう。それにしたってあれはない。『宇宙戦争』だって、目じゃない破天荒ぶりだ。とても依頼された舞台の脚本にはつかえまい。
少し考え、ならばこれくらいならいいだろうと、男はペンを走らせた。
そう。
最初に書く一文は――
『 メロスは激怒した。 』
N>これにて完結です。わりとなんとかなりました! ありがとうございました!