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あの日、僕は彼女と出会った。
あの日と言っても、何か特別な日だったという訳でもないのだ。いつも通り、家には誰もいない。父親は位牌の中、母親は恋人とデート、幼馴染のフユコは僕におはようと言って補強学習で高校に行った。
携帯端末はさっきから何通かメールが来たり、着信があったりしてた。きっと大学の友達から遊ばないかと言う誘いだったのだろう。
それか今流行りの『魔界戦記』をやらない?という勧誘かどちらかだっただろう。
いづれにせよ、僕は携帯をポケットに突っ込み、何も知らないふりをした。ヘッドフォンを着け、名曲と呼ばれたナンバーを大音量で流しながら、ただ小春日和の空の下を歩いていたのだ。
目的もなく、ただ家から遠ざかりたくて、大学から遠ざかりたくて、知っている道をただひたすらに歩き回っていた。
最初は国道沿いを歩いていた。かかとをこすり、靴底を減らしながらのんびりと。
しかし国道は嫌いだった。大きな看板に『奇跡王を探し、奇跡を現実に:魔界戦記』などのげんなりさせられる広告が多く貼ってあるからだ。
見慣れた公園、細い路地、萎びた店。僕はそんな風景が好きなのだ。だから僕は国道を外れ、細い路地に入った。
人気がない道。形容しがたい思いが僕の心に重みを与えた。しかしそれでも歩き続けていた。
そして出会ったのだ。
初めて見た時は、彼女の顔が良く見えなかった。細い路地ですれ違う瞬間だった。少し長めの前髪が顔を隠していたという事もあり、ただ単に通行人に興味がなかったという事もあり。
彼女の一番の最初の情報は、匂いだった。懐かしいような、でもいつも嗅いでいるような、とてもいい匂いだった。
自分が少し変態チックだと言う事は置いておき、僕はすぐに立ち止まって振り向き、彼女の後姿を見た。
彼女は大きく細長い荷物を肩にかけていた。すらりと高い身長、肩くらいまでのウェーブのかかった髪、長い脚。綺麗な後姿だった。
見慣れているフユコだって美人の部類だが、この女性は別格のように綺麗に見えた。
顔ぐらい見とけばよかったな、と息を吐きながら後悔した。しかしその後悔はすぐになくなる事になる。
驚く事に彼女は立ち止ったのだ。そしてゆっくりとこちらを振り向いた。
ああ神様、いつも誰にも愛されず世界から嫌われている僕に救済をありがとう。そんな馬鹿な事を一瞬にして考えていた。それほどまでに美人だった。
透き通るような肌、整って癖のない顔、柔らかそうな唇、そして、僕のやましい心を見透かすような澄んだ目。遠目から見た彼女はとても近くに見えた。
彼女と僕の目が合って、時間が止まったように感じた。実際は止まる事はなく静かに動いたのだけれど。
自分の心臓の音がやけに大きく聞こえた。ヘッドフォンから流れる音楽になんて意味はない。自分の心臓の鼓動と、声をかけるべきか否かの自問自答の声しか聞こえていなかった。
やっと他の音が聞こえた時、それが全ての始まりだったのだ。
「ねぇ、キミさ、魔界戦記、やってます?」
本当はヘッドフォンをしていたから声なんて聞こえなかったのだろう。しかし僕は確かにその声を聞いた。くすぐったくなるような温かい声を。
それと同時に、僕は目を疑った。名前も知らない彼女は、肩にぶら下げた大きなバックを手にすると、跳んだ。跳躍した。それは獲物を狙って跳びかかるトラのようだった。僕は何が何だか分からないうちに、バックで殴られた。頭に強い衝撃が走り、意識がフェードアウトした。
消えゆく意識の中、彼女の笑顔が見えた。屈託もない笑顔だった。人を殴るのにこんな素敵な笑顔をするのかと、改めて馬鹿みたいに見蕩れた。記憶があるのはここまでだ。
セイリオスの空 ~一章 空の早さを知らない彼と空に笑う彼女~