第十一話 導けメロス!
路行く人を押しのけ、跳ね飛ばし、メロスは黒い風のように走った。
野原での祭りの、その宴席のまっただ中を駆け抜け、大きな踊りやぐらを押しのけては、祭りに来ていた人たちを仰天させた。
こちらの気配に興奮したらしい暴れ牛の大群も、エイヤと放り投げては脚を止めることなく進み続ける。
小川を飛び越え、渓谷を飛翔し、門をくぐる暇さえ惜しんで、城壁を融解させて猛然と走った。市はどこもかしこも騒然となり、すわ戦争でも始まったかと、民は表に出て騒ぎ出しては、メロスの必死の形相に言葉を失した。
王城を飛び出し、約束を果たさんとするアンドロイドの話は、もはやシナクスに知らぬ者はいない。そして誰もが、帰らぬと予想しながらも、それでも、どこかでこの男の帰還を願っていた。メロスというアンドロイドが、世の知類に信ずべきものがあると知らしめてくれることを祈っていたのだ。
ガンバレ。ガンバレ、メロス。
街路に満ちる市民が叫ぶ。
王の暴政に暗く沈んでいた者たちが、今、一様に沸き立っていた。
それは、自分達にはできないことを、成し遂げんとする者への憧憬だった。同時に、若い青年時代の熱を、誰もが思い出しては、声の限りに応援をしていた。王に従う兵たちでさえ、そうだった。それどころか、反乱軍の者さえも、気づけば喉よ破れろとばかりに声を張り上げている。誰もが必死だった。
メロスが生まれて以来、これほどボロボロな体になった事はない。それでも、これほどまでに他者から期待を受けたこともなかった。
今まで、人類のため、銀河系のため、地球のためと、戦いつづけてきたメロスにとっても、それは初めてのことだった。
心に熱が満ちていく。
そうだ。私は、独りではないのだ。
そんな中を、少しずつ沈んでいく太陽の十倍も早く走った。それでもメロスは焦れる。宇宙で戦っていたころの自分ならば、王のもとまで一瞬の万分の一の時間でたどり着けただろう。いいや、先日王城を出た時の力だけでもあれば。だが、それも詮無きことだ。一団の旅人とすれ違った瞬間、不吉な会話を耳にはさんだ。「いまごろは、あの男も溶鉱炉に叩き落とされているよ。」
ああ、その男。
その男のために私は、いまこんなにも走っているのだ。
その男を死なせてはならない。
急げ、メロス。
遅れてはならぬ。愛と誠の力を今こそ知らせてやるがよい。
足を踏みしめる度、むき出しの鉄骨のような足が軋みを上げる。無様な姿だ。だが、かっこうなんかはどうでもいい。メロスは、皮膚組織も剥がれかけ、顔の半分は機械の部分がむき出しになっている。体も、ほとんどガラクタ同然だった。二度、三度、体の各所から煙が上がった。
見えた。
はるか向こうに小さく、シラクスの市の塔楼が見える。塔楼は、夕日を受けてきらきらと光っている。
「ああ、メロス様」
うめくような声が、風とともに聞こえた。
見上げれば、道行かんとする階段の先に、一人の少年が立っていた。
視覚の顔認識センサーを作動させるが、うまくいかない。いつのまにか、メロスの両目はほとんどの光を失っていたのだ。
「誰だ」
メロスは走りながら尋ねた。
「フィロストラトスにございます。あなたのお友達、セリヌンティウスの弟子でございます」
その若い職工も、メロスの後について走りながら叫んだ。
「もう駄目でございます。無駄でございます。走るのはやめてください。もう、あの方をお助けになることはできませんっ!」
「いや、まだ陽は沈まぬ」
「ちょうど今、あの方が死刑になるところです。ああ、あなたは遅かった。お恨み申します。ほんの少し、もうちょっとでも早かったなら!」
「いや、まだ陽は沈まぬ!」
メロスは胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。走るより他はない。
「やめてください。走るのは、やめてください。今はご自分のお命が大事です。もしもギリギリに間に合いそうになかった場合、あなた様を止めるように、師から言われていたのですっ」
ここにまで来て、メロスは友情に胸を打たれた。
あの男は、こんな機械仕掛けの木偶人形に、それほどの優しさを向けてくれるのか。なんという喜びだろう。
なればこそ、メロスの脚には、もう一歩を踏みだす力が湧き出すのだった。そんな友のためにも止まるものか。
「メロス様。あの塔楼をご覧ください! あれこそ『プロメテウスの火』です」
フィロストラトスは、夕日の方にある塔を指さして言った。
「あれがある限り、王様が心を改めることなんてありえません。あれこそが裏切りの象徴だからでございます」
「なんの、ことだ」
「あの塔は、もとは賢臣アキレス様が市を守るために造られた兵器かなにかだったそうです。ですが、それを王権簒奪を狙う者が悪用しようとしたことがありました。それ以来、王様の心は歪んでしまったのです!」
「そんなことがあったのか……だが、関係ないのだ。そんなものは」
「それでも、まだ走るとの言うのですか。ええ、あの方は最後まであなた様を信じておられました。刑場に引き出されても、平気でいました。王様が、散々あの方をからかっても、メロスは来ます、とだけ答え、強い信念を持ち続けている様子でございました」
「それだから、走るのだ。信じられているからこそ走るのだ」
メロスは、また足を前へと踏み出した。
『プロメテウスの火』がどうした。
足よ折れるなら折れろ。死なば死ね。それでも、王城にはたどり着いてやるぞ。
もう先の悪魔の囁きも聞こえなかった。体には、力が満ちている。
メロスは声を振り絞って言った。
「間に合う、間に合わぬは問題ではないのだ。人の命も問題ではないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいもののために走っているのだ。ついて来い! フィロストラトス」
少年は泣いていた。
顔をぐしゃぐしゃにしながら、全身で泣いていた。
泣けぬメロスには羨ましくもあるその号泣の様。その隣をメロスは過ぎさる。それこそが正しい行いなのだと信じて。フィロストラトスはその背に向けて、感情のままに叫んでいた。
「ああ、あなたは気が狂ったか。それとも本当に壊れてしまったのか! それではうんと走るがいい。ひょっとしたら、間に合わぬものでもない。走るがいい!」
そして彼もまた走り始めた。
フィロストラトスばかりではない。
振り向けば男も女も、子供も老人も、誰もかれもが無心になって走っていた。
やがて、市の街路は王城へと走る人の群れで満ちた。王を信じてきた者もそうでない者も等しく、幼き日に夢見たような何かに急かされるように走り出していた。各々の仕事を放りだし、家を抜け出し、一人の傷ついたアンドロイドを先頭に、黒い津波となっていた。
その先頭に立つメロスは、ただ西の太陽のみを見ていた。
まだ陽は沈まぬ。最後の死力を尽くしてメロスは走った。メロスのAIは真っ白だ。何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられ、数えきれない人々の歓声に背中を押されて走っていた。
陽は、ゆらゆらと地平線に没し、まさに最後の一かけらの残光も消えようとした時、メロスは疾風のごとく刑場に突入した。