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「紹介しよう。これが、魔物だ」
今日は初めてが多い日だ。僕の目の前にいる魔物は、たしかにそこに居た。魔物の吐息。僕を探るかのように匂いを嗅いでいる。時々口からでる舌。そして低く唸る声。頭から尾まで僕が3人分。夢でも、ゲームでもない。これは僕の、確かなる現実なのだと実感した。
「この子はね、最近生まれたばかりの魔物の子どもなんだが、親がいないんだ。良かったら、親代わりに撫でてあげてくれないか」
「ぼ、僕が?」
「そうさ、これが固有スキル査定だ」
「だって、この子、敵なんでしょ?」
白蛇の紅に染まった目が僕には異形のモノにしか見えなかった。本能で分かる、こいつは人間の敵となりうる、魔物だ。
「ああ、プレーヤーにとっては命を狙ってくる存在。倒すべき目標だ」
「だったら、撫でないで倒すべきなんじゃ」
「この子がキミに何かしたかい?」
その言葉は、いつかの日、僕が母に言われた言葉にそっくりだった。
彼が、私が、アナタに何かした?
その言葉が頭の中で反芻される。
「この子は魔物だ。だが子どもでもある。愛される権利がある。ショウタ少年、君みたいな人間に、この子を愛して欲しいんだ」
「なんで、僕が」
「大人になりたいんだろ、少年」
違う、大人になりたいんじゃない。子どもなんじゃない。僕は、大人なんだ。
母さんの怒鳴った声。顔はおぼろげだ。その声を振り払うように僕は、言い聞かせた。
何も怖くない。目の前にいる何にも染まっていない白と、染まる事のない紅を持つ白蛇に僕は右手を伸ばした。伸ばしてしまえばそれは、あっという間だった。
伸ばしてしまえばあっという間。けれどもそれは相手もそうだとは限らないのだ。
白蛇は地を這うような唸り声を出すとともに体を反転させ、僕の伸ばした手を尻尾で叩いた。
「いったっ!?」
ぷっと吹き出すように笑うテルイシ。僕はあっけにとられてしまった。
僕が手を伸ばしたと言うのに、どうして拒否するんだよ。撫でろと言われたから、大人だから撫でてやったのに。僕は痛みよりも屈辱でいっぱいだった。
いや屈辱ではないのかもしれない。表現しにくい、感情だった。
白蛇はそのまま海へと帰っていった。するとゆっくりと、荒れ狂っていた海や濃い闇を落としていた空は明るさを取り戻してゆく。
気がつけば静かで穏やかな世界に戻っていた。
「……なんなんだよ」
「やれやれ。許してやってくれ。子どもってあんなものだよ。好意を好意として受け取れない。素直じゃないのさ、あの子も」
あの子も。何か言いたげなテルイシを無視する。
「なにはともあれ、これでキミの固有スキルは決定した。受け取ってくれ、ショウタ少年」
すると突然僕の目の間にパソコンの画面の様なものが現れ、その中にメッセージが表示された。
『ショウタは固有スキルを獲得しました』
『スキル名:メビウスの輪』
『スキル能力はご自分のお力で解明なさって下さい。ご健闘を』
僕がメッセージを読み終えると画面は自動的に消えた。
「メビウスの輪」
「それがキミだけの力だ。そこのウインドウにある通り、あとは自分で確認すればいい」
「ずいぶんざっくりとした案内なんですね」
「だってキミはこの後ログアウトしてユーザー退会するはずだ。なら詳しい説明はいらないだろ?」
いいかげんこの男の、人の気持ちを見透かしたような笑顔にはうんざりだ。
そうだ、ログアウトしなきゃ。それが僕の目的だ。そう自分に言い聞かせる。自分の鼓動の高鳴りを置き去りにして。
「ですね。どうすればログアウト出来ますか?」
「あとはこの『始まりの間』を出て魔界の1階層に行く。そこでさっきのウインドウを開き、ログアウトを選択すればいい。ウインドウは呼び出せば自動的に出てくる」
「ここ魔界じゃなかったんですね」
「ああ、入口ってところかな。ここは説明やチュートリアル専門の場所なんでね」
「なるほど。じゃあ魔界に行くにはどうすれば?」
「あそこから行ける」
テルイシが指を指した先には大きな木があった。大樹。まるで何千年も前から生えていたかのような大きくて神々しさが感じられる木だ。
「根元付近に階段がある。それが魔界に繋がる階段だ」
「分かりました。丁寧にありがとうございました」
僕は軽くお辞儀をして小走りで木へと向かった。
「ショウタ少年」
すると後ろからテルイシの声がした。
「世界はキミを愛してくれている。魔界だってそうさ。キミがそう望めば、魔界はキミを愛してくれる。奇跡も、キミを愛すだろう」
僕は、振り向かなかった。振り向けなかった。
「それはプレーヤー皆に言ってるんですか?」
「ああそうさ」
きっとテルイシは嘘をついた。僕だけに向けられた言葉なのだと、どうしてかそう思ってしまった。
でも文句は言わない。嘘をつくのが大人の特権だとしっているからだ。
「奇跡王の加護があらん事を」
テルイシは続けてそう言った。
どうして魔王の加護を必要とするのか。するわけない。普通のプレーヤーだって魔王の加護なんていらないのに、僕なんか尚更必要ない。僕はあの木の根元にある階段を下り、ログアウトするだけなのだから。
「ありがとうございます」
でも気がつけば僕は、感謝の言葉を口にしていた。
そして振り向く事なく、改めて木へと向かった。
木は近くで見るとさらに神秘的に見えた。葉は生い茂り、心地よい日影を作っている。木漏れ日は目の奥をじんと刺激させる。木の隙間には1つの大きな輝く石があった。見る角度によって色合いが異なっており、万華鏡のような光を放っていた。
テルイシの言う通り、木の根元に、地下へ下りる階段があった。。
階段をゆっくりと降りてゆく。こんなに慎重に階段を下りるのは初めてかもしれない。
だんだんと『始まりの間』から差す光が少なくなる。その代わりに、階段の先から見える光と、胸のどきどきが、増してきた。
僕は、やっと日常に帰る事ができる、そう思う自分と、これから何かが始まるんだ、そう期待してしまう自分がいる事に気がついた。そしてどちらの気持ちが大きいのかすら分かっていたんだ。
そんなことを考えているうちに、目の前の明かりが大きくなる。もう出口は、すぐそこだ。
手に汗をかくなんて事はない。呼吸が早くなるなんて事はない。僕はどうしてか、残り少ない階段を思いっきり走った。狭い階段を走り、一段抜かしをし、吸いこまれるように光へと向かった。
「なに、これ」
光の先にあったもの。それを見た時、僕はきっとこの光景を一生忘れないだろうと、肌で感じた。
それは洞穴のよう。でも唯の洞穴じゃない。小さい頃にテレビで見た、野球のドームのような広さ。でも天井とそこに伸びる支柱しか見えず、壁はどこにも見当たらなかった。
この洞穴、魔界1層の中は、まるでお祭りのようだった。埋め尽くすような人の波、立ち並ぶ店の光、支柱に埋め込まれた輝く石、熱気、喧騒。全てが僕を包み込む。鳥肌が、いつまでたっても直らなかった。
僕はふらふらとおぼつかない足取りで人波に紛れ込んだ。行くあてもない。目的もない。ただただ目を輝かせながら。
西洋の甲冑で身を包む人。日本刀らしき刀を腰にさした人。未来から来たような機械が全身を覆っている人。獣のような耳や尻尾を生やした人。すれ違う人で一人として同じ格好をした人がいない。まるで坩堝だ。
ふと自分の格好をみるとそれは、気絶する前の自分の格好と同じだった。ネルシャツの上に羽織ったカーディガンと少しぶかぶかのGパン。
途端に僕は恥ずかしくなった。軽かった足取りは急に重くなる。なにやってんだ、僕。
僕は俯き、ウインドウを呼び出した。ウインドウが現れるとそこにはメニューが表示してあった。そこの中からログアウトの文字を探した。
ステータス、違う。アイテム、違う。ジョブ、違う。スキル、違う。アカウントサービス、これだ。
画面はアカウントサービスの内容に切り替わる。そこにログアウトの文字があった。
これでいいんだ。僕は頭の中でそれを選ぼうとした。
「なーにやってんですか、キミは。ログアウトなんてする必要ないじゃないですか」
その言葉を聞いた僕の目の前から、ウインドウがなくなった。僕は驚いて顔を上げた。
「探しましたよー。良かった、キミの顔見たらほっとしちゃいました。さ、行きましょ」
僕は恥ずかしながら、反射的に頭を守るかのように手で頭を覆った。
なぜなら今日この日がいつもと違う、変わった日になる理由を作った美人が目の前に現れたからだ。