第六章 潜竜の精霊師 その一
窓を開けると、冷たい空気が流れ込んでくる。
(まだ暗いなぁ。早く目が覚めちまった。)
闇市に近い安宿を根城にしていたラルフは、青白い霧に包まれた夜明け前の海を眺めた。
(えらい霧だな。辛気臭いぜ)
うっすらと白んできた空気の中に、闇市の輪郭が黒く浮かび上がる。
ラルフは眉間にしわを寄せながら、嫌悪感を露わにした。
その闇市から視線を逸らしたラルフは、ふと霧の中に目を凝らした。
(何か動いたようだが……)
昇ってきた朝日に霧が白く反射して輝く大気の中を、大きな黒い影が動いていた。
「あれは……。船なのか?」
少しずつ薄れていく霧の中に、青い龍の姿が目に付いた。
「あれは水龍旗! 海軍が来たのか!」
青い龍の旗を掲げた船は大小合わせて五十隻ほど。それが闇市のある中州を取り巻いている。
(誰も逃がさない、てか……。今日は忙しくなりそうだぜ)
この出来事を漏らさず記事にしようと、ラルフは慌てて外へ飛び出した。
その頃、フォルモント市公舎では――。
「選挙が終わったばかりで、なぜ私が呼び出されるのかしら?」
ティファリアの疑問はもっともだった。彼女が市長に任命されるのは、もう少し先の予定であった。
彼女が文句を言いながら市長室に入ると、二人の老人が立っていた。
「朝早く、誠に申し訳ありません。緊急時につきお許し下さい。私は黒龍軍を指揮しておりますフルカスと申します」
髪を後ろに束ね、礼儀正しいく一人の老人が深々と頭を下げた。
正直、ティファリアは面食らっていた。『黒龍のフルカス』といえば、いつも女王に寄り添っている人物と聞いていた。
「フルカス様には、お初にお目にかかります。私はティファリア・レム・プリンセプスでございます。以後、お見知りおきを」
貴族らしく優雅にフルカスにお辞儀をした彼女に、伸び切った白髪とひげが印象的な老人が声をかけた。
「わしはアンキセス・リーズン。しがない精霊師じゃが、立ち合いに来たのじゃ」
ティファリアは老人が持っている杖に目をやった。六色の葉をついている枝が六本。中央に黄色い大きな魔石。
「世界樹……」
政治を志す彼女は、アンキセスと直接面識はなかったが、彼の事は女王を支える人物として理解していた。また親友のルテネスからも、彼は気さくで、正義感のある偉大な精霊師と聞かされてもいた。
「その通り。この杖の銘は『世界樹』じゃ。ルテネスから聞いたのかのぉ」
アンキセスは愉快そうに笑っている。
「な、何事でございましょうか。お二人が揃ってお出でになる程の用件とは?」
利発そうな瞳を、驚きとともに見開いていた。いくら度胸の良い彼女でも、この二人が突然現れれば、かなり緊張をするのもやむを得ない。
「今回、陛下は本気で闇市を取り潰せと御指示なさいました。以前、子供たちが惨殺された事件のこともありますが、人型の魔道兵器が闇市に持ち込まれた為でもあります。もはや猶予はありません。既に海軍が闇市を包囲しており、また各軍より選ばれた魔法師団も到着するでしょう」
フルカスの言葉にティファリアは息を飲んだ。
「魔道兵器? 各軍? 街が戦場になるのですか?」
驚く彼女にフルカスは淡々と用件を伝える。
「可能性は否定できません。被害を最小限に食い止めるため、市民に対して避難を呼びかける等、フォルモントを守るべく強力なリーダーシップを発揮する人物が必要です。そこで陛下は貴女を、早急に市長に任命することになさいました。異例ではありますが、今、ここで正式に陛下からの任命状をお渡しいたします。また市民への市長着任の公布は早急に軍によって行います。勿論、正式な任命式は後日、王国の責において盛大に行わせていただきます」
ティファリアは固く目と口を結んでいた。その強張った彼女の肩に、アンキセスは手を置き、
「すまんのぅ。戸惑うのも仕方なかろう。しかし、緊急の事態じゃ。この街の大勢の命を守らねばならん。このフォルモントを頼めるかの?」
沈黙の後、彼女が再び目を見開いた時、その身体に強い意志を秘め、
「拒否権は無い、との陛下の御意志。これは……。腹を括るしかありませんね。プリンセプス家の名誉、否、未来のフォルモントの為にお引き受けいたします」
その瞳は、太陽の様な輝きを放っていた。
その輝きをフルカスは驚きと笑みをもって迎え入れた。
「その潔さ、お見事です。さて、急ぎましょう。もはや矢は放たれております」
フルカスは敬意をもって、彼女に頭を下げた。
そしてフォルモントの精霊師協会には、ミリアリアの姿があった。
「女王にも困ったもんだわ。急に呼び出した挙句、国家安定の為に出動だって」
ミリアリアはエアたちを前に、不機嫌な顔をして愚痴をこぼしている。
「でもミリアリアさんが来てくれて心強いです。まさかこんな大事になると思わなかったもの」
エアは安心した表情を見せた。
「会長、ありがとうございます。闇市だけならともかく、人形の力が未知数なので、少しでも戦力が必要と思っていました」
厳しい表情を見せて答えたシリウスを、優しげにミリアリアは見つめ、
「皆の力で、確実に闇市を潰しましょう」
そう話すと、
「そうだよ~。この支部にとって闇市は因縁の相手。でもそれは精霊師全員にとっても同じだもの~」
ルテネスは槍を肩に担いだ。
「俺も同じ意見だ」
ユウも顔色も変えず、ルテネスに同調した。
「相変わらず、無愛想ねぇ。仕方ないけど……」
ミリアリアは溜息をついて、
「さあ、武器の準備はいいかしら。市庁舎に集合するように言われているわ」
エアは杖の名を呼んで握りしめた。
「浜菊。お願いね」
するとピアスの魔石から、半透明の青い妖精が飛び出した。
「アンディ!」
青い魚は宙を舞い、エアの顔に身体を摺り寄せた。
「アンディも一緒に頑張ろうね」
マークと遭遇するかもしれない不安が、エアの心に影を落としていた。でも、自分に力を貸してくれる人たちがいる。
(心が温かい。力が湧いてくるみたい)
エアは心に与えられた力を言葉にした。
「さあ、行こう! 皆が待っているよ!」
エアはドアを思い切り開け放った。
市庁舎の広間には、街の治安を守る主だった顔ぶれが集まっていた。
エア達がそこに足を踏み入れた時、その中心にティファリアの姿があった。
「皆さん! 私は先ほど市長に任命されました、ティファリア・レム・プリンセプスです。ここにおられる皆様は、既に危機が迫っていることを理解されていると思います。既に職員が総力をかけて市民の避難誘導を始めております」
彼女の傍には、フルカスとアンキセスが寄り添っていた。
「師匠!」
エアが駈け出そうとすると、ユウが首を横に振りながら、
「待て。まだ話があるようだ」
彼女の腕をつかんだ。
「やぁ、諸君。今日の海は荒れそうだ」
そう開口一番、大股でティファリアの横に立った大柄な男は、青い軍服に身を包んでいた。
「俺はダグザス・アジーナ・ネレウス。海軍を預かっている者だ」
彼は長髪を無造作にかき上げ、おおらかな笑い声を立てていたが真顔になり、
「三年前。我々も含めた軍は、勇敢な警備兵や精霊師を応援する事が出来ず、子供たちを助ける事が出来なかった」
そして力いっぱい、こぶしを握り締め、天に突き上げた。
「さぁ、戦おう! 闇市を壊滅し、この街の名誉を取り戻そう!」
皆がこぶしを突き上げ、「おおーっ!」と威勢の良い声を上げる。それを満足そうにみたダグザス将軍は、
「これより、各軍の魔法師団は俺の指揮下に入ってもらう。『アジーナ』と名付けられた人型の魔道機が、どれほどの力があるのか不明である。しかし我は、精霊王を奉り、乙女の末裔である女王に忠誠を誓う戦士である。この国を守護する我らに臆病者はいない! 全力で任務を遂行し、闇市の存在を消し去るのだ!」
勇ましい演説を行い、皆の士気を高揚させた。
皆が一斉に「おおーっ!」と声を上げる。その声は庁舎内に響き渡った。
歓声とも怒号ともつかぬ声が響く中、アンキセスが杖を高々と掲げると、
―ぎゃぉぉぉっ!―
叫び声とともに、大きな炎の大蛇が飛び出した。
(うわぁ。師匠ったら……)
エアは思わず顔に手を当てた。
皆が驚いて静かになると、
「さて、わしからの話じゃ。警備兵諸君は橋の閉鎖。それに精霊師諸君は、軍が道を切り開いた後、闇市に突入するのじゃ。とにかく人型の魔道機を探し出し、起動する前に取り返す。それを最優先に行動するんじゃ」
すると、一人の男が同時に叫んだ。
「あいつはどうするんだ! マークは!」
エアが振り向くと、血相を変えたシリウスが立っていた。
「驚いたね~」
ルテネスは呟いた。
「いつも冷静な人なのに……」
それはエアも同じであった。そしてエアの視線の先には、再び語気を強めるシリウスの姿があった。
「奴と、奴の罪を法の下に晒す。そのことだけが救いなんだ。そうでなければ殺してしまう! 殺してしまうことを正当化させないでくれ!」
その悲痛な叫びは、皆の心にこだました。
皆が深い沈黙に包まれた中で、アンキセスだけその叫びに答えた。
「広大な夜空に、その位置を定めて輝き、迷い人を導く星の名を与えられた者よ。長い年月に、己のあるべき位置が、見えなくなってしまったのかのぉ」
アンキセスはゆっくりとシリウスの傍に歩を進める。ゼドリックも歩みを進める。
「そなたは精霊師協会の一員じゃ。我らは我らの掟に従い、己の行動を律するのじゃ。我らは民の為に、盾となり、杖となることを誓っておる。それだけは、何があっても変わるものではあるまい」
アンキセスはシリウスの前で立ち止まった。
「そうでした……。『精霊師は己の為に生きるべからず』と……。思わず忘れてしまいそうに――」
ゼアドリックはシリウスの肩に手を置くと、
「心の奥底に閉じ込めていた感情が爆発したんだな」
慰めるように呟いた。
すると、フルカスが重い口を開き、
「女王陛下は闇市の首謀者を『生かして王都に連れてまいれ』と仰せです」
瞬きもせず、女王の伝言を伝えると、
「さあ! 行くぞ!」
ダグザス将軍は抜き放った剣を高々と上げた。
(ルネ。必ず無事に帰ってくるのよ。私達の手で、この街の未来を創るんだから)
ティファリアの両手は強く握り締められていた。
闇市に向かう橋には、警備兵や精霊師が集結していた。もはや霧は晴れ、太陽は明るく天に輝いていた。
「お久しぶりです。アルガイア局長」
シリウスは頭を下げると、
「そうだな。直接会うのは久しぶりだ。お前は表に出てこないからな」
「受付ですからね。留守にして依頼人を返すわけにはいきませんから」
「それもそうだな。さて、そちらの二人は初めてだったな。俺は港湾局長のアルガイア・コンラードだ。よろしくな」
アルガイアはエアとユウに笑顔を向け、手を差し出した。二人が握手を交わすと、
「ふむ、二人ともなかなか鍛えているな。特に双剣使いの方は鍛錬を積んでいるようだ」
「俺は精霊師ユウ・スミズだ」
「はじめまして。エア・オクルスです」
ユウはいつもの様子で、エアは緊張気味に挨拶をすると、
「今から緊張すると、身が持たんぞ。さて、ところでマークの居場所は?」
アルガイアがシリウスに尋ねると、
「ここだと睨んでいますが」
シリウスが地図のある一点を差した。するとアルガイアが顔を暗くした。
「レリックが踏み込んだ場所の近くか……。根拠は?」
「闇市に侵入する者を見張る為に、中州を見渡せる高い建物が必要だと思われます。この中州には、この塔が一番高いかと……。この付近に地下への入り口があり、異変があればマークに直ぐに報告が入るのではないかと推測されます」
シリウスは地図の一点を差している。その部分だけ色が違っていた。皆が闇市に目を向けると、高い塔が突き出ている。
「あれか……。よし、まずは港湾局の連中が先陣を切って突入する。そして、橋の封鎖を維持しながら、違法商店を片っ端から検挙しながら進む。精霊師の諸君は、単独で先行しない様にしてほしい」
アルガイアは地図を部下に渡すと、
「それにしても、俺が女王に送った手紙の返答が『これ』とは笑える話だ」
アルガイアが少し自虐的な笑い声を立て、
「そこの三人は、俺達が闇市に踏み入れて子供を救おうとした事を知っているか?」
尋ねると、エア達は、
「ああ」
「知っています」
「報告書を読んだわよ~」
三人とも、それぞれ頷いた。
「そうか……。知っているのか。あの時もこうなっていたら、結果が違っていただろう。だが、もう後悔はしない。今度こそ確実に潰すために、俺は女王に手紙を送った。この反応からするとかなり乗り気だな」
「そうじゃのう、わしも出ねばならんほどにのぅ」
会話を壊す様に登場したのはアンキセスだった。
「師匠!」
エアは思わずアンキセスに駆け寄り、
「聞きたい事も! 言いたい事も! いっぱいあるんだから!」
と彼のローブの胸ぐらを掴んで揺さぶった。
アンキセスが苦笑していると、
―― ドカァァアーン ――
闇市を取り巻いている軍艦から、闇市に一発の砲弾が撃ち込まれた。
「ああっ! 塔が!」
エアが指さす先には、砲弾に当たった塔が崩れ落ちようとしていた。
「さすが海軍。やる事が荒いな」
アルガイアは笑いながら、
「おい! 突入の合図だ! 海軍に負けねぇ様に俺達も行くぞ!」
その号令を合図に、アルガイア小隊は走り出した。
「私たちも行こう!」
杖を握り締めて、エアもその後を駈け出した。
★後書き
読んでいただいている皆様、ありがとうございます。インフルエンザなどの病魔に襲われながら、更新を迎えました。
最後の章に突入したので、頑張りたいと思います。
★次回出演者控室
イワン 「僕、忘れられている……」
エア 「そう言えば、何をしてたの?」
イワン 「ハゲ親父にこき使われていたんだよ」
ユウ 「教会でお勤めするのとどっちがいいんだ?」
イワン 「そりゃ、協会より――」
カイル司祭「ん? イワン君。教会にどんな不満が?」
イワン 「すいません。今の話は聞かなかったことに……」