第四章 邪霊師 その二
保養所の一室は、病人の為に強い日差しが入らぬように薄いレースのカーテンが引かれていた。
その柔らかい光の中、青白い顔をした男が荒い息をしながら横になっている。
窓の外には鉢植えの花が置かれていたが、その陰から真っ黒な鴉が部屋の中を窺うように覗いていた。
「あの鴉、また来ているんだ」
シャルルは不吉な予感をさせる鴉を、窓を開けて追い払った。しかし、その鴉は何度追い払っても窓辺に戻って来る。
「あらあら~、冷たい風が入って来るといけませんから、その鴉は放っておきましょう」
メリルはベッドに横たわっている男の汗ばんだ額に、新しい冷たいタオルを置いた。
「ガスパーさん。シスターと市長が来てくれましたよ」
シャルルが声を掛けると、男は薄っすらと瞼を開いた。そこには精気を失った赤い瞳が、何かを探す様に彷徨っていた。
「ガスパーさん。私はこの街の市長、マッシュ・グランドールです。この街に滞在する方の安全について、私は保証しなければならない責任があります。ましてや、レイメルの住人であるシャルル君の大事な客人は、市長の私にとっても大事な客人です。王都から医師を呼びますので、御承知して頂きたいのですが……」
(昨日よりも歳を取った様に感じるのは病気の為だろうか……?)
マッシュは自分より年上に見える白髪の男に、妙な違和感を覚えた。
窓の外で、ふいに鴉が鳴いた。
「わ、私は罪深い人間です……。この身体は医者でも治すことは出来ません。例え、精霊王でも……。市長様、私はこの街で最後を迎えたいのです」
横たわった男は、瞳を潤ませて力なく笑った。
メリルが口を開きかけた時、急にドアが勢いよく開いた。
「ガスパーさん! 大丈夫なの!」
保養所に着いた途端、従業員から男の病状が良くないと聞かされたエアが、泣きながら飛び込んで来たのだ。
エアはベッドに駆け寄り、男の冷たい手を取った。
「私が治癒魔法を覚えるから……。だから――、だから元気になってよ!」
必死に訴えるエアの両目から、ぼたぼたと涙が零れている。
ゆっくりと男の手がエアの頭を撫でた。
「ちょい姫さんは慌てん坊ですねぇ……。私は大丈夫、心配いりませんよ。意地悪な冷たい夜風に当たって、少し具合が悪くなっただけですよ。それより、試験はどうでした?」
男は優しい笑顔を浮かべた。
「うん、精霊師になったよ。水の妖精が召喚出来たの。アンディ、挨拶してね」
エアは涙を流しながら、無理に笑顔を浮かべた。
アンディは主の呼び声に応えて男の前に姿を現した。ひらひらと長い尾ひれを揺らしながら、アンディは男の顔を覗き込んで姿を消した。
「すごい……。妖精を初めて見ましたよ。もう立派な精霊師ですね……」
「それにね、お父さんとお母さんの名前が分かったの。ペンダントに『エドラドとマリア』と名前が刻んであったの。何とか顔も思い出せるようになって来たんだよ。まだ、あの晩に何が起こったのか全部思い出せないけど……」
エアは男の手を握り、必死に話しかける。
「ご両親は貴方が思い出した事を、きっと喜んでいる事でしょう。段階的にしか思い出せないのは、精神に大きな衝撃を与えないように、無意識に心が調整しているのでしょう。大丈夫、時が来れば思い出せますよ」
満足そうな顔をした男は、エアの後ろに黒髪の青年が立っている事に気が付いた。
ユウにとって、その男の顔に覚えが無かった。しかし、サイドテーブルに置かれていた眼鏡には見覚えがあった。
濃い色の丸い硝子が嵌まった眼鏡。
(何処かで見た記憶が……。何処だ?)
ユウは横たわっている男の顔を穴が開くほど見つめた。
男もまた、赤い瞳をユウに向けていた。
「エアちゃん、ガスパーさんは教会の病室で看病します。祭りの為に、他の教会から治療が出来る神父様が応援に来ています。心配しないで、仕事に行ってらっしゃい」
メリルはエアを安心させようと、教会で看病をすると申し出た。
男は戸惑った顔をしていたが何かを決意したように、しっかりとした声でエアに話しかけた。
「私は大丈夫。教会でシスターのお世話になりますから、引き受けた仕事を片付けなさい。貴方は精霊師ですから……。その誓いの言葉を忘れましたか」
エアは心の中で誓いの言葉を思い返した。
(我ら二枚の羽をもつ者、杖を持って邪を払い、盾にて民を守る者)
誓いの言葉はとても重いのだと、エアは今更ながら自分に言い聞かせた。
「――ガスパーさん、行ってくる。豊穣祭の花火は一緒に見る約束だから、早く元気になってね」
男の手を握り締めているエアの肩に、ユウは静かに手を置いた。
「行こう。依頼の期日が迫っている」
ユウに促されて、エアは立ちあがった。
青く澄んだ空ときらめく風を切り裂いて、ご機嫌に飛んでいたホシガラスはレイメルの近くまで来ていた。
アンキセスの手紙を届ける相手は、ホシガラスもよく知っている人物であった。そして、その気配は保養所の建物から漂って来る。
ホシガラスが保養所の建物を見下ろすと、窓辺にいる黒い鴉の姿に気が付いた。
人の目には普通の鴉に見えるかもしれない。しかし、光の妖精であるホシガラスには別の生き物に見えていた。
妖精は精霊と同じエネルギー体である。しかし、はっきりと自我を持っている精霊とは違い、妖精の自我の形成は召喚者の意思に大きく左右される。つまり、妖精の行動の善悪は、召喚者の思考に強く影響されるのだ。
ホシガラスの金色の瞳に映る黒い鴉の本性は、闇の妖精であり蝙蝠の翼を持つ小さな邪鬼、つまり邪妖精であった。
それを見つめるホシガラスの全身から、金色の闘気が立ち昇った。
ユウがしょんぼりとしているエアを連れて部屋を出た後、シャルルも馬車を用意する為に姿を消すと、室内に静寂が訪れた。
肺が空になる程、深い溜め息を吐いた男はマッシュに尋ねた。
「二人は何処へ行くのですか……」
「ラヴァル村の近くのタンホブ山だそうです」
マッシュの言葉に大きく目を見開いた男は、天井を見つめたまま呟いた。
「全てが……、全てが終わりに向かっているのですね」
赤い瞳から涙が零れ落ちた。
メリルと顔を見合わせたマッシュが、その言葉の意味を尋ねようとした時であった。
ドオォォォン、ガチャガチャ―ン
静かな室内に、何かが衝突して窓ガラスが割れる破砕音が響き渡った。
咄嗟にマッシュとメリルは、横たわっている男を庇う為に覆いかぶさった。
バサッ、バサバサッ―― グエェェェッ!
尋常ではない鳴き声を発した生き物に、慌てて三人は視線を移した。
其処には、金色の翼で引き裂かれる黒い鳥の姿があった。
「ホシガラス!」
声を上げたマッシュとメリルが身体を起こすと、ホシガラスは金色の闘気を収めてサイドテーブルに舞い降りた。
二つに引き裂かれて床に落ちた黒い鳥の姿は、陽炎のように揺らめきながら消えていった。
グラセル大工房から飛行船に乗り、山裾に広がるオラルクの街にアンキセスとアイオンはやって来た。
デボスが殺害した職人、『ルイス・オーク』の調査に訪れたのである。
「彼は飛行船開発部門に転属するまでは、この街に住んでいました。多くの職人がこの街から通ってきますが、彼もその一人でしたな」
久しぶりにオラルクの街に来たアイオンは、不機嫌そうなアンキセスに話しかけた。
「空飛ぶ船とは、やっぱり馴染めんのう。まだ地面が揺れている気がするわい……。ところで、アイオン殿。ルイスとやらが良く出入りしていた酒場は何処じゃ?」
むう、と口を曲げていたアンキセスが尋ねた。
「ルイスは腕の良い職人でしたが、いささか酒癖が悪いところが有りましてな。近くの店で聞けば直ぐに分かるでしょう」
アイオンが答えた時、隣で杖を突きながら歩いているアンキセスが急に立ち止まった。
「どうなされた? アンキセス殿」
アイオンが振り返ると、アンキセスが自分の杖の上部を見つめている。六本の枝の内、白い魔石が葉に施してある枝が光っていた。
「ふむ、ホシガラスがレイメルに着いたようじゃ」
アンキセスの言葉にアイオンは驚く。
「もう、到着したのですかな。あれから三時間も経っておらんのに……」
「本気で飛べば、もっと早くに着いておるわい。じゃが……、到着した程度で連絡をする奴ではないのじゃがのぅ」
アンキセスは片手で杖を支え、もう片方の手を目の高さに上げた。
「世界樹よ。友の過ごす時間を我にも与えよ……」
アンキセスの周囲には白い光が陽炎のように揺らめいて、彼の目線の先にある手の上に、輝く白い珠が生み出され、その珠からホシガラスの見た映像と音が聞こえて来た。
しばらく光の珠に神経を集中していたアンキセスは厳しい口調で呟いた。
「これ、アホガラス。また窓を壊しよって……、後でマッシュに文句を言われたらどうするんじゃ。ほれ、用事が済んだら急いで女王の所へ行くのじゃぞ」
光の珠は霧が晴れる様に消え去り、再び歩きだしたアンキセスの表情は険しくなっていた。
「どうされたのかな、アンキセス殿。レイメルで何かあったのですかな?」
アイオンが珠を眺めても、何も見聞き出来なかった様だ。
「ホシガラスがレイメルで邪妖精を倒したようじゃ。マッシュ達の傍に張り付いておったようじゃが……、邪霊師まで絡んでおるとはのう」
並んで歩くアイオンは腕を組んで唸った。
「デボスには妖精が呼べるほど魔法の素質は有りませんぞ……。邪霊師に関してはアンキセス殿の方がよく御存知でしょう」
アンキセスはかつて遭遇した事のある邪霊師の姿を思い浮かべた。
「わしが知っておる者は、既に滅び去っておる。それ以来、邪霊師など存在しておらん筈じゃ」
「では、新たな邪霊師が……」
「うむ、誕生しているという事じゃろう」
オラルクの賑やかな道を、沈み込んだ二人の老人は歩いて行った。
正午過ぎの酒場は人気が無く、妙な静けさが漂っていた。表通りの賑やかさに対して物悲しくすら感じられた。
「御主人はおられるかな?」
アイオンは店の中で忙しくモップを動かしている中年男に声を掛けた。
「俺がこの店の御主人だ! 店は夕方からだ。飲みたきゃ特別料金だぜ」
反射的に答えた中年男は、入り口に立っている二人の老人が目に留まった。
(キチッとした爺さんと野暮ったい爺さんの不思議な組み合わせだな……)
「何か用かい? その様子じゃ酒を飲みに来た訳じゃなさそうだな」
店の主人は掃除の手を止めて、どっかりと椅子に座った。
アンキセスとアイオンもおもむろに店主と同じテーブルの椅子に座った。
「グラセルで死んだルイスの事なんだが、最近の様子を知りたくて尋ねて来たんじゃ」
「ルイスは私の部下でしてな。最近、誰かと会ってないか確かめているのだ。教えてもらえんかな」
二人の年寄りに詰め寄られ、主人は仕方なく答え出した。
「あまり客の事を話すのは好きじゃないんだが、たまに女と会ってたよ」
「どんな女じゃった?」
アンキセスは身を乗り出した。
「何ていうか……、色っぽい二十代の半ばぐらいの女でね。綺麗な黒くて長い髪を高く結い上げて、流行りのドレスを身に着けてたんでさ。都会の水商売の女、て感じでしたよ」
主人はニヤニヤと笑いながら話を続ける。
「ルイスの奴には、あの女はやめとけって言ったんですよ。手玉に取られてお終いだってね」
「その女に何か特徴は?」
アイオンが尋ねると、主人は首を傾げながら考えた。
「色が抜けた様に白い肌で、瞳は黒色。首の左側、耳の後ろに赤っぽく傷跡が残っていましたね」
主人は親指と人差し指で五センチ程の幅を示した。
アンキセスは身を乗り出して、さらに尋ねた。
「他に会っておる者はおらんかの?」
その問いに主人は俯きながら唸っている。
「うぅ~ん、そういえば、あの事件の前に男と会っていたなぁ。髪が白くて長い男だ。色付きの眼鏡なんて掛けててよ、変わった奴だなぁ、って思ったよ」
「白い髪? 歳は幾つぐらいかな」
アイオンが身を乗り出すと、
「五十ぐらいじゃねぇか。色が抜けたみたいな白い髪だったよ」
そう答える主人の前で、アンキセスは首を捻った。
「色の抜けた白い髪のぉ~。何処かでちらりと見た様な気がするんじゃが……」
アンキセスは衰えつつある記憶を探り出した。
ホシガラスは光の珠をサイドテーブルに一つ残し、王都へと慌てて飛び去った。
マッシュはその光の珠を手に取った。しばらく見つめていたが、その中に残されてあるアンキセスの言葉を輝きと共に感じ取ると、珠は光を失って消えてしまった。
「アンキセス殿からの心話でしたね。御無事な様です」
マッシュは伝えられた内容について、この場では秘密にした方が良いと判断した。
「あらあら~、今日は硝子がよく割れる日ですね~」
「取りあえず怪我は無いようですね。ガスパーさんも無事ですね」
マッシュが振り向くと、ベッドに横たわっていた男は力なく笑った。
「大丈夫です。今の白い鳥は……?」
「アンキセス殿の光妖精でホシガラスと呼んでいます。窓辺にいた鴉は黒の邪妖精だったんですね。アンキセス殿の妖精は邪妖精を見逃しませんからね」
マッシュの答えに大きく溜め息を吐いた男は目を閉じた。
「歴代の地龍将軍の中で、もっとも名高きマッシュ・グランドール殿。見張りをしていた邪妖精が居なくなった今、私の命が尽きる前にお話ししておきたいのです」
「急にどうされたのですか、ガスパーさん」
マッシュは男のベッドに近寄った。
「いいえ、違うのです。私の名前はガスパーではありません。本当の名は『デボス・エンデュラ』です」
突然の告白にマッシュの顔は、軍人時代の厳しい表情に戻っていた。
「それは貴方の心からのお話なのですね」
メリルは優しく男の手を取った。
「はい、私がグラセル大工房でルイスを殺しました」
男の赤い瞳から一筋の涙が、流星のように光りながら落ちていった。
★作者後書き
読んで頂いた皆様に、本当に感謝しております。ありがとうございました。
さて、妖精についてですが、召喚者の心の形が現れたもの、と理解して頂けば幸いです。邪な目的で召喚すれば、その目的を果たすような邪妖精が誕生することになるのです。今後も邪妖精は登場する予定です。
★次回出演者控室
デボス「皆さんに迷惑を掛けました。偽名を名乗ったのは本心では無いのですが」
メリル「あらあら~、本当に大変でしたのね」
マッシュ「火精の乱心以後、貴方の身に起きた受難は……」
メリル「マッシュ、泣いているのですか?」
マッシュ「つらい出来事でしたね」