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僕の意識が戻った時には、周りの景色は知らないものになっていた。知っている景色を見ていたはずだったのに、分かり切っている景色に囲まれていたはずだったのに。
見渡す限りの広大な平原が広がっていた。その先も緑の水平線。後ろを見ると、そこは一面の海と空の世界だった。僕のいた場所は美しい海を一望できる崖だったのだ。テレビや画像でしか見た事がない、幻想的な、それでいてどこか現実的な場所に僕はいた。
「やぁ、おはよう。いや、初めまして、と言うべきかな?」
低い声。でもそれは怖い低さではなく、安心感を与えるような声だ。さっきまでは誰もいなかったような。そう思い、声のする方を向いた。
「ようこそ、『魔界戦記』の世界へ。歓迎するよ、ショウタ君」
無精ひげと、もしゃくしゃした髪の毛。まるで浮浪者のような男だった。しかし服装はスーツを着ており、どこか違和感があった。だがそれ以上の違和感を僕は感じていた。
どうして僕の名前を?魔界戦記なんて登録した覚えがない!なによりも。
「……頭いてぇ」
「おや、体調不良なのに新規登録するとは、キミはなかなかのチャレンジャーのようだな」
「違います、僕が登録したんじゃない」
「はて、それはないはずだな。アプリケーションは遠隔操作対策はしてあるし、何よりも精神波動でアプリケーションへの強制接続は拒否できるはずだし」
「多分ですが、気絶させられて強制的に」
「それは俺達の管轄ではないな。傷害事件なら警察を頼るといいぞ」
僕は殴られた頭部をさすって瘤が出来ていないか確認した。しかしすぐにそれは意味のないものだと気がついた。
「瘤なんてできてないさ。なんせここは」
「バーチャル世界だから? 登録していない僕でもそれくらいは知ってますよ」
「そうかい、聡明で助かるよ、ショウタ君。ならこのまま魔界戦記についての説明とチュートリアルに移らせてもらうとしよう」
「いらないです。僕はこのアプリをやるつもりがない。早いとここの世界から退出してアンインストールしたいんです。方法を教えてください」
僕は苛立ちを隠しきれず無愛想になっているだろう。しかしそんな僕を見ても目の前に居る男は、それを不満に思う事もなく笑いながら話し始めた。
「そいつはぁ、無理だね。退出するにはまず俺からこのゲームアプリの説明、チュートリアル、固有スキル査定をうけなきゃいけないんだ。悪いね、きまりってやつなんだ」
男は同情するよ、と言いたいのか頭を振り、手をやれやれというように動かした。その割には楽しそうな顔に僕は腹を立てざるを得なかった。しかしこの男の言う事を聞く以外に手はない僕は、ゆっくりと緑に生い茂る草の絨毯に腰かけた。
「聞き分けの良い子どもは、おじさん好みだなぁ」
「……子どもじゃないですしアナタに好かれたくて聞くわけじゃないですし」
「素直じゃないなぁ。じゃ改めまして、俺の名前はテルイシ。簡単に言うとこの世界の案内人だ」
「ずいぶん軽薄そうな案内人ですね」
「そりゃありがとう。それでどこまでこの世界を知っているんだい?」
軽薄なだけじゃない。柳に風。僕はテルイシにそんな印象を抱いた。ただのプログラミングされたAIじゃないように思えた。
「あんまり詳しくは知らないです。今流行りのゲームアプリだってことぐらいかな」
「その認識があれば充分さ。ログインは1日1時間、課金制度全面廃止、今日び蔓延る犯罪目的のプレーヤーはアカウント凍結、老若男女が健康的に遊べる新感覚バーチャルリアリティゲームアプリケーション、その名も『魔界戦記』キャッチコピーは……」
「奇跡は心でつかみとれ」
「御名答、なんだいちょっと嬉しいじゃないの」
「あれだけ宣伝をやってれば嫌でも覚えますから」
テレビや新聞などのメディアのみならず、国内外の有名人から一般市民までが口々に言うのだ。奇跡は心でつかみとれ。あのゲームは今の日本の技術と良心を体現したようなものだ、まさに奇跡のようなゲームだと。
「売りは特殊な機器を媒介として精神や個人の思考回路などをゲーム内にダイブさせて、自分自身で冒険するんですよね?」
「そうだな、細かい専門用語は置いといて。昔流行っただろ?MMOやARPGとかな。キミは知らない世代なのかな? まあそれらのアバターやキャラを動かすのではなく、自分自身が動くのさ」
テルイシがそう言うと風が強く吹いた。肌に心地よい温かさ。鼻にはほのかに香る潮の匂い。雲が静かに動いている。太陽にかかることなく、ゆっくりと進んでいく。だからこそ僕は、この世界に奇妙な現実感を抱いたのだ。
「自分の目で魔界を見て、耳で聞き、触れて、感じて、楽しむ。そしてこの世界を支配する者たちと闘う。それが君達ユーザーの楽しみでもあり、俺達の願いでもあるのさ」
少し、悔しかった。本当にこんなゲーム、子供っぽくてやるもんかって思っていたのに、胸が高鳴ってしまった事に。
「誰と、戦うって?」
「魔界と言ったら何を思い浮かべる、ショウタ少年?」
「18歳に少年って言わないで下さい。そりゃ……モンスター?」
「ははっ。魔物って言うんだぜ、少年」
「……一緒でしょ」
「とにかく、キミは魔界を支配し闊歩する魔物たちを討伐する。そして魔物を統べる王、魔王を倒す事が目的となる。魔王を倒さなければいつの日か現実世界が侵略されちまうぜ?」
そんな馬鹿な、子供っぽい。ぼそりと言った言葉がテルイシにも聞こえていたらしくにやにやされてしまった。いや聞こえてはいなかったのかもしれないが、心を見透かされている。そんな気分になってしまって少し恥ずかしくなった。
「そういう設定ね、分かりました。魔王ってどこにいるの? 魔界の最深部とか?」
「キミは面白いな。その通りだよ、ショウタ少年」
「え? ほんとに?」
「ああ。まぁこれはプレーヤー内での噂だが、魔界の最深部に魔王がいるらしい」
テルイシは初めて笑顔を崩した。
「奇跡王。それが魔王の名。このゲームが広まって約一年たつが、未だ誰もその姿を目にした事はないという。色々な情報はあるものの討伐には至っていない。つまり人類は魔王を見つけられずにいる。それは何を意味しているかと言うと、プレーヤー達は魔王の手のひらで遊ばれているということさ」
「奇跡王。大それた名前」
「その名の通り、奇跡を司る魔王だ。討伐したあかつきには、どんな奇跡も約束されている。それが例え、現実世界での奇跡を願ったとしても」
雲が太陽を覆った。さっきまで明るかった世界に影を落とす。少し陰っただけでこの世界の印象はガラッと変わった。雷が鳴ったとか、津波が来たとかそういう直接的な恐ろしさではなく。美しかった緑と青の風景は、僕に牙を向けるように恐ろしさを垣間見せた。
「一部のプレーヤーは、魔王なんて存在はプログラミングされていない、なんて愛のない事を言ったりもしている。だが、魔王が見つかっていないのも事実だ。さて……」
キミはどう思う、ショウタ少年。
テルイシの瞳が僕を捉えて離さない。風貌が風貌だけにその瞳が美しく輝いて見えた。
「僕は、そんなことどうでもいいです」
「そうか、キミは随分ドライな人間なんだな。おじさん寂しいぜ」
「でも」
僕は興味なんてない。だけども、奇跡を起こせるなら。どんな願いでも起こせるのなら。
僕の部屋。机とベットと本棚しかない部屋。僕の家。暗く、何もない、誰もいない家。顔しか思い出せない父さん、声しか思い出せない母さん、笑顔しか思い出せないフユコ。
「僕がもしプレーヤーなら、奇跡王なんて信じず、友達と気楽に遊びます」
テルイシは一瞬驚いたような顔をした後、再び笑いだした。
「いいね、いいよショウタ少年。キミは面白い」
パチンとテルイシは指を鳴らした。その音は世界に響き渡った。その瞬間、世界は静まり、乾いた指の音が響き渡った。
「少年に免じて、説明とチュートリアルはこれで終わりにしよう。おじさん、大人だからさ、上手くごまかしておくよ」
言い終わると同時に風が強く吹いた。頬を撫でるとかそういうレベルではない。穏やかだった空が荒れてきた。しかしそれは海の影響だった。海が渦を巻き、闇のように黒く染まってゆく。心地よい音はお腹に響くような海鳴りに変わる。
「ただし、最後に固有スキル査定だけ受けてもらおう。なに、時間は取らせないし、何より邪魔になるものではないさ」
おいで。そうテルイシが呟くと、海が割れた。
それは学校の歴史の講義で聞いた事があった景色だった。導く者が海を割った時の景色もこうだったに違いない。しかし決定的に違うのは、割れた場所に居たモノの違いだ。
そこに居たモノ、名前も分からないモノは勢いよく海を跳び出すと宙を舞った。暗い空の下、闇の海の上を舞台に。
白く細長い体。手足はついておらず、紅の斑点模様が体に浮かんでいる。まるで白蛇。体の周りには丸い球体が3つばかり公転しているように見えた。
白蛇のような生き物の宙を舞う姿は、自分についている水しぶきを払うだけの仕草にも見えた。けれども僕にはそれが、自分に纏わりつく柵を断ち切るような、そんな舞踊にも見えてその姿から目を離せなかった。
舞い終えた白蛇のような生き物は、一直線に僕とテルイシの元へと向かってきた。かなりの距離があったはずだったのに、僕の目の前に来るのに瞬きをする時間ほどもなかった。