潜竜の精霊師編 プロローグ
かつて精霊や妖精は人間にとって身近な存在でした。
ふと目にした風景の中に戯れる彼らの姿を見かけることがありました。
ところが今ではその姿をほとんど見る事が出来ません。
しかし、もしかしたらこの場所なら会えるかもしれません。
『海上の精霊郷』と言われる神聖な小さな島で……。
貴方に悲しみを呼び起こす覚悟があるのなら……。
ヴェルヌイユ神霊教会、通称・教会本部はトルネリア王国の南西、海に面したレアンス地方にあるヴェルヌイユ島にある。その孤島は潮の満ち引きが激しく、海流が渦を巻き、人間が近づくのを拒む様にその姿を見せていた。
遥か古王国時代の神殿の遺跡の上に、荘厳な教会が築かれ、まるで青い海の上に教会がそびえ立っている様に見えるので、人々からは喩えられている。
『海上の精霊郷』
現在、魔道機による船で島を訪れる事が容易になったが、それまでの人力の船で島に向かった者の中には遭難事故で命を落とす者もいた。教会を訪れるのは敬虔な巡礼者だけではなく観光客が増えたことにより、島では宿泊所や土産物屋が立ち並んでいる。
しかし、今この島の話題をさらっているのは歴史的建造物やスイーツではない。
教会の地下に新たな古代遺跡が発見されたからである。
そして発掘現場の一角で、この教会の司祭カイル・ランサールは発掘成果を目の前にして、王室の歴史学者と発掘現場の責任者と話し込んでいた。
そこには艶やかな青く長い髪を広げた儚げな少女が眠るように横たわっていた。
身に着けた青紫のドレスは長い年月でボロボロになっていた。だが、美しく綺麗に整った顔の額には何故か透き通った青い石が嵌められていた。
そして少女の右腕は、肘から先が無かった。途切れた肘を注意深く観察すると、血管と思われる物は人工的な細い管であり、あとは細かい線維組織などを無数に束ねた物がはみ出していたのだ。
そう、少女は機械人形だったのだ。
額に掛かった金髪を左手で軽く撫でつけ、カイルは丸眼鏡の奥の青い瞳で吐息が聞こえてきそうな人形の唇を見つめた。
カイルは唸った。
三十歳を過ぎた自分に少女趣味はない、ましてや聖職者としての誓いを立てているのに妙な心のざわめきを感じてしまったカイルは思わず後退った。
「不自然なほど美しい……ですね。でも先生、この人形は機械ですよね?」
カイルは隣に居たひょろりと背の高い中年の学者に尋ねた。
「ええ、まず間違いないでしょう。額に魔石が嵌まっていますから、何らかの魔道機だと思いますが」
つるりとした髭も生えそうにない顎を触りながら学者は冷静に答えた。
「そうですか……。ところで監督、右腕は初めからこの状態だったのですか?」
カインの次の質問は発掘現場の責任者に向けられた。
「ああ、そうだよ。最初は子供が迷い込んで事故に遭ったかと冷や汗が流れたぜ。ところが全く出血がない。てっきり人間だと思ったからよぉ。みんな混乱しちまって……。大概の事は驚かないんだが……」
頭をガリガリと掻きながら老年に差しかかった彼は戸惑いながら答えている。
「そうですか……。しかし、大昔にこの人形は何のために作られたのでしょう……?」
カイルの素直な疑問に学者は素っ気なく、
「それはこれから調べるつもりですが、私達も困っているのですよ。いままで、こんな人形が発掘されたことがありませんので。文献にもそれらしい記述があった記憶は無いですし……」
「つまり『世紀の発見』ということですね」
カイルは再び、青い少女に視線を移した。
「この『海の精霊郷』で発見された青い少女。仮の名は『アジーナ』と呼びましょうか。海の精霊の名に相応しい、魔石を抱いた青き少女……。見つからなかった方が良かったのかもしれません」
ひょっとして彼女を深い眠りから覚ましたのを後悔するのは、我々人間かもしれない。
そんな思いをカイルは抱いていた。
「あのぅ、司祭様。思いをはせているところ悪いんだけど、ちょいと相談があるんだが……。最近になって発掘現場で声が聞こえるようになったんだ。それは女の泣き声なんだが、声の出所が分からなくってな。うちの作業員達が怯えてやがる」
カインは眉をひそめた。
「泣き声ですか? そう言えばシスター達もその様な声がすると騒いでいましたね。わたしもその声を聞きましたよ。女性のすすり泣きの様な……」
学者も髭を剃った痕跡も見当たらない顎に手を当て、
「私も昨夜遅く、発掘品の整理をしている最中に聞きました。その時は一睡もしていなかったので幻聴かと思いましたが」
学者は発掘品目録を作っている時を思い出した。突然、部屋の中に響くそれは、確かに女のすすり泣く声であった。
「なぁ、とりあえず、何とかしてくれないか。このままだとうちの連中が逃げちまう。いまでも精霊の嘆きだの何だと言って現場を辞めると言い出す作業員もいるんだ。このままだと発掘期間が延びて仕事が終わらなくなる。早く故郷に帰りたいと皆は願っているんだ」
最後は涙声になって監督は訴えている。
「何処に頼んだら良いものか……。とにかく調査をするようにしましょう」
カイルはそう答えたものの、何処に頼めばいいのか見当もつかなかった。
深夜。
ヴェルヌイユ島の近くの大きな港町、フォルモント市にある事務所でスーツを着た男が一人書類を整理していた。
窓から見える満月は霧が掛かってぼんやりとした光を投げかけている。
「さて、大潮までもう少し。仕込みは万端。後は連中が上手くやってくれるだろう。それにしても、普通の市民のふりをするのも疲れるなぁ」
その男の視線の先には、蛇の様にうねっている儀礼用の剣が置かれていた。
彼は皮肉な笑みを浮かべ、一人つぶやいていた。
同じくフォルモント市内。別の男が苦悩の表情を浮かべていた。
「足りない。これでは目的を達成するどころか逃げられてしまう。何か良い手立ては無いのか……」
男の手にある書類には複雑な地図が書かれている。
その場所はフォルモントの市外に有る『黒闇の市場』であった。
地図には赤い線で隠し通路まで書き込まれている。
「焦りは禁物だ。一時の感情に流されると全てが台無しになる」
男の表情は険しい。
そこには深い悔恨の想いも含まれている。
「今度こそ、約束を果たす。機会が来るまで、それまでの辛抱だ……」
男は視線を机に置いてある貝殻に紐を通したネックレスに向けた。それをそっと地図と共に金庫に仕舞った。
男はいつも通りに仕事を始めた。
内にある激しい思いを潜ませて。
王都・アンボワ―ヌ。
何の憂いごとも無いが如く晴れ渡った夜空に満月が浮かんでいる。
明るい月の光が差し込むサリア五世の寝室に、音も無く一人の男が現れた。
「陛下。お休み前に申し訳ありません。御命令を賜りました『黒闇の市場』を含めたフォルモント市の調査ですが、意外な人物が市長に立候補していることが分かりました」
「構わん。まだ起きておった。それは誰じゃ」
黒龍将軍でもある侍従長のフルカスは、静かに女王の傍へ歩み寄った。
「レイメルと深い因縁の有る、チュダック・リュイソーです」
その言葉に女王は深い溜め息を吐き出し、深い皺の刻まれた顔を両手で覆った。
「あの馬鹿男か……。それに教会で見つかった精霊人形も頭の痛い事じゃ。何が原因なのじゃろうか……。何がこの国に巣食っておるのじゃろうなぁ」
老女王の嘆きにフルカスは呟きで返した。
「遥か昔に精霊が失われていることなど、国民の誰が知っておりましょう。人だけが統べる世界が始まり、人だけが利益を得る様になって不都合が出てきたのでしょう」
女王は窓辺の花瓶に生けられたアイリスの花を眺めながら、
「全ては人が原因か……。精霊が失われた時から、もはや黄昏は訪れていたのかも知れんなぁ」
深い苦悩に顔を歪ませた。